狂乱の獣は夜に啼く
薄暗い部屋の中で、俺はゆっくりと顔を起こした。辺りは静かだ。何人かの規則正しい呼吸の音だけが聞こえてくる。あくびをして、布団から出る。窓のないこの部屋からでは太陽の位置はわからない。だが、体がだるい。まだ昼間のようだ。ずいぶんと体質が変わってしまったなと、苦笑がこぼれる。
ぼんやりと座りこんでいると、足音が聞こえてきた。二人分だろうか。硬い床に当たる靴の音は、やがて部屋の前で止まった。頑丈な扉が重々しく開く。隙間からこぼれた光に、俺は思わず目を覆った。
「起きていたのか」
入ってきたのは、驚いたような男の声。そっと様子をうかがえば、透明な板でしきられた向こう側に白衣を着た黒髪の男がいた。逆光で顔はよく見えない。もっとも、見えたところで普段から無表情の相手なのでいまいち感情はくみ取れないのだが。
「寝てなくていいの? 今の時間に起きてるの、だいぶつらいと思うんだけど」
男に続いて、銀髪の女も入ってくる。彼女がドアを閉めると、部屋はまた薄闇に包まれた。明かりといえば今入ってきた二人の手元を照らす弱い光だけ。一応この部屋にも照明はあるが、点けないのは俺たちへの配慮だろう。することもなく、俺は布団の上に横たわった。眠くないが、全身のだるさにはかなわない。
「静かなものだな」
ぽつりと男が呟いた。俺以外は寝静まっているのだから、そう思うのも当然だろう。彼の言葉に、女も続く。
「ほんと、こうしてみるとただの人よね」
女の声は静かだった。その中にどんな思いが込められているのか、俺にはわからない。女は名案が浮かんだとばかりに顔を上げた。
「ねえ、任務がなくて日が暮れたら、彼らを街に連れて行こうよ。たまには家族にも会いたいだろうし」
「よせ。奴らは表向き死んだことになってるんだ。大量の亡霊を引き連れて街に行ったらどうなるか、わかるだろう」
明るく言う女を、男がたしなめる。事実俺は、ここの部屋で寝ている者達は、社会から隔絶されていた。家族や友人といった親しい者のもとから離れ、ただ与えられた任務を果たすためだけにここにいる。今までの生活には、決して戻れない。
「悲しくないのかな。国家のため未来のため、自ら人間性を失うなんて、さ」
女の言葉が、辺りを暗く沈ませた。俺は反論したくなった。国に尽くすのは国民として当たり前のことだし、何より俺は俺のままだ。明るい未来を目指してできることをすることが、悲しいものか。そう叫びたかったが、上手く言葉にならない。そこへ、男の声が聞こえてきた。
「感傷はよせ。憐れみをかけるほど憐れになるというものだ」
それは的確で、それでいて冷たい発言だった。かばうつもりだったのか、それともただ突き放しただけなのか。凜とした声はしばらく頭の中で響いていた。
それから一眠りして、ノックの音で目が覚めた。起き上がる間に、またあの二人が入ってくる。今度はいい匂いのする台車も運ばれてきていた。載せられた膳を各自で取りに行き、豪華ではない食事を頬張る。
「敵の陣地に夜襲を仕掛けよとの命令が入った」
男の事務的な発言に、わっと歓声が上がる。ここにいるのは志願兵達だ。活躍の場を与えられて喜ばないはずがない。少し落ち着いたとき、男の声がまた響いた。
「出発は一時間後だ。それまでに調子を整えろ。それと、体調の悪い者は申し出ること」
それだけ言って、ガラスの向こうへ行ってしまう。もう用はないと言いたげな行動だった。
「なんでおれ達が軍の仕事を任されにゃならんのだ。実戦で使うならこいつらの管理もやって欲しいもんだ」
「仕方ないじゃん。まだ試験段階だからって突っぱねられたんだから」
男の嫌そうな声が聞こえてくる。女の方はさして気にしていないようだった。彼女の言葉を聞いて、男は鼻で笑った。
