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天球のカラビナ  作者: イツロウ
04-毒霧の遺跡-
47/107

046 ビリオンキラー


 046


(順調だな……)

 遺跡の門前、クロト達退路確保チームは余裕を持って戦闘を行っていた。

 門前に陣取ってから40分。

 敵は絶え間なく押し寄せてくるものの、その数は確実に減っており、現在はティラミス一人だけで十分対応できるレベルまで落ち着いていた。

 既に大型のディード……ムカデやバッタやダンゴムシの姿はなく、中型のクモ型ディードのみがわらわらと湧いている状況だ。

 ティラミスはそのクモたちをハンマーで叩き潰し続けており、門前には死骸の山が出来上がっていた。

 クロトとジュナは一応は周囲を警戒していたが、両名とも頻繁に遺跡の入口に視線を送っていた。

 こんなことなら無理を言ってでも自分も探索チームに入っておくべきだったかもしれない、とクロトは後悔していた。

 ジュナも同じことを思っており、考えが言葉となって飛び出す。

「なあ、今からでも兄貴達の後を追わないか?」

 うん、と同意しそうになる気持ちを抑え、クロトは飽くまで作戦を優先する。

「駄目だ。最初に決めたとおりに動こう。勝手な行動はトラブルを誘発しかねないからね……」

「何だよ……そんなこと言って、実は遺跡の中に入るのが怖いんじゃねーのか?」

「そんな易い挑発には乗らないよ。……そろそろティラミスと交代してくる」

 いつまでもティラミスに任せきりというのも虫の居所が悪い。

 クロトはジュナに交代を告げると遺跡の入口から離れ、門前へ向かっていく。

 ……すると、不意に遺跡内部から足音が聞こえてきた。

「!!」

 足音に反応し、クロトは踵を返し、ジュナは入り口に集中する。

 足音は一つだけだ。しかし、足音の他に何かを引き摺るような音も混じっていた。

 ……足音が聞こえ始めてから待つこと20秒

 ようやく見知った顔が遺跡の入り口から姿を現した。

「はあ……はあ……」

 荒い呼吸とともに遺跡から出てきたのはモニカだった。

 モニカはリリサの腕を肩に回して引き摺っており、リリサは全体重をモニカに預けたままピクリとも動かなかった。

「リリサ!?」

 クロトは慌てて二人に駆け寄る。

 モニカからリリサをゆっくりと引き剥がし、その場で仰向けに寝かせた。

 クロトは恐る恐るリリサの首元に指を当てる。

 ……脈はある。

 小さいが呼吸もしているし、目立った外傷もない。

 命に別状はないようだ。

 リリサの無事を知って安堵したクロトだったが、完全に安心したわけではなかった。

 肝心のダンシオの姿が見えない。

 ジュナは兄を心配してか、モニカに問い詰める。

「なあ、兄貴は!?」

 モニカは息も絶え絶えに応じる。

「ダンシオさんはまだ中に……ヒトガタと遭遇して……でも、すぐに脱出してくるはずです」

「ヒトガタだと!?」

 ジュナはヒトガタというワードを聞いて大鎌を握る手に力が入る。

「……待ってられねえ、助けに行く!!」

 そして、遺跡に向かって駆け出そうとした、が、かろうじてクロトが腕を掴んで引き止めた。

「待つんだジュナ。場所も敵の戦力も分からないまま助けに行くつもりかい? それに、ここに二人がいるってことはダンシオさんは撤退を命じたはずだ。すぐにダンシオさんも戻ってくる。……そうだろう? モニカ」

「はい。ダンシオさんは撤退すると宣言しました。……ですが、私達が逃げるための時間を稼ぐためにヒトガタと戦闘している可能性があります」

「戦闘って……ヒトガタ相手にたった一人でか!?」

「ダンシオさんも馬鹿じゃない。逃げる算段があったから先にモニカたちを逃がしたんだと思う。ここは落ち着いてダンシオさんが来るのを待とう」

 なだめるクロトに対し、ジュナは半ば混乱気味に叫ぶ。

「そんなの想像でしかないだろ!! 何を言われようとオレは兄貴を助けに行くぞ!!」

 ジュナはクロトの手を振り払い遺跡に向かう。

 しかし、今度はモニカが先回りをして通せんぼをした。

「……無理だと思います」

「何だって?」

 モニカは地面に横たわるリリサを指差す。

「あのヒトガタは本気のリリサさんを一瞬で行動不能にしました。それに、ダンシオさんの蜘蛛の糸も全く効きません。……あのヒトガタは強力です。今からジュナさんが行った所で、ダンシオさんを助けられるとは……」

