第43話 レベル2の日々
梅雨の晴れ間、初夏の光が差し込むリビングには、私の部屋から運び込まれた茶色の段ボール箱がいくつも積み上げられていた。
「亜紀さん、こっちのキッチン用品の箱、どこに置きますか?」
「あ、それはカウンターの下にお願い。割れ物が入ってるから気をつけてね」
「了解です」
これまで何度も訪れた、蒼真くんのマンション。
初めて足を踏み入れたときは、モデルルームのように整頓され、どこか生活感の希薄だった広い部屋。防音扉の奥に見えるゲーミングスペースには、彼が日々戦い続けるための機材が整然と並んでいる。
そんな「彼だけの城」だったはずの空間に、私の服や本、お気に入りのマグカップが詰まった段ボールが並んでいる。見慣れていたはずの景色が、少しずつ二人の生活の場へと塗り替えられていくのが、なんだか不思議で、とてもくすぐったかった。
首にタオルを巻いて、私の重い荷物を軽々と運んでくれる蒼真くんの背中を見つめる。
本当にここで、二人で暮らしていくのだという確かな実感が、胸の奥を満たしていった。
◇
翌週のオフィス。
休憩スペースで、宮本が淹れたてのアイスコーヒーを片手に声をかけてきた。
「篠宮、引越し終わった?」
「うん、先週末に無事搬入終わったよ」
「そっか。タワマンに居候……じゃなくて同棲か。落ち着いたら同期連れて遊びに行かせろよ、ピザでも取ってさ」
「蒼真くんに聞いてみるけど、たぶん宮本くんが来たら人見知りして部屋から出てこないかも」
「おいおい、そんな警戒されてんのかよ!」
からからと笑う宮本との、気の置けないやり取り。
社内でも、誰かに隠すことなく自然体で笑い合える関係。
かつて孤独を埋めるために張り詰めていた「氷の篠宮」の姿は、もうどこにもなかった。
◇
夜の二十二時。
荷解きがひと段落したリビングで、二人で並んでソファに腰掛け、ノートPCを開く。
ログインした『アストラル・オンライン』のギルドチャットは、今日もいつも通り騒がしかった。
ちくわ:新居祝い……じゃなくて同棲祝いに一升瓶送るから!
ぽてと:ちくわさんそれ自分が泊まりに行って飲みたいだけでしょー!
レイナ:二人とも、落ち着いたらギルドハウスの暖炉前集合よ。乾杯くらい付き合いなさい
画面の中で飛び交う賑やかな文字に、蒼真くんと顔を見合わせて思わず吹き出す。
しばらくギルメンたちとのやり取りを楽しんだ後、蒼真くんがふと私の顔を覗き込んだ。
「……今日、荷解きでずっと動いてましたもんね。疲れてません?」
「あ……うん、ちょっとだけ」
「じゃあ、そろそろ休みましょうか」
パタン、とノートPCの画面を閉じる。
途端に、静まり返った部屋の中に、二人の呼吸の音だけが残された。
◇
荷解きで身体は程よく疲れているはずなのに、神経はやけに冴え渡っていた。
一緒に暮らすという決意は、もう何一つ揺らいでいない。それでも――これからこの部屋で、本当に二人きりの夜を迎えるのだという事実は、まったく別の重みを持って心臓を激しく揺さぶっていた。
トクン、トクン、と胸の奥で早鐘が鳴る。
エアコンの効いたリビングで、指先だけが冷たくなっていくのが分かった。
「お風呂、先に入ってきたら? 疲れたでしょう」
「あ……うん、お先に」
いつも通りの会話のはずなのに、妙にぎこちなく聞こえてしまう自分の声に戸惑いながら、浴室へと向かった。
髪を乾かし終え、パジャマ姿でリビングへ戻る。
何気ない日常の続きのはずなのに、声が上擦り、視線のやり場に困ってしまう。ソファに座る蒼真くんの隣に腰を下ろすことすら、今夜はやけに緊張してしまう。
ローテーブルに置いたマグカップを両手で包み込みながら、必死に深呼吸を繰り返した。
やがて、隣に座っていた蒼真くんが、ふと私の様子に気づいて顔を覗き込んできた。
「……亜紀さん」
大きな手のひらが、私の指先をそっと包み込んだ。
「……緊張、してますか」
「……っ、ううん、そんなこと……」
強がろうとしたけれど、視線が泳いで言葉が続かない。
そんな私を見て、蒼真くんは困ったように眉を下げ、いつものように少し不器用に、けれどどこまでも優しい眼差しを向けてくれた。
「……怖かったら、今日はこのまま、隣で寝るだけでもいいので」
無理強いなんて、絶対にしない。
いつでも私のペースを守り、待とうとしてくれる彼の真っ直ぐな誠実さ。
その体温と言葉に触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていた冷たい緊張が、ふうっと温かい熱へと解けていくのが分かった。
(……この人は、いつだって私のことを一番に大切にしてくれる)
怖がる理由なんて、どこにもなかった。
私は包まれていた手をぎゅっと握り返し、彼の瞳を見つめ返した。
「……大丈夫。蒼真くんと、一緒にいたい」
私の言葉を聞いた蒼真くんの瞳がわずかに見開かれ、次の瞬間、長い腕が私の背中に回された。
引き寄せられた胸元から、トクトクと速い彼の心拍がダイレクトに伝わってくる。
「……亜紀さん」
暗がりの中、互いの熱を確かめ合うように、静かに唇が重ねられた。
その夜、私たちは初めて同じベッドで、ゆっくりと体を重ねた。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む柔らかな光で、ゆっくりと目を覚ました。
隣を振り返ると、白いシーツに包まれた蒼真くんが、静かな寝息を立てて眠っていた。
ステージの上で見せる鋭い勝負師の顔でもなく、普段の少し構えた表情でもない、ただの男の子の、無防備で穏やかな寝顔。
そっと手を伸ばし、額にかかる黒い前髪を指先で払う。
触れた素肌の温もりが、夢ではない確かな現実を教えてくれていた。
かつて、深夜の孤独に耐えかねて何十万も課金し、画面の向こうの数字とデータに縋り付いていたあの頃。
誰にも言えない寂しさを抱えていた夜の自室。
震える手で渡されたシルバーの合鍵。
そして、空港のロビーで交わした真っ直ぐな約束。
積み重ねてきたすべての時間が、私をこの場所へと連れてきてくれた。
手元のスマホに視線を落とす。
アプリの購入履歴には、もう何ヶ月も新しい数字は刻まれていない。
(……課金したいものが、もうないので)
心の中で、静かに呟く。
お金で買えるような一瞬の刺激やステータスなんてもう要らない。
その代わり――この手で大切に守り育てていきたいものが、今の私の日常にはたくさんできた。
「……ん……亜紀さん……?」
微かに身じろぎをして目を擦った蒼真くんが、私を見つけてふにゃりと口元を緩める。
大きな手が私の手を探り当て、自然に指先を絡めてきた。
「おはよう、蒼真くん」
「おはよう」
二十二時の約束は、これで終わりじゃない。
私たちの関係は、まだ始まったばかりの「レベル2」。
この先もきっと、迷ったりぶつかったりしながら、二人で一緒にレベルを上げていくのだ。




