003 疫病
003
アイバールの街から村に戻る頃には、日はすっかり暮れていた。
足は棒になったが、その代わり、長旅を終えた後の夕食は格別に美味しかった。
夕食を終えるとミソラはそのまま寝室へと姿を消し、イワンは買い出しで買ってきた酒瓶を片手に晩酌を始めた。
ちびちびと酒を楽しむイワンを眺めつつ、クロトはため息を付いた。
「はあ……」
そのままテーブルに突っ伏し、目を閉じる。
脳裏に思い浮かぶのは“異世界”の3文字だった。
ここは間違いなく日本が存在しない異世界だ。
雑貨屋で見た世界地図は今でもよく思い出せる。あれについては真偽の程は定かではないが、ディードの存在は決定的だった。
一人でもやもやしていると、ほろ酔いの声が届いてきた。
「クロト、何かあったのか?」
流石は親父さん、察しが良い。
親父さんの頬は少し赤らんでおり、アルコールがよく回っている様子だった。
クロトは街で見たことを話す。
「親父さん、僕、初めてディードを見たんです」
「おお、そりゃあ凄い」
「親父さんは見たこと、ありますよね?」
イワンは陶器コップの中身をくいっと飲み干し、頷く。
「もちろんあるぞ。まあ、生きているところは見たことがないがな……」
酒瓶からコップに継ぎ足しつつ、イワンは言葉を続ける。
「ディートは人を襲う化物……他の動物と違って人しか狙わない。手練の狩人でも手を焼くほど賢く、戦闘能力もかなり高い……」
まあ、あれだけ大きな化物だ。そうやすやすと仕留められないのは理解できる。
「……なら、どうして、危険を冒してまでディードを狩ろうとするんです?」
歯や骨が固く加工に向いているとは聞いたが、それだけの理由で命を危険にさらすことはないはずだ。
その謎はイワンの言葉によって解消されることになる。
イワンは酒を飲みながら話を再開する。
「この前、骨や爪が売れると言ったよな? だが、それよりも貴重な物がある。それは……ディードの黒の血だ」
「血……?」
「そう。種類によって色々効能が違うらしいが、ここ一帯のディードの血は火をつけると燃える。しかも油よりずっと長く、熱く燃える。だからランプはもちろん暖房にも使われる。少ない量でかなりの熱が得られるから、かなり高値で取引されているというわけだ」
「それじゃあ……」
「ああ、狩人は危険に見合うだけの報酬を得ている。それに、基本的に集団で狩りをするからな、危険はあるにしろ、そこまで危なくはないというわけだ」
ディードはただの怪物、化物、魔物かと思っていたが、人はそれを糧としてうまく利用しているようだ。
……そう思うと、俄然興味が湧いてきた。
自分の置かれている状況も忘れて、クロトはイワンに問いかける。
「親父さん、ディードについてもっと聞かせてもらえませんか」
「そう言われても困るんだが……俺が知ってるのはさっき言った程度の事だ。興味があるなら狩人に直接聞くのが一番だろうよ」
「そうですか……」
狩人……広場にいた彼らは逞しく、他の人とは違い戦闘服のような物に身を包んでいた。
彼らと会うことは難しいだろう、が、また街に行く機会があれば何とか声を掛けてみたいものだ。
「親父さん、僕にも一杯貰えませんか」
「おっ、クロト、酒が飲みたいなんて、ようやくお前もいっちょ前になってきたな」
「今日は飲みたい気分なんです」
今日は自分の立場を嫌というほど思い知らされた日だ。
異世界、日本の存在しない別の世界にいるという事実に思い至った日だ。
ナヨナヨしていても仕方がない。こういう時は酒の力を借りて少しでも気分を和らげたほうがいいのだ。
クロトは戸棚から陶器のコップを持ち出すとテーブルに置く。
イワンは何も言わずそのコップに酒を波々と注ぐ。
「頂きます」
クロトは溢さぬように慎重にコップを持ち上げ、口まで持って行くとぐいっと傾けた。