「だからって、兄貴を見捨てられるかよ!!」

「気持は良くわかるよ。……でも、今はダンシオさんの指示通り撤退しよう」

「うるせえ!!」

 ジュナの瞳は既に涙で濡れていた。

 戦力差は圧倒的。万が一にもダンシオに勝ち目はない。

 だが、まだ生きている可能性はある。その可能性がある以上、行動せずにはいられないのだ。

 だが、その行動でジュナまでヒトガタの餌食になってしまっては元も子もない。それこそダンシオに申し訳が立たない。

 クロトは頭ではそう理解していたが、ダンシオを助けたいという気持ちはジュナと同じだった。

 ……ダンシオはいい狩人だ。

 ダンシオははあの孤児院に必要な人間だ。もし彼がいなくなれば200人近い子供たちが路頭に迷う。病人も病に苦しみながら死んでしまうことになる。

 こんな所で死んではいけない存在なのだ。

 何としてでもダンシオを助ける。

 ――クロトはある可能性に賭けてみることにした。

「……ごめん、ジュナ」

 クロトは謝ると同時にジュナの腹部に拳を打ち込む。

「うっ!?」

 完全な不意打ちだということもあってか、ジュナは呻き声を上げ、そのまま地面にへたり込む。

「オレは……オレは……」

 ジュナは暫くうわ言のように言葉をつぶやいていたが、やがて体から力が抜け、気絶してしまった。

「クロトさん!?」

 いきなりの暴挙にモニカは驚きの声を上げる。

 しかし、すぐにクロトの意図を理解したのか、それ以上言葉を発することはなかった。

 クロトは地面にくたりと横たわるジュナを両手に抱え、ティラミスを呼ぶ。

「ティラミス!!」

「は、はい」

 ティラミスはクモ型ディードを潰すのを中断し、遺跡入口に駆け寄ってくる。

 ハンマーは黒の血で真黒に染まり、白のワンピースも黒のワンピースになっていた。

 眼鏡にこびりついた血を指先で拭いつつ、ティラミスは首を傾げる。

「……何でしょうか?」

「3人を連れてエンベルに戻ってくれ」

「はい、わかりました」

 ティラミスは何の疑問も持たずにクロトの指示に対し首を縦に振った。

 が、気にならない訳では無いようで、質問を返す。

「……それで、クロト様は?」

「僕は……ダンシオさんを助けに行く」

「えっ?」

「なっ……!?」

 このクロトの言葉にはティラミスもモニカも驚いていた。

 二人は数秒間固まった後、気を取り直してクロトを引き止める。

「そんな、クロト様、死ぬつもりですか?」

「そうですよクロトさん、さっき自分で言ったことを忘れたんですか!? あまりにも無謀過ぎます!!」

 二人の言うことは正論だった。

 クロトはティラミスとモニカを安心させるべく、“アレ”を実演することにした。

「確かに無謀だけど、死ぬつもりはないよ」

 クロトは短く答えると、口元に手をやる。そして、おもむろにガスマスクを外し、投げ捨てた。

「!!」

 マスクを外したことにより紫の毒霧は直接クロトの肺の中に侵入し、体組織を容赦なく破壊していく。

 瞬時にして体を毒に侵され、クロトは苦しさを覚えてその場に膝をつく。

「ぐっ……はっ……」

 クロトは数秒足らずで盛大に吐血し、地面を赤色に染める。

「クロト様!! 一体何を……」

 急激に視界が狭まり、耳鳴りがし、刺すような痛みが全身を襲う。

「クロトさん、早くマスクを付けてください!!」

 もし自分が普通の人間ならばこのまま死に絶えるだろう。

 だが、幸いにもクロトは普通の人間ではなかった。

 ……クロトは死を前にして覚醒状態に移行する。

 まず瞳が真紅に染まり、続いて苦痛がピタリと止む。それどころか体から力がみなぎってくる。

 クロトの急激な異変を感じてか、ティラミスは叫ぶのを止め、距離をとった。

「クロト……様?」

