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目が覚めたときの状態で、自分がどのくらいの睡眠を堪能できたのか洞察することが出来る。
結論から言えば、自分的には十分ぐっすりと寝られていたと思う。
睡眠時間に関しては、僕は出来る限り8時間を保つように心がけている。
何故なら寝覚め自体はかなり良いものだったから。睡眠状態から覚醒状態への移行は難なく行われたと言っていい。
しかし、何なんだろう、体中に残る違和感は。
全身の節々に重みが残っている。足が、腕が、腰が。動かそうとしても妙に鈍い。痛みはないが、筋肉痛に近いものだろうか?普段使っていないところの筋肉を使ったから?
でもそんな運動をした記憶はないのだが……昨日の昼のことは記憶にあるし、寝ている間のことにしたって、僕は寝相の悪い方ではない。寝始めたときと変わらない姿勢でベッドに入っていた。
そして意識がはっきりしてくるとともに、記憶の中にぼんやりとした形で蘇ってくるものがあった。
誰かが、他人が、僕の中に入り込んでくる感覚だ。
それは、イチカが僕の身体の中に入ってきた時のような、いわゆる精神的なものではない。
もっと物理的な……そう、文字通り僕の中に誰かの「何か」が入って来ていた、そんな感触が思い出されるのだ。
さらにその感触とともに、生温いような熱いような何かが、体に触れてくる感覚も思い出されてきた。それは僕の全身を包み、体温をわずかに超えるほどの熱さで全身に冷や汗をもたらす。
思わず僕は口を覆った。そのままトイレに駆け込んだ。そう、特にその感覚が残っているのは口の中だった。他人の一部が入り込みこびりついているような、そんな感覚だ。口に水を含み吐き出す動作を何度も繰り返した。
落ち着け、落ち着くんだ。僕は息を吸いこみ、そして思い切り吐き出した。
トイレの冷たい空気が僕の中に入り、緊張と恐怖をまとめて吐き出させる。
そうだ、別に口の中にも、体の中にも何も入ってはいない。全ては錯覚だ。
きっと悪い夢でも見たに違いない。そうだ夢だ。夢の印象が強くなりすぎると、起きた後も記憶として残ってしまうというのはよくある話だ。
僕は洗面所でよく口濯ぎをして顔を洗い、ついでにシャワーまで浴びた。これで大丈夫だと自分を納得させた。
とは言ったものの、やはり気にはなるので相談はしてみることにした。
相手は僕の一番近くにいる相手。人間ではないが、自我と意志を持っているデバイスの中にいる存在、イチカ。
朝食を食べながらイチカに話だけでもしてみることにした。焼いたパンを右手に、左手でメッセージを打ち込んでいった。
イチカからの返信がくる。
[……人間の夢というのはよく分からないんだけど]
しまった、いきなり地雷を踏んでしまったか、その返答を見て一瞬そう思った。
[基本的には記憶により構成され、人間が記憶を整理するのに機能していると聞いている]
[その他人が入ってくるというのも、あなたの記憶なんじゃないの]
[……って、それは私か]
[ごめん]
[いや、たぶんイチカのせいじゃないよ]イチカが急に謝ったので、僕はあわててメッセージを返す。
[イチカが入ってくるのとは、また違うんだ]
[なんて言うか、もっと物理的というか肉体的に近い感覚なんだ]
少し間を置いた後
[……ちょっと考えてみる]
それからイチカからの返信は途絶えた。僕も時間が迫っていたので、急いで支度を整えて家を出た。
通学途中で、昨夜の記憶がよみがえってきた。
時間は確か、夜の10時を過ぎた頃だったはずだ。
布団に入り、いざ寝ようという間際の出来事だったので、記憶からはこぼれ落ちそうになっていたのだった。
デバイスが振動で着信を知らせた。ちょうどクレードルに置こうと手に持っていたところだったので、僕はそのメッセージをすぐに見ることが出来た。
それは、イチカからのものではなかった。「Bird Cage」のメッセージ機能ではない、普通にメールの形式で送られてきていた。
僕にはメールを開けたのがきっかけで、非日常に巻き込まれた経験がある。姉のレイからの忠告もあった。だからそうしたメッセージには警戒をすべきだったのだ。
しかし、今やそのイチカという非日常が日常に変わってしまった事への安心感、何よりデバイスが手元にあるというその状況が、僕に開封をさせてしまったのだ。
開封した瞬間、あのときと、イチカが入ってきたときと同じような現象が起きた。丸だか四角だか三角だか分からない図形が、多様な色とともに眼前に襲いかかってきた。
