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自分の無力さをこれほど悔いたことはない。
衛星軌道上に浮かぶ軌道エレベーターの主要区画、その中でも厳重な警備下にある医務室にティラミスは軟禁されていた。
それにしても普通の人間の身体能力の低さには驚かされた。
全てのものが重く感じられ、少し歩くだけで息が上がる。冷たい場所にいるとおなかを壊すし、転倒しようものなら激痛が走る。
どれだけ自分が能力に頼り切っていたか痛感させられる。
それでも目覚めてから今までの15時間は困った事態に陥ることはなかった。
律葉は相変わらず眠ったままだが、呼吸は穏やかで顔色もいい。
不満があるとすれば、外の状況を全く把握できないという点に尽きる。
ドアは固く閉ざされ、通信機器も見当たらない。バイタルサインに異常があればすぐにでも人が駆けつけてくるだろうが、人為的にモニタリング機器を壊すのは最終手段だ。
医療機器を壊したせいで律葉に何らかの悪影響をあたえることになれば本末転倒だ。
今はおとなしく待つしかない。
もどかしいが、非力な自分にはこれ以外の選択肢はない。
(今の私にできることって……あ)
無力な少女、ティラミスは頭の中でアイデアを得、その可能性を確かめるべくベッドから離れて部屋の中央に立つ。
身体能力が低下したからといってこれまでの戦闘経験を失ったわけではない。
今の体に慣れさえすれば、大人一人くらいを制圧するのは難しくない……かもしれない。
習得した技術は体が覚えている。
戦闘における身のこなしや注意すべき予兆、必要な情報に不要な情報、そして道具の扱い方などなど。
これらを実践で身に付けているのだから、一般人程度には余裕をもって勝利できるのではなかろうか。相手が格闘経験者でも、体格差を考慮しても、クロイデルを相手にしてきた私にとっては驚異足り得ない。
物は試しだ。
ティラミスは拳を軽く握り、肩の力を抜き、顎を引いて背筋を伸ばし、足を軽く開き、つま先にかかる重心を意識して自然に構える。
そして時間をかけてゆっくり鼻から息を吸い込み、倍の時間をかけて吐き出す。
これを数回繰り返して呼吸を整える。
体の準備ができると、ティラミスは何もない空間に向けて攻撃を放った。
「ッ…….!!」
正面に向けて鋭い正拳、続けざまに上段蹴り。
動きは洗練されており、掲げた脚はピタリと止まっていた。
「いてて……」
筋肉に結構な負荷がかかったようだ。
体の節々に多少の傷みを感じたが、バランスを崩すことなくきれいなコンボを放つことができた。が、頭で思い描いている動きとは程遠い出来栄えだった。
あと、“力をセーブする”という本能的な枷が緩んでいる感覚も得た。
前のように大きな獲物をなぎ倒すようなことはできないが、練習すれば普通の人間よりは力を出せるだろう。
今は何もできないが、体を慣らしておくことはできる。必ず何かの役には立つはずだ。
それに体を動かしていると気分がいい。滅入った気持ちも少しは晴れるように思える。
……そんなこんなで病室内で動き回っていると息が上がってきた。
いったん休んで水分補給でもしよう。
そう考えた瞬間、ベッドから声を掛けられた。
「誰かと思ったらティラミスだったのね」
ベッドの上、仰向けのまま枕の上で首をこちら側に倒し、掠れた声を出したのは律葉だった。
彼女は起きたばかりのようで、瞼は半分開いておらず、焦点も定まっていなかった。しかし顔色は良く、怪我の後遺症などはないように思えた。
「目が覚めたのですか!? 体は大丈夫ですか?」
ティラミスはベッドの脇に駆け寄って床に膝をつき、上半身の大半を投げ出して寄りかかり、目線を律葉に合わせる。
心配そうに見つめるティラミスを見て、律葉は小さく笑みを浮かべた。
「静かな室内で飛んだり跳ねたりしていたら誰だって起きるでしょ。それが見覚えのある美少女ならなおさらのことよ」
「美少女なんて、そんな……」
律葉は点滴の針が刺さった左手を持ち上げ、シーツに顎をつけているティラミスの頭を撫でる。
