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対決のとき~恋人たちをdeleteしたの~(3-1)

 あのひとはやっぱり、アガタクリコじゃないつもりでいた。

といって往来商事代表取締役社長縣九里子でもなく、資産家令嬢で元銀行員の縣九里子でもない。私のことをためらいもなくアガタクリコと呼んでいるいま、あのひと自身はno name、名無しなのだ。

 三年も経ったいまとなってもなお不変、鋼の精神力というべきか。それとも、まったき狂いようというべきか。


 私は内心で舌を巻いている。

 現実には巻きようもない舌の上に、ゆずジュレのかかったヨーグルトアイスをひと匙、すくって載せる。爽やかな甘味が味蕾に沁み入った。たしかにあのひとの言った通りだと、認めるにやぶさかではなかった。


『私たち、甘味が必要だわ。ねえアガタさん。そう思わないこと?』


 かくしてあのひとと私は、空港に隣接して聳え立つ高層ホテルの豪奢なカフェテリアに腰を落ち着け、それぞれ好みのパフェを前にしていた。私のそれはシンプルに柑橘系アラカルト、あのひとが選んだのはサクラピンクで各種ベリーが満載の季節限定品だ。どちらも彩り華やか、食べてしまうのが惜しいほど美しい。そしてもちろん、すこぶる高価だ。


 あれから三年目のいま、私はすっかりこの街の住人になっている。マサヒコと住むはずだった部屋にひとり住まい、市内のショッピングモールに職を得て、静かに暮らしていた。二十四歳の独身女性としては、まずまずの水準で堅実な暮らしぶりだと思う。


 この高層ホテルと豪奢なカフェテリアは、そんな私の日常と比べたら完全に圏外の場所だ。距離的には、生活圏からそう遠くない。空港を利用するときは、このホテルの前をバスで通った。けれども大きなガラスドアの中へ入ったことはない。正面ドアに近づいたことさえなかった。


 そんな私と違い、あのひとの立ち居振る舞いには怖じる気配もなくて、威風堂々たるものだ。こんなにも小柄でにこやかなフツーのオバサマでありながら、貴婦人のごとき存在感を放っている。


 たとえばあのひとがチラと目を遣れば、すかさず黒服が駆けつけた。あらごめんなさいね。どうもありがとう。それでいてあのひとの物腰はあくまで低く柔らかく、高飛車なところは微塵もないのだ。


 私は感嘆のため息をつき、甘夏柑の果実を口に含む。酸っぱい、けれど目が醒めるように美味しい。そして自分に言い聞かせる。このような人物、つまり貴婦人のごとき存在感を放つこの小柄なオバサマと、同席している私の取るべき態度はただひとつのみ、他の選択肢は皆無だと。


 敵対的であったり、かつて抱いた猜疑心のままに恨み言を並べ立てたり、決してしてはいけない。そんなことをしてみたところで、なんのメリットもないのは明らかだった。


 たとえば私がいま、昔の怒りを挙げ連ね、このひとを責めたり罵ったりしたとする。一体なにが起こるだろうか。

 上客に忠実な黒服たちが飛んで来るだろう、たぶん。彼らの静穏モードで素早い連携プレーによって、私はあっと言う間もなく摘まみ出されるのだ、おそらく。慇懃無礼ならまだしも、わかりやすく今後一切出入り禁止のレッテル貼りを食らうかもしれない、十中八九は。


 それは絶対的に好ましくない、避けるべき事態だった。私はこの街の住人であり、ショッピングモールのスタッフの一員でもあった。社会人としての評価は地に落ちる。実際以上の悪い噂にまみれるだろう。住まいと職を失う破目にもなりかねない。そんな、最悪の事態は願い下げだ。


 とどのつまり、なにがあろうといまここでの私は、精一杯お行儀よく振る舞わなければならない。その一語に尽きた。


 あのひとはサクラピンクのベリー満載パフェの天辺から、イチゴのスライスを一片摘まみ取り、ひらりと口に運んだ。ついうっかり見惚れてしまうほど、優雅な仕草だった。


 今日は髪にもサクラピンクの差し色が入っている。けれど、ごく控えめな程よいバランスを保っているので、上品でさえあった。かつてのハイビスカス色の禍々しさを思えば、格段の進歩だった。


 あのひとは至極まともでチャーミングで、生まれついてのセレブなマダムに見える、だれの目にも。そのことに気づいて、私はゾッとする。どう足掻いたところで、私に勝ち目はないのだ。


「アガタさんたら。指輪をひとつもつけていないなんて、どうしちゃったの?いけないわね、こんなにきれいな指をしているのに、ちゃんと飾ってあげないなんて」


 サクラピンクのパフェを優雅に食する合間に、あのひとはにっこりと微笑んで宣った。上流階級で育った人のものさしを、私に押し当てて小首を傾げる。いい年頃の女性が、最低限レベルの身だしなみとお洒落心さえ忘れている、迂闊で無骨な親類の娘を叱るような口調だった。


「指輪なんて。私は食品を扱う仕事をしているので、ふだんからつけない習慣です」

「あら。お仕事しているのね、どんな?」

「調理です、お弁当やお惣菜をつくっています」

「まあ素敵。アガタクリコさんはお料理ができるのね。お上手なの?」

「ええまあ。四人いるスタッフのチーフですから」

「まあ。すごいじゃないの、アガタさんたら、四人のチーフだなんて」


 見ればあのひとの指には、左右合わせて六個もの指輪が散りばめられている。スプーンを持つ手が動くたび、色とりどりのジュエリーが煌めいた。けれど、左手薬指にはなにもつけていない。周りの指がにぎにぎしく飾られているだけに、左手薬指の空隙は目立った。


