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プロローグ

 本命を、落とした。

 その衝撃を受けて、持っていた受験票が風に乗って飛ばされていく。手の力が緩んでしまったからだ。

 亜子は呆然と、現実を完全には受け入れることができずにいた。


 そんな夢を見たせいだろうか?

 亜子の顔色は朝起きると悪く、曇っていた。

「やな夢」

 瞼が重い。

 そう思いながら起き上がると、なんだかふわふわしている。

 あまりの気持ちよさに亜子は口元が緩んだ。ふにゃん、と笑ってしまう。

「貴様、余の寝台で何をしている?」

 若い男の声が聞こえる。亜子はハッとして閉じかけた瞼を開けた。

 目の前に、頬杖をついてこちらを覗きこんでいる絶世の美少年がいた。

 輝くような金髪に、透き通った空のような青と、宝石のような緑のオッドアイ。

 おかっぱ頭と表現してもいいが、それではあまりに彼に失礼のような気がする。それほどに彼は美形だった。

 薄手の白いシャツが見える。まるで……えっと、そう、そうだ。マハラジャ?

 混乱はしたが、亜子はそのまま起き上がり、辺りを見回した。状況は最悪だ。

 見知らぬ場所に自分はいる。しかもなにこの微かな振動は……?

 ふわふわの大きな天蓋つきのベッドの上に自分は寝転がっていたらしい。ありえない。自分の部屋はもっと狭いし、ベッドなんてかたい。

「……ん? おお、なるほど。貴様、トリッパーだな?」

「え?」

 また声がしたので亜子はそちらを見遣った。

 美しい少年……おそらく亜子とそう年齢が変わらないであろう彼がむくりと上半身を起こして亜子に顔を近づけたのだ。

 正直、亜子は『ビビった』。

 こんな美少年は映画でもお目にかかったことがない。明らかに西洋人だし、外国人だし、日本人じゃないし。

 綺麗に整った色白の顔に、少し意地悪そうな笑みが浮かんでいる。オモチャを見つけた子供のような眼差しだ。

「と、とりっぱー?」

 英語? なにかにトリップする……意味は……なんだっけ?

「見た目は少しやや赤みのかかった茶髪だが、瞳が茶色だ。トリッパーに違いあるまい。

 しかし余の寝所に出現するとは、大胆なトリッパーもいたものだな」

 珍しいと言わんばかりの口調に亜子は困り果ててしまう。

「あの……ここはどこですか? あたし、家に帰らなくちゃ。ていうか、ここって夢?」

「夢ではないな」

 少年はふわりと亜子の頬を撫でる。

「うむ。まこと、こちらの人間と変わらぬな。どれ」

 着ていたパジャマの上着をぺろんと捲りあげられ、亜子は思わず「ひえっ!」と悲鳴をあげてのけぞった。

 見知らぬ美形の少年にいきなりセクハラをされる覚えはない。

「ちょ、ちょちょちょっと!」

 物凄く言葉が出ない。人間、驚くと本当に言葉が出てこない。

 亜子が警戒して彼の手を払おうとする前に、少年の手が離れた。

 頬杖をつき、亜子を上目遣いに見てくる。恐ろしい美貌だ。テレビのアイドルやタレントなんて、目じゃない。

 ハリウッド俳優だって、きっと裸足で逃げ出しちゃう!

 そんな風にぐるぐると考えていると、少年が薄く笑った。

「中央都庁で登録をさせねばならんが……余にそれをさせるというのか? こんなところに出現しおって」

 まるで小動物に対するような声音だが、なんだか不穏なそれを感じた。

「トリッパー、名を名乗るがよい。余が許す」

「え? と、とりっぱー?」

 ストリッパーの親戚じゃないとは思うが……やはりわからない。どうしてだろう。受験勉強をあれほどしたというのに。

「名を申せ」

 す、と彼は人差し指を差し出し、亜子の目元を拭った。涙だ。いつの間にか涙が流れていたのだ。

 名前?

 亜子はゆっくりと唇を開く。

「……長野亜子」



 亜子は室内に入って来たメイドたちに驚き、身を固まらせる。どうなっているのかさっぱりわからないが、メイドたちは不審者がいる、と認識したようだ。

 その場をおさめたのは……彼だった。

「よいよい。トリッパーが余の部屋に現れるなど、物珍しくて良い」

 などと言いながら、ベッドから降りる。残された亜子はどうすればいいのかわからない。

 メイドの一人が……おそらく年長者で、この場でのまとめ役であろう女性が進み出た。

「恐れながら、トリッパーとはいえ、殿下のお部屋に長居をさせることはできません」

「わかっておる」

 うるさいとばかりに顔をしかめる少年は、すらりとした体躯をしており……。

 ……というか。なんだか聞き捨てならない単語が聞こえた気がする。

(殿下?)

 デンカ、という響きで浮かぶ単語は『殿下』しかない。発音からしても、きっとそうだ。

 それにこのいかにも豪奢な部屋。ベッド。家具。

 ……もしや……自分は夢の中で、とんでもなく偉い身分の人の家に、しかもベッドに潜り込んでいたのではないだろうか?

 いかにも西洋人たちに囲まれている自分は、とんでもなく場違いで、亜子は萎縮してしまう。なんでこんな夢をみているのだろう?

「貴重なトリッパーだ。丁重に扱え」

「はっ、かしこまりました」

「後で話がある。支度が終わったらこいつを同行させる」

「はい」

 きびきびと動くメイドたちは、彼を着替えさせるために集まっていく。そして逆に亜子は部屋から追い出された。

 追い出された先も小部屋で、不審になりながら連れてきたメイドの一人を見遣った。

「……あの」

 小さく声を出した亜子を見遣り、メイドはどこか蔑視を含んだそれのまま、口を開いた。

「殿下のご用意が整うまで、ここでお待ちください」

「…………」

 よくわからないが、ここで待てということだろう。

 亜子はパジャマ姿のまま、先程会った彼のことを思い出して頬を赤く染めた。綺麗な男性だった。

(なんかよくわかんないけど、いい夢だなぁ)

 いやな夢のあとに、いい夢なんて。

 思い出して、亜子はずん、と肩が重くなるのを感じる。

 ……受験に失敗した夢。……本当に夢?

 雪道を通って、合格発表を見に行ったあの時の寒さや、風の冷たさが?

(…………)

 青ざめる亜子の様子に、メイドが不思議そうにするが声をかけてくる気配はない。

 両開きのドアが開き、メイドたちが出て行く。唖然とそれを見送っていると、年長者のメイドが亜子を睨んできた。

「殿下がお待ちです。……早く行きなさい」

「えっ!? あ、はい」

 なぜか頷き、亜子は慌ててドアから先程の部屋に入った。

 長椅子に優雅に腰掛けている深紅の衣服のきらびやかな……少年。……ま、まぶしい。

(さ、さらさらの金髪に、綺麗な青緑色の瞳……。なんだか不思議な色の目だなぁ)

 魅入っていると、少年がくすりと笑う。

「よいよい。余の顔に見惚れるのは当然だからな」

 偉そうな物言いに亜子がぽかんとし、それから自分の姿を見下ろして恥じ入る。どうしよう。パジャマのままだった。

(着替えとか……ないのかな。夢の中なのに、衣装がチェンジするとかないわけ?)

 困った……。

 もじもじしていると、少年は亜子を手招きした。

「今頃、余の部屋に出現した稀なトリッパーのことをレラが報告しに言っておるはずだ。おまえと話せるのも少しだろうな」

 そう言いながらの行動に、亜子は従って近づいてしまう。なんというか、カリスマの塊のような少年だ。

 長い脚を組み、優雅に頬杖をついている彼は亜子をじろじろと見遣り、それからフッと笑った。

「何も知らぬトリッパーか……。

 そうだ。おまえに名をつけてやろう。どうせくだらん名前をつけられるであろうからな」

 尊大に言い放ち、彼は状況が理解できていない亜子の名前を何度か反芻し、にっこりと笑った。その笑顔に、不覚にもときめいてしまう。

「アガット。アガット=コナー。どうだ?」

 どうだ、と言われても……。

(いきなり変な名前つけられても……困るんだけど)

 反応しない亜子を眺め、少年は少し拗ねたような仕草をする。

「気に入らぬか。しかし、おまえの名前をもじったのだぞ? 捻りもない名前をつけられるよりマシと思わぬか?」

「あの……私、そんな名前をつけられても……」

 小さくそう言うと、彼は本気で驚いたようだ。

「声が小さいな。なにをそんなに萎縮しておる? 余の前だからとて、遠慮はいらん。今は許す」

「…………あなたは誰、ですか?」

 丁寧に問いかけると、少年は今さら気づいたのか意地悪く笑う。

「……なるほど。何者かわからぬゆえの恐怖か。

 余はシャルル・アウィス=ロードキング。皇帝の第二子だ」

 こうてい?

(よくわからないけど、コウテイって人の二番目の子供……次男てこと?)

 名前はシャル……。

(シャルル・アウィス=ロードキング? すごい名前。苗字が特に)

 堂々と王様だと言っているようなものだが……。

 亜子は怪訝そうに彼を眺めていたが、楽しそうにしている少年の態度に徐々に不安になってくる。

(……いつ、目を覚ますのかな……)

 夢とは、もっとふわふわとして、でも現実感がある時もあって、確かに見たこともないことすら、想像できる。

 けれど……なんだか違う。

 足がしっかりと地についているし、ここが『夢』だという確証がない。もっとも、その逆もだが。

「しゃ、シャルル、さん、です?」

「ふふっ。シャルルさん、か。そう呼ばれたのは初めてだなぁ」

 わざと棘のある言い方をしているのは、なぜなのだろう? 不機嫌そうにはみえない。

 むしろ亜子の様子を見て彼は楽しんでいる。娯楽の一つとでもいうように。

 ばたばたと外で慌しい足音がして、シャルルはそこで初めて不愉快そうに眉をひそめた。

「チッ。来るのが早いな。『ヤト』どもか」

 やと?

 聞いたこともない言葉に困惑していると、両開きのドアが開くなり、

「『束縛』!」

 凛とした声が響いた。

 30代の白い服……まるで軍服のようなそれを着た男が人差し指を亜子に向けた。ちょうど振り向いた直後だった亜子は、その場でまるで固まったように動けなくなり、転倒しそうになる。

(なっ!? か、身体が動かない!)

 こんな夢があっていいのか?

 これが金縛りってやつなのだろうか?

 両腕をぴったりと身体につけるような姿勢で、直室不動を強いられた亜子は、視線だけ男に向ける。

「殿下! トリッパーが侵入したとの報告で参りましたが、ご無事ですか!?」

「デライエ、うるさい」

 断ち切るように言い放ち、長椅子に座っているシャルルは眉をひそめた。

「面白いものが手に入ったのに、また取り上げるというのか、おまえたちは」

「で、殿下……トリッパーはまず素性を……」

「わかっておる」

 うるさい、とでも言うように、羽虫を追い払う仕草をし、シャルルはデライエと呼ばれた男を冷たく見遣る。

「では連れて行け。説明と登録が済んだら、余はまたこやつに会いたい。異界の話を聞きたいのでな」

「それはできかねます、殿下」

「登録が済み次第、すぐに放り出すのであろ? では、余の持ち物にしばらくしても良いであろうが。

 こやつが職を決めるまでの、短い猶予で構わん」

「……ですから殿下」

「首を刎ねるぞ、デライエ」

 ヒヤッとするような声音で言い放ったシャルルの目は笑っている。

 デライエはしぶしぶと言うように、「便宜をはかってみます」と小さく言い、亜子を連行してその場を去った。



 パジャマ姿のままで、続きの間(と言うらしい)を通され、それから表に出ると廊下が広がっていた。

 ここも豪奢で、きらびやかだ。あまりうまく説明できないが、どこかの城や、宮殿のような住まいに近い。

(なんかさっきの人も、見た感じは王子様みたいだったし……)

 まるで連行される罪人みたいな気分だ。手錠がついていないだけで、護送されているのは同じだ。

 長い長い廊下は広く、そして豪華絢爛。

(……変な世界に迷い込んじゃったみたいな気分だよ)

 気分がヘコみそうになる。いくら夢とはいえ、これはないだろう、これは。


 気づいたら馬車に乗せられて、あれよあれよという間に別の場所に連れて来られていた。

 四角い建物。まるで亜子の世界にある役所のようだ。

 飾り気もないその建物は、けれど亜子の世界の建物とは違っていた。

 そんな建物がたくさん並んでいる場所で降ろされ、そのまままるで隠されるように裏口へと連れて行かれる。

 亜子の常に近くにいたのはデライエという男だ。隙もまったく見当たらないし……もしや警察かなにかなのだろうか?