翌朝
二日酔いの頭に響いたのはミソラの悲鳴だった。
ぐわんぐわんする頭を抑えつつ、クロトは寝室からミソラの元へと向かう。
ミソラが居たのは牛小屋、ミソラは口元を手で覆い地面を指差していた。
「どうした?」
「これって……」
クロトはミソラの指の先を見る。そこには横に倒れている牛の姿があった。
ピクリとも動かない。
目はくわっと開かれ、充血している。長い舌は地面に転がり、泡を吹いていた。
既に周囲には蝿がたかっており、少しだが腐臭が漂っていた。
「とうとう家の牛もやられたか……」
「やられたって……これが例の疫病ってやつ?」
「みたいだね」
二日酔いに加えてこの臭い……吐きそうになるのを我慢しつつ、クロトはすぐに対処にあたることにした。
……1時間後。
途中からイワンも加わり、作業は滞り無く進んだ。
作業と言っても地面に穴を掘り、その中に牛の死体を埋めるだけだ。
作業が終わるとイワンはあくびをしながら家へ戻っていってしまった。
意外な重労働にクロトは地面に座り込み、手ぬぐいで首元の汗を拭う。
そして作業で汚れた腕や足を洗浄するべく洗い場へ向かうことにした。
洗い場に向かう途中、クロトは何気なく呟く。
「綺麗にしてたつもりだったんだけど、伝染力がかなり強いみたいだ。隣村に被害が行く前に村中の牛を殺しておいたほうがいいかもしれないなあ……」
「なんの話……?」
「いや、こっちの話」
いつの間にか隣にミソラが並んで歩いていた。
因みにミソラは穴掘り作業には加わらず、畜舎の掃除をしてくれた。
彼女もかなり汚れたみたいで、腕は真っ黒になっていた。
その真っ黒な手をこちらに向け、ミソラはしつこく問い詰める。
「こっちって、どっちの話よ。教えなさいよ」
「言っても無駄だと思うよ」
伝染病は細菌やウイルスによるものだが、それを説明した所でミソラが理解できるとは思えない。
馬鹿にしているつもりはないが、事実なのだからしょうがない。
やがて洗い場に到着した。
洗い場は家の裏手の岩場、水が流れ出ている場所だ。
主に衣類や汚れた食器を洗う場所なのだが、ここの水は飲水としても使える。贅沢なことだ。
クロトは木の管から流れ出る水に手を差し込み、土汚れを洗い流していく。
すると強引にミソラが割り込んできた。
「村中の牛を殺すとか言ってたわよね? いいから白状しなさい」
まだ先ほどの件を気にしているようだ。
クロトは無視して腕に続いて足も洗い始める。
そんな態度が気に食わなかったのか、ミソラはいきなり暴力を振るってきた。
「言わないと……こうだ!!」
また背中を叩かれるのか……と思いきや、ミソラは背後から思い切りタックルしてきた。
「うぐっ!?」
「きゃっ!?」
クロトは勢いに耐え切れず、前に倒れる。が、顔を守るために半回転して背中から地面とぶつかった。
クロトに遅れてミソラも倒れこみ、結果、ミソラはクロトの上に馬乗りになった。
水は木の管から流れ出て、ミソラの頭にぶつかり体全体を濡らし、そのままクロトの服も濡らしていく。
ミソラのワンピースは水を吸って体に密着し、体のラインがくっきりと浮かび上がる。
ミソラは早々にそれに気づいてか、体を両腕でかばい、顔を真赤にする。
「……離れたほうがいいよね」
「できればそうしてくれ」
ミソラは胸元を手で隠したままゆっくりと立ち上がり、背を向ける。
クロトも立ち上がろうとした。が、何故か力が入らず、腹のあたりに水を浴び続けていた。
「はあ……」
自然とため息が出た。
視線の先、天上には小さな雲が浮かんでいる。青い空の中を悠々と浮遊している。
あれは間違いなく空であり、雲だ。日本にいた頃にも確かに見た、同じ空と雲だ。
この世界と自分がいた世界はほとんど同じなのに、違う。