 モニカもクロトの放つ異様な雰囲気に圧倒されてか、クロトの投げ捨てたマスクを手に持ったまま立ち尽くしていた。

「……二人共、見てて」

 クロトは地面に転がっていた石を手に取り、大きく振りかぶる。

 そして、門前で蠢いているクモ型ディードの群れ目掛けて投擲した。

 石は瞬時に音速を超え、ディードの群れの中央に命中。同時に地面が炸裂し、バラバラになった破片が四方に飛び散りクモ型ディードをぐちゃぐちゃにした。

 圧倒的な力。

 それを目前で見せられ、ティラミスとモニカは言葉を失っていた。

 クロトは口元の血を拭いながら二人に告げる。

「二人はまだ見たことがなかったね。これが、僕がベックルンのキマイラを倒せた理由。そしてケナンのヒトガタを倒せた理由だよ」

「クロトさん、あなたは一体……」

 ……何者なのか。

 それはクロト自身にも分からなかった。

 だが、この過酷な環境にも適応でき、超人的な力を発揮できるのは紛うことなき事実であった。

 この事実さえあれば十分である。

 クロトはモニカの言葉を遮るように告げる。

「見ての通り僕はそう簡単に死なない。ヒトガタとも対等にやりあえると思う。……だから、安心してエンベルに戻って欲しい」

 モニカは目を閉じる。そしてフィルター越しに深呼吸し、再び目を開ける。

 その目には迷いも動揺も感じられなかった。

「……わかりました。いきましょう、ティラミスちゃん」

「……はい」

 モニカに促され、ティラミスはリリサとジュナを脇に抱える。

 そして、エンベルに戻るべく南へと移動を開始した。

「クロト様……」

 ティラミスは何度もクロトの方を振り返っていたが、毒霧のせいですぐに姿が見えなくなった。

 一人になったクロトは改めて遺跡入口に目を向ける。

 相変わらず毒霧が漏れ出ており、内部は真っ暗だった。

「ゴホッ……ゴホッ……」

 クロトは咳き込む。だが、先ほどとは違い血は出てこなかった。

「早くダンシオさんを助けに行かないと……」

 いつまでこの状態を保てるか分からない。

 クロトは遺跡の奥に向けて急ぐことにした。



 遺跡内部に入ってから10分後

 クロトは暗い遺跡の中を駆け足で進んでいた。

 内部は真っ暗だが今の自分にははっきりくっきりと見える。聴覚も鋭敏化しているせいか、曲がり角の先の、その先の様子まで把握できる。

 内部にディードの姿はない。

 クロトはダンシオの姿を求めて最下層へと一気に下っていく。

 やがて最下層に到着すると、明かりが付いている大部屋を発見した。

 壁には大きな窓ガラスが設置され、室内にはカプセル状の物体が数百個も規則正しく並べられていた。

(行き止まりか……)

 ここに来るまでダンシオの姿は確認できなかった。

 いるとするならこの内部しかありえない。

 そんなクロトの予想は見事に的中した。

(ダンシオさん……!!)

 大部屋の内部、出入り口付近にダンシオの姿を確認できた。

 ダンシオはかなり負傷しており、左腕は消失。全身から血が流れ出ていた。

 おそらくヒトガタと戦闘し、何とかこの部屋に逃げ込んだのだろう。

 とすればヒトガタもこの近くに潜んでいる可能性が高い。

 そう思った矢先、背後から声がした。

「……君か、久しぶりだな」

「!!」

 クロトは凛とした女性の声に驚き、振り返る。

 階段付近、そこには黒い長髪に色白の女性の姿があった。澄んだ青の瞳に薄紅色の唇。

 服装は黒のタイトなTシャツに、同じく黒の丈の短いレギンス。

 どこからどうみても人間だ。が、クロトは瞬時に彼女がヒトガタであると悟った。

 何故なら、彼女自身から濃い紫の毒霧が放出されていたからだ。

 どうやら彼女自身がラグサラムを覆う毒霧の元凶のようだ。

 ……ヒトガタの彼女は言葉を続ける。

「ん? 君一人だけか? もう一人はいないのか?」

(英語……)