 しかしこんな派手な衣服の警察が?

 わけがわからない。ますます混乱を極める亜子は、通された部屋がまるで裁判所のようになっているのに驚いた。

 傍聴席はないものの、本当にシンプルな作りで、ずらりと並ぶ裁判官たちやその他の人たち。

 そんなイメージが近い。全員、ゆったりとしたポンチョのような衣服を羽織っており、そこに紋章のようなものが小さくつけられている。

「トリッパーを一名、捕獲しました」

(捕獲って……ほかに言い方がないの?)

 そもそも亜子はトリッパーとやらではない。勘違いだ。

(あたしは日本人よ、ただの……。あれ? でも、ど、どこに住んでたっけ……?)

 まるで頭にもやがかかったように鮮明にならない。

 自分がどこに住んでいて、家族の顔や人数など……。呆然とする亜子は被告人が立つような、部屋の真ん中にある異様に孤立させられた席に座らされる。

 目の前にはずらりと並ぶ、様々な顔の男たち。女性もいる。だが若い者は見当たらない。

 中央に座る男がドアが閉まったのを確認し、亜子を見てきた。

「では始める。名前は言えるか?」

 なまえ?

 亜子は嫌な気分になりながらも、渋々答える。答えないでいれば、きっとずっとここに拘束され続けるだろう。

「長野亜子です」

「アコが名前でよいかな?」

「はい」

 頷く亜子に、男は右端に座っているわりと若めの中肉中背の男性に何かを書き記すように指示を出している。……もしかして、書記か何かなのかもしれない。

 カリカリと羽ペンを動かす音だけが部屋に響いた。

 質問は座っている様々な者からされた。家族や、今までの生活のこと。

 一日は様子を見るということが規定とされていることを説明され、亜子はまたどこかへ移されるのだと覚悟した。

「信じがたいかもしれないが」

 中央の男は散々亜子に質問してきた後、そう切り出した。

「そなたは『トリッパー』と、この世界では呼ばれている」

「トリッパーとはなんですか?」

「別の世界から来た者たちの総称だ」

 ベツのセカイ?

 にわかには信じがたい言葉に亜子が顔を引きつらせているが、誰も真顔で、冗談だと笑ったりしない。

 …………うそ、だ。本当に?

「そなたたちトリッパーは、伝承によれば黒髪黒目、もしくは茶髪に茶色の目をした黄色の肌の人種だという」

 ……それは日本人の特徴ではないのか?

 微かに震える亜子は畏怖の目で、中央の男を見据える。

 初老の男の髪には白髪が混じっている。いかつい顔に、こちらをじっくりと観察するような目…………怖い。

「少し赤みがかかっておるが茶色の髪と瞳の外見。見たところ、外見にそれほど影響は出ておらぬ」

「?」

 亜子の姿が変わっているとでもいうのだろうか? そんな馬鹿な。

「トリッパーはこちらの世界に来る際に、大きく二つの影響を受ける」

「…………」

「一つは肉体影響。一つは精神障害」

 どちらもあまりいいものではない。いや、良くない、はっきり言って。

 目を見開く亜子は何も言えないで、完全にその場に固まっていた。

 だって、こんないきなりファンタジー世界なんて、無理に決まっている。

 小説だって読んだ。おもにライトノベルだけど。それにマンガも。でも……でもこれって……。

「見たところそなたは肉体にそれほど影響は見えないが、一日経たないとわからぬこともある」

「……どういう、ことですか」

「夜になると変貌する者もいるからだ」

 変貌?

 言い方が妙で、亜子は怪訝そうに眉をひそめる。

「トリッパーの肉体影響は様々だ。…………そなたらの世界では総じて『バケモノ』という単語で表現される変化をする」

「っ」

 今度こそ、亜子は驚いて口をぽかんと開けた。

 バケモノに、成る?

(あたしが?)

 なんで?

 違う世界に来たからって、化物なんかになるわけない。あたしは人間だ! 誰が見たって!

 そこまで考えて、起きてから一度も鏡を見ていないことに気づいた。

(……………………)

 ざぁぁ、と血の気が引く音が聞こえた気がする。

 もしや、見た目が変わっている?

「肉体影響には現時点では変化は見られぬ。だが、精神障害が出ているようだな」

 カリカリと、ペンの走る音。

 亜子はぼんやりとしたまま、声だけを聞いていた。音だけを聞いていた。

 何かの悪い夢だ。きっとそうだ。きっと……でも、きっとそうじゃないと、わかっている自分もいる。

「そなた、家族の顔や人数のことがわからないと言っていたな?」

「え? は、はい」

 小声で頷くと、男はふむ、と言った。

「記憶混濁だ。前の世界のことを忘却している」

「え……?」

「この症状が出ている者は、大抵、思い出すことはない」

 おもいだせない?

「え」

 小さく、本当に小さくそれだけ呟き、亜子は座っている者たちを見回した。みな、無表情で座っている。

「思い出せないって……忘れてるだけ、じゃなくてですか?」

「微々たるものではないだろう。半分以上忘れているはずだ」

 きっぱりと言われて、まるで足元の床がいきなりなくなったような感覚に陥った。

 自分の家族のことや、世界のことが……ほとんど思い出せない? なにそれ。なにそれ!

 涙が滲んでくる。悔しくて、悲しくて。わけが、わからなくて!

「い、いえ! 憶えてます! あたしの国は日本ていって、小さな島国なんです。経済大国なんて呼ばれた時代もあったけど、今はそんなのあんまりみんな思ってなくて……。

 住んでいた場所は思い出せないけど、高校には通ってました。受験を……」

 受験?

 そういえば受験勉強は?

 亜子は震えだし、頭を抱えた。両腕だけは自由にしてもらっていたので、そういう仕草ができたのだ。下半身は麻痺したように動かないが。

(どうして……? あれだけ勉強したのに、全然思い出せない? ううん、思い出せることだってあるけど、難しいこととか、何度か復習したところとかが……)

 すっかり…………抜け落ちている。

 愕然とし、亜子は全身から力が抜けた。

「アコ=ナガノ。処分が決定するまで、別室での滞在を申し付ける」



 尋問のようなものが終わったと思ったら、次は別の部屋に連れて行かれた。

 めまぐるしい展開に、頭がついていかない。

 ここは本当に別世界なの? 日本語が通じているのに。

 文字だって、ひらがなと漢字、それにアルファベットが使われている。まるっきり日本の西洋版のようだ。

 だが建物はことごとく日本にあったものとは若干違っていて、亜子の感覚を戸惑わせる。

 連れて行かれたのは医務室だ。身体検査があるという。

 ありがたいことに女医だったので、亜子は警戒心を少し緩めた。

 綺麗に結われている金髪の女性は、すらりとしていてまるでモデルのようだ。少しきつめの目つきが印象的だった。

「あなたの世界でおこなわれているものとほとんど同じことをするから安心してちょうだいね」

「は、はい」

「元気がないわね。相当しぼられた?」

 気さくに笑いかけてくる女医に亜子もつられて笑ってしまう。

「しかしシャルル殿下の寝室に出現したトリッパーなんて前代未聞よ。なにかすごいのかもしれないわね、あなた」

 興味深そうにじろじろ見られて、パジャマを脱ごうとしていた亜子は頬を赤く染める。

「そ、そういうものなんですか……? トリッパーとかいうのは、いきなりこっちの世界に出てくるものなんですか?」

 完全な不審者ではないか、それでは。

 亜子の言い方に彼女は笑い、そうね、と口を開く。

「本来なら、遺跡に出現するのよ、トリッパーというのは」

「遺跡?」

 そういえば、そのこともさっき説明をされた。

 この世界は荒野に呑み込まれてしまう前の建造物や失われた技術がある場所……遺跡。

「まぁでも、例外はあるみたいだし、一概に遺跡にだけ現れる、とも言えないらしいのだけど」

「遺跡、とはなんですか?」

 言葉通りの意味ではないはずだ。亜子はそのことを感じ取っている。

 女性は小さく笑った。

「『バースト・ダウン』」

「ばーすとだうん?」

「まずはその説明からしないといけないわね」

 女性の説明は、そこから始まった。


 この世界の大陸は今ほど小さくはなかったそうだ。

 広げられた地図を見て、亜子は絶句した。

 まるでそれは、地球の地図と似ていたのだから。でも地球みたいにバラバラになっていない。すべてが合体した感じ。

 それにしては……小さい。大陸全土が小さい、この地図上からでも。

「これが全大陸」

「あの、この南の小さな点々はなんですか?」

「これは『セイオン』という地域よ。帝国の支配下になる島なの」

 セイオン……。

「セイオンは後で説明するわ。まずはこれが前の地図」

 すぐ真横に広げられた地図の全大陸は随分と大きい。

 亜子は唖然とし、それから女医を見た。そう……きっとそうだ。

 この、『消えた部分』が……!

「『バースト・ダウン』というのは、一般的には大陸が荒野に呑み込まれ、荒廃した状態になった時期を示しているの。事件の名前みたいなものね。

 この時期、大陸のあちこちで隆起が起き、陥没が起きたわ。海にのまれた地域も多い」

 それは大惨事だったに違いない。

 亜子は経験していないので想像するしかできないが……。

「原因はよくわかっていないの。突然なのよ。突然、世界が荒野化してしまった」

「え。でもここには植物がありますよね」

「場所によっては復興したところとかあるのよ。でも旅をすればわかるわ。どれだけまだ貧困にあえいでいる人々がいるか」

「…………」

 亜子は軽く俯くことしかできない。

「荒野化は今は沈静化しているみたいだから、一応は安全ね。

 大陸のあちこちには線路が張り巡らされていて、そこを列車が通るの。貴族はだいたいが弾丸ライナーを使うわ」

「弾丸ライナー」

「どの列車よりも速く目的地に着くのを目的としている列車よ」

 小さく微笑む女性が続けた。

「この消え去った土地が時々隆起して、姿を現す時があるの。そこに『遺跡』と呼ばれる建物があることがあるの」

「遺跡、ですか」

「そう。失われた力が秘められているとも言われているし、実際はよくわからないの。だから調査団が送られるのよ。

 調査団が調査を終えると、トリッパーである地学者たちがそこを検分に行くのが通例ね」

「地学者?」

「各地を旅し、遺跡を調べる人のことをそう呼びあらわすの。トリッパーの多くが選ぶ職業だけど、まぁトリッパー全員が地学者になるわけじゃないから、誤解しないでね。

 つまり、遺跡をあとからあれこれ調べる人のことね」

 地図をたたみ、彼女は元の位置に戻ってイスに座った。

 突っ立っている亜子は困惑の表情しか浮かべられない。

「徐々にこの世界のことを知っていくわ。一度に教えてもわからないでしょうし」

「……元の世界に戻る方法は?」

「見つかっていないわ」

 断言、だった。

「トリッパーたちが地学者をしているのは、帰る方法を探すため、というのもあるらしいの」



 亜子は診察を終え、なんの病気もないと判断されてさらに違う小さな白い個室に案内された。

 窓が一つしかない。まるで囚人の部屋のようだ。

 鉄格子のついた窓は高すぎて、亜子の身長では外が見えない。

 今は夕刻で、差し込んでくるオレンジ色の光だけでそれがわかる。

 真っ白で四角い部屋だ。

「……なんか、精神病患者の部屋みたいなイメージだなぁ」

 そう苦笑いと共に呟き、イメージだけの自分の言葉を恥じた。

 ベッドに座り込んだ亜子は、渡された本を見る。日本語で書いてある。これを読めということだろう。

 一枚一枚開いていく。先程女医に説明された『バースト・ダウン』のことも載っていた。

 簡素なワンピースのような白い衣服を一枚だけ着せられた亜子は、窓から覗く空をふと見上げた。

 そこに月が見える。

 どくん、と心臓が妙な音をたてた。

「!?」

 慌てて胸元をおさえて、戸惑ったように視線を彷徨わせる。

 ……なにも、ない?

