009 蹂躙
009
クロトがミソラに発見された場所から山を登ること2時間
二人はようやく目的地、渓谷を挟んで向かい側の峰に到着していた。
「ようやくついたわね」
「はぁ……はぁ……」
汗もかいていなければ全く息も乱れていないリリサとは対照的に、クロトは疲労困憊状態で、体中から汗が吹き出し、そして毛皮の服は黒い血でべっとりと汚れていた。
……道中は大変だった。
唯でさえ道が険しいのに、それに加えてディードの群れが5回も襲ってきたのだ。
クロトは5回ともククリナイフを振り回して牽制することしかできず、結局、全てリリサが螺旋の槍で全てのディードを殺してしまった。
“狂槍”と呼ばれることだけはあって、リリサの槍さばきは実に見事だった。
リリサは長くて重い槍を自分の手足のように自由自在に操り、とても速く、それでいて正確にディードの急所を貫いていた。
流れるような連撃も実に見事で、リリサの技は芸術的でさえあった。
リーチの長さに加えてスピードもあるし、もちろん威力も充分ある。
素人目から見ても、間違いなくマスターレベルの実力の持ち主であることは間違いなかった。
ただ、連携が苦手だというのは本当の話のようで、リリサはクロトの位置などお構いなしにディードに攻撃し、そのせいでクロトはディードの返り血を嫌というほど浴びせられてしまった。
まあ、何だかんだで生きているのだからそれで十分だ。
道中のことを思い返している間、リリサは早速峰の岩場、大きく抉れている地点を散策していた。
「これ、自然にできた感じじゃないわね……」
「そうですね」
本来なら緩やかなカーブを描いてるはずの峰の一部は、綺麗にVの字に抉れていた。
その場所だけ不自然に大きく抉れている。何か硬い物体が高速で通過したような、そんな印象を受けた。
クロトは元いた場所を見下ろす。
下から見た時と同じく、3本の折れた木とこの場所は一直線になっていた。
自分が空から飛んできて、この峰の一部を貫通し、木をなぎ倒して地面に追突した、と予測するのが自然だった。
が、クロトはその事実を到底受け入れられなかった。
親父さんからは石頭とは言われているが、本物の岩と激突したら色々とぶちまけてしまうに違いない。
おぞましい想像をしていると、不意にリリサが声を上げた。
「ねえ、あれ……見える?」
リリサはクロトとは違い、下ではなく上を見ていた。
折れた木と抉れた峰を結んだ直線上、澄み切った空にはキラリと光る物体が浮かんでいた。
「綺麗でしょ? あの星、『カラビナ』って言うのよ」
「あれは……」
クロトは目を細め、じっくりとその星を観察する。
歪な形だが、直方体が幾重にも重なっているようにも見えるし、規則性がある。
「……ん?」
そして、よく見るとその歪な星からは上下に光る線が飛び出ていた。
その線は延々と続いていており、一方は天上に、もう一方は地上に伸びていた。
明らかに人工物だ。
……と、悟った瞬間、クロトはその歪な星と上下に伸びる線が何であるかを理解した。
「軌道……エレベーター?」
実物は見たことがないが、何かの本で読んだことがある。
軌道エレベーターでないにしても、高度な文明によって造られた物なのは間違いなかった。
「は……ははっ」
クロトはこの世界で唯一の希望、自分との接点を発見し、思わず笑みがこぼれてしまう。
ここは異世界だ。が、あの軌道エレベーターは自分の世界との接点であることは間違いない。
ディードとかいう化物に、おかしな世界地図に、未開の文明……まだまだ謎は多い。
だが、記憶さえ取り戻せば、なぜ自分がこの世界にいるのか。そして、自分の世界に戻る方法を発見できるかもしれない。
保証はない。が、右も左も分からない異世界で見つけた唯一の手掛かりだ。
可能性にかけるしかない。
「どうしたのクロ、いきなり笑い出して……」
「アッドネスさん、あれは間違いなく人が造ったものです」
「人が……星を造った?」
リリサは小馬鹿にしたような顔でクロトを見る。しかし、クロトの真剣な眼差しをみて、それが冗談で言っていることではないことを理解したようだった。
