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第三章:相手を変えようとするのは殺人だよね

第三章:相手を変えようとするのは殺人だよね


 「変わりたいと思う気持ちは、自殺だよね」と西尾維新が、零崎人識の人間関係「戯言遣いとの関係」で述べていたが、ならば、相手を変えようとするのは殺人だよね、と僕は言いたい。


 僕は、だれとも同じではない趣味を持っている。

 少なくとも、今まで、同じ趣味の人に会ったことはない。

 それは、早朝の散歩である。

 でも、これくらいなら、絶対に同じ趣味の人間がいると思うのだ。

 だけど、僕は会ったことがない。

 同じクラスの人と、あまりそういう話をしないからかもしれない。

 現実には、同じような傾向を持つ人がいるのに、つながれないというだけなのかもしれない。

 でも、どっちにしろ、僕は孤独を感じている。

 そういうときに、よく僕は、バベルの塔の神話を思い出す。

 最初は同じ言葉を話していたのに、神の怒りに触れ、ばらばらの言葉をみんな話すようになってしまったという話だ。

 きっと、つらかっただろうな、と思う。

 自分の言葉が、届かないのは。

 自分が、ある言葉の最後の母語話者になったら、とも考える。

 自分の言葉を知っている人が、どこにもいない。

 自分の言葉で考える人が、この世界のどこにも、自分以外には一人もいない。

 これは、とてもつらいよね。

 想像するだに、つらい。

 だけど、今の僕には、イオとみなみがいて、だから僕は、たぶん一人ではない。

 でも、いろいろ考えるたびに、孤独を感じてしまう。

 まわりに人がいるのに、孤独を感じてしまうのは、とても不思議だ。

 そして、僕は、この世界に対する失望も、払拭できないでいる。



「自殺テレパシーって、あるといいと思わないか?」

 イオがそういうことを言ったのは、まったくの突然だった。

 あれは、夕暮れの放課後で、教室で、僕たち三人以外は、誰もいない時だった。

 学校には、そういう時間が、たまに訪れるときがある。

 僕たち以外の帰宅部は、早々に帰ってしまうし、他のみんなが部活に行っていると、教室は一種の真空地帯になるのだ。

「自殺テレパシーって、なに?」

 みなみの疑問は、もっともだ。

 なんだその自殺テレパシーというのは。

 自殺させるような怪電波のことか?

「いや、あのさ。前、ネットで自殺をするのは心が弱いとかいう人がいてね。ちょっと怒っちゃったんだけども。そういうやつに、自殺する人の気持ちをテレパシーで送ったら、自殺するんじゃないかなって」

 みなみが、しばらく考えたあとに言った。

「それって、たとえば、鬱病の人の気持ちをテレパシーで送ったら、いわゆる健常者が絶望で自殺するように、自殺する人の気持ちを、自殺する直前にテレパシーでだれかに伝えることができたら、きっとそのだれかは、絶望で死んでしまうでしょう、ってこと?」

「そ」

 短くイオは答えた。

「もし、自分の絶望を世界中の人に共有させることができれば、みんな自殺するんじゃないだろうかね」

 ぱちん!