 今更ながらクロトは彼女が英語を喋っていることに気づく。同時に自分が英語を理解できていることにも気がついた。

 夢の中の記憶によれば自分は士官学校に通っていたようだし、英語もできて当然かも知れない。

 とにかく、彼女は僕のことを知っていて、仲間だと認識している。

 ここで下手に刺激をすると攻撃を受けるかもしれない。そう考えたクロトは飽くまで冷静に会話を続けることにした。

「……君は、僕のことを知っているのかい?」

「何? もしかして私のことを忘れたのか? ……まあこれだけ時間が経てば忘れても仕方がないか」

 ヒトガタは残念そうに告げながらもクロトに近づいていく。

「それはともかく、ちょうどいいところに来てくれた。いま邪魔者が施設内に侵入してきていてね、追い払うのを手伝って欲しい」

「邪魔者?」

「あれだよ」

 ヒトガタはクロトの隣に立ち、一点を指差す。その先には室内にいるダンシオの姿があった。

 やはりダンシオはヒトガタと一戦交えたようだ。

 それにしてもあのダンシオがあそこまで追いつめられるとは……このヒトガタ、見た目によらず相当凶悪な力の持ち主のようだ。

「もしかして彼を殺すのかい?」

「侵入者は殺す。それがルールだ」

 ヒトガタは冷徹に告げた。

 ……このままだとダンシオの命が危ない。

 クロトは時間を稼ぐべく話し続ける。

「もう一度聞くけど。君は僕のことをどのくらい知っているんだい?」

「どのくらいと言われても……一度会っただけで詳しいことは知らないけど、君が『ビリオンキラー』と呼ばれる程の実力者だということは知っているよ」

「そうか……」

 ビリオンキラー……このワードは黒衣の男からも聞いたことがある。

 彼女の情報は確かなようだ。

 クロトは自分の記憶を取り戻すべく、正直に話すことにした。

「実は僕は記憶喪失なんだ。君からは色々と話を聞けそうだ。色々と教えてくれないかい」

「私が分かることなら何でも教えよう。……だが侵入者の排除が先だ」

 ヒトガタは視線をダンシオに向け直す。

「さあ、アレを部屋の外に出してくれ」

 指示されたクロトだったが、ダンシオを見殺しにすることなどできなかった。

 おそらくこのヒトガタとは数分以内に一戦交えることになる。

 それまでにできるだけ情報を引き出しておきたい。

 そう考えたクロトは何とか時間を引き延ばすことにした。

「そ、外に出すだけなら君がやれば……」

「私はこの体だ。あの部屋に入れないんだ」

「入れない?」

 クロトの問いかけにヒトガタは自身の体を指差す。

「見ての通り、私は毒を自在に操る化物だ。当然私自身の体も毒で汚染されている。そのせいで部屋の中に入ろうとするとセンサーが反応してドアがロックされてしまうんだ」

「なるほど……」

「ま、私の毒霧の中で普通に立ってる君も相当な化物だけどね……流石はビリオンキラーといったところか」

「……」

 話を纏めると、彼女は彼女自身の体質のせいであの部屋の中に入れない。つまり、あの部屋にいる限りダンシオは安全だ。

「どうした。突っ立ってないでさっさとアレを引き摺り出せ。話が聞きたいんだろう?」

 ヒトガタはクロトの背中を押し、部屋の入口へ突き飛ばす。

 口調は平静を保っているが、ダンシオが室内にいるこの状況にかなり焦っているようだ。

 もう彼女から話を聞く余裕はない。

 そう判断したクロトは覚悟を決めることにした。

「……できない」

「なんだって?」

「彼は僕の仲間なんだ。だから、彼を彼を部屋から出すことはできない」

「仲間? ハ、ハハハッ!!」

 ヒトガタはお腹を抱えて笑い声を上げる。

 その笑いは数秒に続き、遺跡内に不気味に響いた。

「いやあ、久しぶりに笑ったよ。しかし顔に似合わず強烈なジョークを言うね、君は」

「……ジョークじゃない。彼は僕の仲間だ」

「笑えない冗談だ」

 ヒトガタは静かに告げたかと思うと床を強く蹴り、荒々しく告げる。

「いいからさっさとあのゴミ虫を殺せ。殺さなければお前を殺すぞ!!」

「本性を現したな、ディードめ」

「ディード? この私が? ……ハハ、ハハハッ!!」

 またしても彼女の高笑いは遺跡内に響く。

 笑い終えた後、ヒトガタの彼女は苛立った様子で溜息をついた。

「はあ……単なる一時的な記憶障害かと思っていたが、どうやら本気で記憶を喪失しているらしいな。しかもよりによって虫どもに与するなんて……。とりあえずお前を殺す。中のゴミ虫の処分はロボットにでも任せよう。部屋が少し汚れるだろうが、それも止むなしだ」