クロトは決心する。
「僕はあそこに行きます。記憶の手掛かりはあそこにあると思います」
「待って待って、じゃあ私の父も……」
「手掛かりは必ず見つかると思います」
軌道エレベーターに行って記憶が戻る保証はない。が、何か手掛かりを得られるのは確かだ。
今の自分にはあの軌道エレベーター以外に頼るものがないし、目指すものもない。
僕はあそこを目指す。
――自分の記憶を取り戻すために。
そんな決心を胸に抱いていると、遠くから複数の叫び声が届いてきた。
「――!!」
詳しい内容は分からない。
しかし、緊迫した状態にあるのは理解できた。
リリサは耳を立て、声がした方向へ穂先を向ける。
「討伐、始まったみたいね」
槍の先、山の斜面、少し開けた場所に黒くて大きな物体を確認できた。
それは超大型のディードだった。
つい先日噴水広場で見た大物とはわけが違う。遠くから見ても詳細がわかるほどの巨体だった。
形状は犬……いや、虎といった方がいいだろうか。もちろん全身真っ黒だ。
ただ、その虎には鋭い翼が生え、長い尾の先には鋭い剣が確認できた。
かなり興奮しているようで、翼を激しくはためかせ、長い尾を鞭のように振るっている。
大きさは……全長10mはあるだろうか。狩人たちと比べるとその大きさがよく分かる。
狩人達は果敢にその巨体に切り込んでいくも、ことごとく弾き飛ばされていた。
……あんなのに勝てるわけがない。
峰から戦闘の様子を眺めていると、リリサが呟いた。
「行くわよクロ」
「行くって……ええ!?」
クロトの言葉をよそに、リリサは螺旋状の槍を脇に抱え、峰を降り始める。
「多分あのままじゃ全滅するわ。助太刀するわよ」
「……頑張ってください」
クロトは一歩も動かず、にこやかに手を振ってリリサを見送る。
が、リリサは引き返してきてクロトの腕を掴んだ。
「あんたもくるのよ」
「僕なんか役に立ちませんよ!?」
「囮くらいにはなるわ」
「……」
クロトの引きつった顔を見て、リリサは笑い声を上げる。
「あはは、冗談よ」
そして本当の理由を告げる。
「この場所もディードのテリトリー内。ここで一人で待っていたら確実に襲われるわ。だから連れて行くの」
「でも、あっちに行ったら行ったで危ないんじゃ…‥」
「安心しなさい。父に繋がる大事な手掛かりを死なせはしない。少し離れた場所で見てなさい」
「よかった……」
とりあえずリリサの後ろにいれば命の危険はなさそうだ。
せっかく軌道エレベーターという重要な手掛かりを得たのだ。そう簡単に死んでいられない。
少女に守られるなんて情けない話だが、やはり自分の命が一番大事なのだ。
「……」
それから戦場に到着するまで、クロトは黙ってリリサの後を付いて行った。
走ること10分
山間部の少し開けた場所、超大型ディードと狩人たちの戦いは熾烈を極めていた。
(でかい……)
遠くから見ても大きかったが、至近距離で見ると本当に大きい。視界に入りきらない。
「うおおあぁ!!」
「でやああぁぁ!!」
狩人たちは重装備に身を包み、鎚や大剣を振り回す。
どの攻撃にもスピード、重量感、そして何よりキレがあり、クロトの目から見ても達人の一撃に違いなかった。
が、その攻撃は黒くて厚い毛皮の前にはあまり意味を成さないようで、ほとんどの攻撃が弾かれていた。
攻撃した狩人たちはディードの翼に押し飛ばされ、鋭い尾に刺され、硬い牙に噛まれる。
手練とあってどれも致命傷には至らなかったが、狩人たちが劣勢なのは傍目から見て明らかだった。
そんな狩人とは違い、巨大虎型ディードは無傷だった。体力も消耗していないようで、翼を激しくはためかせる余裕すらあるようだった。
持久戦では不利になる。
そう判断したのか、大剣を持った狩人が果敢に攻めて出た。
「頭行くぞッ!!」
大剣を持った狩人は速度を上げ、ディードの真正面から突っ込んでいく。
ディードの急所は他の獣同様、頭か心臓だ。
頭を狙って一気に勝負をつけるつもりのようだ。
