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三、逃げ出した故郷

「レーネが生まれる前の話だ」

車窓に流れる街の明かりに視線をやりながら、響児と向かい合った座席に座っているシヨウが呟いた。『歪』に襲われてから数時間後、響児はレーネ達と共に電車を乗り継いで故郷へと向かっていた。終電間際の電車の車内に、響児達以外の人影は見当たらない。それを好都合とばかりにシヨウは話を続けた。

「人間同士の諍いや、未知の疫病。人間にとって不都合な事、『歪』の人間への暴挙を助けるかの様な事が次々と起こり始めた。そしてそれらはあまりに不自然だとボクらは気付いた。そして過去の歴史や心理学、果ては数学の確率に至るまで照らし合わせた結果、ボクらの被っている災厄はあまりにも出来すぎているという結論に達した。そう。まるで何者かの意思が働いているかの様にね」

その存在こそが物語の『創造主』。つまりは自分の事なのだ。その後ろめたさから逃げるかのように響児はシヨウの隣に座るザズに目をやる。

シヨウの言葉に相槌を打つ訳でもなく、黙って目を瞑っている。代わりに通路を挟んだ反対側の席から二人分の寝息が聞こえる。

一つはレーネ。もう一つはファング、響児を先程『歪』から救い、同時に響児を殺そうとした三つ首の狼のものだった。

もっとも今のファングからそれらは想像できなかった。少し青さを含んだ長く黒い髪を後ろで束ねた頭をレーネの膝に乗せ、静かな寝息を立てる顔はどう見ても響児やレーネより幼ない。

ザズ同様、異形の姿は『陽光の巫女』の力。今安物のパーカーとGパンに身を包んだ少女こそがファングの本来の姿なのだ。

凛とした声やファングという名前から、てっきり少年だと響児は思っていた。人間の姿になったファングを見て思わずそう言うと、彼女は物凄い顔で響児を睨んだ後、一言も口を聞かずにそのままレーネと寝入ってしまったのだ。

そしてただ一人シヨウだけが、響児の話し相手となっている。

「不自然さに気付いてもボクらにはどうする事も出来なかった。そうしている内にセーアルが死に、レーネが成長してザズやファングを従えて戦いだした。けど相変わらず人間の仲間割れは続き、疫病は猛威を振るう。そして一ヶ月前、ボクらの前に『司書』が表れた」

「『司書』?」

またしても新しく出てきた言葉に響児は戸惑いを覚える。

「本人はそう名乗っていた。物語の世界の住人を『創造主』の元に誘う存在だともね」

シヨウの言葉は相変わらず淡々としていた。

「外見はどこにでもいそうな中年の男だったよ。まあ薄汚れたコートやぶかぶかの帽子はどう見ても『司書』に見えなかったけど。そしてその男が語った事も到底信じられなかった」

先程シヨウに説明された事を響児は思い出す。全ての物語は実在する世界であり、そこに生きる人々が存在する。返す返す突拍子も無い話だと思う。

「で、どうしてその男の話を信じる事になったわけ?」

「信じた、と言うより他に手段が無かった」

初めて疑問を挟んだ響児に、シヨウはそっけなく答える。

「完結していない物語に登場人物達が自力ではどうしょうも出きない『不可能事象』が起こり、物語の世界のバランスが限界に達した時に、『創造主』へ会う事が許される。そう『司書』は言っていた。まあさっきも説明した様なこと細かな話もあったけどね」

そこで一旦言葉を区切るとシヨウは車窓から目を離して響児の方を見た。

「そこでボク達は『司書』によって、『創造主』たる君が生きるこの世界にやって来たというわけさ」

「ちょっと待ってくれよ……」

そこで響児は疑問を呈した。今までの説明では明らかに納得できない点に気づいたのだ。

「シヨウ達はともかく、なんで『歪』までこの世界に来ているんだよ?」

考えれば当然の事だった。なぜわざわざ敵である『歪』まで来る必要があるのだ。

「簡単さ。『歪』も『司書』によってこの世界に来た」

なんの事も無いと言うようにシヨウは答えた。

「なに? どう言うこと?」

「『歪』も登場人物の内、つまり君に続きを書いてもらう為にこの世界を訪れる権利が有るってことさ」

「いや、ちょっと待ってくれよ。全然分らない。どうしょうもない流れ、疫病や人間同士の仲間割れ。それって『歪』にとっては好都合だろ?」

「何故そう思うんだい?」

「いや、だって『歪』は人間にとっての敵だろ? だから『歪』にとっても人間が減る事は好都合……」

「違う。『歪』は人間を敵と思っていない」

「じゃあ何なんだよ?」

「人間はエサであり玩具。君も知っている通りにね」

まったく声の抑揚を変えずに放たれたシヨウの言葉は響児の心臓を凍りつかせた。

それにとっての馳走は人間の死肉、それにとっての喜びは人間の苦痛。

全て響児自身が考えた事だ。

「人間が絶滅するのは『歪』にとっても死活問題なのさ」

「それだけ人間の数が減っているって事か……」

そう言うと響児は黙り込んだ。

自分と唯一の友人である『読者』を繋ぐ優しい物語。それが『創造のルアンレーネ』

確かに『歪』と言った恐ろしい化け物の事は書いた。それに犠牲になる人々も。だけどそれらは『陽光の巫女』と仲間達に倒され、平和な世界が訪れる。それこそが響児が書くつもりだった物語の結末だった。人間同士の仲間割れや疫病で絶滅寸前になるような事。そして『読者』の分身である『陽光の巫女』セーアルの死などを書く事は有り得無いはずだった。

だが、実際に『創造のルアンレーネ』は理不尽な『不可能事象』に見舞われ、『陽光の巫女』セーアルは命を落とした。

「なあ……セーアルはどうして死んだんだ?」

言いようの無い罪悪感を抱きつつ、響児はシヨウに問う。

「例の流行病さ。産後で体力が落ちてた時に感染した」

シヨウの言葉は淡々としたものだったが、その無機質さが自分を責めているように、響児には感じられた。

「シヨウ……信じてくれないかもしれないけど……」

キョウジのその声は搾り出すような物であった。

「俺はさ……そんな酷い物語を書いた覚えは……本当に無いんだ」

「それを今から確かめに行くんだ」

シヨウの言葉は相変わらず抑揚が無かった。

「司書に言われた。自分は最低限の真実を伝え、君達に最低限の権利を知らせる、ってね。『全ての物語は全ての世界』、そして物語の作者は世界の『創造主』。ボクらに与えられる情報はこれまで。後の真実を探してボクらの世界、『創造のルアンレーネ』を正常化すべく奔走するのがボクらの使命なんだから」

