クローゼットのなかの寂寥(ちだまり)
モノローグを書いていたんですけど、これをモノローグと言えるかどうかはやや謎です。なお、このモノローグはLGBTや同性愛者の方々を対象としておりますので、内容についてはご理解の程よろしくお願いします。
小さな手のひらが僕の手を掬う。
無機質で柔らかい手は、どこか空虚な気持ちを救ってくれるような気がした。人と違うということは、自分自身を守ってくれる存在の少なさをそのまま物語っているようだった。
それはまるで内側から自分を壊すように蝕んでいく。
クローゼットのなかは見知らぬ液体で満たされていて、空気は存在しない。空気にしても気圧にしても滅茶苦茶で、体は溶けるように腐っていく。
いつの間にか心臓は欠落していて、僕の胸にはポッカリと漆を塗り重ねたような暗闇が浮かび上がり、どろどろと醜悪な血液が狭いクローゼットのなかを侵していく。
「……人を好きになるって、どういうこと?」
二人っきりのクローゼットのなか、僕は”友達”に向かってそう話しかける。
”友達”はいつも僕のそばに居てくれる。いじめられるときも、両親から怒られるときも、いつも僕のことを守ってくれる。周りの人間は「そんなものいない」というけど、僕は君の存在を強く肯定している。だって君は、僕にしか見えない存在なのだから。
「俺に聞かないで。君が、男の子を好きになっても、それは変じゃないよ」
そう、決まりきった答えが返ってくる。
”友達”は絶対に否定しない。それは僕が一番否定しているからなのだろうか。
否定しない理由がない。僕だって自分を受け入れたい。初めて好きになった男の子には、何も言えなかった。想いを告げたとしてもそれが報われないのなら、こんな気持ちは殺したほうがいいんだ。
そう思っていたのに、伝えてしまった。その激情は一度溢れてしまえば止まらなかった。まさに恋は盲目というにふさわしかっただろう。一度その決断を下してしまえば、天文学的数値に等しい幸福への道を祈って伝えてしまった。
結果は、壮絶ないじめだった。僕が彼に告白してしまったことはすぐに広まった。あいつはホモだ、気持ち悪い、最初は簡単な排斥行動だった。しかしそれは、次第にいじめの口実になっていった。
あの時の行動は完全に間違いだった、自分にそう思わせるには十分なものだった。
いじめが辛いわけではない。怖いのは、次第に自分が自分を壊していくことだった。
どんどん自分のなかで何かが崩落していく。最初の崩落は、何が崩落したのかわからなかった。でもそれは、どんどん明瞭になっていって、自分のどこが死んでいくのかわかるようになっていった。生きていく方法がわからないことも相まって更に視界が侵されていく。それらの不安が細胞の隙間を埋め尽くし、脳脊髄液にまで不安が行き届いていっているような感覚が僕にはどんないじめよりも恐ろしかった。
その不安から逃れようとして、僕はクローゼットに引きこもった。この悶絶するほど狭いクローゼットは、僕と”友達”しか存在しない。それ以外のものは存在できない。どんな動物も植物も人間も物質も存在することができない不可侵領域に僕は暫くの間身を潜めている。
手首からどろどろと流れ落ちる血液はとてもあたたかい。まるでそばに居てくれる”友達”のようだった。この体の細胞だけが僕の友だち、この子たちしか僕には必要ない。そう思うとそれに答えてくれるように、体中から赤い液体がこぼれ落ちる。凝固する事も知らずにどんどん流れていく。
「君の”好き”は彼の”好き”じゃない。だから、君が悪いわけではないんだよ」
「でも、僕は否定された。僕の”好き”は、拒絶されることでしか存在できないんだ」
「それでも君の存在否定することにはならないだろ? きっと彼はそういうつもりじゃ………」
「じゃあ僕にどうしろっていうんだよ!?」
心がどこにあるのか、そんな疑問がよぎる。そして僕らはそれを”頭”にあると思い込んでいる。
頭のなかの脳髄液が決壊した頭蓋骨からどろどろと流れ落ちる音が聞こえる。耳を劈くような音。どろどろと粘着質で、どこまでも自分と類似したその慟哭は連なる細胞にすっと溶け込んでいく。
どんどん侵していく。理性などすでに崩壊していて、体の内側はひどく虚ろだった。瓦礫のなかで、幼い僕が泣きわめいている。エゴだと承知していながら、風化していく精神に体を凭れることをやめない。
感情が臓器を解体していく。
血管はひどく湾曲していて、未だに体外を血みどろで染めている。すっかり腐敗した肺のなかは見事に空っぽで、呼吸のたびにカビの胞子を血液にのせて体に運んでくる。やがてそれはすべての臓器をぶっ壊す。
生きているだけで、僕は自分の体をどんどん壊していっているんだ。その精神が、その幼い心が、僕を、壊す。
殺すんじゃない。死ね、いっそ死んでしまえ、そう言っている。手首にナイフをつきつけるだけでは足りない。脳幹も、右脳も左脳も、脳梁も、頸髄も、胸髄も、腰髄も、仙髄も、尾髄も、心臓もすべて壊さなければ気が済まない激情だけが僕を徐々に支配している。
「痛いよ……僕が生き続けるたび、彼が頭のなかで笑ってるんだ…………」
記憶というものが存在するすべての細胞が、彼の存在を未だに囁いてくる。
僕が知っている彼のすべてが眼球に映る。喜怒哀楽がめちゃくちゃにノイズと混じった彼を僕は未だに好きでいる。
この感情を持っている限り、僕が自分に刃を向け続けることになる。いっそすべて亡くしてしまえばそれでいいのに。この感情ごと僕を葬ってくれる人を探した。