「待ってくれ、まだ話が……!!」

「うるさい、裏切り者め!!」

 ヒトガタはこの言葉と同時に毒の霧をクロトに向けて放出する。

 両手から発せられた毒の霧は狭い通路内を一瞬で埋め尽くす。逃げることなど不可能だった。

 クロトはその霧を真正面から受けてしまい、まずは戦闘服が瞬時に溶けた。

「くっ……」

 よほど強力な毒なのか、続いて皮膚も筋肉も、そして骨も溶けていく。

 だが、覚醒した状態のクロトの再生能力はこれを上回っており、溶けた所から瞬時に再生していた。

「流石だな。ならこれはどうだ!!」

 ヒトガタは毒の放出を続けつつ、口から緑色の麻痺ガスを大量に噴射した。

 緑のガスはすぐにクロトに到達し、クロトは体に異変を覚えた。

(動かない……?)

 クロトは体の自由が効かなくなり、その場に膝をつく。

 同時に体の再生速度も衰えてきた。

 クロトの体は溶解と再生を繰り返し、既に服はボロボロに、表皮もほぼ全て剥げた状態になっていた。

 このままではいずれ行動不能に陥り、敗北してしまう。

 その危機が、クロトにさらなる覚醒を促した。

「……!!」

 クロトの心臓が強く脈打ちはじめる。

 すると体の表面に黒く硬質化した皮膚が形成され、それは急速にクロトの体を覆い始めた。

 胸の中心から始まった皮膚の変化はやがて四肢へ行き渡り、最終的に指先まで黒く塗りつぶしてしまう。

 そして、首から上は前髪が急激に伸びてマスク状に変化し、顔をすっぽりと覆い隠した。

 クロトは全身を黒いペンキで塗りたくられたような状態になり、顔にはマスクのような物を装着した状態になっていた。

 ただ、赤い瞳の色だけはそのマスクを通してもはっきりと確認できた。

 黒い肌は毒を一切シャットアウトし、クロトは濃い毒霧の中でも自由に動けるようになる。

 ヒトガタはクロトの変化に狼狽えている様子だった。

「なんだそれは……」

「……」

 クロトは応じることなくヒトガタに歩み寄り、この毒霧を止めるべく攻撃を仕掛けることにした。

 クロトはダッシュで素早くヒトガタの正面に到達すると軸足をしっかりと床に固定する。

 そして、渾身のハイキックを放った。

 この動作にヒトガタは対応できず、まともに蹴りを受けた。

 ヒトガタはガードもできず、ハイキックは肩に命中する。

 当然キックを受け流すことも受け身を取ることもできず、ヒトガタは瞬時にその場から蹴り飛ばされ、豪快に壁に身をぶつけた。

 ヒトガタは大きなガラス窓を突き破ってカプセルの並ぶ室内に転がり込む。

 同時に毒霧も室内に入り込み、綺麗な空気を保っていた室内は瞬時に紫色の濃い毒霧に覆われてしまった。

「……」

 クロトは割れたガラスを乗り越え、室内に足を踏み入れる。

 そして、反撃を警戒して構える。

 しかし、ヒトガタは反撃するどころか、周囲に目をやり慌てふためいていた。

「ああっ……あああ!!」

 既にヒトガタからは戦意は失われており、ついでに言うと彼女は毒霧の散布を一切止めていた。

 そして、毒をかき消すかのように腕をブンブンと振る。

 それでも一度広がった毒は簡単には消えない。

 やがて毒霧はカプセルの内部にも侵入し、カプセル内の透明だった液体はみるみるうちに紫色に侵食されていった。

 ヒトガタはカプセルにすがりつき、悲痛の声を上げる。

「やめろ!! やめてくれえええ!!!」

 そんな彼女の願いも虚しく、毒はカプセルの中の人間をみるみるうちに腐らせていく。

