第二章:絶望が死に至る病なら、失望はどんな病気だろう
第二章:絶望が死に至る病なら、失望はどんな病気だろう
僕は、この世界に失望している。
これから少し、僕の失望について話そう。
生きている限り、常に希望はある。
なぜならば、生きている限り、常に「より悪くなる可能性」があるからだ。
ちょっと待ってほしい。ならば、これは、希望ではなくて、絶望なのではないか?
いや、そうではない。
生きている限り、常に「より悪くなる可能性」がある、それはすなわち、まだ現実にはより悪くなってはいないし、それはつまり、『「より悪くなる可能性」を叩き潰す可能性』があることを意味する。
これこそが希望である。
生きている限り、常にまだ何かできることがあるということ。
「最悪の事態はまだ起きていない」ということ。
つまり、最悪の事態を回避することができるということ。
それが、つまり、希望である。
最悪の事態は、生きている限り、いつでも僕たちのそばにいる。
しかし、それは常に、退けることができる。
あるいは、僕の論理は破綻しているだろうか?
常により悪くなる可能性があるということは、最悪の事態は決してやってこないということになりはしないか?
それならば、何もしなくても絶望しないのでは?
いやいや、何もしないこと、それ自体が絶望なのだ。
やはり、僕の論理は、どこかで破綻しているのだろうか?
僕は、自分がくるっていないと思っている。
僕は、頭がおかしいわけじゃないと思っている。
本気で、僕は、自分が正気だと思っている。
他人が何と言おうと、僕は自分の正義を確信している。
正義は、他人に定義づけられるものではないからだ。
自分の信じた道を、困難にも関わらず歩んだ人のことを考えるとき、僕はゴッホのことを思い出す。
ゴッホの手紙を読んでみると、実にたくさんの困難にであっていることがわかる。
しかし、その手紙は、常に打開策を探っている、すさまじいほどの前向きさにあふれている。
自分の目指すところを目指す、マグマのような何かを、僕は手紙から感じる。
ゴッホは、やっぱり超すさまじい。
特に、あの、転落エリートっぽいところが、気に入っている。
それなりの家柄であったのに、仕事がうまくいかず、くびになる。
牧師になろうとがんばるが、貧しい人々を助けようとしない教会のお偉方と相いれなかったために、牧師にはなれなかった。
自分の持ち物やお金を貧しい人に与えたにもかかわらず、かえってそのことで、聖職への道は、とざされた。
後世の僕の目から見ると、これはゴッホが正しいとしか思えない。
優しさや正義がどちらにあったのか。
僕はゴッホだと思う。
ゴッホは、手紙かどこかで、殉教者になりたいわけではない、と言っていた。
でも、ゴッホは、本当に殉教者めいた生きざまと死にざまだった。
そういうゴッホのことを思うと、投機目的でゴッホの作品を売買している連中を見るとき、「反対!」と言いたくなる。
芸術品を、投機目的で売買する人たちにもだ。
ある意味、それは、パトロンがいて、彼らのために描いていた時代の流れをくむものかもしれない。
お金もちのための芸術。
でも、ゴッホは、お金もちの人のための芸術なんて考えは持っていなかっただろう。
もしそうなら、あんな題材で絵は描かなかっただろうし、あんな描き方をしなかったはずだ。
ゴッホのやり方は、当時の主流とは、まるっきりずれていたのだから。
(この、「主流からずれている」という言葉に、僕は親しみを感じてしまう)
ゴッホは後期印象派に区分けされることが多いはずだが、ゴッホの描く絵は、だれの絵にも似ていない。
もし分類するなら、印象派なのだろうけど、それでもどことなく、「唯一無二」のにおいがする。
ただひとつ、僕の知っている中で、ゴッホに賛成できないことは、ゴッホが娼婦を買ったことがあるらしいことだ。
それは、かっこいいとは思えない。
だけど、僕は、ゴッホほど強くはなれないと思うのだ。
そんなに一人でしっかりと立つなんて。
最後には、ゴッホは死んでしまった。
自殺だとも他殺だとも言われているが、それでも、途中まで、しっかりと立っていたのは確かだ。
僕は、そんな風に強くなりたいけど、自信がない。
だれかがそばにいてほしい。
たとえ、それが現実に存在しない存在であっても。
IF ITS WRONG TO LOVE AN IMAGINARY CARTOON CHARACTER WHY IS IT FINE TO LOVE GOD?