「だったら……尚更俺が忘れた事は、あんたらにとって……」

「それについては君を責めるつもりは無い」

シヨウは今までの淡々とした言葉を少し和らげた調子に変えた。

「自分が楽しむだけの小さな物語。それがどれだけ重要なんて普通は考えない。いや、考え付かないと言った方が正しいかな」

そう語るシヨウの言葉には確かに叱責の色は無かった。彼女が響児を責めるとしたら、それは先程のように『創造のルアンレーネ』の悲劇を知ってなお逃げ出す事についてなのだ。

「レーネが感情的になるのは、あの年頃とレーネ自身の立場を考えれば、まあ仕方が無い。アホのファングは何も考えず直情的になってるんだろうけど」

響児はシヨウの言葉を噛み砕く。『陽光の巫女』レーネ。世界で『歪』から人間を守る唯一の

希望。確かにそんな彼女からすれば響児がやった事は許せない事だろう。

そしてファング。と、響児は三つ首の獣の姿を持つ彼女に思いを巡らせてある事に気づいた。

「今の酷くない? その……アホって言ったぞ。ファングの事」

「事実だからね」

悪びれもせずシヨウはそう答える。

「まあそんな事はどうでもいいさ。とにかく物語の内容について君がそんなに気を病む必要は無い。それにボクも君にどうこう言えるほどの女じゃないさ」

そこまで言うと、シヨウは一息つき、再び言葉を紡ぐ。

「それに『歪』が君を殺そうという点も気にかかる。先程の説明から分かるだろうけど、君の死は『歪』にとっても不都合だからね」

「確かに……俺が死ねば物語の続きを書く人間が居なくなる……」

シヨウの説明と先程河川敷で『歪』に食い殺されそうになった事を考えれば、おのずと響児はその答えにたどり着いた。

「まあ色々言ったけど、ボク達の願いは一つだけだ」

そこまで言うとシヨウは響児の方へ身体を向かせ、少し乗り出してじっと見つめ、柔らかな唇から囁いた。

「ただボク達の世界、君の物語を正常に戻して欲しい」

シヨウの言葉は真摯そのものだった。その眼差しも嘘偽りも、彼女が持っていた独特の軽薄さを微塵も感じさせなかった。

シヨウのそのひたむきな感情は響児に痛いほど伝わった。

だが同時に、響児はシヨウに対して違和感を感じていた。それが何なのか響児自身にも分らない。ただ出会った時から漠然と抱く形容しがたい不可解さ。シヨウという女は何かが引っかかるのだ。だが、そんな疑念は続くシヨウの言葉にかき消された。

「それが……あの娘の、レーネの為だ」

それを吐露した瞬間の眼差しも表情もとても優しかった。それだけで彼女がどれだけレーネを思っているのか十分に理解できる程に。

「本当に……シヨウはレーネの事が大事なんだな」

「ああ。何よりもね」

そう穏やかに話すシヨウの言葉は、先程のレーネの懇願によってもたらされた響児の決意をより強固にさせた。

(俺は……物語から、『創造のルアンレーネ』から逃げちゃ駄目だ、立ち向かわなきゃいけない)

そう心の中で強く呟いた。


どこまでも続く様な田園地帯を縫うように走る幹線道路。それに沿ってコンビにやスーパー、住宅地などが疎らに存在している。それらを横目に見ながら響児は力無く歩いていた。

別段何処に行こうというわけではない。ただ、自分が生まれた家から少しでも離れたい。その欲求にしたがってひたすら足を動かしているのだ。

時刻はそろそろ西日が差し込む頃。夜明け前のシヨウとの会話での決意からたった数時間。響児はまたしても現実から逃げ出していた。

「本当に……なんとかしたかったのにな」

誰に聞かせるでもなく、謝罪とも自分への言い訳とも付かない言葉を吐き出しながら、響児は先程数年ぶりに訪れた生家での出来事を反芻していた。

終電を過ごして、県境の駅のホームで時間を潰し、午前中ひたすら電車を乗り継いで、昼少し前にたどり着いた生家は安らぎや懐かしさといった物を響児に感じさせなかった。

そこに存在するのは閉塞感。胸を締め上げてくるような息苦しさが響児を支配する。その辛さが顔色に出たのだろう、シヨウやザズが心配する言葉を掛けてきた。だが響児は何も言わずに自分の部屋へと向かった。自分を心配する二人とは対照的に、急かす様にきつい視線を投げかけるレーネとファングのせいでもあったが、何よりも響児は一刻も早く自分が生まれ育ったこの家から逃げ出したかったのだ。

そしてその要因、響児の両親は彼が自室を漁っている時に姿を現した。


――なんでお前がここに居るんだ

数年振りに再会した父親から掛けられた言葉。


――何で? お金は十分に仕送りしてるでしょ? なんで帰ってくるのよ!


続いて母親から浴びせられた言葉がそれだった。

響児は自分でも意外なほど冷静に両親の言葉を聞いていた。二人とも共働きだからこの時間は家に居るはずがないのにとか、ああ、近所の誰かがレーネ達と一緒に家に入っていく俺を見て連絡したのか、そう考えることが出来るほどには。

だがそうやって冷静に思考する頭とは裏腹に、心臓は熱く脈打って感情という熱を孕んだ空気を肺に送り込んだ。そうしてそれは胸を満たしつくし、それでも足りず響児の頭まで流れ込む。その瞬間彼は駆け出していた。

もう両親の声もレーネやシヨウの声も耳に入らなかった。

そうやってただ逃避を求めるがままに走り続けて、気がつけばこうやって見知らぬ道を歩いている。昨夜とまったく同じ事、現実からの逃避をやっている自分自身に心底嫌気が差す。逃げないと誓った筈だったのに。

レーネの真摯な願いや、彼女を思い物語を正常にする事を願うシヨウ。人間を襲う『歪』に対して激しい怒りを燃やすファングや、自分を何かと庇ってくれたザズ。

そんな彼らの思いに答えるべく、出来る事なら二度と足を踏み入れたくない生家を訪れた。

それであのザマだ。まるで忌まわしい何かに接するような両親の態度に響児は耐えられなかった。

響児自身、昔から両親の事がそんなに好きではなかった。ひたすら優秀な成績と模範的な生活を強いる父親と、そんな夫に従い、響児から読書という楽しみを無慈悲に奪った母親。

