プロローグ
プロローグ
少年の目の前に転がっているそれが人間でないということは明白だった。
全身を覆う鱗状の皮膚。長さの揃わない歪な指の先端から生えた鋭い爪。真っ二つに両断され、だらだらとどす黒い血を流している胴体には、底の見えない洞窟を思い浮かばせる穴が、左右対称に幾つも存在している。
頭部らしき部分には目と思われる裂け目が左に一線。右に胴体に存在していたような、虚ろな穴。そして口らしき物は針と糸で縫い付けられたような跡が残っていた。
まさに化け物と呼ぶにふさわしかった。それも恐ろしく醜い化け物。
作り物の類で無い事は明白だった。ピクピクと小刻みに動いていたし、作り物の化け物が醜さの中にもある程度の規則性をもった形をしているのに対して、少年の目の前で異臭を放つそれは、整然さも様式美も存在しない。人間が創造したという痕跡が全く見当たらない、ただひたすら醜悪な存在だった。
それについ先ほどまで、少年は目の前の異形に殺されかけていたのだ。突如路地裏に連れ込まれ、首を締め上げられて宙に浮かされ心臓を貫かれる刹那、宙に浮いた少年の身体は支えを失って、硬いコンクリートの上に落下した。
首を締め上げられていたせいで満足に呼吸できなかった苦しさと、下半身をコンクリートで打った痛みにしばらく呻いていた後、なんとか目を見開いてみると、化け物は胴体を両断されていた。それがついさっき起こった出来事。その事実が目の前の肉塊が作り物等ではなく、意思を持った何かというなによりの証明だった。
何が起こったのか理解できなかった。だが、襲われた時の痛みと、眼前で無残に転がっている異形の肉塊が放つ異臭が、少年が見ている光景が現実だと五感に訴えかけていた。
「何が起こったか分からない、って顔ね」
ふと、少年に語りかける声があった。少年は反射的に声のした方に目を向ける。
醜悪な肉塊の向こうに立っていたのは、一人の少女だった。
年齢は少年と同世代か、少し下、十四、五歳ぐらいだろうか。年相応に整った胸腺を無駄な装飾が一切ない長袖のブラウスが包み、踝まで覆うまっすぐな線を描くスカートにはスリットが存在して足を幾重に皮ベルトで巻くズボンが覗く。そしてその先の編み上げブーツや細い指に絡むグローブに至るまで、艶の無い真紅で統一されていた。
そしてその真紅の衣装の至る所、胸部、腕、スカート等には鈍い光沢を放つ幾つもの金属片、装甲が取り付けられている。
ドレスの優美さと甲冑の堅牢さを持つ衣装、装甲服とでも言うべきだろうか。
そんな真紅で覆われた中で唯一、うなじに掛けられて胸の両側から風になびく漆黒の、スカーフともマフラーとも付かない大きな布が異彩を放っていた。
そして、現実離れしているのは着ている物だけではなかった。
少女はとても綺麗な顔立ちだった。テレビで見かけるタレントやモデル達が持つ、ある種毒々しい美しさはなく、清らかな水の様に透き通った美しさを感じさせるものだ。左側で一つに束ねられ腰まで伸びた髪の色は、人工的な着色などで絶対に表現できないだろう、陽光を思わせる金色。柔らかそうだが強く結ばれた唇。
そして最も印象に残るのは、この異常な状況にまったく動じた様子が無い、覇気に満ちた大きな左右の瞳だった。
左が淡い水色で右は対象的に暖かな橙色。決して人工物の美しさでは無かった。少年を襲った化け物がこの世の物で無い醜悪さだとしたら、少女の美しさもまた現実に存在しないであろうものだった。
目の前の美しい少女と醜悪な肉塊。対極に有るべき物が同時に存在していると言うべき光景に戸惑っている少年に、少女は語りかけてきた。
「なんで自分がこんな化け物に襲われるか分からない。そんなとこかしらね?」
「あ、当たり前だろ……こんなの聞いた事も見たことも無い。なんなんだよコレは!?」
胸中を見透かされた少年は、なんとか声を振り絞る。
「本当に分からない?」
「当たり前だろ! だから一体何がどうなって……」
「コレは、貴方が創造したモノ」
少年の言葉を遮り、少女は静かに言い放った。その言葉に少年は呆気に取られる。
「な、何を言ってるんだよ? オレが作った? そんな覚えなんて無い。大体こんな化け物をどうやって作るっていうんだよ!」
少女の言葉を理解できず、激高する少年を少女は冷ややかに見ていた。
「まさか忘れてしまったわけ? あなたが創造した物語の事」
そう言った少女の口調は何処と無く、少年を咎めるふしがあった。そして、少女はさらに言い放った。
「私もこの化け物も、あなたが創造した物語に生きる存在」
少女が言い放ったその言葉は完全に少年の常識の範疇を越えていた。
オレが作った物語? それに生きる存在? この娘も? この化け物も?
「まだ理解できないようね?」
完全にパニックに陥った少年に少し呆れる様な口調で語りかけると、少女は化け物の残骸をまたいで少年に詰め寄って、顎に手をかけた。そして少年の瞳を真直ぐに見つめると、今だ状況を理解できていない少年を咎めるかのような口調で詰め寄った。
「今理解できなくてもいいわ。とにかくあなたにはあなたの創造した物語を、私達が生きる世界を修正してもらう」
少女はそこまで一気に捲くし立てると、今度は少し落胆したかのような声でつぶやいた。
「それにしてもあなたが私達の『創造主』? 貧相な顔ね……」