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第一幕

 侍従と聞いたので、メイドか何かかと思ったらそうではなかった。

 シャルルに腕を引っ張られ、中央広場で待っていた馬車に乗せられた。相変わらずシャルルは尊大で、亜子が必死に決意したというのに「そうか」で終わってしまった。

(王子様ってなにを考えてるのかわかんないなー)

 ぼんやりそう思っていたら、マーテットも乗り込んできた。助手にならなかった亜子を見て、溜息をつく。

(わ、わざとらしい……)

 半眼になる亜子の横に座った途端、馬車が走り出す。

「でも侍従ったって、良家のお嬢さんでもねーのに無理でしょうよ。オッスの旦那でも説得ムリムリ」

 ぱたぱたと手を振るマーテットの言葉に亜子はハッとする。そうだ。ここは階級社会なのだ。

 頬杖をつくシャルルは冷たい眼差しをマーテットに向ける。

「アガットには、余の護衛になってもらう」

「はあ!?」

 仰天したマーテットの隣で、亜子も驚愕する。

「え? ええ? アトに護衛? それこそ無茶っスよぉ!」

「いつまでもデライエを余につかせておく意味もあるまい。余は余の騎士を持つべきだ」

「騎士なんてもん……古代のものじゃないかよ」

 文句を言うマーテットの横で、亜子は小さく唸る。

「殿下、あたしに護衛ができるとは思えません」

「なぜ?」

「え、だ、だってあたし……訓練もされてないし……」

「なら訓練すればいいだけだ」

「ええっ!?」

 マーテットと声が揃った。丸眼鏡を押し上げてマーテットは苦りきった表情になる。

「ファルシオンを呼び戻せ」

 シャルルの命令に、マーテットは完全に項垂れた。



 シャルルが滞在している屋敷へと連れて来られた亜子は、まず湯浴みをさせられた。

 そして新たな衣服が用意された。

「…………」

 服を見て、亜子は不思議そうになる。軍服に似ているが、違う。短いズボンだし、色も黒と赤を基調にしたものだ。

 下着はさすがに亜子の世界のものと同じものはないので、胸当てらしきものを胸元に巻く。その上に開襟シャツを着込み、与えられた衣服を身につけた。

 窮屈な衣服だとは思ったが、制服と思えば我慢もできた。

(なんかちょっとかっこいいな。あたしには似合ってないかも)

 照れたようにしながら脱衣所を出て、メイドたちに案内されるままにシャルルの待つ部屋に向かう。

 しかし本当に広い。ここは王宮ではないというのだから、目眩がする。

 続きの間で待っていると、許可が下りて亜子は部屋に入った。

 長椅子に腰掛けて読書をしているシャルルがそこにはいる。

「殿下、お待たせしました」

 恥ずかしくて、ちょっと大声で言ってしまうと彼はこちらをちらりと見て、すぐに興味を失ったように「ああ」と呟く。

(えっと……どうしたらいいのかな……)

 室内を見回す。どこも豪華絢爛で、高そうなものばかりが飾られている。なんだか見るのも申し訳ない気分になる。

「ん」

 いきなりの声にハッとしてそちらを向く、投げつけられたものを瞬時に片手で受け取る。

 亜子は手の中のものを見下ろし、驚いた。それは細身の剣だった。

「で、殿下、あたしは剣は使えません」

「で、あろうな」

「どうして……」

「一応持っておけ。格好がつかぬだろ」

 体面を保てという意味だとは察しがついた。亜子は慣れない手つきで腰に剣を佩く。

 とてもではないが、自分では扱えそうにない。

「ナイフのほうがいいかな……」

 ぼそりと洩らした途端、またなにかを軽く投げられた。キャッチするとそれは見事な装飾をされた短刀だった。

「護身用だ。持っておけ」

「で、でも殿下。これは殿下の持ち物では……?」

「余のものを、余がどうしようが、余の自由だろう?」

「そ、それは……そうですが……」

 彼の視線はずっと本に定められている。どうしよう……と困っていると、ふいにシャルルの視線を感じた。

「アガット」

「は、はい!」

 なにか用事だろうか。気合いを入れなければ!

 亜子が勢いよく返事をすると、シャルルはふいに珍しそうな表情になり、意地悪く笑った。

(ん?)

 なにいまの笑顔。

「緊張せずともよい。おまえは余の傍にいるだけでよいのだからな」

「え?」

「なにかしろとは言わぬ」

「いえ、それは、ちょ」

「なんだ? なにかしたいのか?」

「…………」

 ぽかんとしていると、亜子はもじもじしてしまう。することがないというのは、少し……というか、かなり苦痛だ。

「ではそこに座れ」

 言われるままに、一人掛け用の椅子に腰掛ける。ふわふわの座り心地で、亜子はびくっと身をすくめる。

 その様子にシャルルは「ハハッ」と楽しそうに笑った。

「おまえの反応は面白い」

「で、殿下が座れと言ったんですよ?」

「ではそのまま休め」

「は?」

「休めと言ったのだ。本を読んでも良い。許す」

 くっくっくと笑うシャルルに亜子は顔を赤くする。

「……からかってますか、殿下」

「からかっているように見えるか?」

 ツンと澄まして言われ、亜子はぐっと黙るしかない。

 休めと言われてどうやって休めばいいのか……。亜子は軽く嘆息してから室内をもう一度見回す。

 ここは彼の自室のようなものらしい。この屋敷ではおもにここに滞在しているということだ。

(護衛ってことは、警護する人なんだよね。よくわからないけど、そういう風に振る回らなくっちゃ)

 いくらなんでも無茶だとは思うが、それでもやってみるしかない。6日間だけの護衛役なのだ。

 あれこれ考えていると頭痛がしてきて、次第にうとうとしてしまう。そういえば……最近まともに寝ていなかった。

(まずい……寝ちゃいそう……)

 何度か首を振ったり、足を踏んでみたり、指を引っ張ったりしてみたが、それでも眠気が襲ってくる。

 亜子は必死に抵抗しながらも、眠りの世界へと誘われてしまった。



 ようやく眠った亜子に、シャルルは目配せをして本を閉じる。

 立ち上がり、メイドを呼んだ。

「毛布を持て」

「かしこまりました」

 メイド長である女性は眠っている亜子の姿に険しい視線を送るが、すぐさま無表情に戻ってシャルルを見た。

「殿下、この娘をどうするおつもりですか」

「……余に意見するか」

 冷たい声にメイド長のレラがぎくっとしたように身を竦めた。皇族に意見など、していいはずもない。

「失礼いたしました」

 引き下がったメイド長を見遣り、シャルルは再び長椅子に腰掛けはせず、亜子に近づいて顔を覗き込む。

「ぷっ。間抜けな顔だな」

 くうくうと寝息をたてている亜子から離れ、シャルルは真面目な表情で呟く。

「確かにトリッパーの護衛など、酔狂すぎる。だが余は決めたのだ」

 彼の命を亜子は反射的に救った。彼女は鍛えればそれなりの戦士になる。

 そのことが、きっと彼女にはいいはずだ。己の身を守れなくては、トリッパーは生きてはいけない。

「今は眠れ……アガット。目が覚めたら、おまえは余とともに歩かねばならん。その決断まで」



 目を覚ました亜子は、長椅子で読書をしているシャルルに焦点を合わせ、毛布がかけられていることにぎょっとした。

(あ、あた、あたしっ……! 眠っちゃってた!)

 なんたる失態!

 亜子は慌てて立ち上がって、毛布を畳んで椅子に置く。シャルルはまったく気にした様子もなかった。

「す、すみません……殿下」

「なにがだ」

 ぱらり、とページを捲りながらシャルルが返してくる。

「ね、眠っちゃって……その……」

「良い。今日は休暇ゆえ、学ぶこともない。ゆっくりしておれ」

「勉強……」

 そうだ。彼はもしかしたら次の王様かもしれないのだ。勉強をするのはやはり、色々……なのだろう。

(あたしで手伝えることはなさそうだな……)

 過去の自分はどうだったのだろう? 思えば思うほど、喪失感に苛まれる。

 話しかけるのも失礼かと思って、亜子はじりじりと壁際までさがった。部屋の壁一面は書棚が占領しており、アルファベットや漢字があれこれと並んでいる。

 ちらりと見遣ると、政治や経済の本もあるようで、亜子は不思議そうにしてしまう。やはり執政をするうえで、知識はあるだけあったほうがいいのだろう。

(こうしてみると、殿下は勤勉家にはとても見えないけど)

 読書をしている彼の本にはカバーがかけられ、タイトルが見えない。なにを読んでいるのだろう?