 ほっとして、渡された本に亜子は再び目を通し始めた。


 この世界には13歳になると職業を登録するという法律があるらしい。亜子も例に漏れないので、1週間後には登録しなければならない。

 トリッパーがなるのは、と職業をめくっていくと、「地学者」という項目が見えた。

(ちがくしゃ……)

 各地を巡り、遺跡を巡り、その謎を解明せんとする職業。

 亜子にはこれしかないのではないのかと思われた。「道」と呼ぶにはあまりにも粗末なもので、一本道にしか見えない。

 傭兵や魔術師など、ゲームなどでよく聞く職業が多い中、聞いたこともないようなものもある。よくわからないので、とりあえず誰かに説明を求めたいが……ここは一人ぼっちだ。

 孤独を意識した途端、亜子は泣きそうになって涙腺が緩む。どうして自分がこんなことになっているのか、皆目見当がつかない。

 顔を伏せそうになった時、ドアが乱暴に開かれた。バン、という音とともに。

 反射的に泣きそうな顔のままそちらを見遣ると、朝に出会った「殿下」が護衛をつけて立っていた。あまりにもきらびやかで、亜子は唖然としてしまう。

 彼は室内を見回し、つまらなそうに目を細める。視線がゆっくりと亜子へと定まる。

 彼は室内に入ってくると、背後の護衛たちを制して「来るな」とばかりに合図をした。ずかずかと亜子に近づいてくると、彼は偉そうに腰に両手を当てて見下ろしてくる。

「なんだその顔は。余がせっかく会いに来てやったというのに」

「殿下! 時間は……」

「うるさい、黙れ」

 冷たく言い放つシャルルに、護衛の兵士たちが渋い表情をしてみせた。どうやら彼は我侭を通してここまでやって来たようだ。

 なぜそこまでするのかわからない。

 彼は亜子の持っている薄い冊子を見遣り、「うーむ」と洩らす。

「何に登録するか、決めたのかアガット」

「アガット……?」

「おまえの名だ。余がつけてやっただろう? このままいくと、アーコ=ナガ、などと適当でいい加減で低俗な名をつけられるぞ」

 まさか……いくらなんでもないだろうそれは。

 胡散臭そうに見ている亜子を見つめ、シャルルはふんぞり返る。

「この世界でのトリッパーは希少種だからな。生存を守るために仮の名を与えられる。勿論、本名を名乗ることは以降、許されない」

「そんな……!」

「本当だ。そうであろう、デライエ」

「……はぁ」

 面倒そうに応えたのは、朝、亜子を連行した男だ。白い軍服姿の彼は本気で嫌そうな表情をしている。

「ファルシオンの知り合いにおるのであろう、トリッパーが。そやつに証言させればよい」

「……そんなこと言ってましたか?」

「ファルシオンが言っておった」

「……あのクソチビ」

 ぼそりとデライエが悪態をついた。生憎と、シャルルには聞こえず、亜子には聞こえてしまったが。

「いくらなんでもファルシオン少尉を呼べませんよ。彼は今、帝都にはいませんからね」

「また嘆願書先に行ったのか。あやつも熱心なものだ」

「感心しないでください、殿下」

 ほとほと困ったように言うので、亜子はなんだか彼に同情してしまう。

「我々は皇帝直属の部下なんですよ!? ファルシオン少尉の行動はそれを逸しています」

「ではやつを軍務から外せばよい」

「できるわけないでしょう!」

「なら文句を言うな。文句を言うのは子供でもできる」

 さらりと告げたシャルルは亜子に向きなおった。やはりこの淡い夕陽の中でさえ、神々しいほどに美しい。

 なにを言われるのだろうかと身構えた亜子は、彼がじっとこちらの手元を覗き込んできたのに驚いた。

「あと一週間は猶予がある。それほど急いで決めずともよいぞ」

「あ、あの、シャルル……殿下」

「ん?」

 さん、と呼んだ時よりも対応は柔和な気がする。

(そっか……やっぱり王子様なんだよね。ちゃんと対応しなくちゃ。失礼なことをしたら大変だもん)

「トリッパーについて、もっと知りたいんですけど……どうしたらいいのでしょうか? 不慣れなので、誰に訊けばいいのかわからないのです」

 殊勝な態度でそう言うと、シャルルはじっとこちらを凝視して、にやっと笑った。ぎょっとする亜子は瞬きをする。

(な、なにその意地悪な笑顔……! な、なになに? 変なこと言ったかな、あたし)

 彼は顎に手を遣り、神妙にドアのところにいるデライエを見た。見つめられた彼のほうは居心地の悪さを感じていることだろう。

「デライエ、ファルシオンを呼び戻せ」

「無理です! 今はルーデンの真反対にある、ウェドカにいます。弾丸ライナーでこちらに戻ってきている最中だと報告は受けていますが」

「いつ戻るかわからない、か。あやつは気紛れを起こすからな」

 平然と言ってのける王子にデライエは何度も頷く。どうやらファルシオンという人物は、デライエにとっては苦手な相手らしい。

「……ふーむ。だが余も知っている知識は少ない。王宮の図書館か、魔法院の図書館になら資料はあるだろう? なあ、デライエ」

 そう呼びかけられた彼は、一気に青ざめた。

「殿下! トリッパーを傍に置くのはおやめください!」

「なぜだ」

「害を及ぼす可能性が高いからです!」

 はっきりと言い放たれ、亜子は怪訝そうにするしかない。自分のような非力な少女が、この王子になにかできるとは思えなかった。

「トリッパーは精神と肉体に『必ず』影響が出ているのです。危うい存在を、殿下に近づけさせるわけにはまいりません!」

「アガット」

 呼ばれ、亜子はシャルルのほうを見遣った。青緑の不思議な色の瞳は、夕焼け色の光を反射している。美しい金色の髪がさらりと揺れた。

(綺麗……)

 朝も思ったが、亜子は彼ほど美しい人を知らない。胸がときめくのも仕方がなかった。

「なんだ……? 余に見惚れておるのか?」

「えっ」

 ずばり心中を言い当てられ、亜子は羞恥に耳まで赤くなる。シャルルはうんうんと頷き、満足そうに流し目を寄越した。

「アガットも余の虜となればよい。許す」

「あ、あの、そ、そんなことは……」

「しかし……今晩何もなければ職業登録までは監視つきで下町に滞在させるのであろう? 可哀想ではないか」

「下町とはいえ、それほど危険のない区域です、殿下」

「どう見ても、アガットになんら恐怖は抱かぬのだがな」

「夜になると変貌するトリッパーもおります」

「……おまえは詳しいなデライエ」

 ひやりとした声で言われて、デライエはうっ、と言葉に詰まる。

「……そういえば、ヤトには研究家がいたな。そやつか?」

「あいつは医者です、殿下」

「であるか。しかし、おまえよりも詳しいとみた」

「殿下、お許しを……。あの男は殿下の命令でもそうそう研究室から出てきません……!」

 ほとんど悲鳴のような声をあげるデライエが可哀想になってくる。亜子はそっとシャルルを見上げた。

 シャルルは傲慢そうな表情をしてはいるが、その瞳がなにかを探るように真剣だ。

(殿下は……知っているのかな?)

 わかっていて、わざとデライエと喋っているとしか思えない。

「ならばこちらから出向けばよい。アガット、立て。余の供をすることを命じる」

 突然のことに護衛兵たちがざわついた。デライエは必死にシャルルを止めている。

「トリッパーは今夜はここで過ごすことになっております、殿下。おやめください」

「なにか起これば自分で身を守れる」

「未知の多い存在を、殿下の傍に置けと!?」

「そうだ。余の寝室に現れた。興味がなければおかしいではないか」

 亜子の手を掴んで無理に立たせられる。驚く亜子は彼を見上げた。意地悪そうだが、どこか愉快そうに彼の目は細められていた。

「では行くぞ。なに、今夜中に戻ればことは済む。馬車か、早馬を用意させよ!」

「……あーもー……」

 疲れたように項垂れたデライエの小さな声を、亜子ははっきりと耳にした。なぜこんなにもあの小声がはっきり聞こえるのか、亜子にはわからない。



 馬車に乗せられて、亜子は静かに向かい側に座るシャルルを見る。囚人服のような格好の亜子を一瞥し、彼は偉そうに足を組んだ。これまた美貌に似合うほどスタイルのよい体躯につりあう足だ。

「なんだ。不満そうだなアガット」

「……アガットじゃありません。亜子です」

「余のつけた名前では嫌と申すか」

「そ、そうじゃなくて……」

 まじまじと見られて赤面してしまう。頬杖をつくシャルルを上目遣いに見遣り、亜子は切り出した。

「どうしてあたしに構うんですか? トリッパーならほかにもいるのではないのですか?」

「……おまえ、阿呆ではないのだな」

「あ、あほ……?」

「第一に」

 シャルルは人差し指を立てた。

「アガット、おまえは余の寝室に出現した。大抵のトリッパーならば、遺跡に姿を現すものだ」

「……そうらしいですね」

「こんな異例は稀だ。それに、余の部屋というのも気になる」

 それはそうだろう。いきなり自分の部屋に見知らぬ人物がいたら……確かに気になるだろう。

「第二に」

 と、中指を今度は立てた。

「おまえは見た目にそれほど変化が出ていない。だがトリッパーは必ず精神と肉体になんらかの影響が出る」

「それも聞きました」

 その様子見としてあそこに閉じ込められていたのに、シャルルが連れ出したのだ。

 カーテンを閉められている車内で、たった二人でいるのは少々居づらい。だがシャルルは気にした様子はなかった。

「どのようなものか、余は一度見てみたい」

「……興味本位で、ですか」

 今まで聞いた話が本当だったならば、亜子はバケモノになる可能性だってあるのに。

 デライエが頑なに反対していたというのに、この王子は興味だけで亜子を連れ出したというのだろうか?

「第三に」

 薬指を立てて、シャルルは腕をおろした。

「トリッパーに関して、余は知らないことが多すぎる。聞きだすいいきっかけだと思った」

「殿下でも、知らないのですか?」

 王子というのは、あらゆる勉学を学ぶことが義務のようなものだと思っていたのだが、違うのか?

 不思議そうにしている亜子に、シャルルは薄く笑う。

「学者どもは、トリッパーを疎んでいるからな」

「? どうして、ですか」

「異界の知識は確かに我が国にとって有益だろう。だが、進歩した世界から来た異邦人どもに牛耳られるのではという不安もまた、強いのだ」

「…………どうして、ですか。トリッパーの数は少ないと聞きました」

「そうだ。恐れる理由は、トリッパーの『異能』にある」

「異能?」

 亜子が不思議そうにしていると、シャルルはくすりと笑った。

「ああ。個々で違うようだが、能力は様々だという。その能力を使われては、太刀打ちできないと考えたのだろうな。少数でも、脅威として映る。

 だから、トリッパーは政府が、帝国が管理している」

「管理……」

「そうだ、管理だ」

 きっぱりとシャルルは言い放つ。彼は足を組み替え、小さくまた笑った。

「アガットはどのような異能が発現するのか……余は興味があるのだ」

「……たいしたものではないと、思います」

「…………」

「な、なんですか?」

 じっと見つめられて亜子は顔に血がのぼる。

「いや……思ったより元気だと思っただけだ」

「!」

 心配、してくれていたのか?

 そう思って驚く亜子は、ますます顔を赤くする。こんな綺麗な男の子に心配されたことなど、人生で一度もない。

 そういえば彼の前で亜子は泣いてしまっていた。思い出すと恥ずかしい。

「あの、殿下」

「なんだ?」

「ありがとうございます」

「…………」

 ふ、と彼は笑った。優しい微笑に亜子の胸がどきんと大きく高鳴った。

「よい。おまえが元気なら、余も嬉しい」

「…………」

 瞼を閉じてしまったシャルルを、亜子はまじまじと見つめる。

 いま、嬉しい、と言った。空耳ではないはずだ。

(王子様なんだよね、この人)

 それなのにこんなわけのわからない世界から来た自分のことを心配?

「これから行くのはどこなんですか、殿下」

「魔法院だ」

「まほーいん?」

「まぁ簡単に言えば魔術師を養成する学院だな」

 そんなところがあるのか!