 みなみが手をたたいて、満面の笑みを浮かべる。

「まあ、すてき!」

 にこにこと、みなみは青ざめた笑みを浮かべる。

 自殺テレパシーか。

 うん、そういうのは悪くないな。

 きっと、自殺するのは弱い人間だって言ってるやつほど、自殺テレパシーを受けたら自殺したくなっちゃうに違いない。

「自殺テレパシー、いいね」

 僕は思わず、感想をもらしてしまう。

「いいよね」

 イオも、にやっ、と笑う。

「いい!」

 みなみが、元気よく叫ぶ。

「でもさ、自殺テレパシーってどうやって出すのさ?」

「あー、それはわかんないよね」

 みなみの疑問はもっともだ。

 だけど、イオのわかんないよねという返事はどうなんだ。

「わかんないのか」

「わかんない」

 僕のつぶやきに、イオは同じ答えを返す。

 わかんない。

 まあ、そういうこともあるだろう。

 自殺テレパシーを出す方法なんてものがわかったら、それはとてもすばらしいけど。

「いや、っていうか、ふつうにテレパシーを使って、だれかの気持ちをだれかに伝えることができるなら、自殺テレパシー打てるんじゃないの?」

 みなみの言葉に、僕たちは沈黙する。

「それだ!」

「それだよ!」

 なんでこんなことに気づかなかったんだろう。

 自殺テレパシーなんていう言葉にだまされてはいけないんだ。

 要するに、自殺するくらいの絶望を、テレパシーにのせて、世界に飛ばそうという計画なんだから。

 僕たちは、放課後独特の妙に高いテンションで、テレパシーの修行について話し合った。

 いったい、どうやってテレパシーを身に着けるのかということ。

 テレパシーは何かということ。

 そして、そもそも、テレパシーは、存在するのかということ。

 しかし、最後の質問に対しては、あると仮定して進めてみるしかないという結論に達した。

 これは遊びなのだ。

 人生が遊びであるのと同じように。

 絶望や失望に呑み込まれないためにも、僕たちは遊ぶ必要がある。

 それはきっと、とても楽しい。


 僕たちは、まず、参考文献を読んで、いくつかテレパシーについて調べた。

 テレパシー。

 超能力サイの一種。

 サイには、超感覚的知覚(ESP)と念力(PK)のふたつがある。

 ESPは、透視やテレパシーや予知など、知覚に関する、ふつうではおこりえないとされている能力。

 PKは、物理法則に合致しない形で行われる物理現象をひきおこす能力で、手などを使わずにものを浮かせたり、力を加えずに金属を曲げたりする。

 テレパシーは、ESPのひとつで、他人に、通常とは違ったやり方で、意識や心理状態や考えていることを伝えたり読み取ったりする能力だ。

 ちなみに、テレパシーという言葉は、フレデリック・マイヤーズによって命名された。


 参考文献を調べるのは大事なことだ、たぶん。

 いろいろな本を読むのは面白かった。

 でも、知りたい情報は載っていなかった。

 つまり、そのものずばり、テレパシーを身につける方法、なんてものはなかった。

 しかし、まるっきりの無駄足というわけでもない。

 テレパシーの発現について、二つくらい発現しやすそうな環境がありそうだということがわかった。

 一つ目は、親しい間柄の人間同士で、どちらかに命の危機などが起こるとき。

 これは、テレパシーというより、予知に近いかもしれない。

 虫の知らせというやつが一番有名だろう。

 何か悪いことが起こりそうな感覚があって、その感覚に従って動くと、場合によってはその悪いことを回避できたりするというあれだ。

日本でいうなら、靴紐がきれる、鏡が割れる、くしが壊れる、嫌な夢を見る、死んでないはずの人でその場にいないはずの人が見えるなどの現象か。

これはこれで面白そうだが、僕たちが使いたいテレパシーとは違う。

 二つ目は、なにかを伝えようとして、実際に伝わるとき。

 つまり、意志の力が、テレパシーを実行するというわけだ。

 ESPカードを当てるとか、隣の部屋の相手にイメージを送るとか、マイモニデス医療メディカルセンターの夢テレパシー実験とか、そういう系統のやつだ。

 こちらが、僕たちのやりたいことだろう。

 要するに、相手に意志を伝えようとして伝える。

 びっくりするくらい直球だ。

「うーん、ただ伝えようと思って伝えるだけか?」

「そうみたいだね」

 イオも僕もみなみも、なんだか拍子抜けしたような顔をしている。

 それはそうかもしれない。

 だって、あまりにもそのまんますぎるから。

「とりあえず、自殺テレパシーってことで、絶望的なことを考えて、それを他の二人に伝えるってこと、やってみる?」

「いいよ」

「わかった」

「よし。みなみも拓斗も賛成ということなら、俺に具体的な計画があるんだ」

 具体的なイオの計画とは、次のようなものだ。

僕たちは、それぞれ、イオが午後九時、みなみが午後十時、そして僕が午後十一時に、いやなことを考えて、一分間その絶望を送る。

その時間に、不自然な感じに気持ち悪くなったら、テレパシーが成功しているのだろうということに決めたのだった。

 自己暗示で気分が悪くなる可能性も考えたが、とりあえずは、これでよし、だと思ったのだが……。

 

「なあ、これ、やめにしないか?」

 少しだけやつれた顔で、イオが言った。

 みなみも、げんなりした顔をしている。

 きっと、僕も似たような顔だろう。

 指定された時間に、不自然に気分が落ち込むことはなかった。

 しかし、自分がテレパシーを送ろうと、嫌な記憶を呼び覚ますのは――案外、かなり気持ち悪かった。

 だから、僕たちは、早々に、この計画を放棄したのだった。

 放棄したのだった、と言ったが、なにもかもをあきらめたわけでは、もちろんない。

 自殺テレパシーの練習を放棄した、というだけの話だ。

 僕たちは、うすうす、お互いが、どことなくこの世界になじめないものを感じて、どことなくこの世界に失望していることを知っていた。

 だけど、それについて、くわしくは聞かなかったし、具体的に説明することもしなかった。

 なぜか。

 それは一種の礼儀のようなものだった。

 そうでなければ、過剰な思いやりのようなものだ。

 僕たちは、そこに触れることで、なにかが決定的に変わってしまうことを恐れていたように思う。

 少なくとも、僕はそうだった。

 そしてもちろん、この場合、決定的に変わってしまうというのは、悪い方向の変化でしかないのだった。

 だから、僕は口を閉ざす。

 他のふたりも、口を閉ざす。

 そして、今までどおりの平和が保たれ、テレパシーの練習などで息抜きをしながら、なんとか僕たちはやっていくのだ。

 それはごまかしなのかもしれない。

 でも、とりあえず、今までどおりの平穏な日常を、僕は気に入っていたし、それを壊したくなかったのだ。

 なんだか、やぶをつついてヘビをだしかねないと思っていた。

 とんでもなくどす黒いものが出てきて、結局だれか死んでしまうんじゃないかって。

 そんなことを思っていた。

 僕はたぶん、自分が知らなければ、それは半分くらいは存在しないも同じことだと思っていたのだ。

 もちろん、それは真実ではない。

 自分が知らないこと、認式していないことで、しかも存在するものごとは、掃いて捨てるほど存在する。

 そういうことは、わかっちゃいたのだ。

 しかし、それでも、理論として知っているということと、実生活でその知識を活かせるということの間には、たまに絶望的な差がある。

 僕は要領のいい方じゃない。

 その絶望的な差を、うまく縮めることができないで、なんとなく毎日を過ごしていた。

 それで、平和が保たれると思っていたのだ。

 実際、それで平和が保たれてきたはずなのだ、ここ数カ月の間は。

 だから、僕は、このまま、このやり方で進めばいいのだと思っていた。


「オカルト研究会ってことにしようぜ」

 研究会の申請書を書くときに、イオはそう言って、研究会設立申請書に、「オカルト研究会」と、堂々と文字を書きこんだ。

 続いて、ペンを三人の間でまわしながら、僕たちは各自の名前を、活動人員としてマス目に書きこんでいく。

 僕たちは、テレパシーについてあきらめたあと、いろいろと「いかがわしい」ものに手を出し始めていた。

 コックリさんとか。

 ある種の呪いとか。

 悪魔召喚とか。

 それによって、世界を滅ぼすのだ、と僕たちは言っていた。

 なかば冗談で、なかば本気だったのだと思う。

 僕は、はっきり言って、この世界のことがあまり好きではなかったし、別に滅んでしまってもいいと思っていた。

 おろかな人間は、自殺したい人がいるのなら、周りに迷惑をかけずに一人で自殺するべきだという。

 しかし、自殺したい人間は、まわりの環境と、自分自身との相互作用の結果、自殺に至るわけだから、その全責任が、一人の個人にあることはありえない。

 そして、もちろん、自殺する人間は、その人をそこまで追い込んだ社会に、復讐することができる。

 実際に復讐はできるし、してもかまわないといえる倫理的根拠もある。

 復讐は正義だからだ。

 少なくとも、ある人たちにとっては。

 結局のところ、自殺する人に迷惑をかけずにしんでくれというのは、社会で安穏と暮らせる立場にある強いものが、とてもこの社会では暮らしていけない弱いものに対して、強いものの平安をおびやかすことなく、クリーンに死んでくれといっているのと同じである。