もっともそれが理由で『創造のルアンレーネ』は生まれ、響児と『読者』を繋ぐきっかけとなったのも事実なのだが。

そこまで思考して響児は気づいた。自分の生家が気に入らなかった理由は両親の存在だけではない。あの家には『読者』があまり来なかったのだ。思春期を迎えた息子が同年代の少女を家に招き入れるのをあの両親は良しとしなかった。息子の唯一の友人に対する考え方がそんなものだったのだ。

それでもその当時は、少なくとも響児は両親から厄介者扱いされてはいなかった。彼らが息子を見る目が変わり、遠方の高校に進学させるに至るにはある理由があった。

それは響児から『創造のルアンレーネ』を、『読者』との思い出を奪った事件。

(そうだ……あの事さえなければ……)

そう考えた瞬間、気の向くままに歩いていた響児の足は不自然に動きを止め、身体は思いっきり前に投げ出された。そして受身を取る暇も無いまま、顔面からアスファルトに衝突した。

鉄の様な血の匂いが鼻腔いっぱいに広がったのを感じた時、誰かに足を掛けられたのだと響児は理解した。しこたま打ち付けた身体を起こしながら辺りを見回す。

何時の間にか道路沿いのコンビニの駐車場に来ていたようだ。コンビニの店頭には学校帰りらしい数人の中高生が屯ってこちらを見ている。それを視認した後響児は自分の足元、足を引っ掛け転ばせた人物を見上げた。

「お前、なんでこの街に居るんだよ?」

そう言って響児を見下ろした同年代の少年には見覚えが有った。中学時代のクラスメイト。だが名前までは覚えだせなかった。そして響児を見下ろしているのは一人だけではなかった。

数人の高校生が何時の間にか響児を囲んでいた。そしてその中の一人が言い放つ。

「よくもまあのこのこ戻ってこれたもんだよ。なあ、静名」

続いて別の少年が響児に吐き捨てる。

「まさかほとぼり冷めたとか思ってるんじゃねえだろうな? 冗談じゃねえよ」

そしてそのまま語気を荒げながら言葉を続けた。

「お前が木場のアゴ叩き割った事、俺ら絶対に許さねえからな」

その言葉を聞いた瞬間、響児の頭に忌まわしき記憶が蘇る。

木場という男子生徒は確か小学生の頃からクラスの中心的な人物だった。運動神経は抜群で成績はトップクラス。身長も高くルックスも良く男女問わず人気がある。言うなれば『読者』と同じような存在だった。

ただ『読者』の様に誰にでも優しいというわけではなかった。自分より劣るものに対しては陰険だった。そして響児はもっぱらその対象だった。持ち物を隠される、期限が悪いときには小突かれる、体力や成績の事を大勢の生徒の前でからかわれる……

それは響児にとって辛いことだった。だがそんな境遇の響児を『読者』は庇ってくれた。そして『創造のルアンレーネ』を書き始めて親密になった頃には木場の嫌がらせなど響児にとっては些細な事だった。それ程『読者』との触れ合いは響児にとって素晴らしく掛け替えの無いものだったのだ。

だからこそ、事件は起こった。

中学に入学して間もない頃の昼休み。何時もの様に響児は『創造のルアンレーネ』の執筆に没頭していた。そんな彼から木場は突如ノートを奪い取った。

パラパラと雑に扱いながら流し見し、適当な単語を見つけては笑い飛ばし、嘲った。


――何だコレ? 暗えなぁ。お前こんな事して楽しいわけ?


木場の嘲り声を聞いた瞬間、響児の身体全てを今まで感じた事の無い猛烈な怒りが支配した。

木場の行為は物語を、そして『読者』との思い出を土足で踏みにじる事以外の何物でもなかった。

咄嗟に飛び掛り木場を押し倒す。響児が今までの様に無抵抗だとばかり思っていた木場は呆気に取られていたが、すぐに響児を蹴り飛ばすとそのまま響児を教室の隅に押し去り、執拗に殴打や蹴りを浴びせた。

だが、それでも響児は怯まなかった。必死に手探りで武器になりそうな、木場との腕力差を埋められる道具を探す。そして不幸にもそれはそこに存在した。

鉢植えか何かの台替わりに使っていた幾つかのコンクリートのブロック。その中の一つを響児は残る力を振り絞って両手で掴み上げ、木場の顔面目掛けて渾身の力を込め、殴り飛ばした。

結果はあっけなかった。木場は声にならない叫び声を上げて教室の床にうずくまり、その周辺には夥しい鮮血と千切れた歯が幾つも飛び散っていた。

ブロックは木場の下顎に命中し、彼のアゴや歯を叩き割ったのだ。そして彼に全治数ヶ月の大怪我を追わせる事になった。

これが響児の起こした事件。両親から忌避され、『読者』と別れる事になった原因だった。

事件の有った後、響児の周辺は一変した。教室での乱闘の後、響児は駆けつけた教師達によって職員室に連れられ、激しい叱責の嵐に見舞われた。


――なんであんな事をしたんだ 自分のやった事が分かっているのか?

――木場君は今救急車で病院に運ばれたわ。ブロックで殴るなんて酷い。卑怯だわ

――木場は県大会に出場が決まっていたんだぞ。なんてバカをやったんだ

――自分の書いた小説をからかわれた? 何を考えているんだ! そんなことぐらいで!