 瞼を閉じたまま、シャルルは少し眠そうに応えてくれる。

「そこにある男がいる」

「あ、えっと、さっき話題に出ていた人ですか? 研究室にこもっているとかいう……」

「察しがいいな。そう、名前はマーテット=アスラーダ。皇帝直属部隊『ヤト』の軍医だ」

 すらすらと名前を言うシャルルを亜子は驚いてまた見つめる。さっきは名前も知らないような素振りをしていたというのに。

(? どうしてなのかな……)

「ふふっ、アスラーダはおまえのことを気に入ると思うぞ?」

 悪戯っぽく片目を開けて言われて亜子はたじろぐ。

「あいつは気に入った女を見つけると、実験体にしたがる悪癖があるからな」

「えっ!」

「…………」

 黙ってにやにやするシャルルを、亜子は困ったように凝視するしかない。

 つまり、彼はマーテットという男に会うことが目的なのだ。亜子はそのためのエサ、なのかもしれない。

 馬車の周囲には、護衛のために馬に乗った護衛兵たちがいる。デライエもきっと一緒にいるのだろう。

 亜子の両腕には枷がはめられており、手首が固定されて動かせない。何かあったときのためなのだろう。

 枷は重いが、歩いてついて来いと言ったデライエの言葉を思い出すとありがたい状態だった。シャルルが提示した条件を呑んで徒歩は免れたのだ。

 シャルルはふいに身を乗り出してきた。

「ん? なんだか瞳の色が変わっていないか?」

「え? さ、さあどうでしょう? 鏡がないのでわかりません」

「……まぁ、ここは暗いし、勘違いかもしれぬな」

 亜子は曖昧に笑っていることしかできない。身体に変化が起きているのは、なんとなく気づいていたからだ。



 馬車が着いて降ろされた先には広大な庭が広がっていた。そして巨大な門。門の上の壁にはなにか文字が書いてあるが、読めない。それもそうか。ここは日本ではないのだ。

 シャルルが亜子の手を軽くとって歩き出した。

「こちらだ、来い」

「でっ、殿下!」

 背後でデライエの焦る声音が聞こえたが、シャルルは無視をして門を迂回して右手の建物に向かった。

 学院と言われるだけあってかなり大きな建物だ。それに夜だからかなり静まり返っている。ところどころ、部屋に灯りがあるのは見えるが、残っている生徒か教師でもいるのだろう。

「正面から行くよりも、早いからな」

 楽しそうに言うシャルルは建物の前に立つと背後のデライエに命じた。

「さあ、あやつのところまで案内せよ、デライエ」

「…………」

 渋面を浮かべるデライエは仕方なくドアを開けた。特殊な鍵でも必要かと思ったが、あっさり開いたので亜子のほうが驚く。

 いや、それとも……彼はなにかしたのだろうか?

 この世界には「魔法」が存在するようだ。つまりは、ファンタジーの世界なのだろう。

(ふぁ、ファンタジーとか、本気でありえない……)

 眉を吊り上げながら軽く息を吐く亜子は、ぴくりと小さく反応した。

 地下だろうか? なにか、大きな音がしている。いや、亜子にだけ「大きく聞こえている」のだ!

(あたし、耳がどうにかなっちゃったの……?)

 恐れながらシャルルに手を引かれて歩く。長い廊下が待っていた。

 静まり返っている廊下の先を歩くのはデライエだ。手に持っているのはランプのようだが、なんだか不思議な形をしている。

(なんか変な世界……中世のヨーロッパっぽいけど雰囲気は)

 小さな灯りだというのに、デライエの足取りには迷いがない。それは、ここの道に慣れているということだろう。

 数人の足音だけが不気味に響く。反響するのが亜子にはうるさいと感じてしまうほどに。

(やっぱり……なんか、おかしい……)

 息苦しさのようなものを覚えていると、デライエがある場所で立ち止まった。ドアがあるが、そこには「立入禁止」と書いた札がさがっている。

 札をどけて、デライエは先に進んだ。そこは地下に繋がっている階段のようで、暗くて先がまったく見えない。見えないはずなのに。

(…………見える)

 亜子は何度か瞬きを繰り返した。

 デライエが持っているランプが邪魔だと思えるほど、暗闇のほうが好ましい。だって「見えて」いるのだから。

 明らかに自分自身に何か異変が起こっている。……このことは、隠さなければ。

 階段を降りていくと、その先は広間のようなものがあって、一つだけドアがある。そこにも「立入禁止」の札があった。だが。

「マーテット! 殿下がお越しだ!」

 乱暴にノックをしたデライエが、ドアをいきなり蹴破る。

 突然の乱暴な訪問に、室内に居たらしき人物は驚くこともなく、奥の机に向けていた身体をこちらに反転させて目を細めた。

「嘘言って邪魔しようなんてするなよ、オッスの旦那ぁ」

「オッスではない! 少佐だ! それに、嘘でもない」

「はあ? なんで皇子殿下がこんなとこに来るんだよぉ? 意味わか……」

 と、こちらに気づいて青年がぎょっとしたように目を瞠る。やたらと目の細い、見る人が見れば、姑息なイメージを受ける男だ。年齢はまだ二十代の前半だろう。

 白衣を着ている青年は、その下はデライエと同じ軍服だ。

「ええええ~!? なんでここに第二皇子殿下来てんの? なにやってんだよぉ、オッスの旦那はぁ!」

 ゴン! と、痛い音がした。デライエが青年の頭を殴ったのだ。

「口を慎め」

「良い良い。では話はこやつとするので、デライエは外で待っておれ」

 シャルルが平然とまたも無茶なことを言い出したので、デライエが困ったように眉根を寄せた。

 しかしシャルルは彼の表情を無視して続けた。

「人払いをせよと命じておる。早くゆけ」

 厳しい一言に、苦渋の色を滲ませて「御意」と呟き、デライエは護衛兵を連れて部屋を去った。残されたのは亜子と、シャルル、そして得体の知れない青年だ。

 丸眼鏡をかけた彼は糸目で、そうしているとまるで害がなさそうにみえる。髪はぼさぼさで、シャルルと比べるとどうしても見劣りのする外見だ。

「おやおや。厳しい御方だなぁ」

「フン。皇族に礼儀もないやつに言われたくはないな」

「うわっと、そ、そうでしたね」

 困ったように後頭部を掻く青年は椅子から立ち上がった。背がかなり高い。

「マーテット=アスラーダだな? ヤト唯一の軍医」

「ご存知とは、光栄至極」

 かしこまったように頭をさげる青年は、目的のマーテットだという。

(この人が、あたしのことを色々教えてくれるの? でも軍医だって……)

 疑問符を頭の上に乱舞させている亜子を放置し、シャルルはすすめられた椅子にどっかりと座った。亜子もマーテットも座ることは許されていないので、突っ立っているしかない。

「慣れない丁寧語は使わずとも良い。不気味に思える」

「そ、そうは言われましてもねぇ~……」

「おまえ、トリッパーに詳しいのだろ?」

「いや……専門家じゃないんで」

 ぶんぶん、と右手を左右に振るマーテットは心底迷惑そうだった。どうやら彼は表情にかなり感情が出るようだ。

(お医者さんには見えないなぁ、とてもじゃないけど)

 白衣はよれよれだし、彼自身も医者と名乗っているような雰囲気ではない。どちらかというと……。

 部屋を見回し、気づく。そうだ。彼は「研究者」に近い。

 手枷をしたままの亜子に気づいたマーテットは眼鏡を押し上げる。

「トリッパー?」

「そうだ」

 シャルルが即答したものだから、マーテットはぽかんと口を開け、こちらを指差してくる。

「マジ……?」

 どう反応すればいいのかわからずに困惑していると、マーテットは近寄ってこようとする。それを遮ったのは、シャルルの腰に下げられていた飾りのような美しい装飾をした剣の鞘だった。

 阻むようになんでもない動作で差し出された剣に、マーテットはすぐさま動きを止める。そして苦笑した。

「意地の悪い殿下だなぁ~」

「近寄るな。余のものだ」

「トリッパーは希少種。しかもこれほど完全に人間に見えるのは珍しい! なあ!」

 突然マーテットはこちらに輝くような笑顔を向けた。好きにはなれない笑顔だ。明らかに獲物を狙うような瞳をしている。

「おれっちの実験体にならねーか?」

(……ちょ、ちょっとなにそれ……)

 シャルルの言った「悪癖」が露骨に出ているではないか。

「お断りします」

 亜子がむすっとして応えると、マーテットはますます喜んだ。

「言葉もきちんと喋ってる! 殿下! ここに連れてきたのはおれっちに研究させてくれるためなんだろ? なあなあ」

 馴れ馴れしい言葉遣いになってしまうほど、興奮しているということだ。マーテットは亜子を凝視し、上から下まで眺める。恥ずかしくて亜子は少し肩をすくめた。

 剣をおさめないシャルルのせいで、マーテットは亜子に近づくことができない。

「名前は? おじょーさん」

「え……?」

「アガットだ。アガット=コナー」

 シャルルが先に答えてしまったので、亜子は口を噤むしかない。そういえば、トリッパーは身を守るためにも元の世界の名前を名乗ってはいけないのだ。忘れていた。

「アガット……? へぇ。短縮しにくい名前だなぁ」

 うんうんと唸るマーテットは、ぽん、と掌を打った。

「そうだ。アトにしよう!」

「……おまえは勝手に他人の名を改ざんする趣味もあるのか?」

 シャルルが冷ややかに問うと、マーテットは「まあね」と頷く。

「そのほうがぐっと親しみが増えるっしょ。殿下もやってみたらいかがっスか?」

「悪いがそういう趣味はない」

(……なんか、殿下はあまり機嫌が良くない……?)

 さっきから少しも笑わないし、表情が冷たいままだ。不穏な空気を感じる。

 亜子はマーテットを不安そうに見た。彼はこちらの戸惑いに気づいたのか、シャルルを見下ろす。

「そういえば……じゃあ殿下はなにしにここに?」

「トリッパーのことを知りに来た」

「こんな夜更けに!? いくらなんでも無茶っスね!」

「余は即断即決派なのでな」

「…………オッスの旦那が困るわけだ……」

 ぼそりと洩らしたマーテットの言葉がはっきりと耳に入る。亜子は今度こそ目を見開いて顔を強張らせた。これは明らかに肉体変化が起こっている……!

(二人に隠し通せる……?)

 ごくりと喉を鳴らす。それでも二人に気づかれないように、だ。

 やれやれとマーテットは肩をすくめた。

「賢い皇子殿下。それがどういうことを意味しているのか、わかっていらっしゃってるので?」

「わかっている」

「あなたは自分の命をさらに危険にさらすと?」

 え? 危険?

 亜子は仰天してシャルルを見つめた。彼は剣をさげ、小さく笑う。

「元々、王宮内とはそういうものだ。馬鹿なふりをするのも疲れるものだぞ、アスラーダ」

「…………」

 マーテットは眼鏡の奥の瞳を細めた。

「あー、やだやだ。……殿下ぁ、隠し事をするのはやめてくださいよぉ」

「余は秘密主義である」

 尊大に言い放つシャルルは不敵な笑みを浮かべる。どきりとする亜子は、もやもやしたものも同時に感じてしまう。

(あたし……そういえば王子様のこと、なにも知らない……)