もし架空の漫画のキャラを愛するのが間違いなら、神を愛するのはどうして大丈夫なの?
出典不明
オタクの定義とは何か、と聞かれたら、何と答えるだろう。
百人百通りの答えがあるだろう。
僕も、僕なりの定義をもっている。
それは、現実で手を触れることがかなわず、しゃべることできない、そんな存在を、愛することができるかどうか、だ。
これがオタクの定義とは思えない、という人もいるかもしれない。
でも、僕にとっては、この領域にたどりつけたもののイメージが、「オタク」なのであろう。
そして、この定義からすると、僕はオタクではない。
なりたかったけれど、なれなかったのだ。
中学のときが、今までの人生で一番さみしさを感じたときだった。
すごく、さみしかった。
学校に友だちはいた。
それでも、さみしかった。
家族もいた。
それでも、さみしかった。
恋人はいなかった。
だから、いたらどうなっていたのか、わからない。
そのさみしさの中で、アニメに出てくるすてきなお姉さんに、僕は恋にも似た感情を抱いた。
かわいいと思った。
好きだと思った。
愛しいと思った。
もい、僕がこのアニメに出てくるお姉さんを愛することができたなら、たとえ恋人がいなくても、僕は幸せになれる、そう思った。
結論から言おう。
だめだった。
アニメの中の女の人は、僕に話しかけてはくれなかった。僕とおしゃべりできない。僕はあの人に触れられない。あの人の声が聞こえて、仕草も見えるのに、話しかけることも触れあうこともできない。
住んでいる世界が違うのだ。永遠の片想いのようなものだ。
僕はそれでは満足できなかった。それではさみしさは消えない。
絶望した。
消えないさみしさに。
あの人と僕とが次元の壁ではばまれてあることに。
「それでも自分があの人を好きなんだ」ということで満足できない自分に。
それは、つらく悲しい挫折だった。
もし、それが成功すれば、一人で完結した人間になれたものを。
幸せを他人に依存することなく、生きていけたのに。
さみしさを、自分の愛情だけで埋めることができたなら、他人の力を借りずに、幸福になれる道だと思ったのに。
僕には、一人で、しゃべることも触れることもかなわない人を愛し続け、それに満足するということが、それで幸せを感じるということが、できなかった。
これは、悲しい発見だった。本当に、悲しい発見だった。
そういえば、昔、アニメの登場人物が出てくる夢を見たことがある。
その中で、僕は幸福だった。
夢の中でなら、一人でも完結した幸福を得ることができる。
だけど、目を開けたまま夢を見ることが、僕はできない。
たとえ存在しない存在であっても、僕がきちんと愛して、満足することができたならよかったのに。
僕は、たぶん、だれかとつながりたいのだ。
他者と、優しく、つながりたい。
人は、互いを理解することができる。
そう、自分は信じている。
他者のこころはわからない、と人はいう。
しかし、これは論理的に間違っていると思う。
正確には、他者のこころが自分の考えた通りか違うか、わからない、だと思う。
悲しい顔をしている人を見て、悲しい気持ちになる。
僕たちはつながっている。
そうじゃないか?
しかし、僕たちはつながっているはずなのに、僕はそのことをうまく感じ取れない。
そればかりか、まわりにバカにされたり、見下されたりしている感覚さえある。
わたしを責めているのは、わたし。
これは、真理だ。
学校で、うまく人と話せなかったとき、僕は自分を責める。
ほかの人が自分をかっこわるいと思っているんじゃないかと思ってしまう。
これが、肥大化した自意識なのか?
自分の心が作り出した重みに、押しつぶされそうだ。
これは、自分の心が創り出した、空想に過ぎない。
自分が他人に嫌われているかどうかは、本当かどうかわからない。
仮に嫌われていたとして、そのことでいろいろ考えてしまって、結局つらくなってしまうけど、そのことについて考えなければ、あまりつらくならないだろう。
つまり、自分を痛めつけているのは自分だ。
だけど、そういう自分の心を、僕はどうすることもできないでいる。
何もかもが自分の思い通りにいったら面白くないだろう、なんてセリフを聞いたことがあるが、それが真実だなんて、自分の経験からすると、とても信じられない。
僕が幸せだと思ったときは、人生が思うように進んでいる、と思えたときだった。
いつ面白いか、なんて感受性の問題を、一般化するなんて、暴力的だ!