狩人は高く飛び上がると大剣を真上に振り上げ、攻撃の体制に入る。
あの高さから振り下ろされれば、いくらディードといえど大ダメージは免れないはずだ。……が、大剣の狩人よりも虎型ディードの方が速かった。
「!!」
虎型ディードは首を上に伸ばし、大剣ごと狩人に噛み付いたのだ。
「ぐっ……はッ!?」
体に牙がめり込み、狩人は盛大に血を吐く。
だがそれで終わるわけもなく、狩人は強靭な顎によって噛み砕かれ、体を分断されてしまった。
噛みちぎられた体はぼとりと地面に落ち、臓物と鮮血を撒き散らす。
金属製の大剣もあり得ないほどぐにゃりと曲がっており、圧倒的な戦力差を象徴しているようにも思えた。
「よくもッ!!」
狩人が殺され冷静さを欠いてか、続いて3人の狩人が一気にディードに飛びかかる。
リリサはその3人に向けて叫ぶ。
「待って!!」
しかし、その叫び声も虚しく、3名の狩人は鋭い翼に両断され、尾の先で貫かれ、凶悪な爪に切り裂かれてしまった。
あっという間に4人の狩人が死に、狩人たちに恐怖が伝播し始める。
いくら手練の狩人でも、仲間が4人も殺されては冷静さを保っていられない。
残った7名の狩人は武器を構えたままディードから距離を取り、完全に及び腰になっていた。
そんな中、果敢に攻めに出たのはリリサだった。
「それじゃ、行ってくるわ」
クロトに軽く告げた後、リリサは体勢を限界まで低くし、地をはうようにダッシュしてディードに接近していく。
ディードはそれに素早く反応し、長い尾を振り払う。
しかしリリサはその尾を前に飛び込んで回避し、攻撃圏内に入るやいなやディードの脇腹に槍を突き立てた。
鋭く突き出された槍は何とか厚い皮を貫通し、黒い血を吹き出させる。
それは、狩人たちが虎型ディードに与えた最初の一撃だった。
この一撃が戦場の雰囲気を一気に変えた。
今の今まで及び腰だった狩人たちはリリサの攻撃に続くように虎型ディードに飛びかかっていく。
数にして7人。
途中、2名ほどは尾の薙ぎ払いで吹き飛ばされてしまったが、それでも5名の刃はディードの体に、四肢に届いた。
四方八方から攻撃を受け、虎型ディードは悲鳴に近い鳴き声を上げる。
この声が狩人たちの戦意を更に高揚させ、リリサを筆頭に狩人たちはディードに張り付いて攻撃を続ける。
リリサの槍は腹部を中心に数か所に穴を開けて黒い血を流させ、他の5名も刃や鎚で確実にダメージを与えていた。
(すごい……)
まさに大捕り物だった。
リリサを含めた8名の狩人は付かず離れずディードに攻撃を加え、確実にダメージを蓄積させていた。
ディードが暴れる度に黒い血が周囲に大量に散り飛び、草木や地面を黒く塗りつぶしていく……。
動きも鈍くなり、どんどん狩人たちの攻撃が通るようになってきた。
このまま行けば勝てる。木の影に隠れつつ、クロトはそう思っていた。
……しかし、狩人の攻勢もここまでだった。
「ガアアアァ!!」
虎型ディードは狩人たちの攻撃に激高し、叫び声とともに大きく羽を羽ばたかせた。
その風圧は周囲の木々をなぎ倒すほどで、狩人たちは風に舞う枯れ葉のごとく四方に飛ばされてしまった。
宙を舞った後、狩人たちは木々に体を強くぶつける。
間接的なダメージだったが、彼らにとっては致命傷だったようだ。
全員がうまく受け身を取れなかったようで、狩人たちは背中や腹部を強く打ちつけ、木の根元でうずくまっていた。
その中にリリサも含まれていた。
「う……」
リリサは幹に強く背を打ち付け、そのまま地面にうつ伏せに倒れる。
螺旋状の槍も手から離れ、少し離れた場所に落ちていた。
「グルル……」
虎型のディードはこれを好機と捉えたのか、木の根元で膝を付いている狩人に尾の先を向けた。
尖った尾は一瞬で狩人に到達し、その後方にある木ごと貫いた。
狩人の胸部には大きな穴が空いており、間違いなく絶命していた。
「……!!」
虎型ディードは尾を抜き取る。
その黒い尾には真っ赤な鮮血がねっとりと付着していた。
この時、クロトは虎型ディードが不敵な表情を浮かべたように思えた。
