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天球のカラビナ  作者: イツロウ
00-プロローグ-
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000 遭難者

000


 ――まず感じたのは冷たさだった。

「……」

 頭から爪先までを覆う冷気。全身満遍なく針で刺されるような痛みを感じつつ、男は固くなった瞼を開き、周囲を確認する。

 場所は雪山だろうか。

 視界は白に覆われ、激しい吹雪が周囲の視界を遮っている。

 激しく冷たい風は鋭い音を立て、四方から絶えることなく男の体にぶつかり、容赦なく体温を奪っていく。

 特に音。風とは思えない何か巨大な機械が発するような重低音の轟音は、男により一層寒さを感じさせていた。

 寒さに耐えつつ、男は自身の状態を確認する。

 背中には太い木の幹。自分はその幹に背を預けて座っている状態だ。

 身に纏っているのはずたずたに千切れた服……いや、服と言うにはあまりにも破れ過ぎている、ただの布切れだった。

 どうしてこんな場所にいるのか、男には全く理解できなかった。

 そして、男は遅れながら重要なことに気がつく。

「……僕は……誰だ?」

 自分が何者なのか、全く思い出せなかったのだ。

 男であることは間違いない。日本人であるということも覚えている。

 言葉も覚えているし、九九も言える……と思う。

 ただ、自分の名前もわからなければ、住所も、年齢も、親の顔も、自分が何を生業に生活していたのかすら思い出せなかった。

 だが、自分は遭難者なのは確かだった。登山中に滑落してしまったのだろうか。それにしては軽装備過ぎる。と言うかほぼ何も着ていないし登山はなさそうだ。

「……」

 男は頭を抱え、目を強く閉じ、冷たい空気に晒されていることも気にしないで必死になって思い出す。

 最後の記憶……

 自分が覚えている最後の記憶を手がかりにすれば、そこから色々と思い出せるかもしれない。

 そんなことを考えていると、ふと左手首に違和感を覚えた。

 男は目を開けて左手を見る。

 そこには見慣れぬブレスレットが巻かれていた。

 金属製で黒色、特に装飾はないがこの吹雪の中でも鈍く光る奇妙なブレスレット。

 もちろんこんなものは記憶に無い。……が、記憶の手がかりになるかもしれない。

 男はブレスレットを観察する。……が、あまりの寒さに耐え切れず、まともな思考ができなかった。

 自分にとって記憶喪失は重大な事件だ。が、まずはこの状態から脱するのが先だ。

 男は木の幹から背を離し、少し歩いてみる。

 歩く度に足の裏に硬くて冷たい地面の感触が伝わってくる。

 痛い。

 男は歩くのをやめ、声を上げる。

「誰か……」

 弱々しい声は風の音にかき消されてしまった。

 この吹雪の中ではうまく声も出せない。

 ……男は気を取り直して声を上げる。

「おーい!! 誰か!!」

 声は周囲に響き渡るも、返事はなかった。

 状況は絶望的だ。

 そんなことをしていると更に吹雪は激しさを増し、容赦なく男の体温を奪っていく。

 四肢の感覚が徐々に失われていき、麻痺して寒さも痛さも感じなくなってくる。

「うう……」

 男はその場にうずくまり、そのまま地面に倒れた。

 何者か分からないまま、自分は死んでいくのだろう。そう思うと虚しさしか感じられなかった。

 ……何分経っただろうか。

 意識も朦朧としてきた。

 そんな時、吹雪の音に混じって女性の声が耳に届いた。

 何を言っているのかまでは分からない。が、男は自分の位置を知らせるために力を振り絞って声を出す。

「助けて……くれ!!」

 届いただろうか。

 男は目を瞑ったまま助けてくれることを願う。

 しばらくすると足音が、そして先程届いた女性の声が近くから聞こえてきた。

「――!!」

 今度ははっきりと聞こえた。が、言葉が理解できない。外国語だろうか。

 それはともかく願いは届いたらしい。

 男は目を開ける。

 すると、目の前にモコモコとした毛皮の服を着込んだ金髪の少女がいた。

 彼女は自分が着ていた毛皮の防寒具を脱ぐと、こちらに覆いかぶせる。

 冷たかった体が徐々に暖かくなってくる。

「助かった……」

「――……」

 少女はこちらの状態を確かめるためか、頬を両手で掴み、碧の瞳で覗き込んでくる。

 頬に温かい感触を得、男は思わず表情を緩ませ、安堵の溜息をつく。息は白い霧となり、少女の顔にぶつかる。

 その反応を見て無事を確認したのか、少女は男から視線を逸し、上半身だけ振り返り背後に叫ぶ。

 すると、低い男性の声と速い足音が聞こえてきた。

 多分少女の同行者だろう。すぐに防寒具を着込んだ壮年の男が視界に入ってきた。

 彼も金髪で瞳の色が碧い。親子だろうか……

 それはともかく命が助かるのは間違いないだろう。

 あとは病院で治療を受ければ、記憶も徐々に取り戻せるはずだ。

「ふう……」

 安心すると、急に体の力が抜けてきた。

 少女は慌てて男の体を支える、が、体格差のせいで少女は引っ張られるように地面に倒れ込んだ。

 少女は小さな悲鳴を上げつつ地面に転げた。

 男もそのまま地面に倒れてしまった。

 もう力が入らない。体の感覚もないし動けそうにない。

 壮年の男はまずは少女を立たせると、続いて男の体を抱え込み、おもむろに引っ張りあげる。

 かなりの力持ちらしい。壮年の男は簡単に男を抱え上げ、リュックでも扱うように簡単に背負った。

 すると、壮年の男の体温が体の前面を通じて伝わってきた。

 ……助かった。

 身の安全を確保できた安心感からか、不意に意識が朦朧としてきた。

 それから男が意識を失うまで、そう時間は掛からなかった。


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