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第一章:僕は勉強ができる

第一章:僕は勉強ができる


忍たま乱太郎のオープニングテーマで、昔、テストで百点をとっても、さかあがりができないとかっこわるい、というような意味の歌詞があった。

僕は、この歌が、けっこう嫌いだった。

なぜなら、僕はテストで百点を取ることができたけれど、さかあがりはできなかったからだ。

まるで、自分を否定されたようで腹が立った。

こどもには、いろんなこどもがいる。

百点をとれるけれど、さかあがりができないこどももいる。

それをないがしろにしているようで、自分の価値を否定されたようで、腹が立った。

勉強ができてもモテない。もてるのは、たぶん、男に関しては、運動ができる、クラスの中心にいる、顔がいい、そういう人間だ。

性格は関係ない。

ハッザ族という少数民族がいる。

彼らは、アフリカのどこだったか忘れたが、どこかにいて、人類の祖先と、ほとんど同じような暮らしをしているらしい。

面白かったのは、彼らが、とても幸せだったことだ。

体感幸福度が、非常に高い。

あとで調べてみたところ、乳幼児死亡率は高いらしいし、近代医療も受けられないのに、それでも幸せだと言っていた。

将来に対する不安がないのだそうだ。

もし、人類の祖先が、そのような生活をしていたのなら、人類は退化している、すくなくとも進歩ではなく退歩していると思った。

しかし、そのハッザ族にも、僕らの世界と共通していそうなところを発見した。

もてる男はどんな男か。

こういう質問が、テレビでなげかけられていた。

僕は予想した。

それはきっと、狩りが上手な男だろう。

そして、それは実際に、その通りだった。

なぜ、僕がそう考えたのかって聞くだろうか。

要するに、生活基盤を安定させてくれる能力のある男がもてるのだろうと思ったのだ。

女性がみずからの力で生活基盤を安定させているところでは、また違った結果になると思ったが、そこでは、狩猟採集生活を、男が狩猟、女が採集と分けていたようなので、おそらく男性の狩りによって、生活の質がある程度左右されると判断した。

よって、生活基盤を安定させてくれるのは、狩りのうまい男だろうと予想をつけた。

これが農業中心の国であれば、たくさん農地を持っている地主とかになるだろうし、資本主義の国であればお金持ちになるだろう。

あまりものをもたないし、近代日本よりもはるかに死にやすい環境にいるハッザの人たちが幸せに暮らしている。

その事実から学ぶことは、絶対に多いと思う。

しかし、そこでも、狩りのできる男がもてる、ということに、僕はちょっぴり失望した。


そして、僕は、高校に入っても、依然として勉強がそれなりにでき(学力の同じような人間が集まるので、相対的な成績は中学時代より下がった)、さかあがりみたいなことはあいかわらず苦手なまま、高校生活を送っていた。

不幸か?

