102 苦行からの解放
102
軌道エレベータの先端部付近。
中央部から遠く離れた実験炉内にて。
トキソは球体上の檻の中へひたすらトリチウムを供給する作業を続けていた。
その作業は一瞬たりとも気が抜けない責任重大な仕事であり、普段は鉄皮面を貫いている彼女も、今は緊張と疲労のせいで身体中から汗を噴き出していた。
胸部にピッタリ巻かれているチューブトップの上着は汗でびっしょり濡れ、臀部を覆うショートスパッツと床の接触面にはちょっとした水たまりができていた。
彼女のスレンダーな体躯、そして着用している露出の高い水着のような格好も相まってか、まるで泳ぎ終えたばかりでプールサイドで小休止している競泳選手のようにも見えた。
トキソは額の汗を手の甲で拭い、熱っぽい溜息を吐く。その溜息は無駄に広く暗い空間へと溶けていった。
今彼女がいる実験炉は核融合発電ユニットのスペアとして扱われている。
スペアの名にふさわしくメインの核融合炉と寸分違わぬ構造で、それを収めるユニットの規格も全く同じだ。
過去、このスペアは軌道エレベーター建造の際のエネルギー供給を一手に担っており、実動歴もそこそこあるので信頼性は高い。
本来は軌道エレベーターの完成後にどこかの国の払い下げられる予定だったが、移転の際にかかるコストや時間、買い取り国同士のトラブルが早々に予見されたため、予備機として宇宙に留まる事になった。
経年劣化で当時の電子機器は全く使い物にならないが、その異常なまでの頑強な炉本体は怪物を封印する檻の役割を十分に果たしていた。
航空機の格納庫並みに広い空間、その中央に鎮座している巨大な金属製の球体。
その球体の真上、トキソは整備用足場の橋上にて片膝を立てて座っていた。
(これは想像以上の苦行だな)
一時たりとも気が抜けない。
まだ一日かそこらしか経っていないのにかなり疲労が蓄積している。
外部からの栄養補給が必要ない自己完結の超人ではあるが、リソースの大半をクロトの封じ込め作業に割いているせいで体力気力集中力の回復が追いつかない状況だ。
筋肉は硬直し、血流は滞り、五感も鈍っていくのが自覚できる。
以前、同胞の冷凍睡眠施設を守っていた時、ラグサラムと呼ばれる地で神経麻痺ガスを垂れ流していたころは特に苦労は感じなかった。なぜなら思うままにガスを放出し続けていればそれで良かったからだ。
しかし今は違う。
適量を適切なタイミングで投入し続ける必要がある。ほんの少しのミスが檻の崩壊のきっかけとなり、暴力の化身、災害に等しい力を持つクロトが復活する。
張り詰めた空気の中、不意に幼い少女の声が響いた。
「お疲れ様です、トキソさん」
幻聴かと思い、トキソは気を引き締めるべく瞼をぎゅっと閉じ、開ける。
「あの、聞こえてますか?」
まだ声が聞こえる。しかも聞き覚えのある少女の声、医務室に軟禁されているはずの少女の声だ。
間違いであってくれ、気のせいであってくれと願いつつトキソは声がしたほうへ顔を向ける。
真横、至近距離、ちょうど頭一つ分低い位置から見覚えのある顔がこちらを覗き込んでいた。
「ティラミス!?」
DEED特有の能力を失ったただの少女。
上目遣いの彼女の黒の瞳には力があり、強い意志と高い知性を感じられた。
幼い顔立ちだがあどけなさは無く、冷静かつ落ち着いた雰囲気を放っている。
そんなアンバランス、異常ともいえる彼女を前にトキソは本能的に危険を感じた。
トキソは凝り固まった体に鞭打ってホルスターに手を伸ばす。しかし、そこにあるはずの拳銃は消えていた。
何のことはない。作業の邪魔になるので入り口付近の棚に置いたのだ。
では素手で殴ろうか。
いや、衰弱してコンディションが悪い私の打撃など蚊ほどの威力もないだろう。
そんなトキソの思考を読んでか、ティラミスは敵意がないことを示す。
「警戒しないでください。心配いりません。私はDEEDの殲滅に協力することにしましたので」
理解が追い付かない。
彼女の思惑も想像できない。
ただ、ここで彼女に構うとクロトへの対応が疎かになる。何が起ころうともクロトの封印作業だけは続けなければならない。
私ができることは彼女に邪魔されないよう祈ることだけだ。
作業に集中するために連絡は最低限で済ませるよう伝えていたが、さすがにティラミスが医務室から抜け出たとなれば玲奈博士から連絡が来ないわけがない。
ティラミスが監視を欺いてここまで来たのか、それとも玲奈博士達を制圧してここに来たのか。
そのどちらかは判断しかねるが、何か異常な事態が発生しているのは確かだった。