 この世界のことも。この人のことも。

 まずはそこから学ばなければならない。悲嘆に暮れることはいつでもできるのではないか? そう思ってしまう。

 ぴくん、と亜子の耳が物音をとらえた。

「殿下!」

 鋭く言い放った次の瞬間、亜子は彼に体当たりをしていた。腕に自由がきかないため、それくらいしかできなかったのだ。

 椅子ごと倒れかけたシャルルを支えたのはマーテットだ。彼ら二人は驚いていた。

 亜子が倒れた場所は今までシャルルが座っていたところだ。そこに鋭いナイフが突き刺さっていた。つまり、亜子の左腕に。

 焼け付くような痛みに亜子は「うぅ」と洩らし、体が震えた。

「アスラーダ! デライエ!」

 シャルルの号令でマーテットがドアを開け放つ。ドアの外では戦いになっていた。ドアの前に居た男が穴を空け、そこからナイフを放ったらしい。

 小柄な男は悲鳴をあげてマーテットを見上げた。眼鏡を押し上げる彼は非情な顔で告げた。

「死ね」

 刹那、ぐずり、と男の身体が崩れ落ちる。まるで土くれのようにぐちゃぁ、と崩れていった。

 デライエは交戦中だった。彼は身をかわし、なにやら魔法らしきもので相手を圧倒しているが、すでに護衛兵たちも地に伏しているため一人では不利だったのだろう。

「チッ。防音にしていたのが仇になったか」

 マーテットの舌打ち混じりの声に、亜子は現状を悟った。

 シャルルが亜子に寄り、屈んで様子を見てくる。

「大丈夫か、アガット」

「…………」

 痛い。痛くて、声が……だせない。

 苦痛に眉をひそめていると、シャルルがふいに目元を和らげる。

「治癒の魔術は少しは使える」

 そっとナイフを抜いた彼は、手をかざしてなにかぶつぶつと唱え始めた。痛みが和らぎ、亜子はホッと安堵した。

 傷はすっかり塞がったが、亜子は沸々とこみあがってくる怒りに立ち上がった。

「アガット……?」

 亜子の髪は燃えるような赤髪へと変質し、その耳が尖っている。茶色の瞳は金色に鈍く輝き、患者服の足元からは尻尾が覗いていた。

 トリッパーの「異能」が完全に表面に出てしまった姿だった。

 しかし今の亜子は気づく余裕がない。

 とにかく怒りで気が狂いそうだったのだ。

 誰を狙って来たのか知らないが…………イタカッタ。

 月のもののような鈍痛ではない。パッと目の前が閃くような痛みだった。

 頭に血ののぼった亜子はドア目掛けてあっという間に跳躍し、外に躍り出た。広間で戦っている剣を持った者たちを勢いをつけて蹴り倒す。

 体中に力が満ちていた。

 普段の亜子にはこんな動きはできない。

 まるで雑技団の団員にでもなったようにしなやかな動きで攻撃をかわし、亜子は素早く移動しては男たちを昏倒させていく。

 すべてテレビで観た、映画で観た格闘を真似ていた動きだが、それが「できる」ことに亜子は驚かなかった。

 デライエが魔法で数人を吹き飛ばしてことが終わったあと、マーテットがずんずんと近寄ってきて亜子の肩に両手を置いた。

 ハッとして我に返った亜子は急に怖くなって「ひっ」と悲鳴をあげる。

「アト! おれっちのじっけ……へぶっ」

 後方から鞘でゴン、と叩かれてマーテットは潰れたカエルのような声を出す。驚く亜子は、彼の背後にシャルルが立っていたのに気づいて「あ」と小さく洩らした。

「アガット……」

「殿下……」

 まるで気持ちをあらわすように亜子の尻尾が垂れる。その尻尾は明らかに獣のものだ。

 亜子は自分をぺたぺたと触り、変化のある部分を確かめるように確認する。だらんとした尻尾を掴んで持ち上げ、乾いた笑みが出た。

「あは……猫の尻尾?」

 シャルルは頭をおさえているマーテットを押し退け、自分の身につけているマントを脱ぐと亜子に頭からかぶせた。

 彼は亜子より身長がかなり高いので、すっぽりと足元までマントで隠れてしまう。

「殿下、こやつらは……」

「殿下、おれっちの実験に使ってもいいよな?」

 デライエの言葉を遮り、マーテットが進言した。彼ら二人を冷たく見て、シャルルは口を開く。

「アスラーダ、話はまだ終わっていない。後日、我が屋敷に参じよ。こやつらはデライエに任せる。どうせ吐かぬとは思うが、尋問して、雇い主を見つけろ」

 げっ、と呻いたのはマーテットで、「はっ」と短く頷いたのはデライエだった。

 シャルルは亜子のほうを見てふいに微笑んだ。

「命の恩人だな、アガットは」

「……殿下」

 そのあまりにも優しい微笑みに胸がどくんどくんと音をたてる。こんな綺麗な男の人に微笑まれてときめかない女の子はいないだろう。

 恥ずかしくて亜子はマントの裾で顔を隠した。

「デライエ。アガットは余の屋敷に連れ帰る。よいな?」

「…………」

 シャルルの言葉にデライエが葛藤の色を見せた。マントの端から亜子は固唾を飲んで様子を見守る。

 あの白い部屋に戻されるものと思っていたが……亜子は王子の命を救った。だが肉体が変化しているトリッパーを簡単に王宮には入れられない。たとえ、王子の個人的な離宮だとしても。

「あ、あの、デライエさん……あたし」

「アガット」

 叱咤するようなシャルルの声に亜子はびくっとする。彼はさっさときびすを返して階段をあがり始めている。ついて行くべきかと逡巡していると、デライエが嘆息した。

「馬車の護衛兵のところまで、殿下を頼む」

「は、はい……」

 慌てて頷いてシャルルのあとに続く。

 黙って歩いているシャルルをうかがいながら歩く亜子は、自分がこのあとどうなるのかと必死に考えた。

 この真っ赤な髪はどうなるのか……尖った耳。それに、尻尾……。

(あたし……なんだろう。バケネコ?)

 亜子の国には「妖怪」というものが存在するとされている。とはいえ、誰も姿を見たことはない。

 その中に、化け猫というものが存在している。三叉にわかれた尻尾を持つ、主人の仇を討った、など……猫に関しての怪談話は尽きない。

 背後を振り返る。マーテットにはトリッパーの話をほとんど聞けなかった。

(あたし……もう人間じゃないの……?)

 恐怖と不安に心を支配されながら、亜子は前を向いて歩き出した。

 嫌な気分だった。運命は、自分にさらなる過酷な風を吹かせようとしているのではないかと思えてならなかったからだ。



 シャルルの馬車に再度乗り込んだ亜子は、マントをゆっくりと取って、シャルルに返した。

「あの、ありがとうございました殿下」

「…………」

 彼は頬杖をついてこちらを一瞥した。そして意地悪そうに笑う。

「数分間だけなのか?」

「え?」

「元の姿だ」

 ほれ、と指差され、亜子は慌てて前髪を引っ張って視界に入れる。赤茶の色に戻っている。

 尻尾もなくなっている。耳も尖っていない。

 安堵している亜子は恥ずかしくてもじもじしてしまった。

 だがシャルルは愉快そうに見てくるだけだ。

(も、もしかして殿下って……けっこう意地悪?)

 話しかけてもいいものやらわからなくて黙っていると、シャルルがフンと鼻を鳴らした。

「やはりトリッパーなのだな、おまえは」

「え……?」

「実在するトリッパーに会ったのは初めてなのでな」

「そ、そうなんですか……?」

「嘘を言う必要性もあるまい?」

「そ、そうですね……」

 俯く亜子は、手枷が目に入る。自分は逃げられないし、行くあてもないことを強く思い出された。

 そう……。

(あたしは……あたしは……)

 モドレナイ。

 強烈な飢餓感のようなものが襲ってきて、思わず自身の喉に手を遣る。

 記憶が、曖昧。そして、妙な姿に変わる肉体。これがトリッパーだというのか? 来たくてこの世界に来たわけでもないのに。

 理不尽を通り越して吐き気が湧き上がってきた。

 意識が……闇に沈んでいった……。



 薄い冊子を亜子はめくっていた。あの白い部屋の中で。

 部屋は闇に包まれ、亜子の視線は格子のはめられた窓に向けられる。見える空には月。地球と変わらないその様子に、だが、亜子の心臓がどくんと大きく鳴った。

 肉体の内側から強烈な力が沸き上がり、髪がざわめく。赤茶の髪が燃えるような炎色に染まり、瞳が月を映すように鈍い金色になる。 

「う、あ、ぁ……」

 亜子は急激な肉体変化に意識がついていかない。爪が長く伸び、尻尾が生え……。


 ハッとして瞼を開けた亜子は、覗き込んでいる美貌にぎょっとする。

「うなされておったぞ、アガット」

「……で」

「で?」

「殿下……」

「そうだが?」

 またも気づいて亜子は彼から距離をとろうとして身をよじった。途端、壁にぶつかって鼻をしたたかに強打した。

 そこは亜子がいるようにと促された部屋だった。白く、狭い部屋だ。

 手枷はいつの間にか外されていて、亜子は驚きながら痛みに顔をしかめて起き上がる。

「低い鼻がさらに低くなったのではないか?」

「ひっ、ひど……!」

 鼻をおさえながらシャルルのほうを見ると、彼は室内にいつの間にか豪奢な椅子を置き、そこに座っていた。いきなりの不釣合いな光景に亜子は目を剥く。

「で、殿下……? そういえば、なんで殿下が?」

「昨日、馬車の中で気を失ったのを憶えていないのか?」

「え……?」

「余の屋敷に連れ帰るのは許されなかったゆえ、仕方なく余から来てやった」

「……いつから?」

「そうだな……」

 シャルルは少々考えるように顎に手を遣る。どんな動作をしていても気品があって、美しい。

「一時間ほど前だな」

「ひっ! 起こしてください!」

 寝顔をずっと見られていたのだと思うと恥ずかしい。真っ赤になる亜子とは違い、シャルルの態度は変わらない。

「なぜ余が?」

「……いえ、それは、だって……」

「いや~、殿下ぁ、いくらトリッパーとはいえ、相手は女の子っしょ?」

 もう一つの声に亜子は驚いた。部屋の隅にひょろりとした男が立っている。丸眼鏡の彼は、たしか……。

(マーテット……さん?)

 白い軍服の上に白衣を着ているし、髪は相変わらずぼさぼさだ。

 こうして明るい光にさらされた室内で見れば、マーテットは明らかに小汚いイメージまで受ける。だが彼なりに身なりは整えてきたのか、昨日のだらしない様子は少しない。

 ドアを開けて昨日会った女医が入ってきて驚いて動きを止めた。

「こ、これは、あの」

「ああ、気にしないで。お忍びなんでね~」

 にっこり笑うマーテットに女医は怪訝そうにしていたが、彼が軍服を着ているのに気づいて慌てて頷いた。

 女医の女性は亜子に近づき、視線を合わせてくる。

「肉体変化のほうは、報告を受けたわ。トリッパーとして登録は完了したから、あとは職業登録だけよ。

 猶予は一週間。滞在場所は下町の西区よ。一番治安がいいわ。中央広場で乗合馬車を降りて、案内させるから」

「あの……一週間後まで、なんですよね?」

「そうね。正確には6日後ね。迎えが行くから、道順を覚えるのよ」

 親切に微笑する女医が腰をあげて部屋を出て行ってしまい、亜子は不安に顔を俯かせる。猶予はたった6日しか与えられなかった。


 建物を出るとそこには一台の馬車が待っていた。亜子が乗るべき馬車だろうか? それにしては豪奢すぎるというか。戸惑っていると、シャルルがずんずんと歩いてこちらを振り返った。

「なにをしている。行くぞ」

「え……あの、ついて来てくれるんですか?」

「行くのは余の屋敷だ」

 …………え?

 目を剥く亜子の横を通りながら、マーテットが「へっへへ」と奇妙な笑い方をする。

「まあ諦めるんだなー。下町にはあとでおれっちが連れていってやるよ」

 とんとん、と白い階段を降りていくマーテットの後ろ姿を眺め、亜子は意を決して歩き出した。

 そうだ。歩き出さなければ……結局前へは進めないのだ。



 亜子にはこちらの世界の衣服一式が用意されていた。とはいえ、これは6日限定の衣服らしい。職業登録を済ませたら、まず賃金を与えられ、そのお金で職業に相応しい衣服を自分で揃えなければならない。らしい。

 下町の住人の平均的な衣服は軽く、また質素で、明らかにシャルルやマーテットの着ているものとは生地の質が違っていた。あっという間にぼろ雑巾になってしまう類いの布だろう、自分のものは。

 薄い冊子を片手に馬車に揺られていた亜子は、向かい側に陣取るシャルルを見た。瞼を閉じている彼は少し不機嫌そうだ。

 亜子の隣に座っているマーテットは代わりに上機嫌で、こちらを時々楽しそうに見てくる。……正直、勘弁してもらいたい。

 馬車がついたのはかなり時間が経ってからだった、と思う。時計がないので正確にはわからない。

 馬車から降ろされたのは庭先だった。屋敷というからには、と想像した通り、中庭のような場所は広大で、色々な花が咲き乱れていた。

 シャルルはずんずんと大股に庭を横切り、マーテットも続く。仕方なく亜子もそれに倣った。

 護衛の兵士がいないことに、亜子は不思議そうにする。昨日のデライエという人物は今日はいないのだろうか?