凶器を使い殴りかかり大怪我を負わせた危ない子供、キレた生徒。それが教師達が響児に

貼ったレッテルであった。

対して殴られた木場は成績優秀、部活動でも優秀な成績を残した優等生だった。

加減を知らない、躾のなっていない生徒が、ちょっとからかわれたぐらいで逆上して優等生に一生残るかもしれない怪我をさせた。学校側はそう判断した。

そして連絡を受け学校に駆けつけた響児の両親はそれを否定しなかった。ただ顔を真っ青にしてひたすら謝り、そして響児を激しく罵った。


――申し訳ありません。家の息子が大変なご迷惑を

――本当に何て言っていいのか……優秀なお子さんにあんな事をして……

――何て事したのよ もうお母さん表を歩けないわよ こんな恐ろしい子供を育てたなんて恥ずかしいわよ、情けないわよ――お前はもう駄目だ。内申点は最悪だろうし、こんな危険な子供を受け入れる高校なんて有るものか! 静名の家の恥さらしだよ、お前は


教師達も両親も誰も響児の味方をしてくれなかった。ひたすら叱責され罵倒され貶められた。響児は次第に心を閉ざした。事件を起こした日からは学校に行かず、自室に閉じこもる日々

が続いた。

時々担任の教師が厄介者に嫌々接するかの様なぞんざいな態度で、事務的に「学校に来い」と訪れたが、クラスメートからの手紙だとか寄せ書きだとかそういうものを持ってきた事は一度も無かった。その事実がクラスメート達が響児が起こした暴力沙汰をどう思っているかを明確に示していた。

だがそれで響児は別段ショックを受けている訳ではなかった。ただ薄暗い部屋の中で毎日思い続ける事はただ一つ。

あの事件が有った日、木場のアゴを殴り飛ばした為飛び散った鮮血に恐怖抱き、そんな恐ろしい事をやってのけた響児を畏怖とも軽蔑とも付かない眼差しで蔑視するクラスメート達の中でただ一人だけ、目に一杯の涙を溜め心配そうに響児を見つめていた少女、『読者』の事だけだった。

『読者』は何をしているのだろう? 俺の事をどう思ったんだろうか? 怖がらせちゃった?

だがそんな気持ちも段々と希薄になっていった。ただ機械的に部屋の前に食事を運んでくる以外は自分と関わろうとしない両親。まるで汚らわしい物でも見るかのような教師の視線。

そんな不愉快な事に加え、大好きな本も『創造のルアンレーネ』も存在しない部屋。そしていつも優しくてまぶしい笑顔をくれた『読者』に会えない事。

響児の精神が衰弱するのは当然だった。そんな生活が一年程過ぎた後、両親から都内への高校の受験を進められた。


――誰もお前の起こした事件を知らない土地でやり直さないか? その方がお前の為だぞ

――お金の事なら心配しないで。あなたがやり直せるなら、お母さん達頑張るから


一見優しそうな両親の声には、厄介者の息子を追い払いたいという露骨な意思が含まれていた。事実それは先程彼ら自身が証明してくれたわけだ。

両親の勧めに響児は何も言わず従った。家には一秒たりともいたくはなかったからだ。こうして勉強の遅れを取り戻す為に一年浪人し、響児は家から数時間離れた高校に進学した。

だがそうやって始まった新生活。両親の手から離れた暮らしは何も楽しくなかった。一年上の自分に余所余所しいクラスメート。彼らのくだらない生活や会話。模範的に教師を演じようとして自分をイラつかせる三沢。

楽しいのは『読者』との思い出。だがそれは響児自身が起こした事件で終わらせてしまった事なのだ。

そしてそれは今再び過去の亡霊になって響児の前に現れたのだ。

「なあ? 聞いてんのか、静名よぉ」

辛らつな声が響児を過去から今へと引き戻した。

「お前、木場がどうなってるか知ってるか? ひでえぜ。何度も手術してやっと少し跡が残る程度にまで治ったんだぜ」

「当然部活もパア。惜しいよな。全国大会まで行けるかもしれないって言われてたのに」

他の生徒達も口々に響児を責め立てる。だが響児が罪悪感に際悩ませられているかというとそうでもなかった。木場にした事は当然の報いだと思っていた。ただ後悔の念が有るとすればそれは『読者』との思い出を終わらせたという事実だけだった。

「ったくよぉ、馬鹿じゃねえの? 普通あんな事しねえって……聞いてんのか?」

特に反応をしない響児に対して生徒の一人がイラついた声を飛ばす。

「馬鹿みたいな話よね」

突如凛とした声が辺りに響いた。その言葉が耳に入った瞬間、響児はその方向を向いた。声には聞き覚えが有った。昨日から散々聞かされていた、主に自分を叱責していた声の持ち主、レーネが響児達を見据えていた。

こちらを見据える左右で色の違う両の瞳を見た瞬間、響児はまたしても逃げ出したい衝動に駆られた。

今さっきも両親の元から逃げるという醜態をレーネの前で晒したのだ。彼女にすれば相当腹立たしい事だろう。考えて見ればレーネに会ってからずっと彼女を失望させてきた。

そして今も、響児を取り囲んでいる生徒達の会話を聞いていたと思われる彼女はこう言ったのだ。「馬鹿みたい」と。

当然だろう。いくら響児が正しいと思っていても、素手の人間を凶器で殴るなんて行為は卑劣な事だ。レーネが響児をさらに蔑んでも何ら不思議はない。

出会ってから自分を詰っていたレーネの姿と同時に、昨夜自分に「私達の世界を救って」そう頭を下げた姿が響児の脳裏によぎり、罪悪感と情け無さが彼の胸を支配していく。また彼女を失望させるのかと。

そして響児を糾弾していた生徒達は、突如現れた現実離れした美さの少女の存在に呆気に取られていた。

「なんだ? お前静名の知り合い?」

ようやく生徒の一人が疑問を投げかけた。

「馬鹿みたい。そう言ったのよ」

質問には答えず、淡々とした声でレーネはそう言った。その様子で生徒達は目の前の少女も、厄介者の同級生を糾弾する立場だと解釈した。

「ああ。君もそう思う? 本当にコイツ、静名って馬鹿だよな。どうしようもねえよ」

「普通ブロックで人殴ろうと思わねえって」

「卑怯だよなーそれでも男かね」

生徒達の罵り声を聞いても響児は何の感慨も抱かなかった。ただ、レーネが自分をどう蔑むのか。それだけが怖かった。そう恐れを抱きながらレーネを見る。

彼女の淡い瞳が自分を見据えながらゆっくりと口を開こうとしているのを見た瞬間、響児は固く目をつぶり頭を下げ、辛辣な言葉に耐えようと身構えた。だが、意外にもレーネの声はそれに反する物だった。

「馬鹿はあなた達じゃない。力の無い者が武器を使って何が悪いの?」

そう言い放ったレーネを響児は思わず視界に入れてしまう。彼女の顔つきは真摯な物だった。冗談など言っている様子ではなかった。そして予想だにしないレーネの言葉と堂々とした佇