「安心してください。もし私に敵意があったなら、今頃あなたは部屋の入口に置き忘れたリボルバーで頭部を破壊されて死んでいます」
ティラミスはさらっと恐ろしいことを言い、細い指先でトキソのこめかみをつんつんと突く。
唖然としているトキソを見てくすりと笑い、ティラミスはトキソの隣に膝を抱えてちょこんと座った。
「私はクロト様をより安全に拘束できる方法についてアドバイスに来たのです」
「アドバイス……?」
「拘束するだけであれば無理矢理に肉体を破壊する必要はないんです」
「そんな簡単な話では……むぐ」
トキソの反論の言葉を手のひらで口元ごと覆って遮り、ティラミスは結論を簡潔に述べた。
「――記憶を奪えばいいのです」
自信満々に言い放ったティラミスは、まるで誰かに乗り移られたかのように抑揚のない声で説明を始める。
「実際、記憶喪失中の彼はほぼ無害だったはずです。しかし、刺激を与えたせいでDEEDマトリクス因子はその活性率を高め、最終的にパイロの調整で完全に記憶と力を取り戻しました。“何もしない”が最も有効な手段なのです」
ラグサラムで会敵した際も大量の腐食霧を浴びせたせいでククロギは力の一端を取り戻した。
ならば、彼女の言葉に耳を傾ける価値はある……はずがない。
適当な理屈をこねてククロギを解放するつもりだろう。こんな稚拙な作戦に私は騙されない。頭ではそう思っていたが……
「具体的にはどうすればいいんだ?」
……気づくと私はティラミスに教えを乞うていた。
判断能力が著しく低下していたことも要因の一つだが、一番の理由はこの精密緻密な重労働を90日も維持できないと確信し絶望していたからだ。
我ながら情けない限りだ。
トキソの言葉を待っていたと言わんばかりにティラミスは身振り手振りで話し始める。
「簡単な話です。記憶喪失とおなじ状況を作り出せばいいだけです。つまり外部から情報を一切与えなければいいのです。インプットがなければ意識すら生まれない。触らぬ神に祟りなしというではありませんか」
筋は通っている。しかし、成功するかどうかは怪しい。
トキソは再度ティラミスに意思確認する。
「仮にその方法が成功したとして、お前にメリットがないだろう。どうして玲奈に協力する考えに至ったんだ」
トキソはティラミスという少女に得体のしれない恐ろしさを感じていた。
十数時間前に見た彼女とはまるで別人だ。
DEED因子によって肉体強化された高い戦闘能力を持つ彼女は間違いなく脅威だったが、今は別ベクトルの不安を感じる。
トキソの問いかけに対し、ティラミスは答えることなく質問を返す。
「……トキソさん、人類にとって最悪のシナリオは何だと思います?」
質問しておきながら、ティラミスは間を置かず正解を述べる。
「それは“滅亡”です。クロト様が我を失い暴走すれば、軌道エレベータは勿論のこと、惑星レベルの災害を引き起こしかねません」
大げさに誇張することなく、ティラミスは淡々と続ける。
「トキソさん、あなたも気付いているはずです。閉じ込めたはいいものの、どう解放すればいいのか。無事に解放できたとして、自分たちが無事でいられるのか。いっそこのまま消し去ってしまえないか」
まさに図星だ。何も言い返せない。
「外部からの刺激の一切を遮断することが最も被害の少ない最善の策なのです。私もこれ以上クロト様が痛めつけられる様を見たくはありませんから……理解いただけましたか?」
思考能力が低下しているせいで考えがまとまらない。
ここで安易に彼女の甘言に流されるのはまずい気がする。
倦怠感が増す中、かろうじてトキソは重要な前提条件について言及できた。
「……この件について玲奈は知っているのか。玲奈の意見も聞いておきたい」
玲奈の存在が意識から抜け落ちていた。
ティラミスからの情報のみではこんな重要な案件を決定できない。
「事実関係も含めて、玲奈と今後の計画について擦り合わせがしたい。私はここから離れられない、ここに玲奈を連れてこい、話はそれからだ」
トキソの確固とした返答に対し、ティラミスは「うーん」と困り顔を見せる。
「玲奈博士は安全確保のためにシェルターに移動しているので今から連れてくるのは難しいです。連絡ならゲイルさん経由で可能かと思いますが、そのゲイルさんも別件対応中ですし……。私としては、トキソさんの集中力が切れる前に1秒でも早く隔離作業を進めたいのですが、信じてもらえませんか」
嘘をついているようには見えない。
ただ、今の彼女の言葉だけでは根拠としては弱い。
……どうしたものか。
しばらく回転しない頭でこの状況をどう収集すればいいか考えていると、不意に