そう聞かれれば、幸運なことに、ノーと答えられる。

勉強ができる人たちのいる高校では、あまりいじめとかがないように思う。

なぜだろう。

勉強ができるということで、ある程度、承認欲求が満たされているため、いじめをする必要がないからか。

あるいは、いじめをしないような性格の人間が、勉強をある程度のレベルまで進めることができるのか。

まあ、しかし、それでも、はぐれものは存在する。

別にいじめられているわけではないが、学校に友だちといえるような人がいない。

日常的に話す人がいない。

とりあえず、ひとり。

別に、まわりの人間も、いじめているという意識はないだろうし、その人もいじめられているとは思っていないだろう。

しかし、そうするのが一番自然なように、陸の孤島のように、ぽつねんとひとりでクラスにいる、そういう人がいる。

僕のことだ。

人によっては、それを「恥ずかしい」と思うのかもしれない。

しかし、僕はそういうことは、まったく思わなかった。

話の合う人間がいないなら、ひとりでいればいい。

別にまわりの人間に話しかけづらいわけでもない。

ただ、ふつうに生きていると、ふつうにひとりになるだけの話だ。

かえって、無理にくっつかれるほうが嫌だ。

ふつうにしていて、ふつうにふれあえないのなら、むりをしてふれあうしかないのだろうか。

そうだとすれば、それはとてもきつい。

僕には、そんな生活は、とても耐えられそうにない。

クラスの給食の時間は、基本的にひとりで食べる。

でも、それを恥ずかしいと思ったことはない。

そして、食べ終わったあとは、勉強をする。

朝は、となりの人に、ちゃんと「おはよう」という。

帰るときには、「ばいばい」とか「さよなら」とか「またね」とかいう。

十分な会話。

そう、十分な会話、だと思っていたのだが……。


高校も二年生になってから、なぜか三人でごはんを食べることが多くなっていた。

今まで書いてきた生活は、高校一年生の間の生活で、特にそれに不満をもっていたわけじゃない。

そして、三人で食べるようになった今、別に高校一年生のころの生活をなつかしいとは思わなくなっていた。

だからといって、唾棄すべき生活であったとも思わないけれど。

「おい、拓斗。どうした、ぼーっとして?」

 イオが声をかける。

 二年生になってから、外国から転校してきた男だ。

 外国から来た、というのだが、日本語はめちゃくちゃうまいし、外見は確かに少し外国っぽさがあるのだが、明確にどこから来たかとかはよくわからない容姿をしている。

 その国籍不明っぽさが、特徴といえば特徴だった。

「いや、最近の自分の生活について考えていて、ね」

「なんだそりゃ。お前、むつかしいこと考えてんなー」

 別に僕は、自分の生活のことについて考えるのが、難しいことを考えていることになるとはまったく思わないのだけど、別に反対意見を言うのも、おっくうだったので、別の方向に話題をもっていく。

「いや、案外、思春期には、こういうこと考えるもんじゃないか、なんかこう、哲学的なことをさ」

 イオは目を閉じる。

 そして、しばらく言葉を探す。

「思春期、って、なんだっけ」

 こういうとき、イオは外国から来たんだよなあと思いだす。

 というか、こういうことがないかぎり、まず意識にのぼることはない。

 いや、それとも、仮にイオが日本人であっても、やはり思春期という言葉の意味を知らないんだろうか。

 イオの知性からすると、あまりそういうことはなさそうだけど。

「思春期っていうのは、体が大人に成長する一方で、心がそれについていかずに、心と体のバランスが崩れる繊細な時期、だったはず」

 超うろおぼえだけど。

 そんなにはずした説明じゃないはずだ。

「つまり、人間には、情緒不安定になる時期があって、その時期のことをその名前で呼ぶ、ということ?」

「ま、そういうこと」

 たぶん、だけど。

 ホルモンバランスかなんかで、情緒不安定になる、んじゃないかな。

「でも、さ。正直、拓斗は、その存在を信じているの?」

 みなみ。

 二年生になってから、同じクラスになった女の子だ。

 僕と、イオと、みなみ。

 だいたい、この三人で、昼休みはごはんを食べている。

「うん? その存在って、思春期のこと?」

「そう」

 こっくりとうなずいて、僕のほうを見る。

 思春期の実在を信じているか?

 これは、幽霊の実在を信じているか、とは、ちょっと違うと直感的に感じた。

「あー、うん、あんまり考えたことはないけど、みなみは信じてないの?」

「うん、あんまり」

 指を神経質そうにからめながら、みなみは言う。

「心理学者が、若い人たちを異常者にするために作った概念な気がする。エリクソンの発達段階説とか、フロイトの話も、信じられない」

 エリクソンの発達段階説とは、欲求が低いものから高いものにあがっていくという説で、低い欲求が満たされると、より高い欲求を求めるようになるという説だ。

 たとえば、食欲などが満たされていくと、自己実現の欲求が最後に現れるというような。まあ、僕もよく覚えていないんだけど。

 フロイトの話は、性欲を抑制していることで、精神の病が引き起こされるというものだったはずだ。あと、無意識について話したことが功績とされているが、無意識については、他の人間も言っていたと思う。

「『それは思春期だね』と言われると、上から目線で実験動物としてあつかわれている気がする」

 耐え難い侮辱である、とみなみは言った。

「それは、他人によって自分を定義されるということだよね。そういうの、むかつくんだ」

 みなみの黒くて長くてまっすぐな髪が、風に吹かれる。

 きれいな髪、というよりは、陰気な印象を与えるその髪が、僕は好きだ。

 暗がりのあたたかさ。

 曇り空の優しさ。

 雨の日の繊細なぬくもり。

 そういうものを、僕はみなみに感じている。

 神経質で、繊細で、普通の人とは違った目を持っている。

 そう思っているけど、きっと僕の知らないみなみもたくさんいる。

 僕が知っているのは、みなみの持っているある部分だけで、他の知らない部分だってきっとある。

僕がこんな風に、「神経質」だとか「繊細」だとか、辞書にのっているような言葉で、みなみを型にはめることを、きっとみなみは侮辱だと思うだろう。

僕も、自分で勝手なイメージを、みなみに対して作りながら、それが侮辱であると思う。

そして、自分で作ったイメージを、うそだと思う。

僕がいったい、みなみの何を知っているというのか?