 迷いのない足取りで進むシャルルは、ふいに思い出したように方向転換をした。庭の奥にあるあずま屋は美しい薔薇で彩られ、まるで恋人たちが語らうのを待っているかのようだった。

 綺麗な作りのその場所へ向かうシャルルを見遣り、不似合いさに不思議になる。彼が誰かに愛想を良くし、愛を語らうシーンなど、まったく想像できなかったからだ。

 シャルルはあずま屋に入ると、掃除の行き届いているのを確かめてから長椅子に腰をおろした。

「座れ」

 ぞんざいに二人に命令をしてくる。マーテットはあっさりとシャルルの向かい側に腰掛けた。どうしようか迷い、亜子はマーテットの横に座る。いくらなんでも王子様の横に座るのはたぶん……失礼だと思う。

 彼はまずはマーテットを見た。

「では昨日の続きだ。トリッパーについて知っていることを話せ」

「こんな、誰が聞いていてもおかしくない場所でっスかぁ?」

 おちゃらけた様子で笑うマーテットにシャルルは不敵そうに笑う。

「どこで話しても同じだ。邸内にも、耳ざとい連中は多い」

「まぁ、そうっスね」

「アスラーダ、余は待たされるのは嫌いだ」

 ぎくっとしたようにマーテットは動きを止める。

「……ほんと、困った御人だなぁ……。じゃあどこから?」

「……アガットのようなトリッパーは多いのか?」

「記憶障害や、肉体変化ですか? まあ、十割十分、そうっスね。

 でも、精神障害に同一の症例は多かったように記憶してっけど、肉体変化が一致してるトリッパーはいないはずっスよ?」

「なぜそう言いきれる?」

「まあそれは企業秘密なんでね……。医者をやってると、トリッパーの遺骸も多く診るし」

「い、いがい……?」

 思わず呟いてしまった亜子のほうをマーテットが見てくる。

「ああそっか。アトは知らねーのか。トリッパーの知識を狙う傭兵集団もいるし、トリッパーは狙われることが多いんだぜ?」

「で、でもあたしは、記憶が曖昧だし……ただの高校生なんです!」

「コーコーセイってのがなにかは知らないが、連中には関係ねーだろーな。ひでぇ拷問をして、色々吐かせる『咎人の楽園』なんかが、傭兵ギルドでは有名だしなぁ」

 拷問?

 亜子が真っ青になるのを見ても、シャルルは声もかけてくれない。

「寿命で死ぬのは、中央都庁で働いてる連中くらいじゃねーのかね。でもアトは記憶が足りないし、特技もなさそうだからあそこで働くのは無理だろうなぁ」

「と、特技がない人はどうするの?」

「だいたいは地学者になるなぁ。遺跡を回って、調査して報告書を提出すれば、帝国が賃金をくれるし。安全な職といえば、それだな」

 地学者……。亜子は冊子を開いて確認する。

 遺跡を探査する者。簡略的な説明しか載っていない。

「あ、あのっ、地学者っていうのは具体的になにをするんですか?」

「さあ? 遺跡の調査がほとんどだって聞くけど……噂によればトリッパーは帰り道を探して地学者になるって聞くぜ?」

 帰り道?

 その言葉を頭の中で繰り返す亜子は、ああそうか、と納得した。その発想が自分になかったのは……自分が遺跡に出現しなかったからだ。もし遺跡に出現していたら、その遺跡に真っ先に行こうと考えるはず。

(地学者……あたしの世界への帰り道があるかもしれない『遺跡』)

 そういえば昨日の女医の説明にもそんな内容があった。

 示された一本道が、確かなものへと変わる。そんな感触がしたが――――。

「やめておけ」

 シャルルの言葉で思考が中断された。

 彼は青緑色の美しい瞳でこちらを凝視している。

「トリッパーでいまだ誰一人、元の世界に戻った者はいない。儚い望みだ」

「まあその通りだけど、それでも故郷に戻りたいって願うのはしょうがないんじゃないっスか?」

「……そうだな」

 椅子に深く座り込むようにしたシャルルは昨日とは衣服が違う。だが今日もそれなりに華美な格好だ。似合っているので文句は言えないが、かなり目立つ。

(王子様だから、しょうがないのかな)

 不思議になるが、こちらの世界のことだからよくわからない。亜子は面倒なことは考えるのを放棄しようと考えた。どうせまだ知らないことだらけだ。この二人が親切にすべてを教えてくれるとは思えないので、今は深く考えるだけ疲労するに違いない。

「それで、アスラーダ。アガットのような肉体変化の者はいないと言ったな?」

「あい? あぁ、そうっスね。知ってる限りじゃ、いないっスね」

「アガットの肉体変化はどのようなものなのだ?」

「本人に訊くのが一番、と言いたいところだけどー……まだ自覚症状はないし、自覚したくない時期だろうなぁ」

 後頭部を掻くマーテットの言葉に亜子は激しく頷いた。

 まだわからない。自分が「なに」に成ってしまったのか。

 シャルルは少し考えていたようだが、今度は亜子に目を向けた。

「記憶が曖昧になってしまったと聞いたが、まことか?」

「……はい」

「憶えていることで、話せることはあるか? 余は異界に詳しくない。話せ」

 話せと言われても……。

 だがこれはいい機会だ。自分がどこまで「憶えている」か、試すいい機会だろう。

 亜子は神妙に頷いた。

「あたしは、地球の、日本という国に住んでいました。住んでいたところは……すみません、これは思い出せません」

「チキュウのニホン?」

「はい。あ、地球っていうのは惑星の名前なんです。惑星の大陸の一つの島国の名前が日本といいます」

 ぽかんと口を開けているシャルルとマーテットに、亜子は不安そうな目を向ける。

「あ、あの……?」

「ワクセイとはなんだ?」

 険しい表情で言うシャルルに亜子は驚いた。どう説明しようかと困惑していると、マーテットがぐっと近づいてくる。

「すっげー! もっともっと!」

「え、ええっと、惑星っていうのは……あの、空の太陽とか月とかと同じで、丸い星のことです」

「はあ?」

 二人の声が見事にハモった。亜子は自分の、少ない知識を総動員して、なんとか説明する。

「たぶんなんですけど、ここも同じように丸い星なんだと思います」

「……丸いのに、なぜ大地が平坦なのだ?」

「それは、星そのものがとても大きいから住んでいる人たちにはわからないんです。宇宙……って、あたしたちの世界では言ってます。つまり、えっと、月みたいなところからこの星を見下ろせばはっきりすると思いますけど」

「月に!? ど、どーゆー世界なんだ、異界ってのは……」

 マーテットは頭の上に疑問符を浮かべている。

「月には、シャトル……ロケットとも言うかな。それでいきます。と言っても、訓練された人しか行けませんし、宇宙ロケットを作るにはすごくお金がかかるので、たくさんは作れません」

「あー、もしかしてクルマと同じ類いの機械?」

 マーテットが少し困ったように尋ねてくるが、亜子は首を振った。

「車とは全然違います。すごく大きいですし、かかる費用や燃料も違うので……」

「……殿下ぁ、異界の人間はあの空に浮かぶ月にまで行くんですってー」

「違いないか、アガット」

「違いません。月に行ったり、宇宙ロケットとは違うんですけど、衛星と呼ばれる無人の機械を打ち上げて、星を観察するんです。

 あ、でも……あたしの世界に、宇宙に行かなくても地球が丸いって証明した人はいます。名前は……」

 勉強したはずなのに、出てこない。悔しそうに唇を噛み締めて、亜子は搾り出すように言う。

「すみません……思い出せません。でも、いました。えっと……星の動きで……それを……それを、証明した人がいたんです」

 どうしてだろう。受験勉強のためにあれこれと憶えたはずなのに、ほとんど思い出せない。断片的な記憶だけが脳裏を掠めるので余計にイライラした。

「あたしは……日本という小さな島国で育ちました。両親と……えっと、……」

 愕然とする。本当に……本当に思い出せない。

 記憶喪失者がよく映画などで演じるような痛みを訴える警告などはない。ただ「そこ」だけがすっぽりと抜け落ちているのだ。

「家族構成は、あんまり思い出せません。両親は確かにいました。あたしは、17歳なので高校に通っていました」

「余と同じ年齢か」

「えっ」

 シャルルのほうを慌てて見る。

(殿下とあたしが同い年……?)

 信じられない。同じ年齢でも、彼のほうが落ち着いているし……こんなに綺麗だ。……ずるい。不平等すぎる。

「コウコウっていうのは、魔法院みたいなものなんだろー?」

「え? えっと、あたしはマホウインっていうのがよくわからないから……」

 マーテットに苦笑で応じると、彼はにんまりと笑った。

「魔法院ってのは、そのままだ。ま、魔術とか、医術とか、魔術関連のことを習う場所だな」

「ああ、じゃあ魔術の学校ですね」

 元の世界で見た……タイトルの思い出せない映画を思い出す。

 魔法の学校で、様々な魔法を学ぶ生徒の映画を観た記憶はあるが……内容はほとんど思い出せない。

「医術が魔術の関連なんですか?」

 素朴な疑問を口にした亜子に、マーテットは目を丸くする。この人のこんな表情は珍しい。

(こんな表情もするんだ……)

「そりゃそうだろ。魔術なしじゃ、医術の発展はしねぇよ」

「?」

 亜子の世界では医術というのは、生物に関するもので……べつに魔術などなくても薬や、対応を知っていればなんとかなることもできた分野だったはずだ。

「薬とか、手術とかを魔術でするんですか?」

「へ?」

 きょとんとしたマーテットは、亜子をじろじろ見てくる。あまりにも無知だと思われたのかもしれないが、わからないことを訊くのは仕方ないことだと思う。多少……恥ずかしいが。

「薬は薬草を使う。でもこれはあくまで魔術の補助のため。シュジュツってのはなんだ? 解剖の類似言葉か?」

「解剖と似てますけど……手術は、たとえば……癌とか、肉体の内部に悪い部分がある人の体を切って、中を見て……悪い部分を切除したり、うまく繋げたりすること……です」

「……そ、そんなので治るの? 異界の人間は」

「え? こちらでは違うんですか?」

「違うな」

 即答したのはシャルルだ。

「不知の病ならともかく、大抵の病には魔術が効く。怪我も同様だ」

 信じられない言葉にぽかんとした亜子が、眉根を寄せる。病気が魔術で治る? そんなこと……いくらなんでも無理なのでは?

(でも、あたしは『魔術』に詳しくない。この人たちが言うなら、そうなのかも)

「コウコウ、というのはどういうところだ?」

「勉強と、共同生活を学ぶところです。あと、一般的な教養も、かな……。年齢で入る学校も変わってきます。だいたい15歳か16歳の人から高校に入ります。あたしは高校三年生でした」

 でした、と過去形で言うことに亜子は少しためらう。

 まるで元の世界に戻れないような、決定的ななにかを言ってしまったような気分になったからだ。

 苦いものが口の中に広がるような錯覚……。亜子は気分が悪くなって顔色が徐々に青ざめていく。

「顔色わりぃな」

 マーテットが亜子の顎を掴んで顔を覗き込んでくる。

 よく見ればマーテットの顔立ちは悪くない。近距離でそのことに気づいた亜子は目を見開き、彼から距離をとった。

「だっ、大丈夫です」

「そうかー?」

「朝から何も食べていないせいではないのか?」

 シャルルに指摘されて、亜子はそのことを思い出した。空腹を知らせる音が小さく響き、恥ずかしさに消えたくなる。

 マーテットとシャルルはごそごそと白衣のポケットと懐を探していたが、同時になにかを掴んで差し出してきた。

「ほれ、飴玉」

「焼き菓子だ」

 マーテットは紙包みにくるまれたもの。シャルルは紙袋に入った、なんだか硬そうな菓子を出してくれた。

 受け取った亜子が奇妙に見ていると、マーテットが説明してくる。

「おれっちのは、あとでいいと思うぞ。腹が膨れるのは殿下のくれたクレバの菓子のほうだろうしなー」

「クレバの菓子?」

「あ、そっか知らねえか。有名な菓子店なんだぜー。硬いけど、携帯食に向いてるし美味いしな」

 そうなの? という表情をシャルルに向けると、彼は無表情でいた。そういえばなんだか彼は今日、あまり笑っていない。というか……表情に変化がない。

 亜子はシャルルからもらった菓子を一つ摘み、持ち上げた。丸い菓子は丸薬のようにも見える。思い切って口に入れると甘みが広がり、口の中で徐々にとけていく。不思議な感触だった。