 じっと凝視していると、シャルルがこちらを見てきた。

「なんだ?」

「え?」

「なにか言いたいことがあるのであろ? 言うてみよ」

「…………殿下の読んでいるものは、どういう本かなって思って……」

「恋愛小説だ。巷で今、流行っているそうだ」

 え?

 あまりの答えに亜子は目が点になる。恋愛、しょうせつ? 殿下が?

「なんだ。驚き方がすごいな」

「いえ! あ、の、イメージがなかったのでびっくりして」

「そうか?」

 平然と応えるシャルルは小さく笑う。

「まぁ皇族は恋愛とはあまり無関係に見えるから、そう思えるのかもな」

「………………」

 物語の中と違って、王族や皇族はたぶん……自由恋愛というものはできないのだと亜子は認識していた。

 政略結婚はほとんどではないかと……そう、思っている。だから恋愛というものは、きっと……奥さん以外の人としそうなイメージというか……。

 結婚相手が恋愛相手になる可能性だってゼロではない。だがかなり低いことだろう。

 シャルルにじっと見られていることに気づいて亜子は背筋を伸ばす。

「なっ、何か?」

「アガットの世界にも皇族はいるのか?」

「え?」

 記憶を探る亜子はごちゃごちゃとした知識の中から必要なものを必死に手繰り寄せる。

「い、います……。でも、…………あたしの国の皇族は、平和の象徴というか」

「平和の象徴?」

「はい」

「そうか」

 シャルルは興味をなくしたようで、本を開いてまた文字を追う作業に戻った。

(…………しっかしあの殿下が恋愛小説かぁ。に、似合わないなぁ……)

 彼はモテるだろうし、恋愛もいくつかしたはずだ。それに比べて自分は……。

(あたしはモテたことなんてなかったし……誰とも付き合ってなかったなぁ)

 ただひたすら……ひたすら?

 表情が歪む。なくしたものを思い出そうとすると苦痛な気分になる。

(殿下はより取り見取りなんだろうなぁ……遊び相手とかには困らないって感じもするけど)

 しかし不思議だ。そういう雰囲気が……なんというか、感じられない。亜子が感じないだけかもしれないが。


 結局その日は、シャルルの傍でひたすら過ごすことになった。



 亜子はあてがわれた部屋の寝台に寝転んで、シャルルにもらったナイフを眺めていた。

 やはり装飾が素晴らしい。鞘から抜くと、ぎらりと刃は光るがなんというか上品だ。

 寝台から起き上がって、亜子は窓に近づき、外を見上げる。綺麗な月が見えた。燃え上がるような衝動が襲ってきて、亜子は目を見開く。

 自身の肉体が変化していく。

 窮屈な短いズボンの裾から尻尾が垂れ、髪が真っ赤に染まる。瞳が猛禽類のような形に変わった。

「……ふ……っ」

 短い息を吐き出し、亜子はナイフを見遣る。そしてぶんっ、と振った。

 無駄な動きが「見える」。

(これじゃ、だめだ)

 だめだ。

 亜子は狭い室内でナイフを振り回した。相手がいれば言うことはないのだが、こんな練習を誰かに見られるほうが恥ずかしいので嫌だ。

 相手を脳内で考えて動くとしても、亜子は戦ったのは一度だけなのだ。だからわからない。

(やっぱり……もっとちゃんと練習したほうがいいよね)

 でもきちんと練習する方法なんて亜子はわからない。

 マーテットの顔が浮かぶが微妙な気分になる。彼は確かに軍人だが、軍医……つまり医者だ。

 室内をうろうろしていた亜子は今日の出来事を振り返る。たいして……役に立っていたようには見えなかった。

 ただ部屋で読書をするシャルルを眺め、食事をするために移動する彼の後ろを歩き、庭園の散歩に同行した……。本気で役に立っていない。

(まあ、あたしに役に立てとは思ってない感じはするんだけど)

 ただの女子高生だった自分に皇族に何か返せるとは思わなかった。

 シャルルはただ珍しがっているだけなのだ……きっとそうだ。

 寝台にどっかりと腰をおろし、亜子は嘆息した。

 こんな身体になって、何か役に立つのだろうか? 異界の人間だからと狙われ、殺されることもあるなんて。

 好きでこの世界に来たわけではないのに理不尽だ。

 だが文句ばかり言っていても誰も助けてくれない。政府は最低限のことしかしてくれないのだ。最低限のことはしてくれる、と考えたほうがマシな気がしてきた。

 頭を抱える亜子は、この先のことを考える。ここに居られるのは短い間だけだ。

 寝床も確保されているし、食事だって侍従たちと食べることになっている。

(あぁ、でもこの気持ち悪い衝動だけはどうにもできないな)

 窓から外を、うろんな目で見つめる。月が綺麗だ。ざわつく胸の奥で、自嘲してしまう。

 そう、興奮してしまうのだ。若干、ではあるが。

 戦いへの高揚とも似ているような気がする。

 シャルルが狙われたあの晩、亜子は彼を庇って傷を受けた。あの時、信じられないくらいに激怒した。自分はあんな性格だっただろうか? いや、違う。違うと言い切れる。

(そうだ……あたしは)

 苦い気持ちが広がっていく。

 我慢ばかり、してきた気がする。あんな風に感情を爆発させたり、発露することがあまりなかった。

 だからだろうか、気分が、いや、気味が悪い。今の自分が。

(不気味なっていうか、さ)

 それでも。

 それでも『ココ』が生きる世界なのだ。生きていく世界なのだ。だったら、覚悟をするしかない。するしか……ないのだ。

「………………」

 不愉快な気分が広がってくる。

 亜子はドアを開けて、ゆっくりと廊下を見回す。上流階級の者たちは、下働きの者たちを地下に住まわせるという習慣なのだろう。亜子の部屋はそれでも一階に用意されていた。

 ドアを閉め、今度は窓を開ける。そっと見上げ、窓の上の枠に手をかけて軽々と鉄棒で逆上がりをするような反動で少しだけ突き出したそこに足を置く。

 身軽になっている今の自分には造作もないことだ。

 そのまま二階のバルコニーへと足をかけ、跳躍して屋根の上まで到達する。

「…………」

 やはりでかい屋敷だ。

 王宮はあちらの方角だ。ここから近い。あそこもでかい。

 亜子は溜息をつきたくなってくる。

 こんなに不必要に広い屋敷に住む者たちの気持ちは、わからない。亜子にとっては広すぎる。

(感想も『でかい』とか……短絡的なものしか出てこないし……)

「アガット」

 小さな声だが聞こえた。

 ぴくんと反応して、顔を下へと向ける。

 3階のバルコニーにシャルルがいた。月光の下で見る彼はかなり幻想的だ。

「殿下……」

 呆然としているシャルルに、亜子は顔をしかめる。屋根を軽々と駆けて近づき、彼の居るバルコニーに一番近い場所に降り立つ。

「こんな夜更けに危ないですよ」

「おまえに心配されるとはな」

 苦笑するシャルルは、視線を真っ直ぐにした。その視線を、亜子も追う。

「なあ、おまえから見て王宮はどうだ?」

「…………広すぎますね」

「…………」

 唖然としたような視線を向けてこられて、亜子は肩をすくめる。

「あたしの国ではあんな豪華で豪勢な建物に住んでいる人はほとんどいませんから」

 遠目からでも、その豪華さはうかがえた。シャルルは納得できないような顔をする。

「ここでもそうだぞ」

「でも……なんていうか、『遠い』ですね」

「とおい?」

 亜子は思ったまま、王宮に視線を向けた。森に囲まれている王宮は、ただ広く、荘厳にそこに存在していた。壁がぐるりと囲んではいるが、それでも広大な敷地と建物だからか、距離は近く感じる。実際は思ったよりもっと遠くにあるはずだ。

「なんていうか、あたしは異世界出身だからかもしれないんですけど、あんな広い建物で、誰が何をしてるのか想像できないです。

 あそこには王様がいて、あ、皇帝ですよね。この国で一番偉い人がいて……でも、国のために何をしてるのかわからないっていうか……」

「………………」

「国や民のために色々考えてくれてるんだろうけど……あたしにはすごく『遠い出来事』に感じちゃう……」

「……そうか」

 ぼんやりとそう呟くシャルルの表情は読めない。

 亜子は考えてしまう。

 彼を守る役目にはついたが……具体的にどうすればいいのだろうか?