まいは響児を糾弾していた生徒達を気圧していた。そんな中の一人が辛うじて声を出す。

「は……何言ってるんだよ? わけ分かんねえよ」

「言ったとおりよ」

レーネは毅然と言い放った。

「貴方達の話最初から聞いてたけど、要するに力が有る人間が自分より力で劣る者を虐げて、虐げられた者は武器を使って反撃した。こういう事でしょ? 普通じゃない。それを責め立てる貴方達が馬鹿みたい、そう言ったのよ」

「な、なんだよ……お前なんなんだよ?」

突如現れた、自分達の常識の範疇から外れた言葉を操る少女の存在は生徒達を混乱させた。

「大体凶器使うってのが男らしくな……」

「自分より力の劣る人間を虐げるのも男らしくないんじゃない?」

「そ、それでもブロックで殴り返す事ないんじゃね? やり過ぎ……」

「だったら最初から手を出さなければよかったのよ」

辛うじて反論する生徒達の言葉をレーネは次々と砕いていく。

「殴られる覚悟、反撃されるリスク無しで他人を虐げる。そして反撃した人間が武器を使ったというだけで、その一点を集団で陰湿に責め立てる。これが馬鹿じゃなくてなんなのかしら?」

最後にそう言い放ったレーネの視線は、彼女の今しがたの言葉を裏付けるかの様に冷徹に生徒達を蔑んでいた。

「ふざけるなよ、お前……いきなり横から出てきて好き勝手言いやがってよ」

その言葉と共に、反論する術を失った生徒達の一人が突如レーネに向けて手を伸ばした。レーネの華奢な手首を掴み、そのまま締め上げて悲鳴を上げさせる……のはずが結果は予想外のものだった。

レーネが捕まれた手首を軽く捻っただけで、それを掴んでいた生徒はあっけなく地面に這いつくばった。そして何が起こったのか分からないといった顔で呆けていた。

スポーツや格闘技に疎い響児の目にもそれが投げとかそういった類の技術で無いことは一目瞭然だった。ただ手首を捻っただけの運動、単純な筋肉の力だけでレーネは自分より大きい体躯の人間を投げたのだ。

「まだやる?」

淡々としたレーネの声が呆然とした表情の生徒達に投げかけられる。目の前で行われている事の不自然さに威勢を削がれたのか、一人また一人と男子生徒たちは逃げるようにレーネの前から走り去っていく。その中の一人が彼らの様子を呆然と眺めていた響児の前で足を止めた。

「お前が馬鹿やったのは事実なんだからな。そのせいで楠木は学校に来なくなったんだぜ?」

吐き捨てるかのような言葉を途中で遮ると、そのまま走り去っていった。だがその言葉は響児に十分過ぎる程の影響を与えていた。

楠木。それこそが創造のルアンレーネ、響児の物語の唯一の『読者』の名前だった。


「ホントに水でよかった?」

コンビニの袋から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを見て響児はレーネに問いかけた。先程の騒動から半時間。響児を問い詰めていた生徒達はもちろん、遠巻きに騒動を見ていた生徒達も少しずつ去って行き、夕日で橙色に染め上げられたコンビニの駐車場には響児とフェンスに腰掛けているレーネ以外の人影は無かった。

生徒達が去った後、レーネは何も言わず響児を見つめているだけだった。その沈黙に耐えきれなくなった響児が何か飲みたくないかとレーネに尋ねると、彼女は素っ気無なく「水」とただ一言呟いた。そして今、無言で響児の手からペットボトルを受け取ると蓋を空け、喉に流し込んでいた。少し早いペースで白い喉元を動かして一気に飲み終わると、レーネは大きく溜息を付き、少し安堵した表情を見せた。

「喉、乾いてたんだな」

「ずっと貴方を探してたから」

響児の問いに答えたレーネの言葉は相変わらず辛辣だったが、その口調自体は心なしか激しさが和らいだように感じられた。その事に少しの安堵を感じた響児は思い切って言葉を続けてみる。

「さっきの話しさ……何処ら辺から聞いてた?」

「あなたが転んだ辺りから。言わなかった? 最初からだって。盗み聞きするつもりはなかったの。気を悪くしたなら謝るけど」

「そんな事は無いけどさ、その、レーネは……」

「何?」

「いや……俺の事また軽蔑したんじゃないかと思ってさ」

恐る恐る言葉を続ける響児を見てレーネは呆れた様子で答えた。

「ホント、理解力無いわね。さっき言わなかったかしら? 力のない者が武器を使うことは悪い事じゃないって」

「なんでそう思うんだよ?」

「私達の世界には『歪』がいるから」

レーネの口から出たその言葉を聞いた瞬間、響児は理解した。

人々を恐るべき力で苦しめる『歪』。そしてその恐怖に晒されるレーネ達。力無き者が武器を使う。それはレーネ達にとって当たり前の事なのだ。

その事実に気付いた瞬間、響児の心を罪悪感が支配し、口から謝罪の言葉を述べようとしたが、すんでのところで思い止まった。言葉だけの謝罪など意味が無いということをさすがに響児も学習していたのだ。そして再び沈黙が二人の間に広がる。

「あのさ、何か食べない? 色々買ってきたんだけどさ」

気まずい沈黙を打破するのが食事の話題だけというのも情けない話だという事を響児自身は理解していたが、今の彼にはこうするしか無かった。響児が差し出したコンビニ袋を一瞥すると、レーネはその中に手を入れて二つの物を取り出した。

一つはクッキー。といっても最低限の栄養を取るダイエット食の様な代物。もう一つはコンビニの店員が入れたフリーペーパーの情報誌だった。

「そんな物なにするんだよ?」

意外な行動に響児は疑問の声を上げる。

「お土産」

「お土産って、そんな物が?」

「ええ」

「誰が喜ぶんだよ?」

「子供達」

その言葉が出た瞬間、今までずっと張り詰めていたレーネの表情が少し和らいだ。

「本や玩具、子供達が喜びそうな人形劇をしてくれる人達、皆『歪』に奪われた。この世界ではなんでも無い物かもしれないけど、私達の世界では素敵なプレゼントになるわ。何しろ見たことの無い世界の事が沢山書いてあるんだもの」