「他人によって自分を定義されるのはむかつくって言ったよね。僕も、そう感じるよ」

「でもさ、サリンジャーの、ライ麦畑でつかまえてっていう話でさ、主人公がね、むかつくような落書きが世界中をうめつくしていて、それは自分の墓の上にも書かれるだろうって、それがすごく悲しいって、なんかそんな感じのことを言うの」

「それ、『オマンコシヨウ』とか『ファックユー』って落書きが書いてあって気がめいるぜって話?」

 僕も、サリンジャーの書いた、あの有名作品、「ライ麦畑でつかまえて」は読んだことがある。

 あまり意味はよくわからなかったけど、妙に情景が残る話だった。

 尼さんと一緒に朝、コーヒーを飲むところとか。

 銃で撃たれたまねをしていたところとか。

 実際、僕はいやなことがあると、たまに仮想の銃に撃たれたふりをして遊ぶ。

 精神的苦痛を幻想の弾丸の痛みに変えて、茶化すことで生き延びるという生存戦略。

「そう、それそれ。それでね、わたしは、ふつうに生きていても、他人からわたしのことなんてちゃんと知らないくせに、勝手にお前はこうだって定義されて、しかもそれがいたるところで起こって、それが気がめいるなあって」

「あー、つまり、まるでそれが、サリンジャーが作品で言っている落書きみたいだと、そういうわけかな」

 サリンジャーが言っているというよりは、その作品の主人公であるホールデン・コールフィールドが言っているというべきか。

「そうそう。落書きはメタファー。世界の中でわたしの気を滅入らせる、どこにでもあらわれて、死んだあとにまでやってきそうなすべてのものの暗喩」

 少しだけ興奮したような調子で、しゃべるみなみちゃん。

 そのとき、僕は、昔、読んだ話を思い出した。

「だれかに勝手に定義されるっていうの、サルトルが昔、言ってた気がする」

「サルトル? フランスの哲学者でボーヴォワールをもてあそんだ男?」

 サルトルは、そんなゲス野郎だったのだろうか。

 もしそうなら、軽蔑しなくてはならない。

「いや、サルトルのことはよく知らないけど、まあ、フランスの実存主義哲学者だったはず。『嘔吐』とか書いた人。なんかその人が、まなざしの地獄みたいなことを言ってるらしくて、他人が自分をどう思うか、どう見るかは自分で変えられないから、他人のまなざしって暴力だよね、みたいな話」

「あー、わたしの言ってることと似てるねえ。っていうか、哲学者の考えたことって、だいたいわたしも考えたことがあるんだけどさ。きっと、世界の多くの子供たちが考えたことがあることだと思う」

 僕がみなみを好きな理由のひとつ。

 「わたしの考えたことは、すでにだいたい哲学者も考えたことがある」と言う風な表現を使わないこと。

 つまり、そのようではなく、逆に、「哲学者が考えたことがあることは、すでにだいたい自分が考えたことがある」と言う風に表現すること。

 基準点を会ったこともない哲学者に置くのではなく、自分に置いていること。

 こういうところが、みなみの最高にかっこいいところだ。

 みなみの世界の見方は、センスがある。

 センスのある世界の説明は、しびれてしまう。

 ロックだ。

 ロックが何かなんて、僕にはさっぱりわからないんだけど。

「でも、マゾヒストなら、見られることを快感に感じて、他者の視線の暴力を無効化することができるんじゃない?」

「相手の視点の暴力を快感に変えるっていうこと?」

 みなみの言葉に僕はうなづく。

「へへっ、でも、わたしは、そこまで強くなれそうにないなあ」

 それは、僕も同じだった。

「僕も、そういう風に強くはなれそうにないな」

 僕たちのような、ある種の虚弱さがある人間だって、生きていきたいし、生き延びる方法はあるのだと、僕は信じている。

 フランクルが「夜と霧」の中で言ったとつたえられているように、ある種の繊細な人間が、非常にストレスのある環境で生き延びることができるというような逆説が、おこりうるのだと、僕は信じている。




 高校に入学したとき、みんなはどう思うのだろう。

 入試に合格して、すべりどめでなく、第一志望の高校に行けたときには?

 僕がそういうことができる人間だった。

僕は勉強ができる。

そういう能力があるのだ。

そういう才能がある、といってもいいかもしれない。

ある環境で高位のパフォーマンスをはじきだすことができる。

それが能力というものだ。

さて、そして、そういう能力を持った僕が、第一志望の学校に入学して思ったことは何か?