(命の危険から守る、かな? 普通は。でも全然想像できないっていうか)

 指南書みたいなものでもあればいいのに……。マニュアルってやつだ。でも……そんなものないだろう。

「憂鬱そうな顔だな?」

 言い当てられ、いつの間にかこちらを見られていたことに亜子は顔が熱くなる。

「いや……その……」

「べつにおまえに護衛が務まるとは思っておらん。ただ……そうだな、いつもと何か違うと思ったら余に伝えればいい」

「え?」

「些細なことで構わん。なんでもよいのだ」

 意味がわからなかった。

 亜子は「はあ」と曖昧に頷く。

「ところでおまえは屋根の上で何をしておったのだ?」

「いえ、あの……。じっとしていられなくて」

 正直に答えると、シャルルは目を丸くしてから楽しそうに笑い声をあげた。

(うっ。恥ずかしい……)

 咄嗟に洩らしてしまった言葉に亜子は羞恥した。

「この世界に来る前のおまえはどんなだったのだろうな? 活発な娘だったのだろう」

「かっぱつ?」

 違和感を受けて亜子が不愉快そうに顔を歪ませる。その様子が妙だったのか、シャルルのほうが驚いていたようだった。

 亜子には、違和感の正体がわからない。

「いえ……活発なほうじゃ、なかったと思います」

 なんだろう、これ……。

 記憶がないせいだろうか? なんだかやけに今晩は…………そうだ。『腹が立つ』『苛立つ』。

 視線を伏せる。

 ……このままでは、シャルルに罵倒を浴びせてしまいそうだ。

「あたし、行きますね」

 ひょいっと身を反転させて屋根の上にのぼる。シャルルの目が届かないように思いっきり離れた。

「…………」

 反対側のほうまで来て、亜子は腰をおろす。

 広大な庭が見える。そういえば……シャルルはなぜあそこに居たのだろう?

(ん? 殿下の部屋ってあそこだったっけ?)

 まだ屋敷内の地図が完全に頭に入っていない亜子にはよくわからない。

(護衛としては期待されてないみたいだけど……どういうことなんだろ……)

 よくわからない、あの皇子様は。

 わからないのは皇子だけではない。亜子はこの世界のことをほとんど知らない状態なのだ。

(本でも読んでみようかな……)

 即席でもいい。なにか詰め込んでおけば、なんとかなるような気がした。気がした、だけだ。



 一夜明けて、亜子はうっすらと瞼を開ける。びくっとして硬直すると、覗き込んでいたシャルルが小さく笑った。

「面白い反応だ」

「で、ででで殿下」

「うん?」

 顔を押し退けるわけにもいかないので、亜子は自らの身体を下へと移動させてから起き上がった。

「ど、どうして勝手に入ってくるんですか!」

「ここは余の屋敷だ。勝手に入って問題あるか」

「…………」

 問題は大有りだが、それを口に出すことはできない。

 無言でむすっとする亜子はベッドから降りた。

「……おまえは、屋根の上で寝ているのかと思った」

「そんなわけありません」

 夜着用にと与えられた衣服のまま相手を睨む。いつでも動けるようにと、普通の寝巻きとは違うので恥ずかしくない。

 シャルルは小さく笑い、「まあそうだな」と呟いた。

「おまえは余の護衛だ。今から礼拝に行く。来い」

「礼拝?」

「……そうか。おまえは聖女イデムを知らないのだな」

「いでむ?」

「イデム教の祖となった娘だ。行くぞ」

 きびすを返すシャルルはさっさと部屋を出て行ってしまう。待たせるわけにもいかないので、亜子は慌てて着替える。

(顔も洗ってない!)

 残念な気持ちでドアを開けると、そこには少人数ではあったがシャルルを囲んで待機している人々が居た。

 いきなり視線を一斉に向けられ、肩身の狭い思いをする亜子など気にせず、シャルルが歩き出す。

 そっと亜子に近づいてきたレラが小声で囁いてきた。

「次からは気をつけなさい」

「……はい」

 前もって言って欲しかった。いや、でもどんなことでも対処できるようにしておかなければ護衛など失格だろう。

 亜子は辛い気持ちになりながら、シャルルのものものしい行列に加わる。20人くらいの中に割り込んだ形になった亜子は、萎縮しながらイデム教とやらのことが気になる。あとで調べておこう。

 皇子が礼拝に行くということは、この国では主宗教なのだろう。宗教なんてものがあるというのも、亜子としては驚きだった。

(屋敷内に礼拝堂でもあったのかな)

 そういえば屋敷の中の配置もきちんと把握していないことをまた自覚してしまう。

 一人で勝手に落胆していると、到着したようで列が止まった。べつになんということもないような気がする。ただそこが、屋敷の最奥だというだけだ。

 両開きの扉がゆっくりと護衛の手で左右に開かれて、亜子はぽかんとしてしまった。そこだけ異様に広い。

(え? ええ?)

 教会のようなものを想像していただけに、あまりにも殺風景な部屋で亜子はびっくりしてしまう。そこには一番奥に台座がある以外、なにもなかった。

 列が前進を開始したので戸惑いながら従う。護衛たちは部屋の壁際に一気に広がったので、亜子も慌てて空いている場所に立った。

 中央をシャルルが進み、台座へと近づいた。そしてゆっくりと彼はひざまずく。その姿はまるで、忠誠を誓う騎士の姿だった。

 あれ? なんだろう?

 不審に顔をしかめてから、亜子は「ああ」と納得した。

(そうか……頭を下げてる様子が、黙祷に近いのか……)

 数十分のこのわけのわからない行為に付き合い、亜子の1日は慌しく始まった。

 憶えることは山ほどあり、この日の亜子はレラを終始いらつかせ、亜子は目眩をそのたびに起こして倒れていた。

 あまり頻繁に目眩を起こすものだから、さすがにシャルルが心配そうに見てきた。時刻は昼を回ってから、お茶の時間になっていた。

「貧血なのか?」

「いえ、そういうわけでは」

 シャルルに失望されるのが怖くて、亜子は曖昧な笑みで誤魔化す。貧血とは思えないが、それでもあまりにも目眩が起き過ぎだ。

 ちょうどレラはお茶の準備をするためにここには居ない。肩を落としている亜子を眺めて、シャルルは手招きする。

 素直に従って近づくと、彼はふんぞり返って座ったまま、にやりと笑う。

「?」

 怪訝そうに首を傾げた亜子に「口を開け」と命じてくると、ふところから紙包みを取り出してきた。まさか、お菓子?