そう言って大事そうにそれを脇に抱え込むレーネの表情は今まで響児に辛らつな言葉を浴びせ続けていたものとは違い、とても優しげなものだった。

「本当はこの世界の食べ物、お腹いっぱい子供達に食べさせてあげたいんだけど」

「そういや……食料も少ないって言ってたよな」

「ええ。だけどみんな私に優先して食料を回す。『歪』と戦ってくれる、自分達を守ってくれる『陽光の巫女』だからってね」

その言葉で響児は気づいた。それがレーネが水やクッキーといった素朴な食事ばかり摂っていることの理由なのだと。仲間達が少ない食料で耐えているのに自分だけ食料が豊かな世界で食事を楽しむわけにはいかない。

レーネはそう考えているのだろう。そしてその原因を作ったのは他ならぬ響児自信。それに気付くと、罪悪感と同時にある疑問が頭をもたげてきた。

「なあ、なんで俺を庇ったんだよ?」

疑問を率直に口に出す。響児を責め立てていた生徒達をレーネが蔑視するのは理解できるが、何も響児を庇った事実については理解出来なかった。

「俺はさ、レーネ達の世界、『創造のルアンレーネ』を滅茶苦茶にした人間なんだ……」

だからこそレーネは響児に初めてであった時から彼を憎み、辛辣な言葉を浴びせ続けていたのだ。だがレーネはそんな響児を庇った。

「別に……大した理由じゃないわよ」

素っ気無なく呟くと、レーネはスカートの裾から覗く両足を組み換え姿勢を正した。

「私ね。この世界に来てから、あなたが毎日気楽に何の心配もせずにこっちの世界で、のうのうと生きているって思い込んでた。だって私達の世界と違ってこの世界は何でもあるし『歪』に襲われる心配も無い。そんな風に気楽に生きられるから、私達の世界、『創造のルアンレーネ』も適当に扱っているんだろうなって」

「それが……なんで?」

レーネの言葉でも響児の疑問は晴れなかった。

「それは……ただ貴方の両親を見て理解しただけ。貴方は決して気楽に生きてきた訳じゃないってこと」

両親。その存在がレーネの口から出た瞬間、響児の心を重苦しい物が支配していく。だがそれを打ち消すかのようにレーネは明瞭に答えた。

「自分の子供にあんな態度を取るなんて私達の世界では考えられないもの。『歪』や人間同士の驚異から皆自分の子供を必死に守る。あなたの両親みたいに、子供をあんな厄介払いするように、蔑むように接する親なんて初めて見た」

「ああ……そうなんだ」

その言葉を聞いた瞬間、響児は思い出した。『創造のルアンラーオ』には子を疎んじる親は存在しない。するはずが無いのだ。何故なら『創造主』すなわち作者の響児がそう書いたのだから。すれ違う両親との関係上手くいかない。それらと相反するように響児は物語を書いた。

そこには両親に自分を理解して欲しい。仲の良い親子でありたい。そんな彼の願望が込められていたのだ。

そして一人納得した響児にレーネはさらに言葉を続けた。

「だから思ったのよ。あなたも辛かったんだろうなって」

その言葉は今までの容赦のない苛烈な物ではなかった。心から響児の事を考えた上での優しい言葉だった。

「辛かったって……そんな……」

響児が搾り出した声は言葉にならなかった。喉の奥に熱いものがこみ上げ、視界がボヤけ思わず右腕で両目を覆う。そんな脳裏に自分が起こした事件からの記憶が次々と駆け抜けていく。

言い分も聞かず叱責する教師達。恐れと軽蔑に満ちたクラスメート達の目。まるで人殺しでもしたかと言わんばかりに罵倒する両親。

だれも響児の気持ちを、苦しみを分かってくれなかった。

だがレーネは言ってくれた。力のない者が武器を使うことは悪い事ではない。そしてこうも言ってくれた。響児の両親の態度はおかしい。あなたも辛かったのだろうと。

レーネのそれは事件以来響児を取り巻く環境が一変した中で、初めて彼を庇護する言葉だったのだ。そして響児がその事実を噛み締めるうちに、感情は彼の両目から雫となって静かに滴り落ちていった。

「ちょっ ちょっとなんで泣いてるのよ」

そんな響児を見たレーネの声色が慌てたものになる。まるで自分が何か悪い事をしてしまったかのように、心配そうに響児の様子を伺う。

「初めて……あの時から……初めてレーネが庇ってくれた……」

その後はもう言葉にならなかった。響児はただ嗚咽を繰り返すだけだった。そんな彼を見たレーネはバツが悪そうな表情になると、そのままそっぽを向き、言い放った。

「言っておくけど、私があなたを庇ったことと、あなたが『創造のルアンレーネ』を無茶苦茶にしたことは別の問題だから。あなたが無責任な理由でそうしたっていうなら、殴る」

レーネの明確な意思を聞いても、響児の心の底から込み上げてきた嗚咽は止まなかった。そんな響児と、彼を視線に入れないレーネ。時々コンビニに入る客や、道路を通り過ぎる人々が怪訝な顔で二人を見つめる。

無理もなかった。嗚咽をこぼす男子高校生とその隣に気まずそうに座る少女。しかもその少女は真紅に包まれ全身に装甲を貼り付けた奇妙な服を纏っていて、しかも滅多に見られないような美貌と来ている。事情を知らない他人からすれば興味深々といった所だろう。そんな微妙な空気が続く中、レーネがぼそりと呟いた。

「楠木って……誰?」

「……何だよ突然」

レーネの口から出た『読者』の名は、響児の嗚咽を止めるのに十分だった。

「何だとは何よ。さっきあなたの質問に答えたでしょ。次はあなたの番」

「それだけが理由かよ」

「……あいつらの口からその名前が出た時、誰かさんが思いっきり挙動不審になったから気になった。これが理由じゃダメ? それに私達がこっちの世界に来てからずーっとあなたの質問に答えてたじゃない。何か事情があるのは分かるけど、一つぐらいは答えなさいよ」

拗ねたようなレーネの口調には微妙な裏が感じられた。要するに彼女はこの空気、響児が泣きじゃくっている状況を変える為に彼に話題を振ったのだ。それにしては響児にとっては重い問いだったが。