室内スピーカーから重低音のノイズ音が聞こえてきた。
ノイズ音は実験炉内に点在するスピーカーからランダムに流れていたが、数秒もするとトキソの背後、整備通路の昇降機に取り付けられた無線機に到達し、やがてノイズに替わって合成音声が発せられた。
「劣悪な電波環境のせいで手間取ったがこの距離なら問題ないな。聞こえているなら返事をしろ」
それは自律思考AI搭載人型戦闘兵器、ゲイルからの通信だった。
ティラミスが「よく聞こえますよー」と応答すると、ゲイルは先ほどまでのやり取りを聞いていたかのような文脈でトキソに言葉を放った。
「彼女の身柄は私が保証する。ククロギの封じ込め作業についても玲奈博士に了承を戴いている。彼女の言うとおりに進めてくれ」
「そうか……わかった」
ゲイルにこう言われては信じざるを得ない。
まだ気になる点はあるが、方針が決まった以上は文句を言っても仕方がない。
私の集中力が切れる前に早々にティラミスに封印作業を引き継いでもらおう。
……にしても、ティラミスが来るなら先に通知しておくべきだろうに、これだから命令無視のポンコツ鉄屑は嫌いだ。
トキソの苦労も知らないで、昇降機の端末からゲイルの声が響く。
「その部屋、異常な放射線量が検出されているが、大丈夫か」
「大丈夫です。体の頑丈さと戦闘能力の多寡はまた別の話ですから。それよりも
重ねて確認しますが、電波無音暗室は先ほど教えてもらった場所で間違いないですね?」
「間違いない。こちらからも確認だが、封印に失敗した場合、もしくは不穏な行動をとった場合は警告なしで区画ごと宇宙空間にパージするが、いいな」
「はい、任せてください」
ティラミスはよほど自信があるのか、死刑宣告に近いゲイルの言葉に全く動じる様子はなかった。
「ククロギには十分すぎるほど致命傷を与えた。再生には時間がかかるだろうし、もしティラミスの手法で失敗しても宇宙空間に放り出せばいい。さすがのククロギも宇宙空間に放り出せばそう易々と戻ってこれまい」
「宇宙に放り出すって、お前はそれで納得しているのか」
トキソはティラミスの横顔を見る。
少女の顔に憂いはなく、むしろ自信に満ち溢れていた。
「はい、私の方法は絶対に成功しますし、仮に宇宙に捨てられてもお兄様なら問題なく地球に戻ってこられます」
その根拠のない自信はどこから湧いてくるのか、理解に苦しむが“宇宙に捨てる”という安全策があるならダメもとでティラミスに任せてもいいと思える。
玲奈とゲイルのお墨付きとあれば反対する理由もない。
ティラミスの覚悟を知り、トキソも嘘偽りなく状態を伝えることにした。
「本音を言うと、封じ込めてから2日と経っていないが、今にも集中が切れてしまいそうだ。玲奈は90日はこの状態でククロギを足止めできると計算していたが、私の体力や精神力は計算外だったようだ」
喋っている今この間も体の節々が痛い。筋肉や骨が悲鳴を上げている。
「お前の言う通り、私の集中が切れてククロギが復活するのは絶対に避けなければならない。だからティラミス、具体的な指示を頼む」
トキソの全面的な賛成の言葉はティラミスにとって嬉しくあり、ティラミスは満面の笑みで何度も頷いていた。
「わかりました。悠長にしていられませんし、早速始めましょう」
トキソの了解を得たティラミスは、共に作業に取り掛かることにした。
――始まってしまうと早かった。
まずトリチウムの投入を中断して核融合反応を止め、続いて重量制御による空間固定を解除する。
数分後、計測器の数値を見て安全を確認すると、ティラミスはクロトの隔離作業を行うために単独で融合炉内に足を踏み入れた。
厳重にロックされた点検口から内部に入ると、何とも言えない匂いが鼻につく。これまで嗅いだことのない匂い、強いて挙げるなら消毒用の化学薬品と乾いた土の香りを混ぜたような、そんな不思議な匂いだった。
暗い炉内を見渡しているとすぐに目標を見つけた。
それは床面の中央付近に転がっている、ピンポン玉大の焦げた色の球体。……この球体こそがクロトを閉じ込めている特殊な圧縮炉だった。
ティラミスははやる気持ちを抑えながらその球体をゆっくり、優しくすくい上げる。
しかし、焦げたピンボールは不出来な泥団子のようにボロボロと崩れてしまう。
外殻が細かい塵となって崩れていくと、やがて“クロトだったモノ”の姿が露になった。
それはおおよそ生物とは言い難い、ただの黒い物体だった。
ビー玉ほどの大きさのそれはアメーバのように触手を伸ばし、探り探りでティラミスの両手のひらの上で移動を開始する。
