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《剣聖③》第三回
形に全神経を傾倒していれば、自ずと気づく訳がない故だが、幻妙斎のような達人以外は至難の業に他ならない。それは扠て置き、一馬は旅姿のまま稽古場へ現れたのである。神棚前に立つ井上は例外で、皆に先んじて一馬が戻った姿を逸早く眼にしていたから、そう動揺する風でもなく、
「おう! 一馬、戻ったか!」
と、後方の側板近くに離れて立つ一馬へ、ひと声、飛ばした。その声に全員の動きは氷結し、次の瞬間、視線が一斉に一馬へと注がれた。そして、師範代である井上の掛け声がないにも拘らず、稽古は完全に中断した。滴る汗を拭く者、木刀を床へ置く者、座る者…動きは個々だが、全員の眼は左馬介を見ている。その視線を左馬介は諸に感じた。
「皆さん! ご心配をおかけしました!」
全員の視線を浴び、躊躇いつつも、そう左馬介は返した。
「今日の稽古は特別だが、これ迄とする!」
井上がその場の状況を慮り、稽古の終了を皆に告げた。
その夜、全員の笑顔は泪へと変わっていた。