「早くしないとレラが戻ってくる」

「ええっ! あ、は、はい」

 口を開くと、そこに何かをひょいと入れられた。口内に甘味が広がり、亜子は口をもぐもぐさせながらすぐさま壁際まで後退する。

(なんだろ。前にくれたのとは違うなぁ)

 これも美味しい。

 表情を緩めてしまい、ハッとする。シャルルがこちらを観察していたのだ。彼は楽しそうに微笑む。

「少しは元気が出たか?」

「あ、は、はい!」

 何度も頷いている亜子は、また黙って、もらったお菓子を咀嚼する。なんだろう。生地がもちもちしている。

 ごくんと飲み干した矢先、ドアが開いてレラと2人のメイドがワゴンを押して入ってきた。どきっとして視線をはずして、そ知らぬ顔をする亜子を、レラは怪訝そうにみてきた。

 目の前でシャルルのために用意されていく焼きたての菓子やお茶に亜子はなるべく視線を向けないようにする。

「殿下、お待たせいたしました」

 頭をさげるレラの言葉にシャルルはなんの返事もせずに、お茶の時間を開始した。

 亜子に対する態度と差があるのはなんとなくわかる。

 いや、実際はこれが通常の態度なのだ。亜子に対してシャルルは必要以上に干渉しているのだろう。

 茶器や食器がさげられた間隙に、シャルルは亜子を再び手招きした。

(あたしが敵だったらどうするんだろ)

 やたらと無防備に感じるのは気のせいか? もっと警戒心を持ったほうがいい。

「これをやる」

 先ほどの包みを差し出してくるシャルルを、亜子は凝視してしまう。

「どうした?」

「いえ、殿下はいつもお菓子を持ち歩いているのかなと……ちょっと思いまして」

「持ち歩いているわけがないだろう」

「で、ですよね」

 引き下がる亜子は、いつの間にか菓子を握らされていた。しまったという顔で慌ててふところに隠して、壁に後退する。

 レラが戻ってきて、じろりと亜子を睨んでくる。な、なんだ? バレた?

「先ほどとは立っていた位置が違うようにみられますが、あなたはじっとしていることもできないのですか」

 硬質な声の叱りつけに、亜子はしょんぼりしてしまう。お菓子のことはバレてはいないようだが、やはりあれこれ動くのは護衛としてはだめらしい。

(しかしよく見てるなぁ。立ってた位置なんて、注意して見てないよ普通)

 いやいや。そんな考えではダメだ。

 亜子は考えを改めつつ、表情を引き締めた。



 亜子がこの世界にきてから色々と気づいたことがある。まず肉体の変化だ。かなり身体が軽い。

 動体視力がよくなった。それに思い描いたように身体が動く。ただ、体重を乗せなければ亜子の攻撃はかなり軽い。

 視力も、聴力も嗅覚も随分と良くなった。

 だからだろう。

 シャルルが食事のためにテーブルについた刹那、亜子はすぐに気づいてしまった。亜子は壁際に立ち、護衛らしくただ黙ってシャルルの食事の様子を眺めることになっている。

(ん?)

 かぐわしい匂いだ。美味しそうだ。確かにそうだ。だが。

(……スパイスっていうか、香辛料? ききすぎじゃないかな?)

 今日の朝食はなんだろうと怪訝そうに眉をひそめていると、シャルルが視線を伏せている亜子に気づいた。

「どうしたアガット」

「え?」

 声をかけてくるなど、異常もいいところだ。非難の視線は亜子に一手に集まる。亜子の態度に慣れたらしいメイドのレラでさえ顔をしかめている。

(うぅ)

 身を竦めていると、シャルルが再度声をかけてきた。

「何か気になるか?」

「…………あ、いえ」

「はっきりしないな」

 頬杖をつく皇子の態度はよくない。マナー違反だろう。だが彼に意見をする者はここにはいない。

 亜子は口を閉ざしていたが、緊張に耐えられなくなって喋りだした。

「香辛料がきついなと思っただけです」

「香辛料?」

「はい。殿下は薄味を好まれるので、いつもより過剰に入っているのが気になって」

(いつもと言っても、昨日までだけど)

 シャルルが表情を引き締めた瞬間、テーブルの上の料理の乗った皿を一気に腕を払って床へと叩き落した。

 仰天したメイドたちや護衛兵たちの前で、彼は立ち上がった。

「今日のコックは誰だ。ここへ呼べ」

 有無を言わせぬシャルルの声に、とんでもないことを言ってしまったと亜子は青ざめた。

 床に落ちた料理に視線を遣る。湯気を立てている料理たちは無残な姿へと変わり果てていた。

 やがて現れた男を前にシャルルは近づいていく。萎縮している男へと近づく彼は、亜子に視線を遣る。

(?)

 怒られるだろうかと不思議にしているが、シャルルは一瞥をくれただけだった。

「今日の料理の味付けを濃くしたのは、何か理由があるのだろうな?」

「た、たまには殿下も……」

「毒を盛るのには味を誤魔化すしかないものな?」

 先手を打つようにシャルルが言い放つ。コックが喋っていた姿勢のまま硬直する。

「でっ、殿下、なにを……?」

「言い訳をするか。ではそこに落ちた料理を食べろ」

 非情な言い方にコックが身を一歩分引く。その時だ。コックが胸元から何かを素早く取り出して振り上げた。

 亜子には、みえて、いた。

 短刀を引き抜き、亜子は一瞬でシャルルの前に出てコックの振り下ろした包丁を受け止めていた。

 ぎんっ、と鈍い音が室内に響き渡る。

(お、重い……!)

 本物の剣ではないだけマシだろうが、コックはかなり体格がいい。丸太のような肉体をしているだけに、体重をかけられると亜子の細腕ではどうにも対処できない。

「でっ、殿下、さがって……」

 ください、と言おうとした横から、シャルルの持つ細身の剣がぬぅっと出てきてそのままドスン、とコックの胸元を突いた。

 まるでフェンシングのような動きだと思ったが、おそらくシャルルは渾身の一撃として繰り出したのだ。コックの肉体を剣が突き抜けている。

 心臓を、一撃で。

 目の前で男が苦痛に顔を歪めて力を抜いていく。いや、抜けているのだ。否応なしに。

 男はそのまま膝を床につき、倒れた。…………絶命したのだ。

「片付けろ」

 シャルルの言葉に兵士たちが動き、死体を運び出していく。メイドたちは落ちた料理を片付けていた。

 呆然と突っ立っているのは亜子だけだ。痺れた掌を見遣り、背後の皇子を見る。

「……なんで殺したんですか?」

「なぜ殺してはならぬ?」

 問いかけに、亜子は眉をひそめた。

「意味が、わかりません。毒を盛ったとしても、情報を聞きだすために捕らえれば良かったじゃないですか。殺す必要はなかったはずです」

「…………」

 黙ってしまった美貌の少年に、亜子は首を緩く振る。

「簡単に奪っていい命なんてありません! あたしの世界では、そうでした! ここでは違うんですか!?」

「違うな」

 あっさりと言われたことに、亜子は己の耳を疑う。

「え……?」

「この世界では命は軽いぞ。荒野に行けば、死体はあちこちに転がっている。平民の中でも、貧しさに飢えている者はどんどん死んでいる。今、この時でさえな」

 平然、と。

 カッと頭に血がのぼった。亜子は気づいた時にはシャルルの頬を平手で打っていた。

「『あなた』がそれを言ってはいけない!」

 彼は皇子なのだ。皇帝になるかもしれない人物なのだ。一番偉く、国民を愛さなければいけない立場になるかもしれない人物なのに!

 それなのに人民の命を軽んじている!

「なんてこと!」

 レラが亜子を抑えにかかるが、亜子は抵抗してレラを突き飛ばした。

 シャルルを睨みつけるが、彼は平然としている。失望する亜子は唇を噛み締めた。

「失望しました」

「そうか」

 シャルルの声は平坦で、感情がこもっていない。亜子は打ちのめされたような気分になった。

 優しい人だと思っていた。感情も豊かで、亜子にこんな好待遇まで用意してくれて。

(ばかだな……あたし)

 勝手にシャルルに期待して、勝手に失望している。押し付けがましい。

 そうだ。

 押し付けがましい……のだ。

 一瞬で血の気が引いた。青くなる亜子がゆるゆると顔に手を遣って悲鳴をあげた。

「勝手に期待しないで!」

 意識が、闇に呑まれた。



 人は誰もが、他人に期待をし、失望する。勝手に想像して、裏切れば憎らしいと思う。

 亜子は恐怖していた。そっとドアを見る。そのドアが開かれ、お決まりのセリフを言われるのが恐ろしくてたまらない。

 階段をあがってくる音が、足音が近づいてくる。

 怖い!