僕は、僕の心も、ちゃんと空想を空想として、現実の恐怖にならないように、制御できたらいいのにと思う。
そうすれば、幸せになれる気がするから。
それとも、それは、間違っているのか?
自分でいろいろ悪いことを考えて、それに押しつぶされてしまいそうだ。
イヤなことが雪のようにつもって、雪つりをしていない木が、折れてしまうように、いつか、僕の心もぽっきりと折れてしまうんじゃないか。
僕は、そんなことを、思っているんだ。
失望について、話しているはずなのに、もしかしたら、これはもう失望ではなくて、絶望なのかもしれない。
僕は、この世界で、子供を産むことが、正しいことなのか、疑問だ。
だって、この世界は、悪い世界だから、こんな世界に生まれてくる子供が、かわいそうだ。
いじめで自殺していった子が一人いるだけで、十分この世界は、存在するに値しない。
この世界は、生きるに値するが、生まれてくるには値しない。
だから、子供を産むべきじゃない。
以下、論証。
1.人はいつか必ず死ぬ。僕は死ぬのが怖い。この恐怖を自分の子供に味あわせたくない。子供を産むということは、間接的に子供を殺すということだ。だって、その子は、産まれたために、必ず死ぬ運命を背負わされてしまったのだから。
2.人は生きている以上、不幸を避けられない。生きているなら、必ず失敗する。その中には、本当に死ぬまで引きずるような後悔もあるかもしれない。自分の子供が、人は失敗するのだから後悔するなと口でいうだけで、後悔しなくなるような人間じゃなかったら、生まれたせいで不幸になるのは約束されたようなものだ。
3.原発事故。子供への影響はわからないし、水俣病のときがそうだったように、きっと国は保障から逃げ続けるのだろう。こんな国で子供は産めない。
人を、一人、数人、数十人、数百人、数千人、数万人、殺すのは罪である。
だって、残された人たちが、悲しい想いをする。
悲しみが、連鎖してしまう。
不幸が、後に残る。
ならば、「みんな」殺すのは罪じゃない。
この世界の人間、生き物、全部殺すのは、罪じゃない。
なぜなら、すべての生き物が死に絶えたとき、そのあとにはもう、不幸がないからだ。
だから、それは善行である。
こんな話を聞いた。浮気相手を結婚式の披露宴のムービーで告発し、そのあとその相手を自殺に追い込んだ話だ。こういうことは、正義なのだろうか。
仮に正義だとしても、それは幸せをもたらさないような気がする。
いやなやつに復讐する。
それは、正義だと思う。
でも、それが幸せをもたらさないものであるなら、正義をあきらめ幸せを取るか、幸せをあきらめ正義を取るかしなくてはならない。
僕は、このとき、きっと正義を取るだろう。
でも、これは自分で選んだ結果じゃない。
僕は、いやでも、正義を選ばざるをえないだろう。
だって、そういう性格なのだ。
どうしても、僕の心は、正義を選ばないことができない。
そういうことって、みんなあるんじゃないだろうか?
実際のところ、どちらを選ぶかは、性格によってがっちりと決まってしまっているような選択が。
僕たちは、本当にものごとを自由意志で選んでいるのか?