哀しみだった。

 残念ながら、うれしくなかった。

 「これは正しいありかたではない」。

僕の心は確信していた。

 勉強したい人は、みんな勉強させてあげればいい。でも、そういうことをしない。

入試というものがあるから、落ちて悲しむ人がいる。そんな入試なんてものはやめて、みんなで勉強をすればいいと思った。

本当に勉強が楽しいなら、入試なんてなくたって勉強するだろう。

 僕が勉強をしたのは、それが楽しかったからだ。自分が楽しいことをやって、それでだれからも文句を言われないどころか、ほめられる。

 だから、みんなも好きなことをして、だれからも文句を言われない自由があるべきだと思った。ぼくが手にした幸福は、他の人も持つべきだ。

 だってそうじゃないと、不公平じゃないか。

 みんなが幸せになる世界が欲しい。

 それができないならせめて、だれも不幸にならない社会を作りたかったのに。

 でも、僕は一介の高校生で、世界を変える力はない。

 昔、カート・ヴォネガットというSF作家がいて、こんなことを言っていた。

 ベニングトン・カレッジ(Bennington College)の卒業生にむけて言った言葉だ。

 もしかしたら、このつづりは、ベニントンと発音するのかもしれない。

 たしか、「ヴォネガット、大いに語る」とかいう本にのっていたはずだ。

 ともかく、こんなようなことを言っていた。

 世界を救うのに、君たちは若すぎるから、今はたっぷり遊べばいい。世界を救えと若い人たちに言う大人を信じるな、世界を救うのは、年寄りの仕事だ。君たちは世界を救う人たちを助けることはできるが、世界を自分の肩に背負う必要はない。

 正確には覚えていないけど、こんな感じの言葉だったはず。

さて、僕は、この言葉から、何を思ったんだろうか。

 正直に言えば、肩の荷が、少しだけ、ほんの少しだけだけど、おりた気がした。

 高校入試という脱落者を必ず出すシステムもうんざりだった。

(要するに原理的にはバトルロワイヤルみたいなものだ。殺しあって限られた数の生存者になればゲーム終了。入試とバトルロワイヤルは原理的に一緒だ。椅子取りゲーム原理)

しかし、他にもうんざりするようなことが、この世の中にはいっぱいあった。

 納得できないことがいっぱいある。

 そして、僕は、それに対して、けっこう無力だ(と思う)。

 反対の声をあげることはできそうだ。

 しかし、そうすると、どうもまずいことになる気がする。

 自分の人生が滅茶苦茶になってしまうような気がする。

 そしてだれも助けてくれない気がする。

 自殺するようなものだと思う。

(しかし、それは本当? 僕の錯覚ではなくて?)

 だから、僕は怖くて、学校の授業を受ける。

 納得できないことも、納得できないと言えない。

 言ったら殺される気がする。社会的に。

 そして、僕は、そんな自分に対して、生きている価値がないと思う。

 自分が納得していないことを自分がすると、だんだん自分が生きていてもいいと自分で思えなくなってくる。

 こんなことを考えているのは、僕だけだろうか?

 そっとクラスをながめる。

「舞姫」の授業だ。

エリートが、外国人の女の子をはらませたあとで、エリートの友達が、あいつは母国に帰ると言ったせいで女の子が発狂し、エリートも日本に帰るという話だ。

クソみたいな話だ。

物語の面白さがクソみたいという意味じゃない。

胸糞悪くなるような話だという意味だ。

先生は、この物語の中で、責任を十点とすると、だれがどれくらい悪いか、という話をしていた。

僕は、主人公エリートと相沢(エリートの友達)が、5:5、つまり1:1で悪いと思った。

しかし、そうは考えない人もいる。

たとえば、はらまされた女の子にも責任があると考える人がいる。

案外、女の子が、エリス(はらまされた女の子)に辛辣だったのでびっくりした。

あの女、同情さそって玉の輿ねらってただけだよ、的な。

そうなんだろうか。

でも、仮に本当だとしても、妊娠させた責任は、主人公にもあると思う。

だから、主人公は、その責任を取るべきなのだ。

取るべきなのだが、じゃあ、僕はそういうことが、できるんだろうか?

もし、舞姫の主人公と同じ状況になったら、僕はそういうことが、できるんだろうか?