「お、おいひい」

 もごもごと口を動かして感動を言葉にすると、マーテットが「だろー?」と喜んだ。しかしシャルルは「そうか」と小さく言っただけだ。

 クレバの菓子は確かに噛むと硬い。ゆっくりと舌の上でとかすように食べるもののようだ。

「殿下」

 いきなりの声に、菓子に夢中になっていた亜子はびっくりした。いつの間にかメイドが近づいてきていたのだ。

 彼女は控え目に頭をさげて告げる。

「そろそろ昼食のお時間になります」

「ではこの二人も同席させよ」

 えっ、とメイドの娘はこちらを見た。マーテットは興味がないような眼差しをしているし、亜子は明らかに異邦人丸出しの外見だ。どうすればいいのかと判断に困っているのだろう。

「たかが食事だ」

「しかし……アスラーダ様は良いとしても、そちらの方は……」

「貴族ではないから無理と言うか。余の命令が聞けぬと?」

 脅すような口調になるシャルルは明らかに不機嫌だ。困惑する亜子が立ち上がる。

「いえ、あの、殿下、お気遣いはありがたいですけど……あたし、帰ります。お話はまた今度で」

 これ以上いると、この気まずい空気に耐え切れなくなる。なんだろう、心の奥がざわつく。

 白い雪。白い掲示板に埋め尽くされた数字の群れ。けれどそこに目的のものは…………。

「ならおれっちもかーえろ。アト、宿まで送るぜ?」

 明るく笑うマーテットはそれでもなにかを狙っているような笑みを隠そうとはしない。純粋に亜子に興味があるのだろう。

 シャルルはこちらを観察するように見ていたが、仕方なさそうに目を細めた。

「では後日。アスラーダ、おまえはアガットを送ったあと、ここに戻れ」

「……あ、あの……殿下、おれっち研究があってですね?」

「そんなものは知らん」

(知らんって……殿下、なにげにひどい)

 亜子はマーテットと一緒にあずま屋をあとにする。

 用意されていた馬車に乗り込むと、向かい側の席にマーテットが座った。

「いやぁ~……シャルル殿下ってあんまり人前に出てこない人なのに……ああいう人だったんだなー」

「え? そうなんですか?」

「そうそう。ま、催し物とかの皇族が顔を出すものには出てきてるけど、あまり楽しそうでもないし。オッスの旦那がよく警護を任されてるから話だけは聞いてたけど」

「オッスの旦那?」

「昨日会ったっしょ? オスカー=デライエ少佐。あ、そっか!」

 今さら気づいたようにマーテットは身を乗り出してくる。

「アトは『ヤト』のことも知らねーんだ!」

「やと?」

「つーか、なんにも知らないんだよなぁ……。おれっちが教えていいものなんかね」

 背もたれに深く腰掛けるマーテットはしばらくして、口を開いた。

「『バースト・ダウン』のことは聞いたのか?」

「はい」

「で、『帝国』がほぼ大陸全土を占領した。帝国は軍隊を所有してるんだが、皇帝直属部隊があるんだなー。それが『ヤト』。ま、それぞれのジャンルの中から選ばれた精鋭部隊ってこと」

「軍……? 戦争があるんですか、ここは」

 いや、亜子のいた世界にだって内紛や戦争はあった。なにを訊いているのだろう、自分は。

 だがマーテットは気にした様子はない。

「まだ小さな国は存在してるし、内紛もあるからな。帝国のあちこちに軍の駐屯地があるのは、内紛の抑止力にするためだ。

 ま、ちっちゃな国は帝国が相手じゃ分が悪いから、きっかけがないと手出ししてこねぇだろうなぁ」

「………………」

 マーテットの軍服に目が釘付けになる。

 彼の着ている衣服は……たぶん軍服だ。日本の昔の軍服によく似ているデザインだからだ。だが色は真っ白で、高潔さがある。……しわくちゃの白衣さえ上から羽織っていなければ、それなりに見られるだろうに。

「あなたも軍の人なんですね」

「そうそう。軍医」

 そういえば彼は医者だった。話し方や態度ですぐにそれを失念してしまう。

「『あなた』じゃなくていいって。マーテットって気軽に呼べよ、アト」

「いや……でも、あなた年上だし」

 いくらなんでもほぼ初対面の人間に気安く話しかけられるような性格はしていない。

「そんなこと気にすることねーって。アトはおれっちの実験体なんだし!」

「……承諾してません、そんなこと」

「べつにそんなたいしたことするわけじゃないんだけどなー」

「…………」

 実験体というもの自体が、遠慮したい単語だ。

 馬車が着いた場所は大きな広場だった。中央に噴水がある。その周囲には様々な衣服の人々が行き交っているが、亜子のような外見の者は見当たらなかった。

 まるっきり外国に来てしまった場違いな日本人だ。

「下町はこっちこっち」

 マーテットは白衣のポケットに両手を突っ込んで亜子を促す。亜子は彼に続いて歩き出した。

「本来なら、中央都庁のやつらの仕事なんだけど、殿下が出てきちゃってさー」

「殿下……が?」

「そうそう。やたらとアトのこと気にしてて、色々とオッスの旦那に指示を出したみたいなんだよなー」

 朝からあの部屋にいたのは……もしかしてその一環なのだろうか?

 亜子は心臓に悪いシャルルの美貌を思い出し、嘆息する。

「名前の登録も殿下がやっちゃったみたいだし」

「え? そうなんですか?」

「そうそう。余の屋敷に滞在させよの一点張りで、かなり周囲を困らせたみたいだぜー? ま、6日間は監視がつくから許可は出なかったみたいだけどな」

「監視……。あの、どこにいるんですか、その監視っていうのは」

「ああ、おれっちのこと」

 ポケットから片手を出して、マーテットは己を指差した。ぎょっとする亜子が足を止めると、彼も止まって振り返ってきた。

「あり? どした?」

「マーテットさんが、あたしの監視ですか?」

「まーねー。つっても、アトは西区からほとんど出れないから、監視する意味はねーんだけど」

「? どういうこと?」

「下町は四つの区画にわかれてて、一番治安がいいのが西区なんだが、トリッパーは職業を決めるまでの間、社会見学として西区内だけをうろつける。

 ま、夜間は危険だから無理だけどな。案内してくれるのは宿屋にいる専門家だな。一人でいいなら地図も渡されるぜ?」

 よくわからないが、他の区画は危険が増すということだろう。

 実際に行って見なければわからない。亜子はとりあえず大人しく頷いた。



 亜子が6日間の間泊まるという宿屋に案内された。そこはこじんまりとした二階建ての家だった。いや、食堂か?

 出てきたのは三十代くらいの夫婦だった。マーテットの姿にギョッとした彼らは深く頭をさげる。

「あーあー、いいっていいって。平民に頭さげられるのうんざりだし」

 面倒そうに手を振ってそう言うマーテットを亜子は見上げる。そういえば彼は「貴族」だと言っていた。

(……もしかしてこの世界は階級があるのかな……)

 皇族、貴族と出てきた。そして平民……。間違いなく亜子の読みは当たっているだろう。

「今日からここに厄介になるアガット=コナーだ。部屋は?」

「すでに中央都庁の役人様から準備を整えてもらっております」

 女のほうがかしこまったように震えながらそう告げた。

 マーテットはふぅんと呟き、家屋を見上げる。

「へー。トリッパーはいつもここで過ごしてるのかー」

 そう言った途端、亜子のほうを振り向いた。彼は亜子を促す。

 亜子は前へ出て、夫婦をおずおずと見た。

「アガット=コナーです。6日間、よろしくお願いします」

 礼儀だろうと思った。だから頭をさげる。だがその様子に夫婦は戸惑ったようだ。

(……まあいきなり他人を泊めろって言われて困らない人のほうがおかしいよね)

 内心苦笑してしまう。

 マーテットが亜子の肩を軽く叩いた。

「ま、おまえさんがここにいるのは隠匿されてるし、西区であんまりうろうろしなきゃ、変に目をつけられることもないさー。へっへへ」

「マーテットさん……」

「そんな心配そうな顔すんなよー。6日間終わったら、おれっちのとこ来てもいいんだしさ!」

 笑顔で言っているが……それはどういう意味なんだろう……。

(実験体的な意味だよね……絶対)

 これさえなければと思ってしまう。

 マーテットは軽く手を振ってさっさと去ってしまう。残された亜子は夫婦に倣って店内に入った。まだ店開きがされていないからか、店内には誰もいない。

 昼か夜にでもなればここも人で溢れて賑やかになるのだろう。綺麗に整頓されたテーブルやイスでその様子が想像できた。

「こっちだ」

 夫の男が二階への階段へとあがっていく。亜子も続いた。

 二階は屋根裏部屋のように狭く、明らかに人を泊めるのに適していない。確かに1階の天井はかなり高かったので、構造上はこうなるのが当然なのだろう。

「朝、昼、夜は飯を運んでくる。そこにローブがある。出かける時は必ず羽織るように。顔を隠せ。それと、西区から出るな。地図はこれだ」

 淡々と男は言い、亜子は受け取った地図をまじまじと眺めた。区切ってある円形の町。それがここなのだろう。中央広場も描いてあるが……。

「あの、中央広場には行っても大丈夫なんですか?」

「死にたいなら構わない」

 あっさりと言われて亜子が目を見開く。

「し、死ぬって……?」

「説明されただろ。トリッパーは命を狙われると」

 だから? だからローブで顔を隠せと言ったのだこの人は。

 亜子はごくりと喉を鳴らし、慎重に頷いた。

「一人で行くのは自殺行為だ。中央広場には酒場や宿屋が多い。そこには駅があるからだ。旅人が多くいるが、逆に傭兵ギルドの連中も多い」

「傭兵……?」

「金で動く平民の集団だ。だが中には、トリッパーを捕まえるのを主目的にしている連中もいる」

 それは聞いた。なんという名前の集団だったのだろうか、思い出せないが。

 亜子は深く頷き、わかりましたと言った。

「じゃあ西区だけにします。ありがとうございます。わからないことが多いので……あの、色々訊いても大丈夫ですか?」

 女が戸惑ったように夫を見るが、夫は無表情で言い放つ。

「俺たちじゃ、応えられない」

 そう言って、ドアをぴしゃんと閉められる。残された亜子は大きく息を吐いた。

 つまり……他人を頼れないということだ。ここには亜子を守ってくれる人はいないのだ。

(いきなり独立かぁ……)

 無茶苦茶だ。

 泣きそうになってしまう。故郷を懐かしいと思う気分は薄く、亜子はなにに対して戸惑っているのかもわからなかった。

 6日だ。それで何かを掴めなければ……。

 そう考えると緊張と怯えで体がぶるりと震えた。



 簡素な衣服は亜子の年齢に合わせた娘用の衣服だ。スカートはくたびれ、ボタンも貧相。その上からローブを羽織る。ローブだけは頑丈にできていて、フードもついている。顔を隠すためだろう。

 亜子は階段を降りて、カウンターで食事の用意をしている夫婦を見遣った。彼らは地図を持っている亜子を一瞥し、裏口を指差す。亜子は小さく会釈して、そちらから店外に出た。

(さて、と。夕方には戻ってこなくちゃ)

 治安がいいとは聞いているが、夜になると亜子の姿は変わってしまう。用心したほうがいいだろう。

 町中は閑散としており、道もむき出しの土だけだ。舗装されてはいないし、馬車が通ったあともない。足跡だけだ。

 地図を見ながら歩きまわり、色々な店を覗く。日本では見かけない店も多い。それもそうだ。ここは異世界なのだから。

 大きな宿舎もある。ぼんやりと見上げていると、通りかかった人がいたので尋ねてみた。

「ここはなんの宿ですか?」

「あんた旅人かい? そこは宿屋じゃないよ。

 弾丸ライナーの乗務員たちの宿舎さ」

「弾丸ライナーって……えっと、列車の?」

「そうそう」

 頷きながらその人は去っていったが、亜子は列車に興味が湧いた。

(そういえば宿の旦那さんが駅があるって言ってた。列車に乗って、色んなところの遺跡を回るんだ……)

 そうしなければ地学者などなれない。亜子はきびすを返して歩き出す。

 どんっ、と誰かにぶつかった。

「す、すみません!」

 慌てて謝って頭をさげる。

 見遣ると、相手は無表情でこちらを見下ろしていた。長身の若い男だ。年齢はマーテットより下、シャルルよりは上、という印象だ。

 彼はしなやかで鍛えられた体躯をしており、褐色の肌をしていた。長い白い髪に、片目を覆うように眼帯をしている。身体全体を覆うようなローブ姿の青年は、亜子をちらりとだけ見てさっさと歩き出した。

 むっとする亜子は、それでも気になる。

 ここには白人しかいないはずだ。なぜ……?