「『読者』だよ……『創造のルアンレーネ』のたった一人の『読者』」

考える前に口からその言葉が漏れた。レーネに庇ってもらった事によって、この一連の出来事に『読者』を巻き込みたくない。その思いがほんの少し緩んだのだ。

「なんですって……」

それまで素っ気無い様子だったレーネの表情が一変する。

「なんで言わなかったのよ! そんな大事なこと」

「怖かったんだよ……」

レーネに視線を向けず地面を見つめながら、それでもはっきりと言葉を続けた。

「このイザコザに巻き込まれるんじゃないかってさ……それに例の事件からずっと会ってないから……」

「そんなの理由にならないわよ!」

レーネの口調が再び刺を含んだものになっていく。

「何度も話したでしょう? 私達の世界がどれだけ酷い事になっているかって。その楠木っていう人間が何か知っているかもしれないのに」

そう言うとレーネは両腕で響児の肩を掴む。その衝撃で彼の体は揺さぶられ、否が応にもレーネの視線が目に入った。きつく結ばれた瞳の端には激情したせいか、うっすらと涙らしきものが浮かんでいた。

「何か言いなさいよ 大体あなたは……」

「嫌だったんだよ 『読者』を……あいつを巻き込みたくなかった 思い出まで滅茶苦茶にされたくなかった」

響児自信でも驚くほどの大声が喉からほとばしった。その勢いに思わずレーネは彼の両肩を掴んでいた手を離し、呆気に取られた表情で響児を見ていた。そしてそんな彼女に構うことなく響児は思うがままに言葉を続ける。

「六年になって、母さんから本を読むなって言われて全部捨てられて……変わりに自分で物語、『創造のルアンレーネ』を書いていたら……あいつが話しかけてくれた、面白いって言ってくれた……続きが楽しみねって、とても優しい物語だねって……」

激情に任せて言葉を吐くうちに、再び響児のそれに嗚咽が混じっていく。だがそれすらも響児の感情の吐露を止めることは出来なかった。

「ホントにアイツといる時は楽しかった。嫌なことは何でも忘れられた。アイツだけがいれば良かった……」

感情の吐露は留まることを知らない。先程レーネに庇ってもらったことで吹き出た感情と同じく、容赦無い言葉の奔流となっていく。

「あの事件……木場を殴った時も『創造のルアンレーネ』を馬鹿にされたから、アイツとの思い出までグシャグシャにされたみたいだったからやったんだ……それぐらい大事だったんだ…

…物語もアイツも。それが昨日レーネ達に会ってから、まるで悪夢のような物語になっているって聞いて……俺は、あの大事な物語にそんな事するはず……」

「もういいわ」

感情を吐き出す響児の言葉をレーネの一言が遮った。それは響児が彼女に出会って初めて聞く、とても優しく暖かなものだった。そして同時に彼の背中に柔らかい温もりが感じられた。

それがレーネが自分の背中に抱きついているという事に気づくと、響児の顔はサッと赤くなった。少し時間が経って薄暗くなったせいか、辺りに人影が無かったのが幸いだった。気恥ずかしいと同時に、背中から伝わる何とも言えない心地良さにもう少し体を委ねていたいという気持ちが湧き上がり、彼の心のなかで葛藤を生み出す。

それほどレーネのたった一言の言葉も彼女の体温も、心地良い温もりに溢れていたのだ。そして彼女が再び発した言葉がそれを裏付けた。

「十分に分かったわ。あなたが物語、『創造のルアンレーネ』、私達の世界をどれだけ思っていたかって」

そこにはもう響児を攻め立てた辛辣さは存在しなかった。

「だから……考えましょう。あなたと『読者』の物語、そして私達の世界である『創造のルアンレーネ』を救う方法をね」

その言葉の温もりは、響児の心からある物を溶かしていく。それはこの事件からの逃避、現実を直視しようとしない響児の弱さ。それを実感した響児の口からは自然に決意の言葉が紡がれる。

「俺は……もう逃げないよ……今度こそ」

表情を見ないまでも背中越しにレーネが安堵している様子が、響児には感じられた。

「あれ? しばらく見ないうちに仲良くなったもんだね」

唐突に声が響く。思わず声のする方を見ると、そこには面白い物を見たといった表情のシヨウが立っていた。と、同時に響児は自分の身体がものすごい勢いで突き飛ばされるのを感じていた。


「だ・か・ら……あれはシヨウが私にしてくれたのと同じなんだってば」

顔を真赤にしながらレーネがシヨウに抗議するのを、響児はボンヤリとした頭で耳に入れていた。

「ああ。君がぐずると、よく背中から抱いてあやしてたけど……それは君がまだ小さい頃の話だろ?」

「……何が言いたいのよ」

イラついた口調のレーネとは対象的に飄々とした口調でシヨウは応えていた。

「いやさ、君もそろそろそういう年頃だなーって思って。そう。恋を覚え春を謳歌すべき……」

「っっっっっつ……馬鹿言わないでよ 例え私が誰かを好きになってもアレは問題外よ あーんな貧相な顔で頼りないヘタレなんかに、私は絶っっっ対に恋したりしないんだから」

怒号とも悲鳴ともつかないレーネの言葉を聞いているうちに、彼女にヘタレ呼ばわりされた響児の意識は次第にはっきりしてきた。

響児に抱きついているのを見られた瞬間、レーネは思いっきり響児を突き飛ばし、シヨウに誤解を解くための説明とも抗議ともつかないものを繰り返しているのだ。

突き飛ばされた響児はというと、数回ほど身体が回転するのを感じて思いっきり駐車場のフェンスに激突した所で数刻意識が途絶えた。

そうして意識がはっきりとした頃には眼前で例の光景が繰り広げられていたのだ。

「大丈夫か? 創造主?」

心配そうにザズが尋ねてくる。

「ちょっと小突いたぐらいで人間は死なない。心配しすぎだ」

それを横目で見ながら素っ気無く言ったのはファング。響児を探しているうちに三人とも例の場面を目撃することになったのだ。

「小突いた……ってレベルじゃないだろ……コレ」

響児の記憶が正しければ数回は地面と空が交差するのを見た。それぐらいの衝撃だったのだ。それに加え、昨日から二回『歪』に襲われた時の怪我で満身創痍なのだ。とても小突いた、