 そう思った刹那、瞼を開いていた。

 慌てて周囲を見回す。そこは自分に用意された簡素な部屋だった。寝台に寝かされていたらしい。

 汗を随分とかいていた。荒い息を整えていて、亜子は目の前で起きた出来事がフラッシュバックして寝台から転がり落ちるように降りた。

(傷つかないはずがない……)

 殿下にひどいことを言ってしまった。

 謝らないといけない。でも、どうやって?

 亜子はドアの前で立ち竦んでしまう。

 許してもらえるだろうか? いや、そもそも彼は本当に気にしていなかったら?

 また勝手に期待して失望するのだろうか? 身勝手な己に嫌悪した。

 皇子に逆らったのだ。しかも、手まであげてしまった。殺されても文句は言えない。

 覚悟を決めて部屋を出る。廊下は静まり返っていた。だが亜子は足音を聞き取ることができる。

(ん……? 聞いたことのない音だ)

 大勢の足音だが、靴の音が異なる。兵士? でもこの場所を守る兵士たちのものではない。

 その中の一人は足音がやけに静かだ。

(来る!)

 亜子は距離を正確に測って、頭上へと視線を動かした。アーチ状になっている天井だ。これなら。

 壁を蹴って軽々と跳躍し、天井に張り付く。

(……なんか忍者みたい)

 ぷっと心の中で苦笑していると、予想した数分後に真下を通った。天井が高いためにこちらに気づいてはいないようだ。

(足場もあってよかった)

 じっくりと観察する。目を凝らして。

 少し褪せた金髪の青年が先頭を歩いている。豪奢な衣服がまるで殿下を思わせる。しかし……なんだろう? 殿下と違って地味な印象を受ける。

(……?)

 ぞろぞろと数名の兵士を連れて歩いている青年は薄く笑っていた。ぞっとして亜子はその場から動けなくなる。

(な、なに……?)

 なんだろうこの感覚は。

 よくわからない者たちが通ったあと、亜子は静かに床に着地する。

「なかなか見事ですね」

 声にびくっとして振り向くと、いつの間に居たのか美しい少年が立っていた。長い水色の髪をうなじのところで括っている、金縁の片眼鏡をつけた赤い瞳の子供だ。白い軍服を着ているから……軍人?

(き、きれ~!)

 シャルル以上の華やかさと美貌だ。まるで絵本から抜け出した妖精のようだ。少女のような、それでいて整った面立ちの少年は亜子に近づいてくる。

「アガット=コナーですね?」

「? なぜあたしのことを……?」

「自分はルキア=ファルシオン。皇帝直属部隊『ヤト』に所属する軍人です」

 爽やかな笑顔にくらりと目眩がする。こ、これはすごい威力だ。

(殿下よりすごい子がいるとか!)

 少年は手を差し出している。白い手袋をしている。

「どうぞよろしく」

「あ、は、はい」

 握手するが、なんだか手袋を汚しそうで怖い。どきどきしながら握るとやはり小さな掌だった。

 亜子は怪訝そうにルキアを見る。

「……あの、なんで皇帝陛下の部下のあなたがここにいるんですか?」

 そういえばマーテットもヤトの所属だったような気がしたが、目の前の彼のことが今は一番の問題だ。

 ルキアは妖艶な微笑を浮かべる。

「殿下に帰宅早々呼び出されたのでここまで来たのですが……」

「ですが?」

「面倒なことに巻き込まれそうですねぇ」

 小さく笑う彼は手を放して歩き出す。それは、先程の団体が通った道だ。

「妻にまたお小言をくらいそうですね。べつに面倒事に首を突っ込んでいるつもりはないんですけど」

「つ、妻?」

「え?」

 彼は驚く亜子のほうを肩越しに見て、「ああ」と呟く。

「はい。トリシア=ファルシオン。自分の妻です。3つ年上の可愛らしい女性ですが何か?」

 いやいやいや、そんなことは別に訊いていない。

 ぶんぶんと無言で首を左右に振ると、彼は不思議そうに前を向いてしまう。

(うっそ……。結婚してんの? この年齢で? ど、どう見ても10歳とか12歳くらいにしか見えないっていうか……)

 小学生……?

(小学生でも結婚できるのかな。いや、この世界ならありえるかも……)

 なにせ日本ではないのだ。「あなたの知らない世界」、というやつである。

「あ、あの、ファルシオンさん」

「はい? ああ、ルキアで構いませんよ?」

「じゃあルキアさん、あの、なんであたしのこと知ってるんですか?」

「殿下からの手紙に書かれてあったので。あなたでしょう? 殿下の部屋に現れたトリッパーというのは」

 さらりと言われて、亜子は足を止めた。

 亜子の足音が聞こえなくなったのでルキアも立ち止まって振り向いた。恐るべき、美貌だったやはり。

「違います。あたしは、トリッパーじゃない」

 まずは否定しろとシャルルには言われた。忠実に守ることに意味があるのだろうか?

(あたしはこんなにも、外見が日本人だってのに)

 亜子を見つめるルキアはふんわりと砂糖菓子のように柔らかく笑った。

「そうですね。自分の友人もよくそう言ってましたよ」

「え?」

「ところで、天井に張り付いてなにをしていたのですか?」

「えっ、あ、あれは」

 恥ずかしくなって俯くと、ルキアが歩き出したので慌ててついて行く。

「ちょっと……いつもと違う足音だったから気になって」

「いつもと違う?」

「この屋敷にいる人たちの足音の判別はつくので……」

「それはすごい!」

 褒めてくるルキアに亜子は頬を赤らめた。

「す、すごくは、ないと思います」

「すごいですよ」

 笑顔が愛らしいと亜子は素直に思う。ルキアの笑顔は警戒心を緩める力でもあるのだろうか?

「アガットが先程見たのは、第一皇子と、護衛兵たちですよ」

 さらりと言われて「え?」と亜子は首を傾げた。

 いま、なんて?

(第一、おうじ?)

 確かシャルルは第二皇子だったはずだ。では――――。

 亜子は真っ青になった。

(あの先頭を歩いてた人、殿下のお兄さん?)

 でも似ていない。兄弟と言われても、あまりにも違ってはいなかったか?

 毒を盛られた直後に来訪?

「………………」

 亜子が気づかずに、いや、気づいていたけれど料理のことを口にしていなかったら?

 彼は、シャルルは死んでいた。

 嫌な符号だ。亜子はぐっと足に力を込める。

(そういえばあの時、情報を聞き出せばいいのに殿下はあっさり殺した。それって……犯人を知ってたってこと……?)

「お先に失礼します! 殿下の護衛なんです、あたし!」

 そう言って亜子は駆け出した。のんびり歩いている場合ではないと感じたからだ。



 兄が来たことにシャルルは何も感じてはいなかった。

 亜子が現れたことは、良くも悪くも王宮を動かしている。彼女がここに留まらなければ動きはしなかっただろう。

 彼女の言ったことは正しい。だが、この世界では命の重さはとてもとても軽い。

 そして……貧富の激しいこの階級社会でトップに君臨しているのが皇族なのだ。

「これはこれは兄上。物々しいですね、相変わらず」

 素っ気無く言ってやると、室内に足を踏み入れた兄は冷たく目を細めた。第一妃から生まれた長男・フレデリックだ。

「おまえは相変わらず、だな」

 掠れた声で言うフレデリックは視線を動かす。

「……おまえの部屋に現れたトリッパーはどこだ?」

「さて? なんのことでしょう?」

「意味の無いことをするとは、随分と酔狂になった」

 淡々と言う兄の目は軽蔑で染まっている。その横を、何かが軽々と通り抜けた。驚くフレデリックの前を、たん、たん、と軽やかにジャンプして、シャルルの真横に、彼の座る椅子の横に直立したのは赤茶の髪の少女だった。

 茶色の瞳に、黄色の肌。黒と赤を基調とした軍服に似た衣服は、短い髪の毛の彼女によく似合っていた。

 彼女はシャルルに目を伏せて言う。

「すみません。お傍を離れてしまいました」

「…………」

 シャルルの瞳が大きく見開かれていた。驚きに、だ。

(なぜここに来た……?)