そんなことを感じて間もなく、ディードは近くの狩人に標的を変え、先ほどと同じように鋭い尾で狩人を刺し殺す。
二人目は頭部をかち割られ、首から血が噴水のように吹き出ていた。
三人目は大剣の太い刃で尾をガードするも、一撃目で剣を弾き飛ばされ、二撃目で上半身と下半身を分断されてしまった。
残り五名……
先程までの優勢がまるで嘘のようだ。
……もはや狩人たちに勝ち目はなかった。
もう逃げるしかない。
そう思うと同時にクロトはリリサに向かって駆け出していた。
「くそ……!!」
どんどん殺されていく狩人を目の端に捉えつつ、クロトは木の影から飛び出てリリサの元へ向かう。
せめてリリサだけでもこの場から連れて逃げ出そうと考えたのだ。
数秒も走るとリリサのもとに到着した。
リリサは木の根元でうつ伏せになって倒れており、どの程度の怪我を負ったのか判断できなかった。が、微妙に腕や足が動いており、何とか立とうとしていた。
意識があるのは間違いなかった。
「逃げますよ、アッドネスさん!!」
クロトは一方的に告げ、リリサの腰に手を回す。そして、力を込めて持ち上げ、肩に担いだ。
意外にもリリサは軽く、そして柔らかかった。やはり狂槍と呼ばれていても少女には変わりないのだ。
……と、感触を堪能している場合ではない。
クロトは虎型ディードから逃げるべく、緩やかな斜面を駆け下りていく。
「グルル……」
ふと振り返るとディードの眼はこちらに向けられていた。
どうやらこの場から一人も逃がすつもりは無いようだ。
ディードは狩人の惨殺を中断し、クロト目掛けて近づいてきた。
「嘘だろ……」
クロトは前を向き直し、必死に走る。
しかし、巨体のディードの歩みはクロトの全速力よりも遥かに速く、あっという間に追いつかれてしまう。
ディードが近づくに連れ、地面は大きく揺れ、おぞましい息遣いが耳に届いてくる。
(もう、かんべんしてくれ……)
それでもクロトはリリサを手放すことはなかった。ここでリリサを囮にすれば逃げきれるかもしれない。が、それは人としてやっていいことではない。
ましてやリリサはこれまでディードの群れから自分を助けてくれた、ある意味命の恩人だ。捨て置いていくなんて選択肢はあり得なかった。
そんな選択を、クロトはすぐに後悔することになる。
「うわっ!?」
風を切る音が聞こえたかと思うと、唐突に足に衝撃が走り、クロトはリリサと共に豪快にこけてしまった。
それは、虎型ディードの長い尾による足払いだった。
勢い余ってクロトは3回ほど前転してうつ伏せに倒れ、投げ出されたリリサは横回転してまたしても木にぶつかった。
体中をめぐる痛みに耐えつつ、クロトは顔を上げる。
そこには迫力満点の真黒で巨大な獣の顔があった。
瞳は真っ赤に染められ、口からは大きくて鋭い牙がずらりと並んでいる。
「あぁ……」
クロトは死を覚悟した。
しかし、ここでもまたクロトは自分でも驚くほど冷静さを保っており、現在置かれている状況を客観的に分析していた。
虎型ディードはクロトから視線を逸し、リリサに向ける。
明らかにひ弱そうな自分を殺すより、狩人のリリサを先に殺しておいたほうがいいと判断したのだろう。
ディードは大きな口を開き、倒れているリリサに向かっていく。
あの牙に噛まれたら命はない。
どこを噛まれてもリリサは……死ぬ。
「――!!」
彼女はここで死んでいい人間ではない。そして自分もまた、こんな所で死ぬわけにはいかない。
自分は自分の記憶を取り戻すため、あの軌道エレベーターに向かうのだ。
こんな所で……命を終わらせるなんてあり得ない。
そのことを自覚した瞬間、クロトは自分の中で何かが変化するのを感じた。
「う……」
先程まで静かに波打っていた心臓が不気味なほど高鳴り始め、体中に激しく血を送り始める。
肌がピリピリし、体中の筋肉が痙攣し、全身総毛立つ。
瞳が、黒から赤へと変色していく。
脳内がある感情に染められていく。
その感情は……憤怒だった。
「やめろォォ!!」