 さて。

 弱きを助け、強気をくじくのが正義であるなら。

 もちろん、このような行為は正義ではない。

 むしろ、邪悪として糾弾されるべきものだろう。

 なぜ、弱者が強者に気を遣わなくてはならないのか。

 いままでさんざん気を使ってきたではないか。

 同じ人間として扱われてこなかったではないか。

 ならば最後に、復讐を果たして死んでやる。

 そう思ったとしても、全然まちがっていることにはならないだろう。

 僕はそう思っていた。

 今でも、そう思っている。

 きっと、あの二人も、そう思っていたに違いないと思う。

 ただ、僕たちは、穏健な形で、自分たちの暴力的な願いを解消する方法を見つけていた。

 オカルトである。

 それも、攻撃的なたぐいの。

 自殺テレパシーで、みんなを同じくらい暗い気持ちにさせて、自殺を引き起こそうという計画。

 コックリさんで、世界を滅亡させる方法を聞こうという計画。

 呪いを研究して、気に入らないやつを葬り去る計画。

 悪魔を召喚し、この世界にささやかな幕引きを下ろそうという計画。

 もっと僕たちが本気だったなら、きっとテロ活動の話し合いをしただろう。

 だけど、僕たちは、中途半端に本気だった。

 オカルトは、弱者の武器になりうるのかもしれない。

 でも、そういう目的とはまったく関係なく、オカルトは面白かった。

 僕はそう思うようになっていったし、イオはたぶん元からけっこう好きで、みなみについては、正直よくわからない。ただ、嫌っていなかったのは確かだと思う。

 だから、イオがオカルト研究会の申請を学校側に出そうとしたときは、それはそれでいいんじゃないかと思った。

 わざわざ研究会という形にする必要はないんじゃないかと思ったけど、別にそうして悪いわけでもないし、イオがそうしたいというなら、そうすればいいと思ったのだ。

 ただ、通るかどうかは微妙なところ、いや、実際は、申請は通らないんじゃないかと思っていた。

 だから、実際に申請が通ったときはびっくりしたものだ。

 部活と違って、同好会や研究会は、要件がゆるい。

 三人以上の活動人員。

 実際に活動していること。

 これだけだ。

 もちろん、部費も部室もあたらない。

 ただ、この活動を三年続けると、部活に昇格する可能性があるので、実はけっこうな数の同好会や研究会が作られていったらしい。

 もっとも、そのほとんどは、開店休業状態らしいのだが。

 そして、活動報告が二年にわたって見られないときは、その同好会や研究会は消滅するから、実際、今生き残っているものは、そんなにないと聞いている。

 だから、案外あっさり、申請が通ったのかもしれない。

 でも、僕としては、もっと学校当局というのは、こんなくだらないことに、とかなんとかなんくせをつけて、生徒の自由な活動を妨害するイメージがあった。

 意外と話がわかるじゃないか。

 エスペラント語研究会とか、ブレイクダンス同好会とか、そういう、いかにもそれっぽいやつじゃなくて、オカルト研究会なんて、「いかがわしい」と思われるものを承認するなんて。

 あるいは、単に長続きするわけがないと思っていたのかもしれない。

 一昔前の、オカルトブームは過ぎ去ってひさしいわけだから。

 それとも、オカルトブームにはまった人が先生の中にもいるのかな。

「ま、なんにせよ、これで俺たちは、オカルト研究会だ。これからよろしくな!」

 イオが、申請書が通ったその日の放課後、にやっと笑いながら教室に入ってきて、そう言った。

 よろしく、と僕たちはみんなで頭を下げた。

 一緒にお祝いをしようぜ、と言って、学校の自販機で、みんなでジュースを買って乾杯した。

 僕は、学校でジュースを買うなんて、まずめったにしたことがないのだが、そのときばかりは特別だった。

 別に研究会になったからといって、何か活動が変わるわけでもない。

 部室はあたらないから、今まで通り、放課後の教室とかを使うしかない。

 部費も出ないから、なにか大がかりなことができるわけでもない。

 でも、まあ、何かが形になったような気がして、悪い気はしなかったのを覚えている。

 今だって、全然悪い想い出じゃないのだ。

 つまり、僕は、このことについて、イオに感謝している。


 その後、しばらく、オカルト研究会で活動したのだが、実際に結果を残せた活動は、ひとつをのぞいて他にはない。

 もちろん、楽しい日常生活であり、楽しい部活動であった。

 だから、その生活のことについて、なにかしらのことを書いておくべきだとも思うのだけど、その前に一人、紹介しておかねばならない人がいる。

 この人は、僕とイオとみなみの三人には、まったく関係のない人物であり、ただ僕だけに関係している人物だ。

 性別は女で、小学生で、学校の成績が良くて、それだけじゃなくて、知的な女の子だった。

 おろかな人間は、小学生というと、一律に知能が大人より劣っていると思うらしいが、もちろんそんなことはなく、ある分野では大人の平均よりも高い知性を見せる子供がいるし、場合によっては、とても小学生とは思えないとおろかな大人が評するような子供もいる。

 その人物は、そういう女の子だった。

 名前を、綺麗子という。


 さて、こんな話を、聞いたことがあるだろうか。

 道行く女子学生を見てオナニーするという、オナニー方法を。

 僕は、これを聞いたとき、世の中にはすごい人がいるものだと思った。

 だいたい、現実に登校している女の子たちを見て、興奮できるのだろうか?

 僕もちょっとやってみたが、全然ぴくりともしなかった。

 きっと、これを試した人は、とても女子学生が好きなのだろう。

 そうでなければ、きっと自分の空想の中で、女子学生を神聖化しているのだ。

 僕は、同級生に女子学生がふつうにいるから、特に神聖化することはできない。

 滝本竜彦いわく、「性的なまなざしを持つということは、相手の中になんらかの奪うべき価値があるという錯覚を持つものの視線であって、しかもそれは、自分の中に何か埋めるべき欠乏があるという錯覚と表裏一体である」(「安倍吉俊さんと私」より)。

 僕は、女子学生に奪うべき特別の価値があるとは感じない。

 そして、その女子学生によって埋められるべき欠乏があるとも感じていない。

 だから、僕は、あまり女子学生に性欲は感じない。

 でも、僕にも、女子学生に性欲を感じることはあるのだけど、その場合に、自分の欠乏を、その女の子によって埋めようとしているのか、僕にはちょっと定かではない。

 世の中には、小学生に性欲を感じる人がいる。

 たとえば、小学生は、小学生に対して性欲を感じることがあるだろう。

 中学生であっても、小学生に性欲を感じることはあるかもしれない。

 高校生くらいになると、珍しくなってくるだろうか。

 しかし、逆に、小学生のときから性欲を感じる人がいる。

 少なくとも、僕の話したかぎりでは、ほとんどの人が、小学生のときには、なんらかのかたちで、性欲を感じている。

 おそらくなのだが、小学生のどこかの段階で、性欲を感じることはよくあることなのではないだろうか。

 ちなみに、僕は小学校に上がる前に性欲を感じた。

 これもまた、一般的なことなのだと僕は考えている。

 現代日本では、性欲の話がタブーになっているところがあり、正確な知識を得ることが羞恥心によってはばまれて、できないでいるが、実際のところ、小学校に上がる前に、性欲のかけらを感じたものは、相当数にあがると考えている。

 十八禁が性欲を扱う場合が多く(現実にはとても激しい暴力表現も含むが)、十五禁が暴力を扱う場合が多い(実際には軽い性描写も含むが)というのは、僕には中学校のころから納得できない現象だった。

 なぜ、人を傷つける表現が、十五歳で見られるのか?

 その一方で、新しい命に関する話が、十八歳にならないと見られないのか?

