008 強烈な痕跡
008
「……寒いわね」
「だからそんなローブだけじゃ寒いって言ったじゃないですか……」
解体場での事件から一晩明け、クロトはリリサと共にベックルンの山の麓まで来ていた。
足元には背の短い、青々とした草。その草々は麓一面を覆い尽くしていた。
空も晴れて太陽の光もさんさんと降り注いでいる。
……が、気温は低かった。
麓は天気はいいが、高所は一年中雪に覆われており、冬の今は他季と比べて気温が格段に低い。
本来なら毛皮の服を着込んでくるべきなのだが、リリサはいつも通り上半身はローブに身を包み、下半身はショートパンツにロングブーツと身軽な格好だった。
手荷物も螺旋状の槍にバックパックが一つだけだ。
頭にも何も被っておらず、透明に近い長い白髪は遠くに見える峰々にかかった雪とほぼ同じ、自然的な色合いだった。
そんなリリサに対し、クロトは完全防備体制だった。
頭には耳まで覆う毛皮の帽子、上半身は毛皮のコート、下半身も毛皮のズボン、靴まで毛皮という徹底ぶりだった。
ベックルンは寒いとイワンの親父さんから散々聞かされていたので、猟友会の人に無理を言って借りてきたというわけだ。
一応武器も持っている。
その武器……刃先に向かうに連れ刃の幅が広くなっている刃物、ククリナイフは腰のシースに入っており、歩く度に揺れてクロトに存在感を示していた。
……昨日の夜はあまり眠れなかった。
今日の登山のことが心配だったこともあるが、それよりも自分がディードという化物をいとも簡単に殺してしまったことにショックというか、ある種の衝撃を受けていた。
自分は武道とか格闘とか、争いごととは縁遠い人間だと思っていたからだ。
「……」
クロトは寒空の下、手袋越しに自分の手のひらを見つめる。
日本人だということは覚えている。一般的な知識も教養もある。しかし、それ以外は全く覚えていない。
つまり、自分が歴戦の戦士である可能性も無いことは無いのだ。
体に生傷もなければ筋肉もあんまりないので可能性は殆どゼロに近いが、昨日の解体場での素早いカウンターは実に見事だった。
今思い出しても、まるでアクション映画のワンシーンのように思えてならない。
人は窮地に立たされると真価を発揮するという。
記憶を取り戻すためには、命を危険にさらしてディード狩りを行うしかない。
今のところはそれ以外に記憶を取り戻す方法が思いつかないのだ。
このまま自分が何者か分からないまま死ぬよりかは、リスクを冒してでもやってみる価値はあるかもしれない。そう思うようにしよう。
それに今は“狂槍”ことリリサも同行してくれている。
彼女の実力はこのアイバール支部では一番だとシドルは言っていた。彼女と一緒ならば怪我を負うことはあっても、死ぬようなことはないだろう。そう願いたい。
記憶にしろ身の安全にしろ、彼女だけが頼りだ。
リリサに快適になってもらうべく、クロトは背中のリュックサックから予備のコートを取り出した。
「これ、毛皮のコートです。こんなことになるだろうと思って、クローゼットから持ってきておきました」
「……もっと早く出しなさいよ」
リリサは勝手に持ってきたことを咎めることなくコートを受け取り、素早く袖を通した。
よほど寒かったらしい、コートを着ても腕を擦りあわせていた。
山道を進みつつ、二人は会話を続ける。
「それにしても、猟友会の皆さん、殺気立ってましたね」
「そうね。狩人がディードに殺されるのは珍しくないけれど、猟友会の建物内でディードが職員を殺したって話は聞いたこともない。……悔しいし、怒りを覚えるのも当然ね。……それに責任も感じているんだと思うわよ」
「責任?」
「ディードは他の獣と違い賢い化物。人間を殺すためならどんなことをしても不思議じゃない。小型のディードが大型のディートの体内に隠れている可能性も考慮すべきだった。……つまり、あの事故は狩人の確認ミスのせいで起きた事故なのよ」
リリサの強引な理論に、クロトは言い返す。
「でも、ディードの腹の中に別のディードがいるなんて予測できる人……」
「確かに、そんなことを予期できる狩人はそういないわね」
リリサはクロトの言葉を遮り、続ける。