気づくとクロトは叫び声を上げ、次の瞬間にはディードに向かって駆け出していた。
距離にして20m
クロトの声に反応し、虎型ディードは鋭い尾をクロトに向け、素早く突き出す。
しかし、クロトのスピードは常軌を逸しており、いとも簡単にその尾を回避した。
クロトが足を踏み出す度に硬い地面は抉れ、後方に土を撒き散らす。
刹那の間にクロトは虎型ディードの顔の側面に到達し、舞い上がった土が地面に落ち切らないうちに顔面めがけて拳を放った。
瞬間、空気の壁を破るぱんっという小気味のいい音が響き、少し遅れて重厚な打撃音が山林に響き渡った。
拳を受けたディードは首がネジ切れるかと思うほど首を仰け反らせ、頭につられて体もふわりと宙に浮かぶ。
虎型ディードは空中で1回転し、そのまま木をなぎ倒しながら20mほど吹き飛んだ。
……普通の人間が普通に拳で10mもの巨体を遠くに吹き飛ばした。
それは、あり得ない光景だった。
しかし、クロトはそんなことを考えられるほどの余裕がなかった。
「――!!」
クロトは拳を振り切った後、間髪入れず虎型ディードに襲いかかる。
今度は拳で殴るのではなく、地面に転がっていた尾をぐわしと掴んだ。そして、両腕でしっかりと尾を握り締めると、力を込めて両側に引っ張り、いとも容易く引きちぎってしまった。
瞬間、黒い鮮血が周囲に散り、クロトはその血を浴びで真っ黒になる。その姿はまるでディードそのものだった。
毛皮で覆われた尾は4分の1ほどの長さになり、断面からは黒い血がとめどなく流れていた。
これには虎型ディードもたまらなかったのか、悲痛な鳴き声を上げた。
鳴き声が響く中、クロトは尾を後方に投げ飛ばし、高く跳び上がる。
そして、狼狽えている虎型ディードの背に乗った。
「……死ね」
クロトは低い声で告げる。
ディードはその言葉の意味を理解したのか、それとも単に恐怖に体が支配されたのか、一瞬動きが止まった。
その隙にクロトは腕を高く振り上げ、指先を綺麗に揃えるとディードの背中目掛けて貫手を放った。
クロトの手は抵抗を感じさせることなくディードの背中から体内に侵入し、二の腕辺りまでめり込む。
ぐずり、とグロテスクな音が響く。ディードは更に苦痛の鳴き声を上げる。
そんな雑音を気にも留めず、クロトは背骨を直に掴む。
そして、しっかりと握り締めると思い切り引き上げた。
……周囲の肉が盛り上がり、背骨が抜き出されていく。
ディードは野太い悲鳴を上げ、痛みに耐えかねてか、体をよじる。
それでもクロトは手を緩めず、一気に背骨を引き上げた。
「ダアアァ!!」
クロトは叫ぶと同時に、ディードの背骨を一息に抜き取った。
背骨は首元から背中、尻に掛けて抜き取られ、黒い骨が顕になる。
クロトは巨大な節が連なって構成されているそれを天高く掲げ、地面に投げつけた。
背骨は地面とぶつかると鈍い衝突音を発し、重量感を感じさせるようにゆっくりとバウンドした。
もはや虎型ディードは鳴き声を上げる事すら出来なかった。
少し遅れて血が背中から吹き出し、雨のごとく周囲を黒く塗りつぶしていく。
超大型のディードは力が抜けたように体を傾け、重力にゆっくりと引かれ、重苦しい音とともに地面に倒れた。
その音を最後に、山の斜面には久方ぶりに静寂が訪れた。
……まさに一瞬の出来事だった。
クロトはディードから降り、ディードの亡骸の傍らに立ち尽くす。
目の前には超大型の虎型ディードの亡骸。横にはそのディードから抜き取った巨大な黒い背骨。そして後方には引きちぎってまだ痙攣している長い尾。
「……」
クロトは数分経ってようやく冷静さを取り戻し、単純な疑問を口に出す。
「僕は……何だ?」
クロトは自分の手のひらを見つめる。両手とも黒い血にまみれていた。
自分は今、常軌を逸した力でディードを殺した。
何故そんなことができたのか……クロトはその理由を考えようとする。
が、思考は全くまとまらず、それどころかクロトは糸が切れたかのように地面に倒れた。
そして、間もなくして気も失った。
(何なの、これ……)