という話では収まらなかった。全身から鈍い悲鳴が聞こえる。

「情けないヤツ。逃げ出すわ、レーネに小突かれたぐらいで泣き言もらすわ」

そんな満身創痍の響児にお構いなく、ファングの辛辣な台詞と冷ややかな視線が突き刺さる。

「もうその辺にしとけ」

ザズがファングを諌める。そして響児に問いかける。

「それで……その楠木とかいうのが物語の唯一の『読者』なんだな」

「ああ……そうだよ」

「そして君はその『読者』を巻き込みたくないと考えている。そうだろ?」

何時の間にかシヨウがレーネからの抗議をかわして、響児達の会話に割り込んできた。

「さっきまでは……そう思っていた……」

鈍痛が身体を支配する中、響児は堂々とした口調で答えて正面からシヨウを見据えた。

「昨日から逃げてばっかでさ、こんな俺じゃ信用ないけど……さっきレーネと話してみて思ったんだ。やっぱり俺が決着つけないといけないんだって。そう思うんだ」

それは先程レーネが孤独だった響児を初めて庇い、そして『読者』を巻き込みたくないという響児の思いを汲んでくれたことで生まれた響児の明確な意志だった。そしてその強靭さはシヨウにも十二分に伝わった。少々唖然とした後、素直に賞賛の言葉を述べる。

「……たった数時間会わなかっただけでこうも変わるものかね」

そしてまた何時もの飄々とした言葉をレーネに投げかける。

「見直したよ。さすがはボクらの世界を救うべき『陽光の巫女』だ。愛情は少年を成長させるってね」

「だから違うってばぁぁぁぁ アレは絶対に絶対に絶ぇぇぇぇっ対にそういうんじゃないんだから」

顔を真っ赤にしてレーネが反論する。そんな彼女の反論を適当にあしらうとシヨウは改めて響児に声を掛けた。

「まあ君が決心してくれたのならそれでいい。無論、君はもちろん『読者』にも絶対に『歪』どもに手を出させない」

その言葉は響児の中にあった不安、『読者』を巻き込み危険に晒すのではないかという最大の心配を払拭した。そしてそれを再確認するかのようにシヨウに問い返す。

「信じていいんだよな。俺なんかよりアイツが無事なら……それでいい」

「そんなに大事ならさっさと話せばいいんだ。ウジウジ隠して。男らしくない」

ファングが呆れるかの様に語りかける。

「大事さ……『創造のルアンレーネ』を書いたのは俺自身の為だったけど、アイツが『読者』になってくれてからは、アイツの喜ぶ顔が見たくてずっと書いてた。書いても書いても続きを読みたがるからさ……大変だったけど、嬉しかった」

「まさかボクらの世界を想像するにあたって、そんな苦労が有ったとはね」

シヨウが苦笑交じりの言葉を漏らす。

「だけど……あの事件から何もかも嫌になって……アイツに会えなくなってからは……書くことも無くなっていった」

その言葉を口に出した瞬間、再び響児の心を重苦しさや後ろめたさが包みこむ。だが、それに屈する事無く再び言葉を紡ぐ。

「だから俺が最悪の状態でひどい事を書いたままなのかもしれない。あの事件から引き篭もっている間は、記憶が曖昧だったから……だから」

「もういいよ『創造主』」

シヨウが柔らかな言葉で響児を包んだ。

「君の決意は分かった。しかしまあ……一人の人間の精神状態で世界が左右されるとはね。つくづくも『物語は一つの世界』という事実には悩ませられるな」

そんなシヨウのボヤきを聞いてレーネが呟いた。


「ホントに。私達の世界にも創造主が何人も居れば良かったのに」


「え?」

レーネの放った言葉に響児は戸惑った。

「どういう意味だよ? その『創造主』が何人もいるわけないだろ? 『創造のルアンレーネ』は俺が考えて俺が書いた物語なんだから」

戸惑いつつもレーネに問いかける。

「ああ……そう言えば説明が足りなかったね」

疑問に答えたのはシヨウだった。

「全ての物語は存在する世界。物語は何も本だけとは限らないだろう?」

「つまりはこういうコトよ」

そう言ってレーネが差し出したのは先程彼女が子供達への土産にするといったフリーペーパー。それに書かれた映画や演劇、漫画やゲーム等の紹介を見た瞬間、響児は理解した。

「そうか……演劇や映画、ゲーム……全部物語だ。一人じゃ作れない」

どれも大勢の人間が関わるものだ。演劇や映画なら、脚本を書く人間、演じる役者。ゲームならプログラムを打つ人間、音楽や絵に関わる者。様々な人間が関わることで完成する。

「一人じゃ作れない。大勢の人間が関わるからその誰もが『創造主』とも言える……そう言う事だろ?」

シヨウは感嘆するこのように軽く口笛を囀ると、響児の問いに答えた。

「正解だよ。物語に関わる人間が多ければ多いほど『創造主』たる者は増える」

「『創造主』が何人も居ればその内の一人が……俺みたいに物語に関わることを放棄しても、他の『創造主』がいればその物語の世界は滅多な事じゃ崩壊しない」

「つくづく飲み込みが早いな。レーネ。君が愚鈍だと言っている創造主はこんなにも聡明じゃないか。やっぱり君の説明が……」

シヨウの言葉を耳にしながらも、響児の脳裏には何かのしこり、違和感の様なものが渦巻いていた。

小説、映画、劇、ゲーム、マンガ、全て物語。その中で小説は一人で作れる媒体の物語。

少しずつ頭の中を整理していき、違和感の正体を賢明に洗い出そうとする。

「他は……例えば映画なら監督がいて脚本家がいて、演じる役者や撮影する人間もいて。誰もが『創造主』の可能性がある……あれ?」

誰もが『創造主』の可能性。その事が再び脳裏をよぎった瞬間、響児の脳裏にある記憶が蘇った。


――響くん。響くんのお話って題名がまだ無かったよね? 私考えてきちゃったんだ。

――創造のルアンレーネっていうの。ダメかな? 南の国の言葉で『物語』っていうんだ。


「っっっっつつ」

懐かしくも温かい『読者』の言葉が蘇った瞬間響児は叫び、目眩と動悸に襲われ地面に突っ伏した。

「創造主」

「ちょっと! どうしたのよ」

地面に膝を付いた響児にレーネ達が驚き、声をかける。そんな中でも響児は賢明に思考していた。自分が起こした暴力事件。先程の級友達の辛辣で陰険な言動。自分の部屋に無かった原稿。創造主である自分を殺そうとした『歪』。それらの記憶を整理し、響児は一つの答えにたどり着いた。

「アイツも……『読者』も『創造主』なんだ……」

そう声を出した唇が震えているのを、響児は鮮明に自覚していた。




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