ディードなんていう化物は存在しないし、陸地の形状も全く違う。
立ち上がらないクロトを見て、ミソラは心配そうに言う。
「……大丈夫?」
「大丈夫。ミソラが羽みたいに軽いおかげで怪我しないで済んだ」
「冗談言ってないで……さっさと立ちなさいよ」
ミソラは軽く笑い、こちらに手を差し伸べる。
クロトはその手を掴み、立ち上がる。
服はびしょ濡れ、髪まで濡れていた。
服の端を握って絞っていると、ミソラから話しかけてきた。
「クロト、昨日街を出てからずっと元気がないよね。……ディード、そんなに怖かった?」
「あれは関係ないよ」
「じゃあ、どうして?」
「……」
「ちゃんと教えてよ。じゃないと私まで元気がなくなっちゃう」
大雑把そうに見えて他人のことをちゃんと観察している。そして、気遣ってくれてる。
本当に自分は恵まれているようだ。
ミソラを不安にさせないためにも、クロトは思うところを述べていく。
「雑貨店で地図見ただろ? 日本なんて国、この世界には存在しなかったんだ」
「うん」
「記憶もないし、唯一の手がかりも消えてしまった。……僕はこの世界で一人ぼっちなんだよ。元気が出るわけないだろう……」
あの地図が世界地図だと知らされた時、世界から拒絶されたように思えた。
今は二日酔いの頭痛のおかげで辛気臭くならずに済んでいるが、アルコールが抜ければ暗い雰囲気を周囲にばらまいてしまうに違いない。
「……一人じゃないよ!!」
ミソラは声を張って、クロトの言葉を否定した。
服が濡れていることも忘れて、ミソラはクロトの手をぎゅっと握りしめる。
「一人じゃない。私とお父さん、二人も家族がいるじゃない!!」
「でもそれは……」
本当の家族ではない。
ミソラはそう言おうとしたクロトの口を指先で押さえ、透き通った声で告げる。
「私、クロトの事好きよ」
「……!!」
唐突な告白。
ミソラの頬は先程にまして紅に染まり、青い瞳も心なしか優しさが感じられた。
ミソラは口に当てた手を頬へ持って行き、更に続ける。
「クロトのこと、信頼できる家族だと思ってる。そしてそれ以上に、男として魅力的だと思ってる……」
「……」
……心臓が高鳴る。
記憶喪失の身ではあるが、どうやら自分にはこういった経験はなかったようだ。
ミソラに告白され、クロトは誠実に応じる。
「ミソラ、ありがとう。おかげで希望が湧いてきたよ」
ここがどんな場所だっていい。ミソラがいれば、そこが最高の居場所になる。
そう信じたいし、そうなる努力をしよう。
日本のことは忘れたって構わない。
決意を新たにしたクロトは、改めてミソラに言い返す。
「ミソラ、僕もミソラのことが……」
「う……」
言いかけようとしたその時、ミソラの体が大きく揺れた。
「!?」
ミソラはそのままその場にへたり込み、地面に手をついて荒い呼吸をし始める。
「ミソラ……?」
「クロト……ごめん、ちょっと、体が……」
明らかに様子がおかしい。
クロトはミソラの顔を覗き込む。
頬だけでなく、顔全体が赤く染まっていた。
額に手を当てるとかなり熱く、発熱しているのは明らかだった。
何らかの病気に掛かったのは間違いないが、普通の風邪にしては明らかに症状が重そうだ。
「風邪……いや、これは……まさか!?」
クロトは一番最悪の事態を思い浮かべてしまう。
それは牛を殺したウイルスが変異してミソラを襲った、という考えだった。
ミソラは毎日牛の世話をしていた。おまけに先程も畜舎の掃除をさせてしまった。感染する可能性が高い場所に長い時間いさせてしまった。
……失態だ。警戒していなかったわけではない。が、伝染病を甘く見過ぎていた。
「くそ……」
こんな所にいても仕方がない。
クロトはミソラを抱え上げると、家の中へ向かうことにした。