 子供を持つことは罪なのではないか?と考えている今となっては、別にそれでもいいのではないかと思う。

 しかし、当時の僕は、子供を持つことはよろこばしいと考えていたので、このルールには実に懐疑的だった。

 わけのわからない、筋の通っていない、非合理的な、たいして人を幸せにもしない、むしろ不幸にするくらいの、邪悪な掟のひとつに数えていた。

 さて、それはともかく、小学生のときに、性欲を感じる子供はいる。

 そして、その子供が、かわいらしい女の子であることも、ある。

 もちろんそうだ。

 実に理にかなった可能性であった。


 綺麗子は、「きれいこ」と発音する。

 実際に、きれいな子だった。

 綺麗とか、キレイとかいうより、きれいという表現が似合いそうな感じの女の子だ。

 丁寧な言葉づかいでしゃべって、知性と教養があって、学校の成績もいい。

僕は小学校六年生のころに、四年生のときに挫折した、吉川英治の宮本武蔵を読みきった(どうでもいいが、これが戦前の小説だということを知ったのは、つい最近のことだ)。

 綺麗子は、小学校六年生だが、「モンテ・クリスト伯」を読み切ったと言っていた。子供用の、短くしたやつじゃなくて、ちゃんとした完訳のやつだ。

 ちなみに僕は、モンテ・クリスト伯を完全読破したことは一度もない。

 僕と綺麗子は、子供のころから家が近所だった。

 年が離れていたので、あまり一緒に遊んだことはなかったが、僕の母親と綺麗子の母親が、同級生だったらしく、それなりに交流はあった。

 だが、決定的だったのは、オンラインゲームだ。

 そこまでやりこみプレイができないオンラインゲーム、「テレプシコーラ」を、二人ともやっていることが、たまたまわかったのだ。

 そこからは、オンライン(つまりネット上)でも交流したし、オフラインでも、たまに会って話すようになった。

 小学校の勉強を教えることはなかったが、先へ先へと進みたいタイプみたいで、僕の中学校のころの教科書を使って、英語や数学は先取り授業をしてほしいというようになった。

 いわば、ちょっとした家庭教師だ。

 月謝は、たぶん普通の通信教育や塾や家庭教師よりも安いと思う。

 そこまでもらうほどの自信が僕になかったからだし、教育というのは、基本的に無料で行われるべきものだと、僕が信じているせいもある。

 ともかく、僕は週末は、ちょっとしたバイト感覚で、綺麗子ちゃんの勉強を教えているのだった。

 もっとも、教科書を読ませて、説明した後、昔のワークブックとかを持ってきて、紙に問題を書きうつして、それをやらせるだけなのだが。

 そんな僕たちは、お互いの親にも信用されていた。

 だが、僕たちには、親に話していない秘密があったのだ。


「ねえ、拓斗さん、おちんちん見せてよ」

 綺麗子ちゃんの言い分にしたがって、僕は下半身だけヌードになる。

 それを観察しながら、綺麗子ちゃんは、スケッチブックに男性性器をふくめた僕の下半身を書き写す。

 綺麗子ちゃんの家。

 綺麗子ちゃんの部屋だ。

 綺麗子ちゃんの部屋は、けっこうものがごちゃごちゃしていて、人によって、きたない部屋だというかもしれない。

 でも、僕はそんなの気にしない。

 ともかく、なぜ、綺麗子ちゃんは、僕のおちんちんをスケッチしているのか。

 ちょっと説明をさせてほしい。

 綺麗子ちゃんは、絵の仕事がしたいらしい。

 もし、自分に覚悟があるなら、絵の仕事一本だけに絞るけれど、そういう勇気がないので、保険として勉強をしているそうだ。

 だから、絵の勉強の一巻として、ヌードデッサンをしている、というわけだ。

 だが、ちょっとこれでは説明が足りないだろう。

 なにゆえ、こんなことになっているのか。

 説明は、少し前にさかのぼる。

 ある日、綺麗子ちゃんがとつぜんに聞いてきた。

「拓斗さんって、無修正の女性性器や男性性器を見ることができるサイトって知っている?」

 もし、なにか飲み物を飲んでいたら、僕はふきだしてしまったかもしれない。

 こういうことには、あまり動じないタイプだと思うが、それでも小学校の女の子に、この手の質問をされて動揺している自分が悲しい。

 修行不足だな、と思う。

「ああ、うん? 海外のアダルトビデオのサンプルとか? 医療系のサイトとか? まあ、いろいろあると思うけど」

「そうなんだよね。英語、学校であんまり習ってないから。安全なサイトかどうか、読んで理解することができないんだ」

「えーっと、いちおう、言っておっけど、そういうサイトって十八禁なものもあって、医療系なら大丈夫だろうけど、性的なサイトだったら、法律違反だからね? 見ちゃだめなんだからね?」

「うん、でも、あなたは十八歳以上ですかっていう質問、日本で一番、虚偽の解答がなされている質問だと思うな」

 同感だった。

「ともかく、私、絵の仕事ができればいいなって思ってるの」

「それは、なに、イラストレーターとか、画家とか、そういうこと?」

「そうそう。それで、こういうの、描いているんだけど」

 そうして、スケッチブックにえがいた、いろいろなものを見せてくれる。

 人や、動物や、服や、建物。

 素人目線だが、うまいと思う。

「どう?」

「うん、うまいと思う」

「じゃ、これ見て」

 そう言って、だされたものは、ヌードデッサン、のようなものだった。

 というか、ヌードデッサン、そのものだった。

 男性も、女性も書いてある。

「ネットで見て、練習して、勉強した」

「お、おお……」

 こんなことに動揺してどうするのか。

 ヌードデッサンなんてふつうじゃないか。

 ぱらぱらと見るが、どれもうまいと思った。

「うん、いいんじゃないかな」

 最初はちょっと動揺したが、特に変な感じではない。

 ギリシアの裸像を見ている感じに近い。

 ダビデ像とか、ああいうのを模写したやつを見ているときと、たぶん同じ感覚だ。

 だが、次のセリフには、またもや動揺してしまった。

「あのさ、拓斗さん。私の、ヌードデッサンの、デッサンモデルになってほしいんだけど」

「なに?」

「ヌードデッサンのデッサンモデルになってほしいんだけど」

 二回言わなくても聞こえてるよ。

「うーん、それって、アダルトサイトを見ればいいんじゃないかな、海外の無修正サイトとか、うん」

「■■■とか?」

 おいおい、女子小学生がそんな言葉を知っているのかよ。無修正サイトの名前が出てきて、僕は愕然としてしまう。

 なんでそんな言葉を知っているのかという疑問が、たぶんあからさまに、顔に出ていたのだろう。

 その無言の疑問に答えるかのように、綺麗子ちゃんは、答えてくれる。

「知ってるよ、本気で無修正の性器とかセックスとか見たかったら、見れないことはないよね。アダルトフィルターとかも外せないこともないし、ブラウザはプライベートモードで見ればいいだけだもん。履歴が残らないでしょ? っていうか、アダルトフィルターもそんなにしっかりしたものは使ってないから。うちの教育方針は、本当に危険なやつは教えてくれるけど、あとはきちんと調べなさいっていうスタンスだし」

 そう言って、自分の本棚を指さす。

 性教育系の書籍が何冊か見つかる。

 うーん、なるほど。

 なるほど、と自分で自分に言うことで、少しばかり思考を停止させ、頭を休ませる。

 そうだよなあ、小学生の女の子だって、それくらいの知識はあるよなあ。

 っていうか、下手したら生理来てるんだよなあ。

 でも、小学生の女の子にセックスとか言われたら、おじさん動揺しちゃうよ。

 そっかぁ、小学生の女の子が無修正動画サイトで無修正セックスを見る時代かぁ。

 そうだよなあ、そういう時代だよなあ。

 いやいや、でも、人類の歴史を見ると、十代で結婚や出産なんて珍しいことじゃない。

 また、僕は、十二歳のころに結婚したという、同い年の、ペルーの原住民のカップルをテレビで見たことがある。

 山岳地帯に住んでいる、あれはインディオといっていいんだろうか。

 それに、ピトケアン諸島の事例のこともあるし。

 小学生の女の子って、ふつうに、子供の作り方を知っているし、性欲もあるし、それなりに性的なことを理解してるんだよなあ。

 そして、それは、はたして悪いことなのか?

