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男子学生がひとりで住むアパートの部屋。想像していたよりも古い建物。でもそんなの、私には見慣れた景色だ。内部は想像していたほど不潔でも乱雑でもなく、意外なことに狭くもなかった。小さいけれど部屋はふたつあった。そして、そのふたつめの部屋はさっぱりとして、不思議なくらいものが置かれていなかった。
その床には真新しいセンターラグが敷かれてあった。洗濯機で洗えることが売りで手ごろな、パッチワーク風ステッチのついた布製のラグ。柔らかなその色合いが雄弁に、多くのことを私に語りかけてきた。
明るいベージュ色の地に、黒とアイボリーホワイトとレモンイエロー、三色の幾何学模様が美しく踊っている。私の好きな配色だった。衣類やバッグやスニーカーを選ぶとき、この色合いのものがあれば迷わず手に取った。メロンパンみたいに旨そうな色だと、マサヒコに言われたことがあった。マリコの好きな、焼きたてメロンパン。
折しもそのとき私は、アイボリーホワイトのチュニックシャツを着ていた。ラグの上に座った私のシャツのアイボリーは配色の一部に溶け込み、もとからあったもののようにしっくりと馴染んだ。
「まあ、マリコちゃん」
小母さんがつぶやいて息を呑んだ。それからひとしきり、むせび泣いた。私も小母さんの手を取り、初めて心底から泣いた。口には出さなかったけど、そこはマサヒコが、私のために用意した部屋に違いないと思った。
小母さんと私はありったけの寝具を分け合い、ラグにくるまって最初の一夜を過ごした。かつてこんなに疲れたことはなかったと思うくらい疲れていたのに、眠れる気がまったくしない夜だった。
お互いどちらからともなく、話し始めるタイミングを待っていたと思う。口火を切ったのは、やはり小母さんだった。
「ねえマリコちゃん。訊いていいかしら?」
「はい、どうぞ。なんでも」
私は、常夜灯代わりに点けたデスクスタンドが放つ、半円状の灯りに照らされた部屋の隅を見つめていた。そこにマサヒコのパーカーが掛かっている。しまい忘れた冬物の黒いパーカー。それとも、夏の間もずっとそこに掛けておくのが常態だったのかしら。
「マサヒコはマリコちゃんに、なにか約束をしていたの?」
「いえ。約束なんて、とくにないです」
「そう。そうでしょうね。そのほうが、あの子らしいわ。いつだってギリギリになってから、やっと動き出すのがマサヒコだもの」
「はい」
「あのね。マリコちゃんには言わないでおこうと思ったんだけど。やっぱり知ってもらわないと気が済まないわ。マサヒコも、きっとそうだと思うから」
薄闇の中で小母さんは天井を見つめたまま、訥々と語り始めた。
大けがをした同乗者は、マサヒコと結婚の約束をしていたと申し立てた。去年の冬休み、高校の同窓会が開かれた店で知り合った。名前はモモカ。自称キャバクラのナンバーワンホステス。結婚しよう。そう言い募るマサヒコの無邪気さにほだされ、飲み代やら旧型カローラの代金やら、ずいぶんと用立てた。厚かましくも、そこまで言い切ったのだ。
事故に関するマサヒコの過失割合の大きさについても、小母さんは大いに不満だった。が、絶対にないとは言い切れず、涙をのんだ。けれどもモモカの言い分となると、小母さんにはどうしても納得できない。確信があった。それは嘘に違いないと。
「だってね。マサヒコはこの一年、マリコちゃんに会うのが楽しみで帰って来たのよ。見ていてピンときたわ。すぐわかった。なのに、キャバクラのホステスに結婚しようだなんて。悪ふざけでも言うはずがないでしょ。まったくもう、人をバカにしてるったら、ありゃしないわ」
天井の暗い隅から、重苦しい予感の黒雲がモクモクと湧き出て視界を覆った。デスクスタンドの光の輪が狭まり、マサヒコの黒いパーカーが呑み込まれる。私は息が止まりそうだった。言葉は途切れ途切れに、やっと出た。
「相手のクルマを、運転していた人も、ケガをしたんですか?」
「するもんですか。どこか痛むとか言ってるらしいけど、そんなの絶対フリだけに決まってる。だって、あんなに頑丈そうなバカでかい外車に乗ってた人がケガなんて、するわけないでしょう」
「もしかしたら。その人、銀行のお客さんかも、知れないです」