(でも顔立ちは西洋人に近かった。肌の色だけ違うっていうか……)

 しかも……またそこそこ美形だった。ここにはごろごろしているのだろうか……。

 町を見て回るのは楽しかった。地学者になるなら、旅装が必要だということも服屋の店主から聞きだした。

「おやあ? もう13歳になってると思うが……登録がまだなのかね?」

「え? ええ」

 慌てて誤魔化すが、店主は抜けた歯のある口で豪快に笑う。

「なるほど。かなり遠くから来たのか、タイミングを逃したのかね。そういう人もたまにいるから安心おしよ」

「は、はい」

「お嬢ちゃんはなにになるつもりなのかね?」

「地学者……が、いいかなと」

「遺跡探索者か! でも調査団がやってるのに、そこまで遺跡に行きたいものかね?」

「この目で確かめたいというか……」

 もごもご言っていると、店主は亜子の顔を覗き込んでこようとする。慌てて亜子は身を引いた。顔を見られたらトリッパーだと気づかれてしまう!

「恥ずかしがり屋さんだねえ。田舎の村の出身なのかな」

「は、はい……」

「でも地学者か……うーん。じゃあ旅が大変なのは覚悟しなくちゃな。列車があるとはいっても、駅のない村や町までは徒歩や馬車で行くことになる。

 間違っても荒野に徒歩で行こうなんて、馬鹿なことは考えないようにな!」

 そういえばこの世界のほとんどは荒野に呑まれたと説明された。

(荒野って……あたしのイメージと違うのかな……)

 荒れ果てた大地をぼんやりと思い浮かべていたが、なんだか違うような気もしてきた。

(知らないことが多すぎる。もっと勉強しなく……)

 ちゃ、と続けようとして吐き気がこみ上げてきたのを感じた。

 そういえば昔も、同じようにこうしてなにかを必死に学んでいた。受験のためだったのだろうか?

 だがここには受験はない。亜子の前にある試練は、ひとまず『職業登録』だけだ。



 疲れて宿屋に戻って夕食を部屋でとり、亜子は眠っていた。

 一つだけある窓から月光が室内に入ってくる。と、その窓が開いた。

 ぬっ、と現れた長い手が何かを握っている。それが寝台にいる亜子目掛けて素早く投げられた。

 反射的に『音』で飛び起きた亜子は寝台を蹴って天井にはりついた。

 窓から外を見る。そこには褐色の腕が見えている。

「だ、誰!」

 騒ぎを起こすわけにはいかない。階下ではまだざわついている。客がたくさんいるのだろう。

 亜子は腕がすっと引かれるのに怪訝に思って、窓に近づく。と、引っ込んでいた手がまた伸びてきた。喉を掴み、小さな窓から亜子の身体を引きずり出そうとしている。

「う、あ、あ……!」

 痛い!

 喉も痛いが、窓から無理やり引っ張り出されて亜子は地面に落ちた。

(まずい!)

 瞳と髪の色が瞬時に変わり、彼女はくるくると空中で回転し、猫のように見事に着地した。

 ぜはっ、と息を吐き出すが、危機は去っていなかった。誰かが亜子を背後から羽交い絞めにして持ち上げたのだ。

「ぐ、ぅ……っ!」

 あまりにも力が強いので抜け出せない!

 意識が飛びそうになるのを堪えていたが、ふいに声が聞こえた。

「アスラーダ!」

 その声が合図になったように、亜子の身体を縛り付けていた手が離れた。素早く背後の気配が距離をとる。

 ローブを羽織った二人組が亜子の前に、立ち塞がるように躍り出てきた。

 一人は純白と金糸のローブ。もう一人は黒い非対称の変わったものだった。

 街灯のない夜道は暗く、見通せない。けれど金色の輝く亜子の瞳には見えていた。黒いローブに身を包んでいる長身の男の姿がある。

(あれは……!)

 昼過ぎに町で見かけた褐色の肌の青年だった。ローブの下から見える肌といい……夜目がよくなっている亜子には彼の顔がよく「見えた」。

(なんで……)

 視線を目の前へと移動させながら、今さらながらに喉を締め上げられていたことを思い出して咳をする。すると、白い外套のほうが屈んでみてきた。

「大丈夫か、アガット」

「その声……殿下?」

「おれっちもいるぜぇ?」

「じゃあ……そっちはマーテットさん?」

 顔を隠しているシャルルとは違い、マーテットは隠れていない。隠す必要がないのだろう。

 佇んでいる襲撃者を睨みつけ、シャルルが叫ぶ。

「逃がすな、アスラーダ!」

「んなむちゃなぁ!」

 マーテットがシャルルの声に半泣きのような声をあげていたが、キッと前を睨むやぐっ、と拳を握った。

 次の瞬間、開いた掌の指と指の間にはメスがずらりと挟まれている。

「『裂け、追尾せよ』」

 短い詠唱のあと、メスを右手、左手、と勢いをつけて投げつける。

 16本のメスが空中を鋭い勢いで飛ぶ。投げつけた勢いだけではない速度だ!

 暗闇の中、月光さえもないこの曇り空の中で、宙を飛ぶ人物はメスを別の何かを投げつけて叩き落とす。だが折れたメス以外は空中で動きを変えて、襲撃者を再び狙った。

「殿下! もたねぇって!」

「わかっておる。時間稼ぎとしては充分だ」

 薄く笑うシャルルの足元には魔法陣ができている。彼に似合う鮮やかな鮮やかな赤色の魔法陣が徐々に地面へと広がり、輪を連ねていく。

「『炎尾よ、焼き払え』」

 シャルルの命じた言葉に従うように、魔法陣からどっ、と炎が飛び出して巨大な狐のような姿になる。そして大きく口を開けて襲撃者を食らい尽くそうとした。

 襲撃者は再び武器を構える。

(食べられちゃう!)

 思わず身を縮こまらせる亜子の目の前で、襲撃者は器用に跳躍し、方向転換をして攻撃を避けた。だがメスがその身体に突き刺さる。

 襲撃者は慌ててメスを振り払い、地面に着地して軽やかに逃げていった。

 呆然としていると、マーテットが頭ががしがしと掻きながら「あーあ」とぼやいた。

「逃げられちゃったっすねー、殿下」

「惜しいな」

「いや、惜しいけどぉ……殿下、ここが下町だって忘れてません?」

「む?」

 眉をひそめるシャルルは周囲を見遣り、ああそうかと納得した。

「目立つ行為は控えるべきだったな」

「……遅いっスけどねぇ」

「良い良い。アガットが無事だったのだ。それでよかろうよ」

「……そういう問題でもねぇけど……ま、いっか。オッスの旦那にあと任せよ」

 どうでもいいやという感じでマーテットは言い放つ。

 シャルルはばさりとローブをひるがえし、亜子のほうを見てくる。フードに隠れている美貌が見えるたびにどきどきしてしまうのは、彼が綺麗すぎるからだろう。

 王子様がこんなところに居ていいはずがない。彼は何をしに来たのだろう?

「無事だな、アガット」

「は、はい」

 思わず頷く。

 そもそもなぜ、自分がここに居ることがわかったのだろう?

 そっと二人を見る。

 シャルルは腕組みしてこちらを見下ろしていて、手を貸す気はないようだ。それもそうだ。彼は「王子様」なのだ。

 自力で立ち上がった亜子は襲撃者が逃げた夜道を睨みつけるように凝視していた。

「しっかし、初日から狙われるって……アト、どっかで目ぇつけられたのか?」

「目をつけられるって……覚えがありません」

 嘘だ。あの青年には自分がトリッパーだと見破られたのだ。

(気づかなかった……。あたし、もっと用心深くならなくちゃ……)

 しかし亜子の言った言葉を信じたのかマーテットは頷く。

「まあそうだよなぁ……。てことは、情報が洩れてたのかな」

 マーテットが首を捻った。

「アスラーダ、それは大問題だろう」

「うわっ、殿下がおれっちを怒るのは筋違いっしょ!」

「で、殿下。あたしは大丈夫でしたし……今後は気をつけますから」

 慌てて二人の間に入り、仲裁をする亜子に、シャルルは不機嫌丸出しの顔をした。美形がこういう顔をするのはかなり怖い。

「…………………………」

 長い沈黙をしたままこちらを凝視されて、亜子は居心地が悪くなる。

 どうしようとマーテットに視線を遣るが、彼は彼でなにか考えているようで上の空だ。

 ……亜子は今起きたばかりの出来事を思い出して、ゾッと冷汗が出た。

(一歩間違えば……あたし、どうなってたんだろう)

 殿下やマーテットさんが来なければ?

 トリッパーを捕まえ、拷問して知識を吐き出させるという傭兵集団がいる、という言葉が頭の中を反芻する。そんな恐ろしいものに捕まるわけにはいかない。

 今回は『偶然』助かった。だが次回もそういくとは思わないほうがいい。運任せなどありはしないと亜子は知っていた。そう、どんなに努力しても、結果に繋がらないことを知っ――――。

(?)

 まただ。記憶が混雑する。

 よせ、妙なことを考えるのは。今は目の前の問題を片付けなければならない。

「ここにはもういられねーな。居場所がバレてんじゃ、襲ってくださいっていってるようなもんだし」

「同意だ」

 シャルルもマーテットに頷いた。亜子は二人の遣り取りを聞いて、どうするべきか悩む。

 ここに居ても、たぶん大丈夫だろう。たった6日だ。それだけ凌げば、自分は自由になれる。地学者となって、どこへでも行ける。

(大勢で来られたらだけど……でも)

 こうして耳を澄ませば遠くの音も聞こえる。食事を続けている人々の息遣いや笑い声も。

 でも不安は、拭いきれない。

 死ぬかと思ったのだ。その恐怖がまだ、亜子に躊躇わせる。

 今後、何度かこういう目に遭うことだってあるだろう。そう予測はできるのに、いつも誰かが助けてくれると期待してしまう?

 期待? いや。ちがう。

(そう、あたしは知ってる)

 期待なんてできない。自分の力しか当てにならない時だってある。

 拳を握り締めた。

 努力したぶんだけ結果がかえってくるとは限らない。だけど、やるしかないのだ。

 耳鳴りのように、誰かの声がした。ドアを開ける音。そして食器の音。返事をする声。それに対して当たり前のように返す声。

「っ!」

 耳を塞いで亜子はその場にうずくまった。

 どうしてだろう……。どうして自分はこんな目に遭っているのだろう? なにも自分じゃなくてもいいじゃないか。

 涙が零れ、嗚咽が喉を通って出てくる。

 その肩を強く叩かれた。

「アガット、みっともないぞ!」

 言葉の暴力を受けたように亜子が硬直し、恐怖に歪んだ目でシャルルを見た。だが彼は毅然とした態度を崩さない。

「泣くほど怖かったのなら、言葉にしろ! 黙って震えていても、誰も助けてはくれん!」

「……え」

 瞬きをすると、また涙が一筋流れた。それを乱暴に拭うシャルル。

「……やめてください、殿下」

 小さくそれだけ言って、亜子は俯く。

「あたしは……あたしは、頑張ったって、だめなんです。だめだったんです。あんなに頑張ったのに、ダメだったんです……」

 ぽろぽろと零れ落ちていく涙に亜子は困惑する。自分はなぜこんなことを言っているのかわからない。

「またあたしに強要するんですか……頑張れって。やれって!」

 怒鳴るように言い放ち、亜子は顔をあげた。シャルルは小さく笑っている。

「? なんでわらって……?」

「怒鳴れるくらいなら、まだ立てるな?」

「は?」

「立て」

 命令され、のろのろと亜子は立ち上がった。彼は満足そうに頷く。

「アスラーダ、アガット自身に選択させる。よいな?」

「……それ、すっげー難しいこと言ってるってわかってます?」

「わかっておる」

 尊大なシャルルは亜子をまっすぐに見てきた。

「期間は短くなるが、試用期間ということでどうだ? 余の侍従になるか?」

「おれっちの助手になるって手もあるぜ?」

「それとも、ここで一人で頑張ってみるか?」

 亜子は目を見開き、二人を凝視する。差し出された手はあまりにも誘惑に満ちて、そして波乱も含んでいた。

 どの道もきっと険しい。だが……亜子は決意して口を開いた。

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