僕は思わず目を塞ごうとした。しかし、そう思ったときには、もうその現象は終わっていた。画面には本文のないメールが表示されているだけだった。
安心した瞬間、眠気が襲いかかってきた。そして僕はデバイスを充電用のクレードルに置くと、そのまま布団に飛び込むように寝てしまったのだった。
かすかな意識の中で、明日このことについてイチカに一応話してみよう、そう思いながら。
……回想に耽っている間に、学校は目の前に迫っていた。
今思えば、その場でイチカに一言言っておけばよかったのだ。デバイスが手元にあったのだから。でも結果的に眠気に負けてしまった。
今この場でイチカにそのことを話したいという衝動に駆られたが、校門の側には生活指導の先生がいる。歩きながらのデバイスの操作は注意の対象だ。
仕方なく、僕は教室に着くまで待つことにした。
黒川さんから挨拶をもらって、席に着く。
そしてイチカへのメッセージを書き上げる。昨夜の出来事についての報告だ。
すぐに返事はきた。[それは怪しいな]
[私以外のエゴが、アヤトの中に入り込んだ]
[その可能性は十分に考えられる]
[この前のペテロのように、アンセムによって生み出されたものか・・・]
[いや、でもアナタの中には、プロメティウスの影響が残ってるはず]
[アンセムが入り込むとは考えにくいが・・・]
イチカは言葉を表に出して思索の具合を露わにしてくれる、僕には言葉の挟みようがない。
[……とにかく、一度私がアナタの中に入ってみる]
[そうすれば、原因は突き止められると思う]
そしていつも通り、インストールアイコンが表示された。
僕はそのまま教室を出た。変身をするのに都合のいい場所に行くためだ。
一番いいのは男子トイレなのだが、イチカにさんざん文句を言われてしまったのでもう使えない。
だから、教室の少ない校舎の奥の方、その階段の裏辺りを使うことにしていた。
ひたすらにその場所を目指して歩いた。
それ故に、気づかなかったんだろうか。気づいたのは、その場所にたどり着いてからだった。
デバイスが、僕の手には握られていなかった。
そんなはずはないと、ズボンのポケットに手を入れ、ほかの場所もまさぐって探すが、影も形も見あたらない。
そもそも僕は教室を出る直前までイチカとメッセージのやりとりをしていたし、その後画面に出たインストールアイコンを押すために、僕は教室を出たのだから、デバイスから手を離すチャンスすらなかったはずだ。
では、一体いつデバイスを机の上に置いたのか、もしくはしまったのか。
……考えていても仕方がない。教室に置き忘れたのは多分間違いなさそうだ。いったん教室に……
ダメだよ。そんなことをしちゃ。
そんなことをしたら、アタシのことがバレちゃうじゃん。
……何だ、今脳裏をよぎった考えは。
アタシの頭の中に走ったアイディアだ。そうそう、アタシのことがイチカって子にバレちゃうのはまずいよね。
ん?アタシ?いや違う、僕だ!僕はアヤトで、今からスマートデバイスを教室に取りに戻ろうとしたけど、やっぱりアタシはそれを止めるんだ。
自分の意識が滅茶苦茶になっている。
最初にイチカが僕の身体に入ったときと同じだ。
アタシ、いや僕の意識がミキサーに入れてかき混ぜられたかのように混濁していく。
思わず頭を押さえたが、目の前にある両手の線が細かい粒子状に替わっていく。エゴが身体に入った時に起こる体の変化だ。そして僕の身体が、アタシのものへと変化を始めていく。
「~~~~っ!」アタシは言葉にならない呻き声を上げながら、その場に座り込んだ。
一体どうすればいい。デバイスがないんじゃ、イチカと連絡を取ることも出来ない。
いや、それでいいんだよ。だってそしたらアタシがこの身体を自由に使えるんだもん!
違う!この身体は僕のものだ!薄れゆく意識の中で僕は必死に抵抗したが、アタシの侵食は止まりそうになかった。
「おーい、そんなところでどうしたんだ?」
男の子の声だ。さっきの呻き声を聞いて、アタシのことを見つけてくれたのかな。
ダメだ、今はここに来ないでくれ!それが、僕の残せた最後の言葉だった。
僕の意識が、完全に途絶えていく。
最後に感じたのは、寒さだった。
深い深い氷の洞窟に放り込まれたような、突き刺さるような冷たさだった。
そしてこれからは、アタシの番だ。
もっとあったかいものを求める。そのためにアタシは今から世界に出て行くんだ。