(2-3)
あの日。鳥留橋にマサヒコは来なかった。来なかったのだ。
そこから先の記憶は、吹っ飛んでしまっている。私はどう考えたのだったか。たまたま行き違っただけかも知れない。やむを得ない用事が出来たのかも知れない。どちらなのか、知るために連絡を取ろうとしたのだったか。それさえ、思い出せない。
思い出そうとすると、断片的に浮かんでくる光景は葬儀場の祭壇だ。
白い菊の花で埋め尽くされた空間。ひしめく喪服の人々。立ち込める香の煙と匂い。
「やだ。嘘でしょ、起きてよ」
私はささやきかけずにいられなかった。けれども、棺の中のマサヒコは本当に死んでいた。悪ふざけでもドッキリでも、なんでもなく。ささやきかけて頬に触れたらマサヒコはパッチリと目を開き、舌を出してニコッと笑いそうに見えたのに。でも、そんなことは起こらなかった。
棺に横たわるマサヒコは、アイビー系のスーツとライトブルーのネクタイを身に着けていた。ワイシャツの白さは悲しいほど目に染みた。私が初めて見た就活のスーツ。似合ってるじゃない、カッコいいよ。そう言ってあげたかったけど、どうしても言葉は出なかった。
白い灰になったばかりのマサヒコのお骨は、熾火のように強烈な熱を放った。炙られて立ち眩みを起こした私は収骨室の隅でうずくまり、私よりもずっと近しく、そうするに相応しい親族や縁者たちが、マサヒコのお骨を足先から拾い集めてゆくのを見守っていた。そこかしこから、すすり泣く声が聴こえた。けれど私は、社交辞令も悲嘆の言葉も涙も、なにひとつ出ないままでいた。
「マリコちゃん」
つと、腕を取られた。マサヒコの母、この一年の間に何度か会って、小母さんと呼ぶようになった人だ。泣き腫らした目もとのせいで、人相が変わったように見えた。小母さんは私に長い木の箸を持たせた。手振りで自分の箸と合わせて動かすように促した。私の箸は小母さんの箸と一緒に、マサヒコの頭のお骨を震えながら拾い上げ、陶器の中に収めた。
その後で私は、長い時間を安兵衛と一緒に過ごした。
マサヒコの葬儀という場に直面している私の立場は、微妙で曖昧だった。家族でも親類縁者でもない。マサヒコと中高生時代の知己である友人たちの輪にも入れない。単なるひとりの弔問客、ここでもやっぱり宇宙人。ひとりぽつねんと座しているしかない私に、親類の人々が不審の目を向け始めた。そう感じたとき、小母さんが声をかけてくれたのだ。
「マリコちゃんもう少しいられる?もしよかったら安兵衛の散歩、してやってくれないかしら?あの子、マリコちゃんが大好きなのよ」
小母さんは心持ち高い声を張って私に呼びかけた。居合わせた人々にあまねく届くように。その気遣いに答えて私は重い身体を引き起こし、努めてハキハキと答えた。
「はい、行きます」
ちゃんと声を出せたことに少し驚いた。もちろん、マサヒコのそばにいたかったけれど、大勢の人々の中でたったひとり、じっとしているのはもはや限界だった。救われた気持ちになった。
裏口につながるキッチンのテーブル下でうずくまっていた安兵衛は、私が呼ぶ声に応えて跳ね起きた。そして、私がなぜこの家にいるのか、どうしてマサヒコはいないのかと、問いかけるようなまなざしで見つめてきた。安兵衛とマサヒコと私。“群れ”の一員が欠けていることに、鼻を鳴らして抗議する。座り込んで動こうとしない。マサヒコはどこに?