「でも、狩人には狩人のプライドがあるわ。職員に被害が出た以上、大討伐という形で償いをすることにしたんでしょうね」
「なるほど……」
狩人は猟友会の中では一番偉い存在だ。そんな彼らのミスで職員に死人が出たとあっては、他の職員に示しが付かない。不満を持つものも出てくるだろう。
今回の大討伐は、彼らにとってプライドを取り戻す戦いだと考えていいかもしれない。
「アッドネスさんは一緒に行かなくてよかったんですか」
クロトは特に考えることなく質問を投げかける。
リリサは力なく笑い、首を左右に振った。
「もう噂か何かで知ってると思うけれど、私はアイバール支部では嫌われ者なの。……誰も私の同行を歓迎なんてしないわ」
「……」
自虐的な答えに、クロトは何も言い返すことができなかった。
彼女は連携が苦手で、しかも禁猟区に入ったとか何とかで5人もの仲間を死に追いやっている。そんな彼女と組みたがる狩人はそういないだろう。
(アッドネスさん、他の狩人から声すら掛けてもらえなかったもんなあ……)
リリサ以外のアイバール支部の狩人は全員クロトとリリサよりも早く、ベックルンに向けて出発した。
今頃は山林地帯を進行していることだろう。
聞いた話によれば、ベックルンの奥地には小物ディードを統率している超大型のディードがいるらしい。これまでは人里に被害が及ばない程度に小物を狩っていたが、今回の討伐ではこの超大型を狙うとのことだ。
こちらの狩人の数は10名を超えている。
普通に考えれば討伐できそうだが、何だか少し心配だ。
彼らが必死で狩りをしているのに、自分たちはのんびりと記憶を取り戻すための手がかりを探していていいのだろうか。
そんなことを考えていると、不意にリリサが声をかけてきた。
「ねえ、クロ」
「はい?」
クロトは下げ気味だった視線を前に向ける。すると、いつの間にか眼前に槍の穂先が出現していた。
それは、リリサがこちらに向けたものだった。
「……うわっ!?」
クロトはワンテンポ遅れて顔をガードし、その場にしゃがみ込む。
その反応を見て、リリサはため息を付いた。
「それにしても、未だに信じられないわ。こんな攻撃にも対処できないあんたが、あのディードを一撃で切り殺してしまうなんて……」
リリサは槍を一回転させると穂先を上に向け、肩に抱える。
「僕だって未だに信じられませんよ……」
危険が去ったことを悟ると、クロトは立ち上がりリリサの後を追う。
今後こういうことは控えてもらいたいものだ。
「ところで……あんたが拾われたって場所、こっちの方向であってるのよね?」
「はい、大丈夫です」
実はクロトも記憶の手がかりが無いか、1度だけ救助された場所を訪れている。
結局何も無かったのであれ以降は一度も行ってはいないが、道だけはよく覚えている。
自分では手がかりは見つけられなかったが、彼女ならば何か小さなことでも見つけてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を胸に、クロトはリリサの案内を続けることにした。
「ここ?」
「はい、そこです」
山に入ってから1時間後。
クロトはリリサを目的地へ……つまりは自分が倒れていた場所に案内していた。
場所は山の中腹、地面は少しだけ雪が積もっており、周囲には幹の太い木が密集していた。
木も少しだけ雪をかぶっており、緑色の葉が少し白色で隠れていた。
まだまだ初冬なのでこの程度で済んでいるが、本格的に冬になると視界が確保できないほどの吹雪が連日吹き荒れる。
(ミソラ、よくあの吹雪の中で僕をみつけられたよなあ……)
もはや奇跡に近い。
今更ながら生きていることに感謝だ。
クロトがミソラに感謝している頃、リリサは真剣な眼差しで近辺を観察していた。
「ねえクロ、あんたが倒れてたのはこの木のところ?」
「ええ、はい。そうです」
リリサの視線の先には木の幹があった。
自分はこの幹に背を預け、半分座っているような感じで倒れていた。
リリサは質問を続ける。
「どうしてこの木だってわかるの? 他にも同じような木たくさんあるじゃない」
「それはですね……この部分を見てください」
クロトは木の幹を指差す。
一部だけ幹の皮が削れており、その形状は背中の形と酷似していた。