 こういうことは、たまに考えたりしたけど。

 別に、悪いことじゃないよな。

 性的なことを理解したり、それについて話したりすることは、悪いことじゃない。

 でも、動揺してし合う自分に、なんていうか、僕もまだまだ、常識的すぎる部分があるなあと思ってしまう。

 小学生の女の子がセックスとか無修正の性器の話をするだけで、頭がちょっとクラクラするくらい動揺してしまうなんて。

 そういうことを、ちゃんと話せる生活が、いい生活だろうに。

 僕は、旧時代の考え方を、まだまだ引きずっているらしい。

「あー、ごめん。なんの話だったっけ」

 いろいろなことを、急に考えたから、いったい、何の話をしていたのか、忘れてしまった。

「拓斗さんに、私の、ヌードデッサンの、モデルになってほしいの」

 ちょっと恥ずかしそうに、でも、けっこう真剣に、綺麗子ちゃんは言った。

 うーん。

 正直に言おう。

 ヌードデッサンのモデルをやることに、僕自身は抵抗はない。

 むしろ、ちょっと興味があるくらいだ。

 ただ、問題は、親御さんとかがこれを見て、僕が警察につきだされやしないかということなのだが。

 合意の上だし、性行為をしたわけじゃないし、わいせつ物陳列罪にはならないと思う。

 思うのだが――。

 うーん。

 僕はまったく問題だと感じていない。

 綺麗子ちゃんも、問題だと感じていないだろう。

 でも、まわりの大人が、問題だと勝手に解釈して、被害者なき犯罪を成立させるかもしれない。

 それと、これはあまり考えたくないことだが、綺麗子ちゃんが、悪い人間で、僕を嵌めるために、こういうことをしているということも、考えられなくはない。

 要するに、僕がはだかになっているのを写真か何かにとって、ばらされたくなかったらおこづかいちょうだいよ、みたいな。

 うーん。

「とりあえず、保護者の許可を取ってから、にしない?」

 ちょっと綺麗子ちゃんは、しぶい顔をする。

「たぶん、大人はいやがるんじゃない?」

「そうかもね」

「もし、どうしても、保護者の許可がないとできないっていうんなら、あきらめるよ」

 ちょっとした沈黙。

 いつもの僕だったら、断っていた。

 そんな危ない橋を渡るタイプじゃない。

 このまま、あっさり断ってしまえば、何事もない、平穏な生活が続いていくのだ。

 今までと同じような生活が。

 だけど、僕の心のどこかから声がして、僕はいつもはとらないような行動をとる。

 だれかが、そのときの僕を観察していたら、こういうかもしれない。

 魔が差した、と。

 あるいは、こう言うのかも。

 天啓が来たのだ、と。

 どっちにしろ、僕は、保護者の許可を取らずに、ヌードデッサンのモデルを引き受けることに決めた。

 顔はかかないという条件付きで。

 むしろ、下半身だけという条件で。

 ばれそうになったら、無修正サイトから描き写したというところまで、打ち合わせた。

「あー、よかったよお。ヌードモデルやって、なんて、すっごく恥ずかしいこと言ったから、当然断られるし、そのあと気持ち悪い女の子って思われるんじゃないかと思って、ひやひやした!」

 本当かよ、すっげー堂々としてるように思ったぞ。

 いろいろと打ち合わせたあとに、そう言った綺麗子ちゃんを見て、僕はそう思った。

「えへへ、ありがと」

 そういう綺麗子ちゃんは、なんとなくかわいくて、そういうところは小学生だよなあと思ったのだった。

「じゃ、さっそく一枚、さささっと、描かせてよ」

 そのまま、僕は下半身を露出する。

「うわぁ、感動だなあ。やっぱりダビデ像と同じなんだね。ミケランジェロは偉大だなあ」

 そして、すらすらと三十秒くらいで、だいたいの形をとる。

 僕のダビデ像と同じようなおちんちんが、簡単にスケッチされる。

「はい、ありがとう」

 にっこり笑った綺麗子ちゃんに、僕も笑顔を返した。

 というのが、まあ、これまでの経緯である。

 それから、ことあるごとに、というのは言い過ぎであるが、一週間か二週間に一回くらいは、ヌードモデルをやっている。

 もともと、週末にしか家庭教師はしないので、けっこうな頻度といえるかもしれない。

 もっとも、家庭教師の仕事のあとに、服を着たままのモデルは、毎回やっているのだけれど。

「はい、おしまい」

 その言葉で、僕は服を着る。

 綺麗子ちゃんが、スケッチブックをぱたん、と畳んで、引き出しに放り込む。

 そこには、大量のスケッチブックやノートブックが入っているのがわかる。

 それは、今まで描いてきた絵の堆積物なのだろう。

「努力の結晶、って感じ?」

 僕は、その大量のスケッチブックやノートブックを指さして言う。

「ちがうよ」

 だけど、綺麗子ちゃんは、僕の言葉に、あっさりと「いいえ」を返してきた。

「これは努力の結晶なんかじゃない。私の、楽しかった思い出」

 そう言って、楽しそうに笑った。

「努力って、がんばるとか我慢するとか、そういうイメージの言葉じゃない? もしそういうイメージで、努力という言葉を使っていなかったらごめんだけど。でも、がんばったり我慢したりして、絵を描いてきたわけじゃないから」

 ぱたん、と引き出しを閉じて、こちらを向く。

 半そでから見える白くなめらかな肌がまぶしい。

 こどもの肌だな、と思う。

 とてもみずみずしい。

 つるつるしているように見える。

 水がかかったら、きれいに、はじくんじゃないだろうか。

「楽しんで、絵を描いてきたんだよ。だから、努力の結晶じゃなくて、楽しかった思い出なんだ」

「それはいいね」

 僕は、自分の意志で、我慢したいことを我慢することは好きだ。

 他人から言われて我慢させられるのは大嫌いだし、そんなことは絶対にしたくないと思っているけど。

 ストイックに、何かを追い求める生き方を、僕はけっこう気に入っている。

 もちろん、自分で何を追い求めるかを決めることができるならだが。

 だけど、綺麗子ちゃんは、楽しんで、技術が磨かれている。

 それは、とても「自然」な気がした。

 好きこそものの上手なれともいうし。

 ひとつの理想形なのだろう。

 楽しんで、楽しんだ結果、技術や成果があとからついてくる。

 そういう生き方は、とてもすばらしいと思うし、あこがれる。

 それだけじゃなくて、美しいとさえ思う。

「本当に、いいね」

 僕は、同じ言葉を繰り返す。

「同じ言葉を二度繰り返さなくても、わかってる」


 綺麗子ちゃんは、学校の成績がいい。

 そして、学校の成績さえよければ、だいたいの場合、あまり文句は言われない。

 自主的に勉強して、学校のカリキュラムを飛び越えているなら、なおさらだ。

 絵を描いていても、綺麗子ちゃんに、文句を言う人はいない。

 そんなこと、言う必要がないからだ。

 まるで、勉強さえできていれば、問題などないかのように。

 近所のお兄さんのヌードデッサンを描いていたとしても、文句を言われない。

 もちろん、こっそり描いているということもあるんだろうけど。

 ちょっと考えてみる。

 勉強ができることは、問題があることか?