 軽蔑したのではなかったのか?

 不思議になっているシャルルの前で、彼女は両腕を背後に遣り、毅然と兄に視線を向けた。

 フレデリックは現れた少女に呆然としていたが、外見特徴ですぐにトリッパーだと気づいたようだ。

「娘……おまえはトリッパーだな」

「いいえ。あたしはトリッパーではありません」

 シャルルが教え込んだ言葉をはっきりと言い放つ。その度胸にシャルルはヒヤリとした。

(阿呆め。おまえの目の前の男が何者か知らないのか?)

 知るはずがないのだ。彼女はこの世界に来て、それほど経っていない。皇帝の顔すら知らないだろう。

 フレデリックは小さく笑い、傍の兵士に何か囁く。兵士は前に出てきた。刹那。

 亜子のほうが早く動いていた。シャルルの手を引っ張って立たせ、ぐいっと彼女のほうに引っ張ったのだ。

 兵士の剣先が、シャルルの座っていた椅子に向いていた。無礼者め、と内心舌打ちをした。

 兄の余興に付き合う義理はない。シャルルは亜子に囁く。

「余を庇わずともよい。あれは余の兄だ」

「知ってます」

 はっきりと言われてシャルルは目を丸くした。彼女はこちらを見上げてくる。

「でも、冗談でも剣を向けるのはいけないことだと思います」

「……おまえは阿呆だな」

 心底馬鹿にしたように呟くと、彼女はムッと顔をしかめる。眉を吊り上げるが何も言い返してこない。

 シャルルを背後に庇うように前に出た亜子は、フレデリックを真っ直ぐに見つめる。

「殿下に剣を向けるのはおやめください。あたしが相手になります」

 ! 口が過ぎる!

 シャルルが亜子の肩に手をかけるが、彼女はそれを振り払った。

 フレデリックは低く、そして愉快そうに笑う。

「なるほど。よほど忠義心が厚いのだな。面白いものを拾ったな、弟君?」

 無言で受けるシャルルを見つめ、フレデリックは周囲の護衛兵たちに剣をおろさせる。

 一見、戦闘する気をなくしたように見えるが亜子には伝わってくる。戦士でもない自分にでもわかる。

 異常なこの、状態を。

 フレデリックはまるで冷気を放っているようだ。目がまったく笑っていない。

 隙あらば気に入らないやつは簡単に殺せる……そんな印象を受けた。

 弟と違って華やかさのないフレデリックは目を細めた。刹那、声が聞こえた。

「通れないので、通していただきたいのですが」

 あ、と亜子が目を瞠る。

 ざわり、とフレデリックの護衛兵たちが騒ぎ、あっという間に道ができる。ドアのところからちょうど一人分通れる道が。

「どうも」

 ふんわりと笑みを浮かべる少年はつかつかと歩き、フレデリックのところで止まり、彼を見上げる。

「久しぶりだな、ルキア」

「お久しぶりです。フレデリック殿下」

「奥方は元気かな?」

「妻は元気ですよ」

 薄く微笑むルキアの目は笑っていない。彼が自分の妻にチョッカイをかけられることを非常に不愉快に思うことを、王宮内の人間はみな知っているからだ。

「勝手に呼び出しなどをしたら、次はありません」

 警告だった。

 シャルルは笑顔のルキアがこちらを見て、にっこりと微笑むのに冷汗を流す。

 フレデリックは以前、王宮内で開かれた小さな宴にルキアの妻を招待したことがある。ルキアの家は下級貴族だ。断れる立場ではない。

 ちょうど遠征に出ていたルキアは出席できなかったが、彼の妻は単独で参加することを余儀なくされた。着飾っても元が下町出身の平民の娘だ。華美なものなど一切ない、まして教養もない彼女はルキアの妻であることにだけ誇りを持って、やって来た。

 彼女は宴に参加した者たちの格好の晒し者となった。毅然と顔を上げていた彼女は一人で過ごすことになっていたが、フレデリックが声をかけたのだ。

 下町の娘にしてみれば、雲上の者の言葉に等しい。彼女は頭をあげることもできずに、フレデリックの前でずっとひざを折っていた。そこにルキアが現れたのだ。

 家人から知らされたらしいルキアはあっという間に帝都に戻ってきて、そのまま王宮に乗り込んできたのだ。

 膝を折ったままだった彼女を見て彼は静かに激怒し、フレデリックに魔術こそ使わなかったが思い切り殴ってから、倒れそうだった彼女の手をとって颯爽と王宮をあとにした。

 無論、ルキアは処断……されるはずだったが、それをさせなかったのはルキアに反逆されると困る帝国側の都合だった。

 ルキアはたった一人でも大勢の人々を殺すことができる魔術の天才児だ。その彼を敵に回すよりは、味方でいられるほうが好都合だったのだ。

「つくづく、変わり者が多い『ヤト』だ」

 侮蔑を含んで笑みながら言う兄の言葉にシャルルは吐き気すら覚えた。

 ルキアがどういう行動に出るかを見たくて、彼の妻を呼び寄せたことは予測できた。結果、ルキアは予想以上の反応をしたわけだが。

 罰しないと格好がつかなかった手前、ルキアは謹慎処分で済んだが……本来は処刑されていてもおかしくはない。

 ルキアはシャルルの傍まで来ると、くるりと身体を反転させてフレデリックを見た。

「また殴りましょうか? 歯が折れる程度で済めばいいですけどね」

 さらりと笑顔で言うルキアの言葉には嘘はない。処断されないとわかっているからではない。罰がくだろうとも、彼は一向に構わない性格をしているからだ。

「おまえでも冗談を言うことがあるのだな」

 飄々としているフレデリックにルキアは不思議そうに首をかしげた。

「冗談? そのような発言を自分はしていませんが」

 大真面目な顔で言うので、ルキアの言っていることは真実なのだろう。

 彼の足元に魔法陣が美しい模様を伴って光り輝きながら現出する。詠唱もせずに出現したのは、彼の感情が大きく揺らいでいるからだろう。

 見た目は冷静沈着そうに見えていても、ルキアはここ数ヶ月の間に大きく変化している。結婚をしたのも、その一つだ。

 風が魔法陣に吸い寄せられるように動く。人々の衣服が室内の空気に応じて大きくはためいた。

「ファルシオン!」

 一喝するが、シャルルのほうをルキアはちらりと見ただけだ。そもそもルキアは皇帝の直属部隊にいるだけで、その子供たちの命令をきくような融通がきく男ではない。

「殿下……」

 不安そうにこちらをうかがう亜子の気配は感じるが、シャルルは厳しい表情をしただけだった。

 一触即発の状態に近い。ルキアを呼んだが、まさかこういう展開になるとは予想していなかった。そもそもルキアの到着が思ったよりも早かったためにある。

 風が、ぴたりと止まった。

 ルキアが魔法陣を消したのだ。

「びっくりです。もう少し自分を抑え込まねばなりませんね。精進が足りません」

 右目につけている片眼鏡を軽く押し上げて呟くルキアは、シャルルのほうに向き直って頭をさげた。

「呼び出しに応じて馳せ参じました、シャルル殿下」

「…………」

 つくづく、この男が自分の配下でなくて良かったと思わざるをえない。

 人の手には余る、そう思えて気分が悪くなる。

 ルキア=ファルシオン。「紫電のルキア」という名で呼ばれることも多い魔術の天才児。現在14歳。14歳のわりには背も低く、外見だけで判別するなら美少女に見えてしまう。

「私の目の前で、いい度胸だなファルシオン」

 フレデリックの言葉にルキアは彼のほうを見遣る。

「あなたには呼ばれていないので。なにかご不満ですか?」

「相変わらず、無礼な男だ」

「無礼?」

 ルキアは心底驚いているようで、首を傾げてみせる。

「どこか礼を欠いていたでしょうか? うーん……」

「兄上、ファルシオンで遊ぶのはやめていただきたい」

 口を挟むと、フレデリックがシャルルを軽く見つめてきた。その瞳に光はない。兄なのに、血が半分は繋がっているというのに……なぜこれほどに「違う」のだろう?