 皮膚の表面がめくれ上がり、筋組織が崩壊し、人体を形成していた物質はバラバラになって崩れ落ちていく。

 どのカプセルも同じ状況で、毒が行き渡ったこの状況で無事でいられる人間がいるとは思えなかった。

「ああ……」

 ヒトガタの彼女もそれを自覚してか、その場に尻餅をついてへたり込み、茫然自失状態にあった。

 彼らは彼女にとってとても大事な存在だったらしい。

 理由はさっぱりわからないが、これが彼女を殺す最大のチャンスであることをクロトは理解していた。

 ……今なら簡単に殺せる。

 だが、そう理解していてもクロトは彼女に攻撃を加える事ができなかった。

「……」

 外見が人間とそっくりであること、しかも感情を露わにしていることも相まって殺意を抱けなかったのだ。

 自分でも甘いと思う。

 しかし、その甘さは悪いことではないとクロトは確信していた。

 ……とにかく今は人命が優先だ。

 クロトはその場を離れ、入口付近で倒れているダンシオに近づいていく。

 ダンシオは横向きに倒れており、左腕を失っていた。顔色もよくない。

 クロトは傍らに膝をつき、早速応急処置を開始することにした。

「ダンシオさん、大丈夫ですか」

「その声……クロト、か?」

 ダンシオは目を閉じたままクロトの呼びかけに応じた。

 もしこちらの姿を見ていたら敵と間違われて攻撃されていたかもしれない。

 そんなことを考えつつもクロトはダンシオの体の各所を調べていく。

「ひどい怪我ですね……」

 切断された左腕はもちろんの事、体の至る場所に毒で溶かされたであろう生々しい傷があり、打撲している箇所は数えきれないほどあった。

 だが、どれも致命傷にはなっていない。とりあえず左腕の出血を止めれば命は助かるだろう。

「とりあえず左腕を止血します。我慢してください」

 クロトはそう告げるとダンシオの腕の断面に手のひらを当て、握る。

 血を止めるには焼くのが手っ取り早い。

 クロトの手のひらは瞬時に高熱を発し、それはダンシオの皮膚組織や血と接触して蒸気を生じさせる。

「ぐ……」

 ダンシオは痛みを感じてか、表情を歪ませる。

 常人であれば痛みに耐え切れず気絶するところだが、ダンシオは歯を食いしばって意識を保っていた。流石は上級狩人である。

 数秒もするとダンシオの腕の断面は焼き固められ、出血も止まった。

 これで失血死の心配はないだろう。本格的な治療は後ほどするとして、問題はどうやってここからダンシオを連れて帰るかだ。

「……」

 クロトはダンシオを背に抱えつつ、無言でヒトガタの彼女を見る。

 彼女は未だショックから立ち直れないようで、床にへたり込んで肩を落としていた。

 泣いているのか、時々肩が上下に動いていた。

 このままの状態が続けば安心だが、復帰する可能性も十分有り得る。

 彼女の毒霧は強力だ。黒化した自分は毒を防げるが、ダンシオは防げない。またあの強烈な毒の霧を浴びたらダンシオは跡形もなく溶けてなくなってしまうだろう。

 それだけは回避せねばならない。

 その為には……ここから安全に脱出するには彼女を殺しておいたほうがいい。

(あいつを殺す……)

 だが、ここに来てクロトはまだ迷っていた。

 彼女から聞きたいことは山ほどある。もしかしたら彼女が重大な情報を握っている可能性もある。なにより、彼女は自分のことを知っていた。つまり、これは自分の記憶を知ることができるチャンスなのだ。