僕がこの話を読んで考えたのは、僕もこの話の主人公のように、我が身かわいさに、クソみたいな行動をとってしまうんじゃないかということだった。

僕は、自分をそういう点では、信じられない。

実際に、我が身かわいさに、自己保身に走った、といえなくもない経験を、僕は持っている。

だから、とても、僕は自分を信じられないのだ。

なぜ、悪いことをしてはいけないのか、という質問に、僕なら、自分を信じられなくなるから、自分を好きでいられなくなるから、と答えるだろう。

自分が他人にひどいことをできる人間だと、自分で自分に証明するのは、自分に誇りを持てなくさせる方法のひとつだろうと思う。

そして、自分に誇りを持てないのは、けっこうつらい。

自分がクソみたいなやつだと思いながら生きていくのは、ゆううつだ。



 トルストイが「アンナ・カレーニナ」の冒頭で、幸せな家族はどこも似ているが、不幸な家族は似ていない、みたいなことを言っていた。

 僕は、これには反対だ。

 不幸は似ている。人が感じる不幸は、だいたい同じようなものだ。

 しかし、幸福は似ていない。人は、それぞれのやり方で幸福を感じる。

「たとえば、僕はこうやって、国語の授業の話や、小説の話をしていると幸福を感じるけれど、そういう生活ができる家族は、幸福な家族だって感じるけれど、そうじゃないやつだって、けっこういると思うな」

 僕は、自分が今読んでいる本、「なぜ体育会系には犯罪者が多いのか」を、ひらひらとふって、みなみに見えるようにする。

「まあ、たしかに、運動が得意で、なおかつ本が嫌い、っていう人はいるよね。わたしはそうじゃないし、拓斗の舞姫やトルストイについての話は、楽しく聞かせてもらえたけど」

「そういう人たちは、今、僕たちがしているような会話は、全然幸せに感じられないだろうね。でも、そういう人たちだって、僕たちだって、ごはんが満足に食べられない家族の中にいたら、たぶん、自分たちのことを不幸な家族だと思うだろう」

「たぶん、そうだろうね。でも、個人に関しては、拓斗の言うことは正しいとしても、家族に関しては、あるいは違うかも」

 みなみの、その言葉は、たしかにそうかもしれないと思った。

 思ったが、その通りだというと、なにか負けた感じがするような気がして、言葉を出すかわりに、無言でうなずいた。

 おしゃべりが議論に変わってしまうなら、それはとても悲しいことだ。

 また、僕がすべての議論や勝負に勝つ必要があると感じているのなら、それはきっと果てしなく疲れる価値観に思えた。

 結局、僕は、わりと完璧主義なのだろう。

「夏目漱石の『こころ』で、登場人物である『先生』が、『向上心のないものは、ばかだ』みたいなことを言うじゃない? あれ、ひどい言葉だなって思う。本当に」

 みなみが、トルストイの話に関する議論から、小説に関するおしゃべりに、話題を戻す。

 僕は、ほっとする。

 議論よりも、ただ結論も出ないようなおしゃべりのほうが、僕は断然好きだ。

 どうして、と僕はみなみに理由をたずねる。

「だって、まるで向上心を持っている人間が偉くて、向上心を持っていない人間がダメな人間みたいじゃない? 非常に近代的な発想にして人を不幸にする考え方だと思うよ。向上心がなくてもいいじゃん。それに、向上心をもったとしても、実際に能力が向上するとは限らないわけだし、そもそも向上心なんて、見えないものを計測することなんてできやしないんだから、その言葉は相手を傷つけるためにしか使われないんじゃない?」

 それに、僕は賛成する。

 この社会で恵まれた立場にいるものとはだれか。

 会社や学校で、自分の能力を発揮できている人間だ。

 もし、自分が勉強ができるという人間で、勉強ができない人間を面と向かってバカにしている人間がいたら、殺されたってしかたがない。

 もし、自分が運動ができるという人間で、運動ができない人間を面と向かってバカにしている人間がいたら、殺されたってしかたがない。

 もし、自分が仕事ができるという人間で、仕事ができない人間を面と向かってバカにしている人間がいたら、殺されたってしかたがない。

 なぜならば、彼らは、人間の尊厳を傷つけているからだ。

 自尊心を踏みにじっているからだ。

 人間の本質的な平等につばを吐きかけているからだ。

 どんな人間だって、大切にされたいに決まっている。

 それを、そういう人間は、自分が能力があるから、傷つける権利があるとでも思っているのだろうか?

 つまり、それは、力を持っている人間は、力を持っていない人間に対して、傷をつけてもいいということか?

 僕は、こういう考えには、まったく賛成できないのだ。

 本当に。



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