 違う人間なのだから当たり前だというけれど……。

 シャルルはふいに視線を亜子に向けた。

 亜子はフレデリックを凝視している。彼女の瞳は恐ろしいほどまっすぐで、シャルルは苦いものを感じてしまう。

(アガットは、何か勘付いているのやもしれぬな)

 フレデリックは興ざめしたように目を細める。

「珍しいトリッパーのことも確かめたし、ここで帰ってやる。シャルル」

「はい、兄上」

「なにを企てているのか知らないが、くだらない謀など叶わぬと思え」

「肝に銘じておきます」

 ぞろぞろと護衛を連れて部屋を出て行くフレデリックを見送り、シャルルは嘆息したい気持ちを抑え込んだ。

 ああして兄が簡単に引き下がったのは、ここにルキアがいるからだろう。ルキアの存在は、フレデリックにとって鬼門に近い。

(それもそうか。みなの前で、兄上は醜態を晒したのだからな)

 あの場にシャルルはいなかったが、話は聞いている。ルキアは兄に敬意を払いもしないし、恐れもしていない。

 家族を人質にとったところでルキアが敵にまわって面倒なことになるだけで、兄には利などない。フレデリックはルキアを試すつもりだったのだろうが、それが仇になったわけだ。

(確かに……)

 ちらりと視線をルキアに遣る。彼はドアのほうをいつものように笑顔で眺めていた。機嫌がいいのか悪いのか、判断しにくい。

(ファルシオンが血族にも、他人にも非情なのは有名だからな)

 それゆえ、彼が結婚したと聞いた時は耳を疑ったものだ。なにか考えがあって、下町の平民の娘を娶ったのだと思ったのだが……この男が誰かに執着するとは思えなかった。兄も、そう考えたのだろう。

 シャルルは一度だけルキアの妻に会ったことがある。滅多に晩餐会に出てこないルキアと共に参加していた、特徴のない娘だったが……じろじろと眺めているとルキアが不愉快そうな顔をしたのがかなり印象に強く残っている。

「奥方は元気か?」

 そう声をかけると、ルキアが美貌をこちらに向けてきた。はっ、とするような美しさだが、そこには以前にはなかった男らしさが見え隠れするようになった。

「ええ、息災です。殿下によろしくという伝言をあずかっています」

「そうか」

「べつに自分は、殿下によろしくしなくても良いと言ったのですがね」

「…………」

 思わず、頬にかけて汗が流れる。この男は、自分がどれだけ無礼なことをしているかわかっていないのだろう。

 亜子が青ざめていることに気づいて、シャルルは苦笑した。

「相変わらずだな、ファルシオン」

「妻との逢瀬を惜しんで参上したのです、用件は早々に済ませたいのですが」

「……はっきり言い過ぎだ。首を刎ねられても文句は言えないぞ」

 呆れたように忠告してやるが、ルキアはどうでもいいとばかりの表情になった。いつも笑顔の少尉がこんな表情をするようになったのは、結婚してからが多くなった。

 彼は少しだけ不愉快そうな顔つきになったが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「そういえば妻に注意されていたのを思い出しました」

「……おまえは奥方の言うことならなんでもきくのか」

「いいえ? 妻が嫌がることもしますけど」

 平然と言うのでシャルルは頭が痛くなってきた。マーテットといい、本当に『ヤト』には変わり者が多い。

(奥方に同情してしまいそうになる……)

 シャルルは初めてルキアに会った時のことを思い出してうんざりする。これほど皇族に無礼な者を見たことがない。

 よぎった過去の出来事を手で追い払い、シャルルは気を取り直す。

「おまえを呼んだのは、ここにいるアガットに関してだ」

「でしょうね」

 亜子がぎくりとしたように身を強張らせる。彼女はこちらをちらちらとうかがってくる。

 ルキアは視線を亜子に移動させ、じっと定めた。

 彼はふいに雰囲気を柔らかくした。微笑む少年の美貌に亜子が圧倒されるのがわかる。

「フレデリック殿下に立ち向かうとは、なかなか豪気のある方ですね」

「無謀なだけだ」

 シャルルがハァ、と溜息をついた。心から賞賛しているであろうルキアは、フレデリックのことをあまり良く思っていない。もちろん、妻の一件からそれが顕著になっている。

「しかしな、ルキア。おまえは皇帝直属部隊なのだぞ? 兄上が皇帝になったらどうするのだ? 簡単に殺されるぞ?」

「利用価値がないならば、それも仕方ないでしょう」

 さらりと言うルキアに、亜子は唖然として青くなっている。信じられないからだろう。……誰だってこの言動を信じたくはない。

(まあ余が皇帝になったとしても、ルキアは手放さぬな……)

 これほど圧倒的な攻撃力を持つ魔術師をシャルルは知らない。そして利用価値の高さも。

 戦争で初めて価値の出る男――。

 確かに帝国では現在、大規模な戦は起こっていない。しかし、起こっていないように見せかけているだけにすぎない。

 この小さな大陸を帝国はすべて掌握していないのがその証拠だ。小さな国は連合という形をとって、時々こちらに仕掛けてくる。

 戦力差は歴然。だからこそ、彼らは策略を練ってくる。ありとあらゆる、だ。

 ルキアは魔法院と呼ばれる学校を最年少で卒業し、その足で軍属となった。それは決定事項だったからだ。

 そして最前線部隊へと配属され、敵国からの攻撃をほぼ一人で掃討してみせた。『紫電のルキア』という名はそこでついたものだ。

「あの、殿下」

 どうすればいいのかと戸惑っていたらしい亜子に、シャルルはルキアに視線を遣る。

「皇帝直属の特殊部隊『ヤト』に所属している魔術師、ルキア=ファルシオンだ。マーテットと同じ部隊だな」

「あ、はい」

「なんだ? 驚かぬのだな」

「ご本人から聞いたので」

「なにっ!?」

 さすがに驚愕するシャルルに、ルキアはにこっと微笑む。

 相変わらず、小憎らしい子供だ!



 亜子は2日間ほどルキアと共に行動することとなった。というのも、彼に訓練を受けるというのが名目だった。

 その間のシャルルの護衛は亜子が抜けた状態……つまり、前と同じということだ。

 亜子はあんな目立つ軍人と二日も一緒かと思うと気が重くなった。なにより、シャルルの兄に歯向かった形になったのだ。何かお咎めがあってもおかしくない。

 シャルルの護衛として過ごせるのは七日間。あと三日しか残っていない。

 焦りが生まれる中、貴重な2日をわけのわからないものに使いたくなかった。しかしシャルルの命令を断ることなどできるはずもない。

「アガットは軍人になりたいんですか?」

 にこっと笑顔を向けてくるルキアにぎょっとして、考え事をしていた亜子は慌てて返事をする。

「あ、いえ、そういうわけでは……」

「そうですね。トリッパーで軍属になったという人は聞いたことがありません」

「……ルキアさんは、あの、偏見とかないんですね」

 彼は亜子を興味の眼差しで見たりしない。それは初対面からそうだった。

「偏見、ですか。そうですねぇ……まあ興味はありますけど、それは任務とは無関係ですから」

「え?」

「今は任務中なので、私情はなるべく挟まないようにしておりますよ」

 微笑む少年を、不気味に見る亜子だった。なんだろう……この人物は。

「ルキアさんて、その、魔術の天才って聞きましたけど、あたしは魔術を教わるんでしょうか?」

「うーん。まあ確かに魔術師が攻撃してきたら、魔術で対抗しなければならない時はあるでしょうけど、殿下はあなたにはそんなことは望んでいませんよ」

「は?」

「ああ、着きました」

 がたがたと揺れていた馬車が停車したと思ったら、ルキアがばたんとドアを開けた。そして手を差し伸べる。

「さ、どうぞ」

「ど、どうも」

 こんな扱いをされたことのない亜子はどきどきしてしまう。

 手を添えて降りたそこは、なんとも……。

(え。なにここ。えっと?)