「ここに背もたれて気を失ってたんですよ。それにほら、ここの地面も少しへこんでいるでしょう?」
得意気に説明するクロトに、リリサは疑問符を浮かべる。
「……どうして木の幹が削れて地面も抉れてるの……?」
「……あれ? どうしてでしょう……」
そんなこと、深く考えたことがなかった。
ただの目印としてしか認識していなかったので、リリサのこの質問は新鮮だった。
やはり、他人の目があると新しい発見があるものだ。
リリサは視線を木の幹から逸し、振り返る。すると、何かを発見したようでまたしてもクロトの名を呼んだ。
「クロ、あれを見なさい」
「あれって……空ですか?」
リリサが指差した先には綺麗に晴れた空が広がっていた。
リリサはクロトの惚けた対応に頭を軽く殴り、改めてあるものに指をさす。
「木よ。ここからまっすぐ3本、綺麗に幹から上が無くなってるわ」
「……!!」
リリサの言うとおり、自身が発見された場所から反対側に3本ほど太い幹が綺麗に折られていた。しかも折れている位置は遠くなるほど高く、近くなるほど低くなっていた。
そして、折れた位置を直線で結ぶと、ちょうど自身が倒れていた場所と重なり合っていた。
この有様を見て、何があったのか予想するのは難しくなかった。
「まさか……」
「クロ、あんた、何かにふっ飛ばされて木にぶつかりながらここに落下したみたいね」
新事実の発見にクロトは興奮を禁じ得なかった。が、同時に大きな疑問を抱えることとなってしまった。
「落下って……僕の体、あんな太い幹を3本も貫通できるほど頑丈じゃないですよ……」
「あ、よく見るとあっちも抉れてるわね」
クロトの言葉を無視し、リリサは3本の木の幹の更に向こう側を指差す。
琥珀色の瞳の先にあったのは今の位置よりかなり離れた場所、向こう側の峰だった。
クロトは3本の木が直線になるよう、正確な位置に立ち、リリサの示した場所を注視する。
すると、確かに峰の一部がV字型に抉れているように見えた。
「まさか、あそこを通過してここまで吹き飛んできた……って言いたいんじゃ」
「そのとおりよ。察しが良いわね」
「それこそあり得ませんよ……」
あの硬そうな岩で構成された峰を吹き飛ばし、3本の太い幹を吹き飛ばし、地面に激突したら確実に死ぬ。というか、地面と激突する前に衝撃で四散している。
クロトの反論を無視し、リリサは峰に足先を向ける。
「とにかく行くわよ。何か引っかかってるかもしれないし……あんたも自分の記憶に繋がる手がかりを見つけたいんでしょ?」
「それはそうですけど……」
――可能性がゼロだという訳ではない。
行って確認する価値はあるし、何よりリリサの言うことに従う以外の道はない。
「……わかりました」
クロトはリリサに遅れて足先を同じ方向に向けた。
ここからあの峰まで結構高低差がある。更に時間がかかりそうだ。
リリサはあまり苦に感じていないようで、軽快に歩き始める。
「じゃ、行くわよ」
そして、サラッととんでもないことを口にした。
「……あと、これからはディードも出てきそうだから、気をつけるのよ」
ディードという単語を耳にし、クロトは今更ながら昨日のリリサの言葉を思い出す。
この探索には自分がディードを狩るという試練も含まれているのだ。
ディードを殺した所で記憶が戻るとは思えないが、リリサが言うのだから従わないわけにはいかない。
「もちろん気をつけますけれど……アッドネスさん、ちゃんと守ってくださいよ?」
「情けないわねえ……ディードなんかぶった斬ってやる、くらいの根性見せなさいよ」
根性論で倒せるなら苦労はしない。
クロトはシースからククリナイフを取り出し、刀身を指でつつく。
「これ以外にもっといい武器無いんですか? 弓とか銃とか……」
「“じゅう”? ……とにかく、ディードの硬い皮に矢なんて刺さらないわよ」
リリサの口ぶりから察するにこの世界には銃は存在しないようだ。よく銃器も無しであんな化物と戦おうと思うものだ。むしろ狩人のほうが化け物じみているのではなかろうか。
「危なくなったらちゃんと助けてあげるから、しっかり戦いなさいよ」
「はい……」
うだうだ言っても仕方ない。
クロトは覚悟を決めることにして、峰へ向けて再び歩み始めた。