本当に、僕は、それを疑問に思っている。
もし、いつか給料をもらったら、それで僕はナイフを買おうと思っている。
もし、自分がどうしようもなくなって、生活保護を申請するときに、断られたときのためだ。
本当は違法なのだが、まだ働けるでしょ、とかなんとかいって、貯金もない人間をそのまま追い返す職員が、けっこういるらしいと聞いた。
人殺しである。
そんなことをするなら、彼らは、人殺しだ。
彼らが追い返した人間が、餓死はともかく、自殺くらいなら、彼らは気づかない。
日本における最後のセーフティネットを使わせない、おぞましい人殺しである。
それはまるで、同級生をいじめていて、卒業後にその同級生が人間不信や対人恐怖症になって、あげく十年後くらいに自殺したとしても、その罪を自覚することのない、いじめ殺人者たちのようだ。
だから、僕は、もし、自分がのっぴきならない状況になって、それにもかかわらず、生活保護を拒否されたときに、その職員の頸動脈を掻っ切ることができるように、ナイフを買うつもりだ。
お金がなくて死にそうなのに、まだ働けるでしょ、などという人間は、殺されたってしかたがない。
僕は、自分がそんな境遇にあるのに、それを追い詰めるような不正な人間を許さない。
モンテーニュが、エセーの中で言っていた。
「野蛮人」を宮廷に連れて行ったという話の中だったはずだ。
そこでその「野蛮人」は、言うのである、なぜこの国には富裕な人と貧しい人がいるのに、そのような不正がまかり通っているのに、貧しい人が富裕な人を殺さないのかわからない、と。
僕は、この意見に、全面的に賛成する。
「まず第一に不思議だと思うのは、王様のまわりにいる、髭を生やしたたくましい、武装したおおぜいの大男たちが一人の子供に甘んじて服従していること、どうして大男のあいだから誰か一人を選んで王様にしないのかということである。」
「第二にあなたがたのあいだにはあらゆる種類の安楽でいっぱいになっている人たちがいるかと思うと、その半分たちが(彼らの言語では、たがいに他人たちを自分の半分と呼ぶならわしがある)飢えと貧しさに痩せおとろえて、彼らの門前に物乞いをしていること、しかもこれらの窮迫した半分たちが、このような不正を耐え忍んで、他の半分たちの喉をしめたりその家に火をつけたりしないことが不思議である。」
しかし、おそらく、道徳的には、最後まで暴力を使わずに、自分の正しさを言いながら、餓死するのが正しい生き方なのだろう。
もちろん、餓死するまでに助けられたら、それが最もよいのだけれど。
僕は、正しく生きたい。
理性の力で、不正に対する怒りをしずめ、真理と正義の側に立ち、助けてくれと言いながら、暴力は使わない。
そんな、徳に満ち満ちた生き方をしたい気持ちがある。
しかし、僕は、そんなふうに生きたくないとも思っている。
まちがったことをしている人間のせいで死ぬなんてまっぴらだ。
ごはんを食べることができている人間がいる一方で、食べることができずに死ぬ人間がいるこの不公平を、ただ間違っていると言うだけで、実力行使はせずにいる。
そんなことをしたくない。
お前たちのやっていることは不正なのだと怒りで全身をふるわせながら、僕を見捨てようとした社会に復讐したい。
そして、たとえば、死にそうな僕に生活保護を与えなかった、生活保護課の担当職員を殺したい。
殺せる人間でありたい。
なぜなら、それは正しいことだからだ。
正当防衛だからだ。
ここで生活保護を断られたら死んでしまう、そんな人間に対してお金を与えないのは人殺しである。
職務怠慢でもある。
自分の生命を守るために、そういう人間を殺すのは、間違っていない。
それは全然、身勝手なことではない。
身勝手なのは、そこまで追い込まれた人間を見捨てた人たちの方である。
この場合、正義は殺人者の方にある。
そう思っているが、実際に人を殺せるかどうか、自信がない。
僕は、そういうときに、人を殺せる人間でありたい。
でも、僕は自分が、理想の自分のふるまいをできなかった、数々の経験を覚えている。
また、できないんじゃないか。
ちゃんとそういうときに、自分の正当な怒りを表明できる人間になりたいのに、そこまでひどいことされたらきちんとやり返す人間でありたいのに、はたしてちゃんと殺せるかどうか、自信がないのだ。
ソクラテスは、悪法もまた法なり、と言った。
ソクラテスにとっては、悪法でも法は法であり、その法に従うことが正義だと考えていたのだろう。
僕は違う。
僕にとっては、悪法は悪法、すなわち不法であり、その法に従うことは不正や不法に従うこと、すなわち悪、不正義だと考えている。