「俺は君を葬る事はできないよ」
”友達”は僕の感情をすべて知っている。僕の感情から解離したたった一人の”友達”。
「お願い……僕には君しかいないんだ。だから、殺して……」
このクローゼットにいるのは僕と”友達”だけ。
大きな血だまりが僕の体を覆い尽くす。どこまでも深々とした鮮血に身を落とすたび、眠気に脳内が揺さぶられてしまいそうになる。
その小さな微睡みは恐ろしいほどの悪意が充満し、空虚な細胞のなかみに瀰漫した感情がどろどろと外に溶け出してしまいそうになる。放置していれば僕はこの眠りのなかに体ごと投じることになる。
それでいいから、だから僕を、殺して。お願いだから殺して。その存在しない手でナイフを掴み、僕にふりあげてほしい。
黒い太陽に光を預けるナイフを翳してほしい。皮膚を突き破って、虹彩の壁を溶かして、鼻腔を無残に切り落として、鼓膜を切り取って、口を縫い合わせて。僕が君に望むことはたったこれだけだから。
クローゼットの中を液体で満たした僕の体を抱いてくる”友達”は、ただ無言で血溜まりに触れる。
すると、クローゼットのそとで音が聞こえてくる。壁を叩く音と、誰かの声。
不思議と聞き覚えのある声色だった。鼓膜に触れるだけで体が激しく蠕動させる愛しい声。少し幼いのに、曖昧なかっこよさが溶け込んだ優しい声に僕はどれほど助けられたことだろう。
”友達”は僕のアルバムをそっとめくり、いつも一緒だったその声の正体を探ろうとした。でもその声は、クローゼットの壁に阻まれてよく聞こえてこない。
聞きたいのに聞こえないジレンマが僕の脳内に巻きをくべるように燻った。脳溝に焼き付いたそのジレンマは一抹の不安を僕に与える。自分に対する殺意に背反するような感情を与えうるその声に僕は強い畏怖心を抱いている。
壁を突き破って外に出てしまえば、この殺意を殺すことになるかもしれない。声を一つで死んだ心が徐々に活力を取り戻そうとしている。腐敗しきった感情が愛しさで埋まりそうになる。
僕が生きるなんてことはない。そんな選択肢そのものが消えたはずなのに、どうしていまさらそんな幻想を抱かなければならないのだろう。
怖い、急に自分の考えがプラスの方向に動こうとしていることがどうしようもなく怖かった。扉の先に存在しているかもしれない失ったはずの想い人が目の前に現れているかのような違和感と、傷口に埋まった寂しさが血とともに洗い流されていくような感情が混在していて、驚くほど不気味な脳内のさざめきが聞こえてくる。
「巡! ここを開けてくれ」
嫌だ、来るな。ここに入るな。
「お願いだ巡」
お願いだから一人にさせて。
一人で殺させて。
「巡!」
ふと、頭のなかにノイズが走る。あのときの光景だった。初めて想い人に言葉を告げたときの光景かもしれない。
これが記憶などという不完全な映像であることを心の何処かで切に願っている自分が滑稽だった。あたり一面の血だまりの水面がけたたましく揺れ動く音と、自分の慟哭が重なって聞こえるとき、また僕の頭蓋骨が倒壊しそうになる。音を立てて壊れたと思えば、あたり一面が脳脊髄液で満たされ、唐突に優しい肉壁に抱かれる。
これはきっと”友達”だ、そう思った瞬間、”友達”は僕の頬に優しく触れ、静かに口を開いた。
「ほら、呼んでいるよ。君は一人なんかじゃなかったんだよ」
「違う……違うんだ……」
「そう、君も知っているよね。このクローゼットを寂寥で塗り固めていたのは、自分だってことを」
「一人じゃなきゃ……いけない」
「俺はもう必要ない。巡に、戻るね」
「いやだ……一人にしないで」
そう口走った頃には、僕のクローゼットはすっかり崩壊し、ベッドに寄りかかって腕から血を流している自分の体が目に入った。
「(僕は……どうしたの?)」
僕は目張りされたカーテンから溢れる日差しでようやく今の状況を理解することができた。僕は、引きこもっていたんだ。
外界から心をそむけて、自分一人だけの世界で生きていきたいと願ったんだ。自分の中の本能的な願望、もうこれ以上傷つきたくないという願望が僕のクローゼットを強め、それを寂寥で蓋をしてしまったのだ。
未だに外でドアを叩いているのは、クローゼットのなかの記憶が正しいのならば外の人物は自分の心から望んだ人だろう。僕は血だらけの腕を押さえつけながら、扉をゆっくりと開く。
一呼吸おいて扉の外をみると、そこには”友達”と瓜二つの想い人が立っていた。
どうして、そんな表情を浮かべているのだろう。目には大量の水をためて、悲痛さに染まった視線を向け、憂いのこもった声をした彼の瞳に自分の瞳を合わせると、彼の感情がすべて流れてくる。それは、強い後悔の念だった。
「巡……その腕……」
「……なんで、来てくれたの?」
「俺は、お前の気持ちに応えることはできないだろう。だけど、俺はお前の親友としてそばにいたかったんだ」
彼の声を聞いた時、僕の中で何かが壊れた。
クローゼットの中に入っていた寂寥の城砦は、たった今涙とともに倒壊していく音が聞こえる。
その音は、腕から流れ落ちる血の音と、重なって聞こえた。
ここまでご覧頂きありがとうございます。今回は同性愛が悩みの発端として発展したモノローグだったのですが、自分でも未完成に近いのではないだろうかと思っています。圧倒的技量不足なものですが、これをみて「共感できる」と思われた方が一人でもいれば幸いです。
改めて、ありがとうございました!