「そうね。たぶんそうなんでしょ、お金持ちだもの。市内の一等地に土地やらビルやらたくさん持ってる家のお嬢様で、親から貰った財産を管理する会社をやってるらしいわ。往来商事とか、いってた」
言葉のアヤではなく、私は本当に目の前が暗くなった。
「その人、特待ランクの、お客さんです」
「あら。やっぱりね。社長の名前、縣九里子でしょ?」
「はい。そんなような名前でした」
「縣九里子って、若い頃には銀行に勤めていたこともあったんだって。普通の家の娘のように働きたいとか、おとぎ話みたいなこと言ってね。まあまあ感じのいい娘さんだったみたいよ、その頃は。
だけど何年か後に、なにか辛い出来事があったらしいって聞いたわ。詳しく知ってる人は、いないんだけどね。それから後はすっかり人が変わって銀行も辞めて、郊外のお屋敷に閉じこもったきり、結婚どころか人付き合いもしないで、だんだんおかしくなっていったんだって」
「おかしくなったって、どんなふうに?」
「保険会社の人から聞いた話だけど。あっちの銀行で下ろしたお金をこっちの銀行へ持って行ったり、いくつもの銀行を巡り歩いては、多額のお金を出し入れするだけ、それをさも大事な業務みたいにやってるんだって。マリコちゃんの銀行でも、そんなふうだったの?」
「はい。そんな感じでした」
「それじゃ、アガタさんと呼ばれても返事しないってホントなのかしら?社長か往来商事と呼ばれるまで、自分のことじゃないみたいに知らん顔してるんだって?」
「はい。そうです。自分のことじゃないと、信じてるみたいで」
「あらら。いやあね。そういうのって…」
小母さんは黙り込んだ。薄気味悪さのあまり、寒気がしたようだった。だから私がその人物からアガタクリコと呼ばれているなんて、とてもじゃないけど言い出せなくなった。そんな勇気はふり絞っても出ない。
私も震えていた。お腹の底から沸き出す震えが止まらなかった。私と一緒にいたからだ、と思った。なんの根拠も脈絡もなく、直感的に確信した。あのひとが、私と一緒にいるマサヒコを見たからなのだ。
あのハイビスカス色のおかっぱ頭に包まれた脳内で、イカレたなにかがショートした。スイッチが入った。誤作動が起こった。どれがぴったりハマるのかわからないけど、とにかくそれは起こった。そしてマサヒコが標的にされた。私ではなく、ほんの少しの間、鳥留橋から南町通りを安兵衛の“群れ”の一員として、歩いていただけのマサヒコが。
他人を襲う目的で交通事故を起こすなんて、どんなトリックを使えばできるのか見当もつかない。私は車の運転をしないから、皆目わからない。けれどなんとなく、これは作為の結果ではないような気がするのだ。
あのひとはただ、闇雲にぶつけただけじゃないだろうか。たまたま大きくて頑丈な輸入車に乗っていたので、自分は無事だった。マサヒコだけを死なせたのは偶発的な成り行きであって、いわばお金持ちの特権、富の勝利だ。
「小母さん。私、輪蔵場町に帰りたくないです」
私たちはそれぞれに、ほの暗い天井を見つめていた。小母さんの答えは、だいぶ間をおいてから聞こえた。
「それは。縣九里子がいるから?」
もちろんそれもある。けれどなにより、この部屋から離れたくない気持ちが勝っていた。
「ここにいたいんです。この部屋を、私が借りて住みたい」
眠ってしまったのかと思ったくらい、長い間、小母さんの返事は聞こえなかった。私は身じろぎもせず、ひたすら待った。
「マリコちゃんにとって、それが本当にいいことなのかどうか、わたしにはわからないわ。そうしたいと言ってくれる気持ちは、わかる気がするけど。ご両親に怒られてしまいそうな気がするし。でもマリコちゃんはきっと、ダメって言われても居座るつもりなんでしょうね?」
「はい。そうすると思います」
薄闇の中で、小母さんの深く長いため息が聴こえた。
「実を言うとね、わたしもここを片づける気持ちになれないでいるの。だってこの部屋にいたら、マサヒコがいまにも帰って来そうな気がするんだもの。マサヒコが使っていたものを捨てて、ここを空っぽにして、知らない人に明け渡すなんて、出来ないわ」
それから小母さんは話してくれた。マサヒコはこちらで就職することを希望していたから、この部屋に住み続けるつもりだったのだと。輪蔵場町に戻って就職するよう望んでいたのは父親であって、当人の本意ではなかったのだ。