少し汗で湿っていたが、律葉にとっては不快でなく、むしろ心地の良い温かさだった。
ティラミスは満足げに目を閉じ、ひんやりした律葉の手のひらの感触を味わっていた。
そんな至福の時間は10秒と経たずに終わってしまう。
「それはそれとして、結構記憶が曖昧なんだけれど、色々と教えてくれない?」
律葉は「よいしょ」という掛け声と共に後ろ手に両手をついて上半身を持ち上げる。
「ここが軌道エレベーター内の医務室なのはわかるけど。ティラミスの肌の色とか、あの無人島で何があったのか、分かる範囲でいいから……あ」
体を起こしている途中、不意に律葉の体から力が抜けて背中からベッドに倒れた。
ティラミスは咄嗟に律葉の体を支えるべく背中に腕を回す。……が、腕力がまるで足りず、結果として律葉の胸元に顔を埋める形で一緒に倒れこんでしまった。
ベッドと背中に腕を挟まれたティラミスは身動きが取れず、「すみません」と謝ることしかできなかった。
それにしても柔らかい。
私にはない柔らかさだ。
羨ましいとは思わないが、欲しいか欲しくないかと聞かれたら絶対に前者だ。
律葉様はことあるごとに私を抱きかかえて膝の上に座らせ好き勝手愛でながら「髪サラサラでいいなあ」、「いい匂いだなあ」、「肌すべすべでいいなあ」などと褒めてくれているが、私には律葉様の包容力のほうが魅力的に思える。
これが俗にいう“無い物ねだり”、“隣の芝生は青くみえる”という現象なのだろう。
そんなことを考えていると律葉が体を傾け、ティラミスの腕は圧迫から解放された。
名残惜しくもティラミスは律葉の胸部から顔を離し、ベッドからも離れた。
律葉も意識がはっきりしてきたようで、今度は危なげなくベッドの上に腰を落ち着けて座った。
律葉は「ふう」と一息つくと乱れた病衣を整え、周囲を見渡す。
その視線は部屋の設備や室内に取り付けられている監視カメラや出入口のスライドドアなど忙しなく多方に動いていたが、ティラミスの体を見て止まった。
律葉は病衣姿のティラミスをじっくりと観察したのち、注意を促す。
「その格好は……監視カメラもあるし、どうにかしたほうがいいわね」
「格好ですか......?」
ティラミスは不思議に思いつつ自身の体に視線を落とす。
そこには汗によって服が張り付きあらわになっているボディライン、次いで透け見えている下着、そして病衣の裾から汗まみれの太ももが見え隠れしていた。
普通の女性なら不特定多数の人間に身体を見られるのは不快に感じるだろう。
しかしティラミスは普通の考えの持ち主ではなかった。
「大丈夫です。見られても恥ずかしくない外見ですので」
「そういうことではなくて……」
苦笑する律葉にティラミスは冗談ではなく、まじめに答える。
「律葉様の言わんとしていることはわかります。でも、私はこれよりもっとひどい服で、ズタボロの布を被ったような格好で見世物にされた経験があります」
「見世物……」
「だから、そういうのにあまり抵抗がないのかもしれません」
「ごめんなさい、嫌なことを思い出させてしまったわね。配慮が足りてなかったわ」
淡々と自己分析するティラミスを律葉は再度抱きしめる。それは先ほどのような偶発的なものではなく、愛情の籠った抱擁だった。
いい香りがする。
香水や芳香剤とは違う、人間が本来持っている原始的な香り。不安定な心を落ち着かせてくれるやさしい香り。
「律葉姉様......」
ティラミスは甘んじて抱擁を受け入れ、自身の経歴について考える。
浜辺で発見された当初は目覚めたばかりで記憶も混濁して精神状態も不安定だったので状況を受け入れるしかなかった。
見た目も“ヒトガタ”と呼ばれる外敵に酷似していたためぞんざいな扱いを受けたのも理解している。
ケナンの街ではクロイデルと闘わされて見世物にされた。
彼らが悪いとは思わない。外敵から襲われる不安と日頃からの怒りを鎮めるために、ああいう娯楽が必要だったに違いない。