「はっ、こんな大人しい犬の手綱も取れないようじゃ、先が思いやられるぜ」
そう吐き捨てて、部屋から出て行く。俺はかみ砕きながら、その姿を見送った。怒りにも似た闘志が腹の底からわき上がる。まだ、認められていないだけだ。功績を残せば、きっといつか表舞台へ出られる。そのためにも、できることをする。俺はぐっと拳を握りしめた。
渡された地図に従って、暗くなった道を急ぐ。人気のないルートを選び、整備されていない場所を駆け抜ける。そうして、十数人ほどの俺たちの部隊は、明かりのある場所まで来た。隊長の指示に従い、物陰に隠れて様子をうかがう。既に寝静まっているのか、見張りの人間しかいない。聞こえてくるのは自分たちの呼吸音と、虫の鳴き声だけ。
笛の音が鳴り響いた。高いあの音は攻撃の合図だ。一斉に飛び出す。驚く見張りに襲いかかり、忌々しい明かりを打ち壊す。俺は腕を振るった。鋭く尖った爪が肉を引き裂く。噴き出す血の臭いに気分が高鳴る。もっと、この快感が欲しい。夜闇の中を走る。今の俺はより闇の向こうを見渡せる。仮に見えなくとも獲物の息づかい、そして臭いを敏感に察知できる。
俺は、獣だ。闘争本能を剥き出し、爪と牙で肉を裂き、血を浴びることを求める獣。人でありながら人を越えた力を求め、こうして姿を変えた。全ては国のため、愛する国に勝利をもたらすため。
起きていたらしい兵隊がこちらに駆けてくる。俺は爪を食い込ませ、相手の喉をかみ切った。背後に殺気が迫る。ドスッと背中に痛みが走った。そちらを睨み付け低く唸る。乱暴に体を回し、振り払う。ついでに背中に刺さった槍を引き抜いた。自分の血で濡れた刃を、持ち主に投げ返す。苦しむ声を上げて相手は動かなくなった。背中の痛みは既に消えている。おそらく傷ももうふさがっているのだろう。
俺は獣だ。戦場に出れば、俺たちに敵う者はいない。その力は、ただ闇の中でだけ発揮できる。日の下に出ることは決してない。夜が、闇が、俺たちの唯一の見せ場なのだ。
びちゃりと血塗れに死体が沈む。自分たち以外に動く者は見当たらない。俺は吠えた。まだだ。まだ足りない。俺は物言わぬ体に拳を突き入れた。血肉が飛び、腕が床にぶつかる。振り下ろす度に形を失った肉片になっていく。それでも足りなかった。訴えかけるように遠吠えする。
獣の咆哮を切り裂いて、笛の音が届いた。退却の合図だ。さっと駆け出し、来た道を戻る。あの命令を無視したら、酷いことをされる。そうでなくとも、俺は誇りを持ってやっていた。化け物でもいい。この国が勝って戦いが終わりさえすれば、今までの苦労が報われるはずなのだ。
月明かりのない道ばたで、白衣の男が笛を鳴らす。鳴らすと言っても、音色は聞こえなかった。人の耳には聞こえない音域だったからだ。半獣達が戻ってきたのを認め、咥えていた笛を離す。
「忠実だな」
「元々自分たちで望んだことだからじゃない?」
男の漏らした感嘆の言葉に、銀髪の女は続ける。彼女はいかにも楽しげに笑っている。それを見て、男はふっと息を吐き出した。
「しかし悲しいものだな。奴らが生きられるのは戦いの中だけ――――その先の平穏を望むことはできない」
声にも瞳にも、悲観の色が混じる。女はクスクスと笑った。
「憐れみをかけるほど憐れになるんでしょ?」
はっきりとした声に、男はわずかに目を見開いた。しばらく瞬きしていたが、やがて頬を緩めた。
「そうだったな」
男は笛をポケットにしまう。わずかに口の端を上げたまま、車に乗り込んだ。
石鹸さんからのリクエストで「何か枷や制限に奮闘する主人公の物語」でした。
思ったよりダークでもなかったかもしれませんね。でも書いてて楽しかったですw
リクエストありがとうございました!