「あんたがマリコさんか?」
マサヒコの祖父はグラスを左手に、テーブルの上座に陣取っていた。右手は酒の特大ボトルの持ち手に添えられてあった。ほとんど握っている。私は酒の種類とそれを飲む人のことをよく知らない。けれど、祖父の前に置かれたボトルの酒が、かなり強いものであろうことは見当がついた。
強そうなその酒を、ひっきりなしに飲んでいる祖父の青ざめた顔色からして、相当に酔っているらしいことも見て取れた。一見したところは、酔っぱらいのように見えない。こんな酔い方をする人が本当にいるのだと、初めて知った。
そして気づいた。その横顔の輪郭、襟足と耳の後ろで軽くカールした癖毛が、ハッとするほどマサヒコと似ていることに。マサヒコがあと数十年生きられたら、こんな風貌になったのだろうか。
「安兵衛。マリコさんと散歩に行って来い。祖父ちゃんは留守番だ」
祖父からの指示を聴き取った安兵衛は、ようやく納得出来たらしい。長い両耳をピタリと水平に倒し、別の犬に変顔したようなフォルムの鼻先を私に押しつけ、喜びを表した。安兵衛と私は連れ立っていそいそと、宵闇に包まれた街路へ跳び出した。
それからの長い時間、私は安兵衛と一緒にいた。どこへ行くというあてもなく、ぶらぶらとマサヒコの家の周りを歩いた。三周した後は裏口のステップに腰かけ、白い花をたくさんつけた、ムクゲの木の下に佇んだ。柔らかな白い被毛に包まれた安兵衛の首まわりを抱き寄せ、このままムクゲの枝葉の一部に溶け込んでしまいたいと願った。
うつらうつらする内に、御影石小学校が燃えた6年生のときの夢を思い出した。ついに明らかになったこの結末。マサヒコは三階の窓から落ちた。やっぱり落ちたのだ。そして私だけが、火の海になった教室から逃れ出た。人一倍ドジなのに。どうしてだか。どうにかして。
ふっと気づいた。もしかすると私は、まだ火の海から逃れていないのかも知れない。どうしていいかわからず、決められず、右往左往したままでいるのだ、かれこれ8年以上も。荒唐無稽のようだけど、お粗末な私の半生を顧みれば、この考えはあながち的外れでもないと思えた。なぜか、しっくりとくる。
なにしろ、あのひとがいた。私をアガタクリコと呼んで憚らない、正真正銘の縣九里子。自分の名前を私に押しつけるという奇行をやめない、ハイビスカス色のイカれたアタマの持ち主。その張本人がたびたび現れる不本意な職場。思えばこの輪蔵場町こそ、私にとっては火の海の教室だ。しかも、これは夢じゃない。そして、マサヒコはもういない。
裏口のドアがそっと開き、小母さんが顔を出した。
「安兵衛。マリコちゃん。やっぱりいた。ずっとそこにいたの?」
小母さんの目に涙が溜まっていた。溜まっているのに流れ落ちない涙。さっきまで滂沱と流れていた悲しみの涙とは、少し違う。決然として、怒りがこもっているような涙。そんな気がした。
「安兵衛、ゴハン出来たよ。マリコちゃんと食べる?それとも…」
小母さんは私を見つめた。
「マリコちゃんは帰らなくちゃならない?明日、仕事あるんだよね?」
問いかけるように尻上がりな小母さんのその語尾に、誘発されたのだと思う。私は突然、遠慮も社交辞令も知らない子どもに戻った。
「帰らなくちゃならないけど、帰りたくないの。仕事もあるけど行きたくない。だから、グズグズしてます」
小母さんはニコッと微笑んだ。マサヒコみたいに。
フライパンの中で、鶏ムネ肉とショルダーベーコンが煮えていた。安兵衛のゴハンだ。これで大体五日分くらいの作り置き。言いながら小母さんは適量を小さくカットして、二種類のドッグフードと混ぜる。煮汁を少しと、すりつぶした整腸剤も加えた。さあ、出来上がり。
号令と同時に安兵衛は食いつき、あっという間に食べつくした。生きモノの躍動と生命力を発散して、幸せいっぱいの笑顔を振り撒く。小母さんと私も、つられて微笑んだ。
仏間から複数の人の話し声が漏れ聞こえた。激したやりとり。受け入れ難い主張、事故の顛末と詳細。こちら側はマサヒコの父親、祖父と姉夫婦。あちら側には重傷を負ったという、マサヒコの同乗者の代理人。そして、被害車両の運転者の代理人。被害車両?マサヒコは加害者だったの?