リリサは一部始終を見ていた。
クロトに抱えられ、逃げ出したかと思うと虎型のディードに追いつかれ、転ばされ、ディードは狙いを私に定めた。
次の瞬間、視界の横からクロトが飛び込んできて、思い切りディードの横っ面を殴った。
ディードは仰け反りながら吹き飛び、地面に転がった。
その後クロトはあり得ない速さでディードに駆け寄り、尾を引きちぎり、背中に乗ったかと思うと背骨を引きずり出し、あっという間にディードを殺してしまった。
その後暫くクロトは立ち尽くしていたかと思うと、ばたりと倒れてしまった。
……夢でも見ているのではないか
と思ったが、これは現実だ。その証拠に体の節々が痛い。
「いてて……」
リリサは痛みに耐えつつ一旦地面にうつ伏せになり、手と膝を地面につく。そして、体をいたわりながらおもむろに立ち上がった。
「お……っと……」
ふらふらする。頭を強く打ったようだ。が、それ以外は軽い打撲だけで済んだようだ。
リリサは木々にもたれかかりつつ、おぼつかない歩みでクロトの元に向かっていく。
ようやくたどり着くと、そこには黒い血にまみれたクロトの姿があった。
リリサは傍らに膝をつき、うつ伏せのクロトを半回転させて仰向けにする。
そして、血にまみれた顔を服の袖で拭った。
「クロト!!」
返事はない。それどころか全く反応を示さない。
しかし、息はしているようだった。
「よかった……」
リリサはほっと溜息を付き、後ろ手を付いて足を伸ばす。
しばらくクロトの隣に座っていると、満身創痍の狩人たちが近づいてきた。
「大丈夫……なのか?」
数は3人。
10名以上いた狩人が、ここまで数を減らされてしまった。
それほどの強敵を10秒足らずで倒してしまったのだから、クロトの力は恐ろしい。
記憶喪失前は狩人だったのではないかと予想していたが、ここまでの実力者だったとは思わなかった。
ディードと戦えば記憶が戻るかもしれないという思惑からここまでクロトを連れてきたが、これを機に記憶を取り戻してくれるとかなり嬉しい。
クロトの寝顔から視線を逸し、リリサは狩人たちに言葉を返す。
「そっちこそ大丈夫?」
「俺たちは大丈夫だ。……というか、“その奴隷の近くにいて大丈夫か”って聞いたつもりだったんだが……」
残された3名の狩人は武器を手にしたままクロトを注視していた。
どうやら彼らも先ほどの顛末を見ていたようだ。
大方、クロトの化け物じみた戦闘力に驚き、慄いているのだろう。
……無理もない。狩人でもないただの奴隷が、武器も使わず素手で超大型のディードを嬲り殺してしまったのだ。
「平気よ」
リリサも少なからず驚いていたが、ある種の直感でクロトに対して全く警戒心を抱いていなかった。
彼は敵ではない。目が覚めても、記憶を取り戻していても、仲間でいてくれる自信がある。根拠はないが、私の直感がそう告げているのだから間違いない。
……そう思い込むことにしよう。
リリサは痛みを堪えて立ち上がり、残った狩人たちに指示を出す。
「なにボーッとしてるのよ。さっさとディードを運ぶ準備をしなさいよ」
「何言ってる、まずは仲間の死体を運ぶのが先だ。……というか、運ぶって言ったって……こんな大きなディードどうやって運ぶんだ……」
「ここで解体して何回かに分けて運べばいいでしょ。……とにかく人手が必要ね。支部に行って職員を呼んできてちょうだい」
リリサの命令に、狩人は反発する。
「なんで俺が行かなきゃならないんだ。リリサ、お前が行けばいいだろう」
「馬鹿ね、職員を連れてくるなら護衛が必要。……私一人じゃ護衛しきれないわ」
それに、クロトのことも気になる。できるなら動かさず、ここで見守っていてやりたい。
「……」
リリサに正論を言われ、狩人は反論もできない様子だった。
「わかった。……リリサ、ここは任せるぞ」
「分かればいいの」
狩人3名は早速行動を開始し、アイバールに向けて移動し始めた。
リリサは遠くに飛ばされていた槍を拾い上げ、職員が来るまで周囲を警戒することにした。




