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(2-2)

 貸金庫室にあのひとがいた。

 それも、ティータイムじゃなくてランチタイムだ。それよりなにより、アップルパイの翌日だった。近過ぎる。異例の頻度だ。私の胃は昨日のアップルパイを、まだ消化しきれていないのに。


 往来商事の来店は、多くてもせいぜい週一が平常のペースだった。なのに、翌日だなんて。不意打ちが過ぎた。心の準備がまるで出来ていなかった私は、もたれた胃がギュッとねじれて悲鳴を上げた。

 

 あのひとがお行儀よく摘まんでいる、折詰ランチの匂いが貸金庫室に満ちていた。私は胃もたれを堪え、その匂い情報を読み解く。ひとくちサイズのおむすびはきっと〈サザエ〉の天むす、スライスされた白い揚げかまぼこは〈かま栄〉のホタテ味と見当をつけた。


 どちらも好物だった。このところ味わえていなかったので、ときめく。でも、折悪しく私の胃はもたれている。こんなシチュエーションでなければ、美味しくいただけただろうに。無念だ。


「グズグズしないで、アガタさん。あたくし、いただいていますよ」

 昨日から気がかりだったことを、この際、思い切って訊いた。

「あの。ここでお食事しても、いいんでしょうか。貸金庫をご利用希望のほかのお客様がご来店なさるとか、あり得なくないのでは?」

「あら。アガタさんはご存じないのね?輪蔵場町は時代遅れな町だけど、富裕層の方々はもうとっくに、こんなチャッチイ支店の貸金庫なんか、お使いにならないのですよ。そんなのジョーシキ」


「それじゃ、ここにあるたくさんの引き出しは全部、カラッポですか?」

「まあね。大方はダミーよ。引き出しはないよりあった方が、サマになりますからね。それにね、ここら辺とそこら辺の十個くらいは、あたくしのウチの者たちが使っておりますのよ」

「十個くらいって、みなさんがご家族ですか?」


「そう言ってもいいかしら?大叔父とか大叔母とかハトコとか、曾お祖母さまもいた気がするけど。この人たちみんな家族って呼べると思う?」

「さあ」

「同居してる人はいないし。そもそも生きてもいませんからね、曾お祖母さまなんて。そりゃそうよね?」

 言うなりあのひとは箸を置き、小さな手で口もと覆い、ホホホと淑やかに笑った。完璧に作法に則った所作だった。


 私は箸も持てずにいた。ホタテ味の揚げかまぼこを眺め、安兵衛はこれを食べるだろうかと、ぼんやり考えた。安兵衛の好きそうなものをみつくろい、持ち帰りたいと思った。それはつまり、いまの私のもたれた胃が、折詰ランチを受けつけないからだった。


 ふと思いついた。私のお弁当を取って来ますと、断ってロッカールームへ走った。今朝はまるで食欲がなく、胡瓜だけを齧った。輪切りにして軽く塩をふった浅漬けの口当たりがよくて、ポリポリと食べられた。そこで胡瓜一本分の浅漬けをプラ容器に詰め、持参したのだ。


 念のために、プラ容器をシャカシャカと盛大に振ってから蓋を開き、勧めた。あのひとは申し分なく優雅な所作で、胡瓜の浅漬けをつまんだ。そして思いのほか高らかに、ポリポリと音立てて噛んだ。


「まあ。なんて美味しいんでしょ。アガタさんがお作りになったの?」

「刻んで塩をふって、シャカシャカしただけです」

「どちらのお塩?ナントカ岩塩とか?」

「ふつうの塩です。スーパーにあった中で、一番お安いの」

「あらま」 


 あのひとと私はしばしの間、胡瓜の浅漬けをポリポリと、音高く鳴らして噛んだ。思いがけずポリポリ音が、ときおりハモった。目を合わせて微笑みもした。胡瓜のサッパリ感効果か、私は揚げかまぼこと天むすも、少しだけいただくことが出来た。


「きのう鳥留橋でご一緒だったカレシさんにも、作ってあげるの?」


 来た。

 根掘り葉掘りの質問攻めは突然に、不意打ちで始まった。一瞬、トボケようかと思った。でも私、それをするには疲れすぎていた。口から出まかせを言いたい放題のこのひとに、私なんかが敵うわけがない。面倒で、バカらしくもあった。だからごく正直に、ありのままを告げた。


「そんな付き合い方はしていません。いまのところは、まだ」

「あら。まだ?それでも、カレシさんには違いないのね?」

「ええと。たぶん、そうだと思っています、私は」

「まあ。カレシさんのほうがどう思ってるかわからない、なんて仰るの?そんな、ご冗談でしょ、アガタさんたら。あの方、お若いみたいだけど、なにをなさってるの?お仕事とか」


「学生です。関東地方の大学に行ってます。家はこっちですけど」

 あのひとはその情報をゆっくりと丁寧に咀嚼し、吞み下した。

「本州の学生さんの夏休みって、長いのかしら。もう九月の半ばでしょ、いいご身分だこと。アガタさんは毎日、こんなに一生懸命お仕事してるのに、ねぇ?」


 その発言は私の痛いところに触れた。目に見えない、小さなかすり傷。手のひら全体で容赦なく、撫でまわされたような痛みがヒリヒリと来た。目下のところ一番の気がかり。心配事であり、憂鬱のもとでもあった。


 私も同じことを訊いたのだった。夏休み、長いんだね。マサヒコはその答えをたった一言ですませた。就活だから。もっと細かくいろいろと話してほしかったのに。なんかいろいろとめんどくさい事ばっかりでさ。内容不明の〈いろいろ〉だけが行ったり来たり、飛び散って消えた。