 表現しがたい。今まで見た洋風の家屋や屋敷とは趣が異なる。ここはまるで……ああ、そうだ。学校、だ。

 ざわり、と嫌な気分になる。

 四角い、特徴のない建物。中央都庁にあるものとは何かが違う。うまく表現できないけれど。

(監獄? 違う……なんだろう。要塞、かな)

 近いのはそれかもしれない。

 立ち止まってまじまじと建物を見上げていると、ルキアが「こちらへ~」と声をかけてきた。正面玄関にはルキアと同じ純白の軍服を着ている屈強な男二人が門番代わりに立っている。

「こんにちは~」

 挨拶を笑顔でするルキアに気づいて二人の男は何か強い衝撃でも受けたかのように固まり、青ざめてがたがたと激しく震えて敬礼した。

「ようこそお越しくださいました、ファルシオン少尉!」

「ああ、敬礼しなくていいですって毎回言っているのに」

 面倒そうに言い放つルキアはさっさと兵士の横を通り過ぎる。亜子に続いて馬車を降りてきた少年に、兵士たちが不審な目を向けた。

「ファルシオン少尉、そちらは?」

「知人です」

 嘘は言っていない。

 亜子は冷や冷やしながらルキアではなく、背後の少年を振り向く。フードを深くかぶった平民服を着込んだ彼は物珍しそうにしている。

「し、しかし許可なく入れるわけには……」

「許可の申請がいるのですか? 見学者には門戸を開くのが通例だったはずですが」

 鋭いルキアの言葉に兵士たちが詰まる。

「け、見学者、ですか……?」

「訓練に興味があるようなのです」

「わかりました」

 持っていた槍を下げざるをえなかったのは、ルキアに全責任を押し付ける気だからだろう。実際、ここで何が起こっても監督役としてルキアがついていくのだから下級兵士は文句を言うことはできない。

 ルキアにつられて二人は歩く。

「ほうほう、視察に来た時とは違って雑多だな」

 ……そう、隠密でやって来ているのはシャルルだ。わざわざ顔に泥までつけている念のいりようだ。

 先頭を歩くルキアは小さく笑った。

「まあだいたいが男所帯ですからね。普段から小奇麗になどしてませんよ。殿下が来た時は念を入れて掃除したと聞いております」

「そういうものだろうな」

 頷いて自嘲気味に笑うシャルルに、亜子はなんともいえない気持ちになる。

 この人は皇子だから、結局は上辺だけしか見せられないことも多いのだ。

 玄関を通り過ぎた廊下では笑い合う兵士たちの姿も見える。慌しく書類を運んでいる者もいた。本当に色々な兵士がいるのだ。

「訓練場はまだか、ファルシオン」

「そんなに焦らずともすぐ着きますよ」

 ルキアは指を差す。示した先は窓だ。階段を昇っていくらか進んでいた廊下の先の窓の向こうから、掛け声のようなものが聞こえてくる。

 シャルルはそちらにゆっくりと近づいた。亜子もだ。

 窓から見えた光景は、信じられないものだった。現代の日本では、いや、ただの高校生だった亜子には一生お目にかかれない不可思議なものに違いない。

「……体術訓練か」

 柔道に似てはいるが、格闘技のようにも見える。独特すぎるそれらに亜子はシャルルの言葉を聞きながら様子を眺めた。

 その瞳が金色に鈍く輝く。

(動きが遅い。あれでは、ああ! やっぱり投げられた。あっちは……うん、いい動きだけど、あれじゃあ……)

 観察するだけでいいと思っていたのに、いつの間にか妙なことを考えてしまっていた。ハッとして我に返り、自己嫌悪した。

「次は対魔術訓練か」

「そうですね」

 シャルルの横に立つルキアは腕組みし、瞼を閉じている。眠ってしまいそうな様子もみせるが、彼はうっすらと瞼を開いて軽く嘆息した。

 皇子は苦笑した。

「憂鬱か、ファルシオン」

「それはそうでしょう。あれでは実戦に役立ちませんからね」

 はっきりと告げるルキアに、亜子は不思議そうな瞳を向けた。彼は固かった表情を和らげて微笑むと、それからゆっくりと口を開く。

 整列し、向かい手からの魔術攻撃を受ける者たちの、どこが実戦向きではないというのか。

「魔術師の度合いにもよりますが、小手先の魔術ならあれでよいでしょうが……戦になればあんなもの、嵐の中の木の葉と同じくらいに意味を成しません」

「おまえは手厳しいな」

 シャルルの呆れたような声に、実戦経験があるらしいルキアは目を細める。

「死にたくないならば、と思っているだけですよ」

「おまえの優先順位は民だものな」

「民?」

 亜子の呟きにシャルルは笑ってみせる。肩もすくめた。

「この男は、民を優遇する悪癖があるのだ。軍属の者たちはファルシオンの中では、守るべき者の最下位だ。いや、守る必要も考えておらぬな?」

「悪癖ではありません。義務です」

 きっぱりと言い放つルキアに、シャルルは意地悪く笑う。

「では奥方を人質にとられたらどうする? 民と天秤にかけたらいくらおまえでも揺らぐだろう?」

「揺らぎますが、決断は変わりません」

 亜子は恐怖するしかない。目の前にいるのは幼い少年ではない。彼は軍人で、実戦経験のある兵士なのだ。

(決断は変わらないって……それって、どういうこと?)

 聞いてはいけない。聞いては……。

 ぐら、と視界が真っ暗に一瞬染まる。揺らいだ体に、しっかりと足を床につけて踏ん張った。

 その様子をシャルルが観察していたことに亜子は気づかなかった。

「アガット、あの訓練を見てどうだ?」

「どう、とは……?」

「倒せそうか?」

「…………」

 正直な話、有象無象な輩では話にならないと言わざるをえない。

 黙って目を逸らしていると、彼の手が顎にかかって無理やり顔を向かされる。

「できるか?」

「…………」

 視線を、中庭で訓練している者たちに向ける。その視線がきょろきょろと獲物を探すように訓練する兵士たちの間を動く。

「たお……せ、ます。あそこにいる人たちなら、たぶん」

「ではファルシオン、おまえが相手をしろ」

 ええっ!?

 仰天する亜子に構わずに、シャルルは指名した相手を見下ろした。見下ろされたルキアは不愉快になる様子もなく、笑顔で軽く小首を傾げる。

「自分ですか? 自分より訓練に向いている相手がいますが」

「……確かにファルシオンでは体術に偏りが出るか。では推薦者を呼べ」

「了承しました」

 ルキアはきびきびと歩いて去っていく。その小さな後ろ姿を見送り、亜子は憂鬱な気分で俯いてしまう。

「なぜ戦わせるのかと言いたげだな、アガット」

「殿下……」

「兵士になる気はないのに、なぜだと」

「…………」

 そのとおりだ。シャルルの意図していることがわからない。自分の異能を披露しろと言っているとしか思えないのだ。

 こんな衆目の場で、あの姿に変じろというのか……?

(そんなの、嫌に決まってる……)

 拳を握り締めていたら、ルキアが戻ってきた。白い軍服姿の男がついてきている。髪をオールバックにした、神経質そうな男だった。彼は両腕を腰に隠すようにしている。

「ガイスト! 帝都に戻っていたのか!」

 小声で驚くシャルルはフードを深くかぶる。どうやら見つかってはいけない相手のようだ。

 男は中肉中背ではあるが姿勢がすごく良い。見下ろされるだけでも威圧される。ルキアは彼を紹介した。

「『ヤト』に所属しているヒューボルト=ガイストです。体術なら彼の右に出る者はいません。訓練相手にはうってつけだと思いますよ」

「…………」

 黙ってしまうシャルルを困惑の目で見てから、亜子はヒューボルトと紹介された男を見上げる。彼は観察するように無表情でじろじろと見てくる。

「キミはトリッパーなのですか」

 硬質な声だ。丁寧に喋るルキアとは音の高さも柔らかさもまるで違う。

「違います」

 即座に否定すると、彼は目を細めただけだった。ヒューボルトはルキアを見下ろした。

「15分だ。それだけなら時間を空けられる」

「充分です」

「ではお嬢さん、お相手をしよう」

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