 いいえ。

 絵を描くことに問題は?

 ない。

 ヌードデッサンをしようというのは?

 向学心があってすばらしいんじゃないか?

 近所のお兄さんのおちんちんをスケッチするのは?

 別に僕はかまわないと思うけど。

 たとえ勉強ができなくても、僕は綺麗子ちゃんを、問題児だとは思わない。

 だけど、勉強ができなかったら、綺麗子ちゃんを問題児だと思う人もいるかもしれない。

 それは、たまらなく悲しい想定だった。

 悲しいといえば、こういう話がある。

 綺麗子ちゃんは、インターネットをやっている。

 そこで、人と交流することもある。

 だけど、知性が高いから、あまり子供に見えないらしい。

 でも、それは問題じゃない。

 インターネットは、性別も年齢も、かき消えるから、そういう外的判断材料がない様相で、自分が世界にさらされる。

 だから、子供に見えないこと事態は、なんにも問題じゃない。

 僕も、インターネットをやっていたときに、あまり子供に見られなかったけれど、それは別に、悪いことでもなんでもない。

 ただ、実際の年を言っても、信じてもらえないことが、綺麗子ちゃんにはあるようだ。

 そればかりでなく、性別さえ信じてもらえないときもあるらしい。

 とても悲しいことだ。

 これは、綺麗子ちゃんが、悲しい想いをしているということでもあるが、それだけじゃない。

 綺麗子ちゃんが、子供に見えていない人が悲しい。

 綺麗子ちゃんが、女の子に見えていない人が悲しい。

 まるで、見たいものだけを見ているようだ。

 あるから見えるのではなく。

 見えるからあるように。

 そういう生き方が、僕はたまらなく悲しく思える。

 そこには、真実を求めようとする気がないから。

 そして、真実を求めようとする気がないことにすら気づいていないから。

 自分のやっていることが、見たいものを見ようとする生き方だと気付いている人間は、しばしば謙虚だ。

 自分が夢の中にいることを、夢の中でわかっているようなものだ。

 だけれど、自分のやっていることが、見たいものを見ようとする生き方だと気付いていないで、見たいものを見ている人間は、謙虚ではない。

 自分が夢の中にいることを、夢の中でわからずに、自分は現実にいるのだと信じているようなものだ。

 そこには、どうしようもない悲しみがある。

 見ていて、あわれでもある。

 綺麗子ちゃんを、自分にとって都合がいい、そうあってほしい姿に閉じ込める。

 子供という属性が都合の悪いものなら、それは信じない。

 女という属性が都合の悪いものなら、それは信じない。

 他人を変えようと思う気持ちは、殺人だと思う。

 でも、他人を自分にとって都合がいい姿に押し込めるのも、殺人みたいなものだと僕は思う。

 相手を見てなどいないのだ。

 相手が、どんな人間かに興味があるんじゃない。

 真実なんて知りたいとは思っていない。

 相手が、自分にとって都合のいい人間であることをただ、望んでいる。

 それは、とてもみにくいと思う。

 だけど、僕自身が、自分の嫌いな人間にばかり囲まれていたら、現実をゆがませないと、生き延びることができないかもしれない。

 相手を見ていない、そういう人は、もしかしたら、昔、とてもつらい想いをしたことがあるのかもしれない。

 だけど、それでも、自分に都合が悪い部分には目をつぶり、自分の好きなように相手をおしこめるのは、やっぱりよくない。

 そんな風にされた人は、とてもつらいだろう。

 自分の一部を、無視されたような気持ち。

 象徴的に殺されたような気持ちだ。

 プロクルーステースの寝台。

 英語でいうなら、Procrustean bedというらしい。

 プロクルーステースのベッドだ。

 寝台に寝た人間の足が、寝台からはみ出していたらその足を切り、寝台よりも小さすぎたら体を無理に引き延ばす。

 そういうことをしていた、古代ギリシア伝説に出てくる盗賊の名前だ。

 綺麗子ちゃんが、他人の都合のいいように変えられるのは、まさにプロクルーステースの寝台に寝かされているようなものだと思う。

 世の中には、プロクルーステースがいて、綺麗子ちゃんや、他のだれかを、自分の都合のいいように、体をちょんぎったり、無理やり引き延ばしたりする。

 個人と環境があったとき、環境を変えるのではなく、個人を変えようとする。

 わがままをいうな。

 甘い。

 それが常識だ。

 現代のプロクルーステースは、きっとそういうことを言う。

 伝説によれば、プロクルーステースは、テーセウス、あのミノタウロス退治の英雄に、退治されることとなる。

 僕も、現代のテーセウスになって、現代のプロクルーステースを、ばったばったと切り倒してやりたい。

 僕は、本気で言っている。

 もし、綺麗子ちゃんが、ヌードデッサンをしていることを知って、やめさせようという大人がいたら、その大人は、人殺しをしているようなものではないのだろうか。

 だって、他人を自分の都合のいいように変えようなんて、殺人じゃないか?

 変えようと思う気持ちは、殺人だよね。

自分にとって都合がいい、そうあってほしあい理想の人に変えようなんて気持ちは、殺人だよね。

でも、僕の中にも、そういう気持ちは、確かにあって、そのことを思うと、僕はやっぱり、ちょっと憂鬱になってしまうのだ。


憂鬱な気持ちの時は、曇り空がいい。

くもりぞら。

ひらがなで書くと、文字すら優しく思える。

でも、ひょっとしたら、優しく見えるのは、ひらがなで書くことで起こる、一般的現象かもしれない。

それはともかく、曇り空は、憂鬱な僕の心に寄り添ってくれる。

曇り空が嫌いだという人の中には、曇り空が暗い気持ちになるからいやだという理由の人がいるらしい。

でも、曇り空のおかげで、救われたような気持ちになっている人だっているはずだ。

しんどい気持ちのときに、だれかの明るい笑顔や、いっぱいに広がる青空をみたくないという人もいるだろう。

綺麗子ちゃんも、曇り空が好きなんだ、と言っていた。

理由は聞いていない。

僕とは違う理由で、好きなのかもしれない。

あるいは、同じ理由なのかも。

それでも、なんでそれを好きなのかを聞くことは、あまりにも深い領域に踏み込んでいってしまうことだと僕は思っているから、躊躇してしまう。

質問を投げかけたときに、誠実な答えが返ってくるとしよう。

すると、その答えは、僕が望んだものではないかもしれない。

だけど、それを受け止めなくてはならないと思うのだ。

曇り空が好きな理由が、自分にとってショックなものであっても、それを受け止めたいと思うのだ。

だって、もし自分が、誠実に答えたのに、相手がびっくりしたような顔をしたら、とてもつらいからだ。

なんで曇り空が好きなの?