『なんかいろいろとめんどくさい…』

 マサヒコがひとり言のようにつぶやくのを聴いて、自分たちがもう子どもではなくなったことを、私は思い知る。そうだった、私たちはもうとっくに二十歳を過ぎた。それなのに、どうかするとつい、6年生だった頃の子ども気分に戻ってしまっている。


 6年生の終わりから去年再会するまで、8年あまりの歳月を共有していない私たちの間には、計測不能な距離があった。遠いのか、それとも案外近いのか、よくわからない。そのことを、私はときどき痛感する。実は私、マサヒコのことを、なにも知らないのではないかしら。

 小さなかすり傷は、癒えるあてもなく広がってゆく。


 遠い街の大学に通っているマサヒコが、夏休みでもないこの時期に帰省していることを、私は敢えて考えまいとしていた。自分の忙しさや心配事でめいっぱいだと言い訳して。就活だから。そのひと言だけで済ませるマサヒコに、どこの採用試験を受けるのか、いつまでいられるのか、訊いてもいないのだ。


 どことなく違和感はあった。就活中だというマサヒコのスーツ姿を、私はまだ一度も見ていなかった。カッコいいだろ。そう言ってわざわざ見せに来そうな気がするのに、そうではなかった。


 マサヒコに尋ねたいことは、山のように積み上がっている。知りたいことがたくさん溜まっていた。それなのに顔を合わせると、ひとつも浮かんで来ない。もっぱら、安兵衛の可愛いしぐさに笑い転げる。それ以外はどうでもいいような、くだらないおしゃべりばかりだ。


 訊きたいけど、いますぐでなくてもいいような気がしたり、きっとマサヒコも私と同じくらい疲れているのだと思ったりして、言い出しそびれる。いつもこんな具合に、無為の私を置き去りにして、時間は無情に過ぎ去ってゆく。


 思いあぐねて意気消沈する私の隙を、あのひとは見逃さなかった。

「ねえアガタさん。昨日の夜、カレシさんがどこにいらしたかご存じ?」

「さあ。とくに聞きませんでしたから」


 答えながら私は、現金満載のトレーを手もとに引き寄せる。指先の震えが紙幣の小山を揺らす。いつもと違って紙幣は束ねられておらず、仕分けもされていなかった。三種類の紙幣が乱雑に入り混じり、不安定に重なり合っていた。溜め息が出る。なぜだか、目尻に涙も滲んで来る。

 硬貨がひとつも見当たらないのは、せめてもの慰めだった。


「あたくしのイトコの義理の妹にあたる者がね、浮かれ街三丁目でちょっとしたお店をやっていますのよ。若くてキュートな女の子が揃っているステキなお店なの。昨日の夜はあたくし、たまたまそこに出向いておりましてね…」


 私は固く口を結んで紙幣を数え続ける。あのひとは楽しげにひとり語りを続ける。淀みなくすらすらと、言いたい放題、好き勝手に。

 たまたまですって?そんなわけないでしょ。私は心の中だけでつぶやく。そして、あのひとの問わず語りの行き着く先に、忌まわしい予感を覚える。知りたかったあれやこれに、悪意と作為が散りばめられ、私を待ち受けている。そんな気がして、ならないのだった。


「そこでお見かけしましたのよ、アガタさんのカレシさんを。お店でナンバーワンのモモカちゃんとお話していらしたわ。楽しそうというよりも深刻そうな感じでね、何やら込み入ったお話のようでしたよ」


「それ、人違いだと思います」


 断固として言い切る私の声はかすれ、裏返っていた。いまにも天むすと揚げかまぼこをもどしそうだ。けれど、こらえた。だって。このひとはマサヒコを、チラリとしか見ていないはずだ。それも、走るクルマの中から、吊り橋の支柱ごしのチラリだ。浮かれ街のキャバクラのナンバーワンと話し込む客が、マサヒコであるはずはない。絶対に、ない。


「あら。アガタさんのつらーいお気持ち、よくわかりますよ。でもね、オトコの方々って大体そんなもの、目先のエロチックにはあらがえないのね、愛とはべつのところで。カレシさんのお名前、ナカゴウマサヒコさんでしょ?お父様は市役所にお勤めの方ね。モモカちゃんから聞いたわ」


 言葉が出ない私の手から現金の束を受け取ったあのひとは、綺麗、とひと言つぶやいた。札束の出来の良さを褒められたと気づくのに、5秒ほどかかった。あのひとは貸金庫の引き出しのひとつを開いた。(あがた)ファミリーのだれかしらの名義だという、十個あまりのうちのひとつ。


 テーブルに置いた引き出しの中は、もうすでに現金で一杯だった。わずかな隙間に私が作ったばかりの札束を押し込む。札束の数を数える。ひぃふぅみぃ…。小首を傾げて考えるポーズ、のち、おもむろに別の札束を引っ張り出す。入れた数よりも多い。よっついつつむっつ…。


 引き出しの中身を水平に均して元の位置に収め、取り出した札束は紙袋の中に押し込んだ。折詰ランチが入っていた四つ越デパートの紙袋に、数百万の札束。実に無造作な扱いだった。


 あのひとは鳩のようにつんと胸を張り、私に微笑みかける。なんらかの返事を発しなさいと促す。圧倒的に勝ち誇ったまなざし。私が降参して、よよとばかりに泣き崩れるのを待っている。でも。私は決意する。

 アンタの思い通りになんかならない。


「それでもマサヒコは、きょうも鳥留橋で私を待っていると思います。私が橋を渡って帰って来ると、知っているから。マサヒコがきのうの夜、だれとどこにいたかなんてそんなこと、私にはカンケイないですから」







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