なまじ体が頑丈で怪我の治りも早かったので見物人の嗜虐心を満たすには好都合だったのだろう。
それでも痛いものは痛いし、理不尽な暴力から逃げたい一心だった。
そんな窮地から私を助け出してくれたのがクロト兄様である。
救世主であり敬愛してやまない兄のことを想っていると、自然と言葉が漏れ出ていた。
「クロト兄様になら今の姿どころか裸体を見せても恥ずかしくありません」
「ティラミス!?」
律葉は素っ頓狂な声を上げて顔を赤くしていた。
「それはダメ、絶対にダメだからね。色々問題になるというか犯罪だから!!」
「そんなに駄目なことでしょうか。クロト兄様に求められれば律葉姉様も見せるのでは?」
律葉は目を泳がせ、自身の体を見て、耳まで赤くなっていた。
本当に可愛らしい人だ。クロト兄様が好きになったのも理解できる。
「……はい、もうこの話は終わり。それより状況説明」
律葉は気持ちを切り替えるように手を叩き、話題を戻す。
「せめて真人の安否くらいは知りたいけれど、ティラミスは何か聞いてない?」
「クロト兄様は……」
玲奈の策によって封印されてしまった。
相当に高度な技術が用いられているらしく、生きてはいるものの身動きが全く取れない状況下にある。
どう説明したものか、ティラミスが頭の中で相談していると、唐突に病室のドアが開いた。
「――真人はちゃんと生きてるわよ」
シンプルな答えを携えて室内に足を踏み入れたのは白衣に黒のロングヘアーが似合う女性、佐竹玲奈博士だった。
後ろ髪は膝裏に届くほど、前髪は目を覆い隠すほど長い。
いつもは猫背気味で大人しい雰囲気の彼女だが、今は髪も服も乱れており、息も上がっていた。
「覚醒したと通知が来て、慌てて来てみれば……呑気に女子トークしてるんじゃないわよ。緊張感に欠けるわ、全く」
急いで走ってきたようで、玲奈は言葉を何度も何度も区切って喋っていた。
律葉はクロトが生きていると知って安心し、安堵の表情を浮かべたが、その顔を玲奈に見せることなく応じる。
「呑気じゃなくてポジティブと言ってほしいわ」
「減らず口を叩く元気があるなら大丈夫そうね」
玲奈はティラミスの隣を通り抜け、律葉が座るベッドの頭側…...数種類の医療機器が置いてある場所まで移動する。
あまり彼女を律葉に近づけたくないティラミスだったが、律葉自身に警戒の色が見られないため静観することにした。
それに、私から今の状況を説明するよりも当事者同士で話し合ったほうが効率的に違いない。
玲奈は息を整えた後白衣のポケットを探り、紙袋を律葉に手渡す。
「はいこれ、トキソから預かってた抗生剤と抗炎症剤と、あと痛むなら鎮痛剤もってさ」
「これはどうも」
律葉は薬をうやうやしく受け取り、中身をちらりと確認してから枕元に置く。
その動作の途中、不意に思い出したかのように律葉は玲奈に詰問する。
「薬といえば、もしかしてティラミスの体の変化……アンチDEED薬を投与したの?」
真剣な問いに対し、玲奈はあっけらかんと答える。
「うん、無力化するために必要な措置だったし」
「あの危険な薬を……あり得ない」
律葉はため息交じりに首を左右に振り、憐憫の目をティラミスに向ける。
心配されるのは嬉しいが、そこまで深刻な問題だと自覚していなかった。そもそも安全を期するなら“無力化”でなく“処分”されていたはずだ。
心から心配してくれている律葉を安堵させるべく、ティラミスは胸元でガッツポーズを作って健康アピールをする。
そんな可愛い仕草を見て律葉は小さく頷いた。
心に余裕ができた律葉は、情報を得るべく玲奈との会話を進める。
「……で、ここに顔を見せたのは薬を渡すためだけじゃないでしょ」
「そうだったそうだった」
玲奈博士はタブレット端末を取り出して2,3秒操作してからその画面を律葉に見せる。
そこには近衛律葉名義でクロイデルプラントに指示を出した旨の報告文が記されていた。
「事後報告で悪いけれど、人体認証キー、勝手に使わせてもらったから」
律葉は報告文に目を通すと重いため息を吐く。
「はあ……もう好きにしてよ」