そう、僕が聞かれたとしよう。

僕が、憂鬱な心によりそってくれるから。

そう答えたら、相手はびっくりするかもしれない。

ネガティヴな答えに対して、相手の心の準備が出来ていないということは、ありうる話だ。

だけど、僕はそんなのは嫌なのだ。

自分が正直に誠実に答えたのに、どうしてびっくりするのか。

あなたは、おだやかで普通の答えが欲しいのか?

それはつまり、僕の正直な気持ちを聞きたいんじゃなくて、ただ耳にここちよい言葉を聞きたいだけなんじゃないか?

そんなだったら、最初から質問するなよ。

そう、思ってしまう。

だから、僕は、相手に質問するときは、よく考える。

嫌いな人間になりたくないから。

相手の答えにびっくりして、嫌な顔をするような人間になりたくないから。

だから、僕は、綺麗子ちゃんが、なんで曇り空を好きなのか、まだ知らない。


僕が憂鬱な気持ちなのは、きっと嫌なことをいっぱい考えるからだ。

しばしば、死にたいと思う。

鬱傾向を測る心理検査があったら、きっと誠実に答えたら、それなりに高い計測結果が出るだろう。

それにしても、心理検査、特に性格検査というのは、非倫理的だ。

僕は、大嫌いである。

 性格検査は、いろいろあるが、質問紙法、投影法、作業検査法といった、「検査のやり方」で分類することが、まずできるだろう。

 質問紙法とは、アンケート調査のように、質問を書いた紙を渡して、それに回答させるものだ。ミネソタ多面人格目録などが有名である。

 投影法は、ロールシャッハテストのように、何か作業をさせて(たとえば絵を描くとか、絵を見て解釈させるとか)、その結果を分析・解釈するというやり方だ。

 そして、作業検査法とは、内田クレペリン精神作業検査が有名だが、何かの作業を行って、その作業速度などから性格を測るというものだ。

 僕は、このすべてを受けたことがある。

 まず、技術・哲学的な観点から問題をいえば、これらはある種の、あらかじめ決められた型に、人を押し込むものだ。

 実際の例で見てみよう。

抑うつ傾向を調べたいと思ったら、抑うつ傾向を測るための質問を、事前に作っておく(たとえば、「最近、よく死にたいと思う」、など)。

 その質問を複数組み合わせたものを、尺度として構築する(「最近、よく死にたいと思う」、「最近、よく眠れない」などを複数用意する)。

 そして、その質問で、抑うつ傾向を示す回答が多いと、抑うつ的だと示される(質問に肯定的に答えたら抑うつ傾向を示す場合も、逆の場合もある)。

 「最近、よく死にたいと思いますか?」イエス。

 「最近、よく眠れませんか?」イエス。

 「自分には価値がないと思いますか?」イエス。

 「自分が消えてなくなってしまえばいいとは思わない」ノー。

 「自分は社会に貢献できる人間である」ノー。

 オーケー、あなたは抑うつ傾向が高いですね。

 そして、うちの会社では雇えませんとか、デパスかパキシル出しておきましょうか、とかが来る。

 もちろん、実際に自殺したいと思っている人がいたら、それは、間違いなく手助けが必要な人だろう。

 しかし、そういう質問をまとめて、それを抑うつ尺度として使っていいのか?

 そんなに単純に、枠にはめていいのか?

 なにか、見落としているんじゃないか?

 専門用語を使えば、妥当性(測ろうとしているものを、ちゃんと測れているか)があるのかどうかを、心理検査では、そもそも判断のしようがないんじゃないか?

 だって、抑うつ傾向は、手で触れるわけでもない、概念にすぎないのだから。

 概念をきちんと測れているかなんて、どうやっても観測不可能じゃないか。

 客観的な判断基準がないのだから。

 自然科学においては、ある理論の妥当性は、その理論を使って何か実験をするなり、工業製品を作ってみるなりして、予想通りの結果が出るかで判定することができる。

 しかし、心理試験の場合、いったいどうやって正確に測るというのだろうか。

 それに、自然と違って、人の心は人によって違うし、時間や場所や相手によっても変化するのだから、実験のように同じ結果が出るとは限らない。専門用語でいえば、信頼性が低い。

 それに、そもそも、そんな風に特性に点数をつけられて判断されたくない。

 それじゃあ、まるでモノみたいだ。

 僕は実験動物じゃない。

 大切に扱われていない感じがする。

 これが、一番大きな倫理的問題だ。

 さらに、虚偽尺度(社会的に望ましいことだがほとんどありえない、たとえば「一度も嘘をついたことがない」とか、逆に望ましくないことだがよく見られる行為、たとえば「何度か約束を破ったことがある」)の回答によって、答える人が嘘をついているか、より丁寧な言い方をすれば、自分をよりよく見せようとしていないかを調べるなんてことも行われているが、このやり方もいやらしい。回答を拒否する権利を否定するのか?

 しかも、この回答は比較的簡単に偽ることが可能だ。

 ところで、性格検査は、二つの大きな仮説によってつくられている。

 特性論と類型論だ。

 特性論とは、RPGで言うところの、パラメータによって性格が特徴づけられるという考え方だ。現在は、人間の性格は五つの因子に分解できて、それぞれの特性を人は持っているという仮説が幅を聞かせている。

 類型論とは、ある人間がいくつかある型のどれかにあてはめられるというような考え方を指す。

 しかし、特性論も、類型論も、どちらも、こちらが正しいと証明されたわけではない。

そもそも性格というものがどういうものかについては、証明のしようがないのだから、特性論や類型論のどちらが正しいかなんてわかりっこない。

つまり、実際のところ性格というのは何なのかの、単に解釈の違いでしかない。

ナオミ・L・クエンクの、「タイプ論と特性論の重要な違い」(出典:http://www.mbti.or.jp/what/zirei2_a.php)によれば(タイプ論とはつまり類型論のことだ)、「性格理論の研究者が特性論を好むのは、統計的な処理がしやすいということと、類型論が多様性を認めないかのように誤解されているからだ」という。

「特性論では、①誰もが少なくとも特性を「ある程度」は普遍的に持っており、②特性論的な見方には価値判断や評価が必然的に伴う(言語化されることもされないこともある)、ということが暗黙のうちに了解されているということ」という指摘は、慧眼だと思う。