よって、自分がおかしいと思う法律に従わないことは正義であり、自分がおかしいと思う法律に従うことは悪である。
法律を自分の価値観よりも上位に置くということは、権威に服従するということであり、それはすなわち、自分の頭で考えていない無責任な態度である。
ミルグラムの服従実験で、教師役の人間に言われるがまま、電気を流した、あの人間のもっとも醜い部分を、肯定するかのような態度である。
(ちなみに、これはあまり知られていないことだが、ミルグラムは、服従実験の条件を十八種類設定して、服従率を調べている。条件によって、服従率は大幅に変わり、最高のショックを送った比率は、0.0%~92.5%までの幅がある。40名中37名=92.5%という本実験最高の服従率をたたき出した条件は、被験者が別にいる実行役に通電を命ずるだけという条件だった。笠原敏雄「加害者と被害者のトラウマ PTSD理論は正しいか」pp.136-138を参照)
自分で自分の人生に責任を取るということは、たとえ法律であろうが神さまであろうが、どんな権威に対してでも、間違っていると思うことには反抗するということだ。
それこそが、最も正しい人間の生き方だと思う。
僕のこの確信に自信を与えてくれたのが、「ナイフ一本で世界は変わる」という小説だった。
これは、家もなく、所持金が十二円で、生活保護をもらわなければ死んでしまうという年取った男が、今まで散々ひどいことを言ってきた生活保護担当の職員をカッターナイフで殺すという小説だ。
現実に高齢者の自殺や貧困率が、他の世代よりも高いということを聞いたことがあるが、それを反映したのかもしれない。
殺人により、彼はひとまず、餓死や自殺の危険はなくなり、警察につかまる。
だが、自分の正しさを社会に向けて発することで、同時多発的に日本の貧困層が殺人や強盗などの暴動を起こし、この社会に復讐をはじめる、という話だった。
僕の思っていたことと、とてもよく似た哲学、価値観が書かれてあった。
これが、ユングのいうところの共時性、いわゆるシンクロニシティなのかもしれない。
確か、ユングも、ふとしたときに、なんの気なしにめくった本のあるページが、自分に天啓を与えてくれたり、まさに欲しかった言葉を与えてくれたりすることがあると言っていた。
記憶がまちがっていなければ、確か、そういうことを、シンクロニシティと言っていたはずだ。
ところで、上述の、PTSDに関する本だが、面白いことがいろいろ書いてあった。
斬新な理論で、そうかもしれないと思う部分も、賛成できない部分も、どちらもあった。
「幸福否定」という概念が、鍵となる概念として使われていた。
自分の本当の心(無意識や深層意識と言いかえてもいいかもしれない)は、幸福になりたいと思っているのだが、自分の心(これは通常意識と言っていいか微妙だが)は、それを否定するような行動を起こす、というのが、幸福否定らしい。
たとえば、宿題をすぐにやればいいのに、それを後回しにするとか、自分の好きな人の顔を思い出すことができない、とか。
僕の場合、宿題をすぐにやればいいのにダラダラする、というのは、あまり当てはまらないように思う。
だが、自分の好きな人の顔を思い出すことができない、というのは、わかる。
だれかに恋をしたとき、その人の顔を思い出そうとして、思い出せないことがあったからだ。
賛成できないのは、たとえば、43ページで、虐待としつけが量的な違いにすぎないというのは疑問だというところ。
暴力をふるわれたら、それはやっぱり嫌なものを残す可能性があるだろうし、親や先生の言うことを無条件に正義としているようにも見える。
あらゆる権威からの自由を人間性の向上と考えている様子(157ページ)とは、少し矛盾するのではないかと思った。
また、250ページで、いわゆる「ペットロス症候群」を異常な悲しみ、と描写している点も、それは違うのではないかと思った。
異常というのは、家族などとは違い、心理的に近い距離にあるはずがないので、そんなに悲しむのは、知り合いの死やよく知らない人の死を深く悲しむように異常な事態だ、ということなのだが、心理的に近くないというのは、思い込みにすぎないのではないかと思う。
しかし、精神分裂病を、今の名称では、統合失調症を、(通常忘れている)症状発症・再発の直前にあった出来事を思い出させることによって、治療する方法はとても興味深かった。
要するに、薬物を使わずに、心理操作だけで、回復させることができる方法があるらしいのだ。