 そのチャンスをフイにしてもいいのだろうか。

 そんなことを考えていると、唐突にヒトガタが喋り始めた。

「殺してくれ……私を、殺してくれ……」

 それは悲壮感の篭った言葉だった。

 ヒトガタの彼女は視線をクロトに向け、続ける。

「私の唯一の存在理由が消えてしまった。……こんな世界で生き続けることに意味は無い。早く私を殺してくれ……」

 そう言う彼女は涙を流していた。

 涙は頬を伝い、床に落ちて小さな水たまりを作る。

 彼女からは敵意は感じられず、もっと言うと生きる気力も感じられなかった。

 クロトは彼女の豹変っぷりに驚きを隠せなかった。

 先程までこちらを殺すべく毒を放っていた彼女が、今は自分を殺してくれと懇願している。

 彼女にとって、このカプセルにどれほどの価値があったのだろうか。

 そんなことを考えていると、割れた窓付近から男の声が響いた。

「やはりこうなってしまったか……」

 声に反応してクロトとヒトガタの女は視線を窓に向ける。

 そこには黒いコート、黒いフードに身を包んだ例の男が立っていた。

「……黒衣の男!!」

 クロトはダンシオを抱えたまま拳を握り、構える。

 しかし、例によって彼に攻撃の意思はなく、ポケットに手を突っ込んでのんびりと歩いていた。

 よく見ると彼の体の周囲には綺麗な空気の層が形成されており、彼はその球体の中に入っていた。

 彼の動きに合わせて綺麗な空気も動き、毒の影響を全く受けていない様子だった。

 彼は室内をぐるりと見渡した後、クロトに告げる。

「ここには近づくな。そう警告したはずだ。しかもその姿は……彼女との戦闘のせいか……」

 黒衣の男は黒化したクロトを見て悩ましげに溜息をつく。

 そして、黒衣の男はヒトガタの女の前まで移動すると、彼女に告げた。

「おい『トキソ』、今からお前を連れて帰るが……いいな?」

 トキソと呼ばれた彼女は首を左右に振る。

「駄目だ。ここで殺してくれ。もうこの世界に未練は無い……」

「その件は帰ってからだ」

 黒衣の男は問答無用でヒトガタの女に向けて手をかざす。

 するとヒトガタの女はその場でふわりと浮かび上がり、黒衣の男の隣に移動した。

「やめろ!! いいから殺せ!!」

 ヒトガタの女はジタバタするも、黒衣の男の力に逆らえないようで空中でくるくると回っていた。

 ヒトガタの女を回収した黒衣の男は改めてクロトに告げる。

「今からこの施設を破壊する。……手加減はできないからさっさと逃げろ」

 どうやら見逃してくれるらしい。

 こちらには手負いのダンシオもいるし、戦闘になれば勝てる見込みがあるか怪しい。

 この遺跡の中に入ったのはダンシオを助けるためだったはずだ。ダンシオを確保できた今、黒衣の男におとなしく従ったほうがいいのは火を見るより明らかだった。

 だが、クロトは意図せず言い返してしまった。

「いや、ここは重要な遺跡だ。ここを調べればこの世界にとって有益な情報が見つかる。……壊させないぞ」

 珍しく強気に出たクロトだったが、黒衣の男は特にプレッシャーを感じている様子はなかった。

「命だけは助けてやるって言ってるんだ。いいからここから早く出ろ。それとも、俺を止められる自信があるのか?」

「……!!」

 気づくとクロトはダンシオをその場に置き去りにし、黒衣の男に向かってダッシュしていた。

 数メートルあった距離は刹那の間にゼロに縮まり、クロトは左の拳を黒衣の男に叩き込む。

 それはとても素早く、且つ威力のある一撃だった。

 空気の裂ける音がし、遅れて衝撃波が暴風となって室内をかき乱す。

 しかし、拳は黒衣の男に到達しておらず、見えない壁によって阻まれていた。

「く……」

 結局クロトはこの壁を打ち砕くことができず、拳を引いて距離を取る。

 黒衣の男は微動だにしていない。しかし、クロトの力自体には驚いている様子だった。

「完全に覚醒していない状態でこの力か……本当にお前は末恐ろしいよ」

 黒衣の男はそう告げると手のひらを真上に向ける。

 次の瞬間、轟音が響いたかと思うと天井に亀裂が入り、男の真上の空間が綺麗サッパリ消えてなくなった。

 同時に天井から陽の光が差し込んできた。

 クロトは上を見上げる。

 天井は円柱状に抉られており、それは地表まで続いていて、紫がかった毒霧の向こう側には青い空が見え隠れしていた。

 黒衣の男はヒトガタの女を連れてふわりと浮かび上がり、上へ飛翔していく。

「何度も言うが、軌道エレベータには近づくな。今度こそ仲間を失うことになるぞ」

「待て、カラビナに何があるんだ!?」

 クロトは空に向けて問いかける。

 しかし、黒衣の男は問いかけに応じかなかった。

「……早くその男を連れて離れろ。見逃すのは今回だけだ」

 そう告げると黒衣の男は急上昇し、あっという間に姿を消してしまった。

「……」

 ここが破壊されるまでそう時間はないだろう。

 クロトはダンシオを背負い直すと、急いで遺跡から脱出することにした。


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