たとえば、社交性という特性をみんなが持ち(①)、それは高い方がよい(②)といった風に。

この二番目の指摘が非常に重要だと思う。

特性論的な見方には、価値判断や評価が必然的に伴う。

これは、要するに、現代の優生学の一種ではないか。

ある特性があります。

それが社会にとって望ましい/望ましくない。

だから、それを多くもっているあなたは、社会にとって望ましい/望ましくない。

よって、あなたはこの組織/病院に、入れます(入るべきです)/入れません(入るべきではありません)。

人間に、価値の優劣をつけて、選別する試験。

非常に邪悪だ。

滅ぼさなくてはならない。

「タイプ論は、量や程度で人の特徴を説明するものではなく、常に対となる正反対の極があり、一方の極で特徴づけられる人は、他方の極で特徴づけられる人とは質的に異なるという見方をする。(中略)人のタイプの場合は、先ほどの果物のたとえとは異なり、タイプ論は一方の極に属する人も、対極の心も使えるということを考慮に入れている。(中略)しかし思考機能タイプの人は、思考機能を保ちながら、その対極の感情機能を用いて判断することができる。タイプ論のこのような特徴は、それぞれが複雑に作用して全体性を成しているが、一つひとつは質的に異なるという考えといえる」という説明があるが、それは、この論文で述べられているMBTIが、ユングのタイプ論の流れをくむものだからかもしれない(そもそも、類型論と訳されることが多い言葉を、ユング派は、だいたいタイプ論と訳す)。

もしクレッチマーの類型論の流れをくんでいたら、こういう風にはなっていないだろう。

それにしても、二つの対極の心の機能があり、どちらをより優先的に使っているかというのが、ここで述べられていることだが、これなら僕にも納得できる。

上記引用の「質的に異なる」というのはどういうことなのかという点についての答えは、「それでは、どのような意味において、タイプ論における指向(心の機能などの一つひとつのカテゴリー)が「質的に異なるカテゴリー」といえるのであろうか。まず指向とは、それぞれが正反対の極に位置する心の活動であり、 二つを同時に使うことはできないものを示す。自分の身の回りで起きていることと自分の内面に同時に集中することはできないし、具体的な現実とこれから起こりうる可能性の両方に同時に意識を向けることはできない。しかし、 我々は二つの対極の機能を継続的に交互に使用するが、いつもどちらかというと使いやすいほうの指向を優先的に使い、その後でもう一方の心を使うのだ」となっており、とてもわかりやすい。

自分の体の外に集中するか、中に集中するかは、質的に異なる行為だ。

そして、通常、このふたつは、対極に位置すると考えられる。

しかし、自分の体の外にしか集中しない人はいないし、体の中(つまり精神や心)にしか集中しない人はいない。

 このように、背反する二つの指向のどちらも人は持っているが、それを同時に使うことはできないし、どちらかをよりよく使うことが多い。そして、そのよりよく使うだろう指向を、「内向型」や「外向型」のように分類するわけだ。

 しかし、このタイプ論でいうところの「内向型」や「外向型」は、もちろん、特性論でいうところの、「特性」ではない。

 RPGのパラメータじゃないのだ。

「外向/内向の指標を特性として扱う場合、人はただ外向(尺度の作られ方によっては内向)を実演する程度差があるということになる。内向とは、外向(または内向)が低い状態、また外向が無い状態として定義される。タイプ論が本来提唱しているように、外向と内向を質的に異なる存在のあり方として考えるならば、一方を他方の低下、あるいは消失と定義することはできない。本来、外向と内向それぞれを定義するひとつのまとまりを質的に異なるものとして扱わねばならない。するとタイプ論のいう外向と内向は、習慣的にエネルギーが外に向かって流れるか(外向)、内に向かって流れるか(内向)だけを見ており、その表れとして、心的なあるいは行動上の特徴があることが理解できる。あくまでも得点が、外や内に向かうエネルギーの量や程度について述べているのではないのである」(強調は筆者)。

 「内向型」の人間は、別に内気であるとか、外向が低いとか、そういうことではなくて、習慣的にエネルギーが内に向かってながれる、ただそれだけのことなのだ。

 そこには、なんの価値判断も入っていない。

この論文では、「スキルや病理についての推測が成立してしまうこと」について、警鐘が鳴らされているが、僕もまったくの同意見だ。

「あなたのMBTIの直観における得点が知り合いより高い場合を、特性論的に考えると、あなたはその人より 「もっと直観的」であると解釈してしまうだろうし、場合によっては、その人より「良い直観をもっている」と思い込んでしまうかもしれない。するとそう解釈された相手の人は、もっと直観を向上させなければいけないと思うかもしれないし、次にMBTIに回答しもっと高い直観の指向得点をとったとすると、前よりも直観的になったと解釈してしまうかもしれない。あるいは直観的なことを必要とする会社では、MBTIで直観の指向得点が高い人を、「直観に優れている」と捉え、採用しようとするかもしれない。

 これらはいうまでもなく、すべてタイプを特性論として捉えた完全な誤用である。このように、タイプの指標を量や程度で述べる場合、我々はそのスキルのレベルにおける高低や、そのほかの「よけいなこと」について誤った解釈をしてしまう。たとえば、ある人が内向の指向得点が高いことを「とても内向的」と捉えたら、その人は社交的なスキルに欠け、人への興味がなく、内気と解釈してしまうだろう。また判断的態度の指標で高い得点が報告されたことを「とても決断が早い」と誤って解釈してしまったり、決断を最後まで待つ知覚的態度の得点が高い人のほうがいいと思いこんでしまうこともあるだろう。またすべての指標において指向得点が低い人を、自己理解や自信に欠けているため用心すべきと考えたり、あるいは、両方の指向をバランス良く使っていて、柔軟性があると評価してしまったりと、恐ろしいほどの誤った解釈をしてしまうという結果に陥るのである。

 さらに特性論的な見方でタイプを解釈する際に生じる最大の弊害は、他者のその人の固有のものを受け入れなかったり、それぞれの価値を置くところや動機などを同等に評価する機会を失うことである。

 そもそもタイプ論は、それぞれの人の態度、動機、行動などは、それぞれが指向するタイプによってまったく異なっており、あるタイプにとって当たり前でふつうのことが、他のタイプには当たり前でないことがある、と教えてくれる枠組みを持っている。たとえば内向を指向するタイプの子供が、学校の休み時間のほとんどをひとりで本を読んで過ごすことは、そのタイプに自然なことであり、その子にとっては当たり前、つまり「ふつうのこと」なのである。しかし反対に本来外向タイプの子供が学校の自由時間を前者の子供と同じように過ごした場合は、心の状態に特別な注意を払う必要があるかもしれないのである。

 ところが、単一の一定の基準をもってこの子供をみた場合、どちらの子供も内気、非社交的で社会的には不適応と捉えられたりする。また人を統率したり組織しようとする心の動きは、性別を問わず外向を指向するタイプの表われといえる。それを男性の特権のように捉えて、一定の基準が確立している我々の文化では、女性がそうすると、強引とかしきりたがりやなどマイナスに捉えられることがよくある」(強調は筆者)。

 性格検査で最も邪悪なところは何かといえば、ある種の、実在すると仮定された要素をほめそやしたり、逆に、けなしたりすることで、価値判断をおこなっているというところにある。

 それは、社会の価値観を反映している。

 そこには、「社会が間違っている」という可能性は考慮されていない。

 もはや、科学ではなく、イデオロギー強化装置として、心理検査が実行されているのが現実なのではないだろうか。

 ようこそ、二十一世紀のディストピアへ。


 このようなディストピアを僕は破壊したい。



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