《残月剣①》第三十三回
それが昼前になっても乾かないのだから、床板に充分過ぎるほど雨水が浸透しているのだろう。それぐらいは鴨下にも分かる。だが、敢えて気づく素振りも見せず、どんどんと廊下を進んでいく。稽古場へ二人が入ると、長谷川がいた。
「どうだった?」
「土塀瓦が数枚、割れていました。それと、木戸の扉が傷んだ程度で済んだようです」
「そうか…。瓦は挿し替えれば事足りるな。よし! 瓦屋に云っておこう。木戸は大工か…。こちらも早々に手配するとしよう」
「葛西の瓦屋…、それっ、…なんとか云いましたね」
鴨下が屋号を思い出せず、長谷川に訊ねる。
「この前、諄いほど云ったろうが…。一度、云ったら、よく覚えておけい。瓦 鳶の篠屋だ」
「すみません。ちょいと長い屋号だったもんで…」
「篠屋のどこが長い。…まあ、いい。そんな名を覚えるより、お前は、もう少し腕を上げる方が大事だがな…」
長谷川は、そう放って俄かに含み笑いをした。左馬介も思わず笑いそうになったが、鴨下の手前、必死に耐えた。すっかり残月剣のことを忘れている左馬介であった。
残月剣① 完