また、United States Strategic Bombing Surveyによる、The Effect of Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasakiに、1945年12月31日までには確実に日本は降伏していただろうことや、ドイツと違って、日本は連合国軍が来る前に機密文書を破棄できたために、日本軍の残虐行為が極東軍事裁判所で徹底的に追及されることがなかったこと、ニュルンベルク裁判は極東軍事裁判よりもはるかに厳しかったこと、中国大陸ではB・C級戦犯に対して認罪学習が行われていたこと、ベトナム戦争でのPTSD発症率は、残虐行為に関与した場合、黒人では有意に高かったが、白人では有意に低かったという、ローファーらの研究(Laufer, Gallops, Frey-Wouters, 1984, War stress and trauma: The Vietnam experience.)の紹介などは、面白かった(184-186ページ)。
この本では、自分の責任を回避し、反省を回避することが、偽りの安定をうみ、それができなくなってきたときに、不安定になるといった説明をしている(177ページ)。
第二次世界大戦のときの、日本軍の残虐行為を直視しようとすると、一部の国民の間から強い非難の声があがるのは、責任回避のためなのではないかとしている、これは僕も賛成できる部分だ。
筆舌に尽くしがたいほど残虐な行為を中国人に対して行ってきた元日本兵たちが異口同音に語った、虐殺を許す要因の笠原によるまとめがある(前掲書117-118ページ)。
1.(対ソビエト戦に備えて精鋭を温存すべく、多くは家庭を持つ年長の在郷軍人が招集されたため)応召すること自体に、そもそも不満があったこと
2.遺書を書くことを命じられるなどにより、生きて帰れないことを思い知らされ、自暴自棄的になっていたこと
3.上官による”絶対服従”の命令に従わなければ、即座に殺害される可能性があることを含め、自分のほうが重罰を科せられてしまうこと
4.予想外の苦戦を強いられたうえに、不満足な装備のまま、さらなる進撃を迫られたことなどから、憤懣や復讐心が高まっていたこと
5.個々の部隊や兵士が、互いに戦功を競い、先陣を争っていたこと
6.中国人を人種的に見下し、人間として扱おうとしていなかったこと
7.あわよくば上官にとり入ろうという下心があったこと
8.上官や部下などから、臆病者や腰抜けと見下されたくない、仲間はずれになりたくないという切実な思いがあったこと
9.”勇気”や”権力”を誇示したいという願望があり、さらにはそれらを誇示することに快感を覚えたこと
156ページには、こうある。
「一部の残虐行為に内在する権力や快感を味わいたいという動機は、状況に便乗しただけの利己的動機に入るので、それを別にすると、以上の検討から浮かび上がった、直接の影響力を持つ権威による命令、その権威への積極的忠誠心、帰属集団による容認、その集団からの排斥に対する強い恐怖心、相手に対する(人種的)見下しという五条件」。
しかし、それでも、最終的に手を下したのは自分であり、自分に責任があるのは確かだが、その自分の責任は見て見ぬふりをし、権威にしっぽを振って、主体性を喜んで放り投げた結果が虐殺だ。そのことに、主体性を持った自分(笠原の言葉では本心)と、権威に従う自分(幸福否定をしている、笠原の用語では内心)との間に対決が起こり、それが心因性の病気を引き起こすのではないか、というようなことを述べている。
ここが、僕のこの理論で、かなり注目すべきポイントだと思う。
主体性。
143ページに書いてあるのは、要するに、自分の心の中の空想の話だ。
僕が考えていたことと同じだ。
シンクロニシティ。
「ここが最も重要なところなのですが、実はこれは、権威と自分との対決ということではありません。その権威も、自らの「思い込みの上に成立」しているものにすぎないわけですから、すべては自分の中での対決であり、私の言葉を使えば、自分の<意識>と<内心>の対決ということになります。どこまでも、(意識せざる)独り芝居だということです。
」
僕は、面白そうな参考文献を書きとめる。
東史郎(1987年)『わが南京プラトーン 一召集兵士の体験した南京大虐殺』、本多勝一(1981年)『中国の旅』、野田正彰(1998年)『戦争と罪責』、山内小夜子(2001年)「歴史を尊重する人は歴史から尊重される」東史郎さんの軟禁裁判を支える会編『加害と赦し――南京大虐殺と東史郎裁判』、中国帰還者連絡会(1984年)『完全版三光』
だけど、僕はいまだに、これらの本を読んでいない。