「クロト兄さま……」
ティラミスはそのスライムのような物体……クロトの成れの果てを胸元に引き寄せ、安堵と嬉しさのこもった溜息を吐いた。
「ほう、触っても平気なのだな。危険はないのか」
外から聞こえてきたのはゲイルの合成音声だった。
どうやら核融合炉内に設置された各種センサーをうまく使ってこっちの動きを見ているようだ。
ティラミスはクロトの成れの果てを手に乗せたまま返答する。
「危険だなんてありえません。私もクロト兄様と同じDEEDマトリクス因子を持っていますから、味方と認識されて当然です」
「言われてみればその通りだな。しかし、得体のしれない物体を素手で触るとは、中々肝が据わっている」
「それ、誉め言葉になってませんからね」
ティラミスは原形を留めていないクロトを両手で包み込み、外気に触れないようにしっかりと指の隙間を詰めた。
手の内側で微かに動く感触を得ていたが、10秒、20秒も経つと大人しくなった。
ティラミスは両手の形をキープしつつ、入ってきた時と同じ点検口からジャンプして外へ出た。
外では疲労感が拭えないトキソが膝に手を当てて立っており、半開きの瞼からの視線はティラミスの両手に向けられていた。
ティラミスは合わせた両手を軽く掲げ、成功をアピールする。
「これでひとまずは安心です。続けて外壁区域の無音暗室に隔離しましょう」
「ああ、わかった」
事前に計画した通り、ティラミスは場所を変えるべく出口に向けて歩き出す。
しかしトキソは付いてくるでもなく、核融合炉の前から動かず肩で息をしていた。
ティラミスは彼女を気遣い、立ち止まって振り返る。
トキソは同行できない旨を伝えるように微かに首を左右に振り、手の甲をこちらに向けて追い払うようなジェスチャーを見せた。
疲労困憊。体力的に無理のようだ。
無理に同行してもらう必要はないと判断し、ティラミスは再び出口へ足先を向ける。
すると、出入り口のドアの真横に設置されているタッチパネル型インターフェースが起動し、ゲイルの声が聞こえてきた。
「ククロギを復活させて軌道エレベーターもろとも破壊する可能性も考慮していたが、改めて信頼に足ると判断したぞ、ティラミス」
いちいち上から目線の言葉に苛立ちを覚えるも、ティラミスは丁寧に応じる。
「これだけのダメージを受けて即座に復活できるほどDEEDマトリクス因子は万能ではありません。ただ、今後は超高温に晒されて中性子線を大量に浴びても即座に対応できるように学習しているはずです。次に問題が起きた時には平和的解決に努めるよう、強くお勧めします」
「残念ながら、人類はそこまで賢くない。玲奈博士には監視と情報統制を強めるよう進言しておく」
「そうしてください」
ティラミスは適当に返事しつつ、巨大な実験炉から通路へ出た。
次の目的地までそこそこ距離があるし、迷子にならないように気を付けよう。
「大丈夫、大丈夫ですよね……?」
改めて無音暗室までの経路を確認しておいたほうがいいだろうか。
携帯端末で調べようにも両手がふさがっているので不可能だ。
恥を忍んでゲイルかトキソに聞こうかと考えていると、実験室から二人の会話が耳に入ってきた。
「……言い忘れていたがトキソ、疲れているのは重々承知だがククロギ拘束のために使っていた重力制御ユニットを6基、実験炉から取り外しておいてくれ。私も出撃するにあたって万全の状態でいたい」
「自分でやってくれ。私はしばらく動けない」
ヘロヘロの声で答えるトキソだったが、ゲイルは容赦なく要請する。
「自分でできないから頼んでいる。……もし仮にパイロに侵入された場合、この軌道エレベータ付近で戦闘になると大きな被害が出るのは確実だ。それともトキソ、お前がパイロに対処してくれるのか」
ほとんど脅しに近い理不尽な言葉に対し、トキソは深く長い溜息を吐いた。
「……わかった。だが30分だけ休ませてもらうぞ」
「感謝する」
「薄っぺらい謝辞はいい。30分後に私が快適に作業ができるよう、完璧な作業手順書を作っておいてくれ」
ゲイルに文句を言いながら、トキソはふらふらと歩いて壁際まで移動し、ゴツゴツした壁にもたれかかるようにして座り込んだ。
会話だけしか聞いていなかったティラミスだが、オーバーワーク気味のトキソに同情を禁じ得なかった。
彼女にこれ以上頼みごとをするのは本意ではない。
いよいよ困ったら通路にある適当な端末に話しかけ、ゲイルを呼び出せばいいだろう。
ティラミスはなるべく自力で移動することを決め、 エレベーターホールへ歩みだした。