そのままベッドに横になり、体の右側が下になるように寝返りを打った。
そして、ティラミスと玲奈から顔を背けた状態で律葉は静かに警告する。
「玲奈、怪我人は私で最後にしてね。あと、あなたが始めたことなんだから、最後まで責任を取るのよ。途中で投げ出したりしないでね」
「言われなくてもやり遂げるつもりよ」
「そう、それなら頑張って」
律葉の意外な応援に、玲奈は少し驚いていた。
「応援してくれるんだ。てっきり怒ってると思ってたんだけれど」
律葉は「もちろん怒ってる」と前置きをして仰向けになって玲奈を見上げる。
「怒ってはいるんだけれど、玲奈を責めきれないというか……今まで喧嘩はたくさんしたけれど、ここまでの規模になると感覚がおかしくなっちゃうわ」
「まあ、人類の存続にかかわることだからね」
玲奈は一呼吸置き、ベッド横の医療機器に手を伸ばし、パネルを操作し始める。
「とにかく、この病室にいれば安全だから絶対に出ないように」
「それはわかってるけど、真人とは会えないの?」
「しばらくは無理かもしれないわね」
「それってどのくらい……なの……」
律葉は言葉の途中で意識を失い、脱力するとすぐに寝息を立て始めた。
「お休み律葉、いい夢見てね」
どうやら玲奈が何らかの処置を行ったようで、医療機器のパネルを操作し終えると律葉にブランケットを被せた。
玲奈は続けてティラミスに声をかける。
「なにか欲しいものはある? 読書が好きって聞いてるけど」
玲奈はベッド横に佇むティラミスに近寄り、肩に手を置く。
「おかまいなく」
ティラミスはその手を振り払い、敵意の視線を玲奈に向けた。
「律葉様はフレンドリーに接していましたが、私はあなたのことが嫌いです。絶対に許しません」
玲奈はふふっと笑い、懲りずにティラミスの頭に手を乗せる。
「こんな状態で凄まれてもねえ」
「……」
不快感を覚えたティラミスは玲奈の手を退かそうと白衣ごと掴むも、それ以上のことはできなかった。
今もこの場所は監視されている。
一時の感情で余計な騒ぎを起こすのは明らかな愚行である。
ここは我慢してやり過ごすしかない。
玲奈はティラミスの髪をくしゃくしゃと撫で回すと満足したようで、病室の出口へと向かう。
「そういえば聞いてなかったけれど、そのティラミスって名前、どんな由来があるのか聞いていい?」
不躾な質問に、ティラミスは乱れたショートカットを手櫛で整えながら応じる。
「私はケナンの浜辺で狩人に発見され捕縛されたのですが、後日改めてその場所を検分したところバッグを見つけまして、それに“ティラミス”と印字されていたのでとりあえずの名前としてクロト様がつけてくれたのです」
「へえ……そうだったの」
あちらから質問した割には興味のなさそうな反応だった。
彼女なりにコミュニケーションを取ろうとしているのだろうが、こちらからすれば不快以外の何物でもなかった。
「もういいから出ていってください。私に構っていられるほどの余裕が今のあなたにあるとは思えないのですが」
ティラミスがそう言ったタイミングで玲奈の懐から小さなコール音が鳴る。
玲奈はタブレット端末を取り出し、表示されている各部門からのリクエストリストを見て悩ましい表情を浮かべた。
「片付けても片付けても次から次へと……はぁ」
玲奈は重いため息を吐くと、タブレット端末を手に持ったままスライドドアを開き、病室から出ていった。
ドアが閉まった後、しばらく響いていた靴音もどんどん小さくなり、やがて病室は静寂を取り戻した。
聞こえるのは機械の僅かな駆動音、そして穏やかな律葉の寝息のみ。
静かな病室内で、ティラミスは床を見つめて独り呟く。
「……待っていて下さい、クロト兄様」
今までの私はクロト兄様に助けられ、守られるだけの存在だった。
だけど今からは違う。私がクロト兄様を助ける番だ。
ティラミスはドアに対して額が擦れるほどの至近距離にしゃがみ込み、目を閉じて動かなくなる。
傍から見ると意味不明で理解不能な行動である。
しかし、ティラミスに一切の迷いはなかった。




