《教示②》第十回
ふと渡り廊下の方を見遣れば、間仕切りの敷居より幾らか道場側の床板の上に握り飯が乗った盆がある。だが辺りに人影は全くない。左馬介は形作りに熱中の余り、鴨下か長谷川かが盆を運んでくれたことを見逃した心の隙を深く反省した。たぶん鴨下だと十中八、九は思えたが、背後より討ち掛かられたとすれば受けきれなかったに違いない…と、思えたのである。そんな思いで握り飯を頬張り、美味い茶を啜った。買い求めた茶っ葉は、坂出屋から貰っていた茶褐色の出涸らし茶とは雲泥の差なのである。しかし、物が粗末だった頃の道場は、多くの門弟で賑わい、語らいもまた楽しかった…と、左馬介には思えるのだ。今は飲み食いする品々にも事欠かなくなった道場だが、閑古鳥も啼きだしているから、決して以前より良くなったとは云えない。
次の日はよく晴れた。左馬介は日の出を待たず妙義山へと向かった。無論、昼食用に残飯で握り飯を作り、数切れの香の物とともに竹の皮に包んで出立した。こうした出掛けの手順も漸く馴れた左馬介だった。
妙義山の麓を登り始めた頃、日の出が見られた。九十九折れと迄はいかないものの、随所で折れ曲がる山道を登っていくと、時折り視界が開け、麓や葛西宿が一望出来る峠へと出る。