小母さんは悔しそうに口もとを歪めた。友人から譲り受けたばかりだったという、マサヒコの旧型カローラにはドライブレコーダーがついていなかった。そして相手車両はハイグレードの輸入車なのに、たまたまドライブレコーダーは故障中だったというのだ。たまたま故障中?思わず私も眉をひそめた。なにかしらイヤな予感、広がる悪寒に震えた。
運転初心者のマサヒコだけが命を落としたこの事故の顛末を、証言したのは生き残った同乗者と、相手車両の運転者だった。立場が異なるはずの二人が二人とも、マサヒコの過失を唱えた。死人に口なし。圧倒的に不利だった。
マサヒコの旧型カローラは突然センターラインを越え、ぶつかって来た。相手車両の代理人は淡々と述べた。同乗者の代理人にいたっては声をひそめ、いかにも内々の言いにくい事柄にふれると前置きした上で、マサヒコの酒気帯び運転をほのめかした。
小母さんは憤慨のあまりに気分が悪くなって、席を中座してきた。そしてキッチンに立ち、安兵衛のゴハンを五日分作り置きした。明日から家を留守にするつもりだった。関東地方の大学に通うために、マサヒコが借りていた部屋を訪ねようと思い立った。いずれ片づけなくてはならないし、大学にも届けを出さなくちゃならない。だから明日、出かけることにしたのだ。そして、自分の目で確かめたい。マサヒコの暮らしぶりを。なにを考え、望んでいたのか、内なる真実の片鱗を見つけたい・
そして小母さんは私に向き直り、思いがけないことを言った。
「マリコちゃんも一緒に行く?仕事、行かなくてもいいのなら。休んでもかまわないなら。マサヒコの部屋を見に行かない?わたしと」
「はい。行きます」
「ほんとに?よかった。本来なら娘と行くべきだけど、小さい子どもがいるから無理なのよ。だからって、わたしが一人で行くのはもっと無理。すごく不安な感じがして怖いの。せっかく行っても肝心なことを忘れてしまいそうだし。だれか一緒にいてほしいのよ、迷惑でなければ」
小母さんに問われたことで、いつもは優柔不断な私の心がきっぱりと決まった。あの職場にはもう行かない。行きたくないのだと、わかった。
支店長代理に電話で告げた。突然ですが明日は出勤出来ません、心身の不調です、しばらく休みたいので退職したいと思います。
すると、いつもの万能ツールワードをひと言も口にせず、支店長代理は簡潔に答えた。その口ぶりには、ホッとしたようなニュアンスも聞き取れた。
わかりました。それでは今月の締め日をもって、退職の手続きをしましょう。お疲れ様でした。どうか、お元気で。
旅行の準備を始めると、不思議に元気が出た。意識的にご飯も食べた。母は束の間喜んだが、マサヒコの部屋を見に行くと聞いた途端、渋い顔になった。私の気を変えさせようと説得にかかる。初め猫なで声だったのが次第に熱を帯び、しまいには脅したりすかしたりの愁嘆場になった。
どうしてわかってくれないのだろう。もどかしい思いでいっぱいだったが、母を説得するに足る言葉は出て来ない。自分でもよくわからないからだった。
まだ二十一歳、たったの二十一歳になったばかりじゃないのと、母は何度も言った。私の人生はこの先も長く続くのだから、とも繰り返した。一時の気の迷いに囚われて、二度とない若さを無駄にしないで。死んでしまった人は、いくら想ってもなにひとつ報いてくれないことぐらい、わかるでしょう?
なんとなく、わかった。母は私が銀行勤務を経て、輪蔵場町の裕福な家に嫁ぐことを望んでいたのだ。さもありなん。私が転校するたび透明人間であり続けたように、頻繁に転居する生活は、母にも相応の労苦をもたらしていたに違いない。それでも。死んでしまったからといって、マサヒコが初めからいなかったみたいにリセットするなんて。そんなこと、私には出来ない。どうしても、出来ないのだ。
実をいうとほんの少しだけ、気持ちが萎えていた。本当にこれでいいのだろうか。マサヒコに訊きたいくらいだった。去年、就職先を御影石銀行に決めたと告げたとき、ちょっと驚いたような顔をして、なんと言ったのだったか。意外だな。たしかそう言った。オレ、マリコは輪蔵場町から出たいんだと思ってた。違ったのかよ?
冗談めかして笑ったマサヒコのほうは、輪蔵場町で公務員になるものと、私は思っていた。大学は遠方だけど卒業したら町に戻って公務員になる、父親のように、祖父のように。いつどこで耳にしたのだったか、マサヒコ自身の発言として記憶に残っていた。それは、変えようのない既定の事実として、いつの間にか私の心に刷り込まれた。
この旅行は、くぐり抜けるべきトンネルだった。小母さんと私、ふたりともに。暗くて怖いけど無限に続くわけじゃない。出口はちゃんとある。いまはこんなに辛くても、いつかはそこへたどり着けるはず。
もちろん母と違って小母さんは、深く悲しんでいた。私たちはお互いの中に、自分と同じ質量の悲しみを見ていた。小母さんが私の無分別なわがままや身勝手な申し出を赦してくれたのは、ひとえに、悲しみの大きさゆえだったと思う。でもそのことに気づいたのは、だいぶ後になってからだ。