悩んでいたし迷いと不安が大いにあったので、私には話せないでいたのだろうと、小母さんは慰めるように続けた。
「でもきっと、マリコちゃんとここで暮らしたいと思っていたんだわ。なんてことかしら。早く打ち明けてくれたらわたしもがんばって、お父さんを説得できたかもしれないのに。そうしたら帰省しなかっただろうし、あんな事故には遭わないで済んだかもしれないのに」
あんな事故に。私は口の中でつぶやいた。遭わないで済むにはどうすればよかったのだろう。もはや取り返しのつかない答えを探し、堂々巡りを繰り返すうち、ようやく浅い眠りに落ちた。
空港行きのタクシーに乗り込もうとしたとき、小母さんはつと振り向いて私にささやきかけた。
「死なないでね、絶対、生きていてよ」
「はい、大丈夫です」
少しばかり大げさではないかと思いつつ、生真面目に返した。小母さんは小刻みに頷き、あらゆる思いの丈を断ち切るように、すばやく乗り込んでタクシーは走り去った。それが、マサヒコの小母さんと直に交わした最後の会話になった。
ひとりぼっちになってみると、小母さんの言葉は大げさでもなんでもなかったことが、身に沁みてわかった。言い知れぬほど不安な気持ちが、どっと押し寄せて来た。寂しくて、堪らなくなった。ここはマサヒコが住んでいた部屋だということさえ、疑わしく思えた。そんなことは嘘っぱちで、だれかに騙されてしまったような気がした。部屋は急によそよそしく見知らぬ場所になって、私を拒絶した。
なにかが必要だった。伝聞や憶測や直感ではない、自分はこの部屋にいていいのだと、確信するためのなにか。それなしではここにいられないと、気づいた。いまさらだけど。私は、いつだってこうだ。たぶん、マサヒコもそうだった。最良のタイミングをつかみ損ねる子どもたち。そのまんま、大人になろうとする私。
疲れすぎたあまりに、濡れたコートでも着ているように重い身体を引きずり、デスクの前に座った。マサヒコのスマホは事故で壊れてしまった。デスクの上に積み重なったプリント類を除けると、小型のノートパソコンが現れた。
私はふだんデスクトップを使っている。二枚貝のように固く閉じて眠っている、小さくて華奢なノート型を起こすにはどうしたらいいのか。勝手が違いすぎて思いつかず、しばし、動けなくなった。
やがて脳内に血流が戻って、ごく当たり前のことをするように命じた。私はノートパソコンを開き、スイッチを押した。パスワードは、いきなり私の名前と誕生日を試した。当たり。デスクトップの画像は、積雪の歩道を歩く安兵衛と私。少しピンボケだが、雪が大好きな安兵衛はカメラに気づいておらず、機嫌よく楽しそうに歩いている。
こんな写真があったなんて。でも、マサヒコの姿は映っていない。残念。寂しいけどうれしい。モモカさんの供述によれば、マサヒコはこの日の夜、結婚しようと彼女を口説いたことになる。酔った勢いにしても、まさかのまさかだ。私は思い出す。同窓会に出なくちゃならないんだと、億劫そうに言っていたマサヒコの口ぶり。めんどくさいんだけど。
意を強くしてパソコンに向き合うことが出来た。マサヒコのプライベートな領域に入り込み、探しものを始めた。
それは、メールボックスの中にあった。下書きメールの保存箱に、書きかけの文章が三通り。拝啓マリコ様お元気ですか、で始まる最大限に堅苦しいバージョンが一行目に冒頭だけ。前略マリコ様オレは来週そっちへ帰るけど、と幾分くだけた文章は二行目の半分くらいまで。三行目に、ひとりごとのようなつぶやきが綴られてあった。
『マリコちゃんオレのところへ来いよ、来年こっちで就職したら…』
その一文を私は食い入るように見つめ、何度も何度も読み返した。
よかった。安堵が広がるのを感じた。マサヒコは私を呼んでいた。ひとりよがりの思い込みじゃなくて、本当に呼んでくれていたのだ。
安堵した途端に、意識がぼやけて来た。積もり積もっていた疲労が押し寄せ、呑み込まれそうだった。気力をふり絞って丁寧にパソコンをシャットダウンした。そのまま床に崩れ落ち、アイボリーホワイトのラグにくるまって眠った。
これで生きていける、マサヒコと一緒に。そう思った後はほとんど一昼夜、ひたすら眠り続けた。