 あのひとは私の視線に気づいた。左手薬指の虚しい空隙。するとそれを隠すのではなく、大きく開いて私の目の前にかざした。


「ねえアガタさん。わたしのこの薬指に、ダイヤの婚約指輪がはまっていたことがあったなんて、信じられる?それはもう昔々の大昔で、ほんの短い間のことだったけど」


 あのひとはさも可笑しそうに、くつくつと肩を震わせて忍び笑った。他人事のようなその笑いっぷりと、発言内容の重さとのギャップは、いかにも大きい。私はいっそう慎重になった。でも、訊きたいことはあり過ぎるほどあって、ままならない。


「信じますよ、もちろん。花婿さんはさぞかしステキな方なんでしょうね」

「花婿にはならなかったのよ。その前に、逃げちゃったんですもの」

「は?」

「だからね、逃げムコだわ、とってもわかりやすく言うとね」

 私は言葉に詰まった。それでも、あのひとは話したがっていると感じて、恐る恐る先を続けた。

「いなくなったんですか?婚約指輪をくれた、その方が」


「あのね。カレがくれたんじゃないの、わたしが買ったのよ、一時的に立て替えて。そのときはそういうつもりだったの。特注したダイヤの指輪のほかにもね、モルディブ行きのハネムーンでしょ、ホテルウェディングのお支払いでしょ、それやこれやのために用意したおカネがぜーんぶなくなったの、きれいさっぱり、カレと一緒に。だから、花婿じゃなくて逃げムコ。あら、イケてるじゃない、この呼び方」


 そして、あのひとはまたにっこりと微笑んだ。楽しそうで、大いにチャーミングだった。危険がいっぱいの地雷原に足を踏み入れるような気がしたものの、私は訊かずにいられなかった。

「警察に届けたりとか、しなかったんですか?」


「まさか。ケーサツだなんて。そんなこと、しませんのよ、わたしたちのおうちでは。そうそう、わたしのクルマもなくなったの。あの頃流行りだった、ちょっと大きめの白いセダン。わたしも気に入っていたけど、カレのほうがもっと気に入っていたのね、乗って行っちゃったんだから」


 キラキラしていたあのひとの瞳はいつの間にか輝きを失い、深い闇の黒に変わっていた。心の在り処を見失わせるような、ベタ塗りの暗黒だ。


「あの。その方はいま、どこにいらっしゃるんですか?」

「さあね。そんなこと、知るわけないでしょ、このわたしが。ずっと昔に逃げちゃったヒトのことなんか、どうだっていいじゃない、ねえ?」


 あのひとはじゅるじゅると音高く、グラスの底で融けて濁ったサクラピンク色の液体を啜り上げた。初めて、その仕草が下品に見えた。


 そんなこと、知るわけない、ですって?

 私も柑橘色の融けかかったアイスクリームを、長いスプーンで丁寧に掬い取って口に含む。その作業に集中しているふうを装いながら、内心ではあのひとの発言を疑っている。大いに。ことごとく。あれもこれも。腑に落ちないことばかり、いくらでも溜まってゆく。


 たとえばひとつ例を挙げると。あのひとはきょう、輪蔵場町から遠く離れたこの街まで、〈逃げた〉私を追って来た。探し、見つけ出した。どうやってか知らないが、ピンポイントに、ハズレなしで、的確に。三年の歳月が過ぎたいまになってもなお、ごく当たり前のように、こうして私の前に現れた。


 これほどまでに執拗で、なお且つ諦めることを知らないのが、このひとなのだ。たとえ大昔のことであっても、自分を裏切って大恥をかかせた〈逃げムコ〉を、このひとがあっさり見逃しただなんて。そんな言い草は信じられない。どこからどう見ても、大法螺としか思えない。


 心込めた特注品のダイヤの指輪と多額の現金と、さらにはお気に入りのクルマまで持ち逃げしたという、結婚詐欺犯で窃盗犯でもあるオトコを、告発もせずにゆるしたなんて。まるでこのひとらしくない、与太話の一語に尽きた。信じられるものか。


「だからね、わたしたちってちょっと、似てるんじゃない?」

「は?似てるって、どこがですか?」

「ほら、アガタさんのカレシさんも逃げちゃったでしょ?あら、違った?そうそう、いなくなったのね、危うく、モモカちゃんを道連れにするところだったんだわ」


 私の憤怒が脳天を突き抜けて噴き出し、頭上の豪華なシャンデリアを揺らした。揺れたのは私の視界だったかも知れない。絶叫してテーブルを乗り越え、あのひとにつかみかかりたかった。衝動を必死に堪えた。


「私のマサヒコは逃げたんじゃありません。よくご存知でしょ」


「まあ。そうだった?そうそう、逃げちゃったのはアガタさんのほうだったわね。なかなか帰ってこないんだもの、つまんなくてわたし、またやっちゃったんだわ」

「は?なにを?まさか、またあの大きなクルマで、だれかを?」


 やらかした悪さをしぶしぶ打ち明ける子どものような口調で、あのひとは語った。予想した通り、〈またやっちゃった〉程度の悪戯では済まない犯罪の顛末だった。








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