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千年の恋人たちplus安兵衛(2-1)

 マサヒコは安兵衛(やすべえ)と私のツーショット写真を撮ろうとする。けれど、ムリじゃないかしらと私は思う。でも、思うだけ。口には出さず笑っているだけ。だって、可笑しいから。笑わずにはいられないから。


 鳥留(とりとめ)(ばし)の広い歩道の真ん中あたりにあるベンチで、マサヒコと安兵衛は私を待っていた。でも、決してそうとは言わない。お、マリコが来た。マサヒコは大体いつもそんなふうに、軽く言う。グーゼンだな。マサヒコが言うと、いかにも偶然っぽく聞こえるから、不思議で可笑しい。


 御影石銀行輪蔵場支店を出て、私は南の方向に歩き出す。オフィスビルが建ち並ぶ北町通りを抜け、鳥留橋にさしかかる。この橋を渡ればホッとする。バスや地下鉄に運ばれるよりもリセットできる。長距離を歩くのがしんどい日もあるけど、歩いているうちに忘れてしまう。鳥留橋を渡って南町通りに入ると、私は十和田毬子に戻る。寄ってたかって私をアガタクリコなどと呼ぶ、ヘンなヒトたちや妙な空気から解放される。


 それにもちろん、南町通りにはマサヒコがいた。

 マサヒコがスマホを構えて迫る。なんとかして、安兵衛と私のツーショット写真を撮ろうとする。けれど安兵衛は懸命に顔を背け、私の腕と脇の間に柔らかな鼻先をグイグイと押し込んでくる。こんなに可愛らしい顔なのに、安兵衛は決してそれをマサヒコのスマホに向けない。


 スマホやカメラは大キライ、カシャッとシャッター音が聴こえる前に、とっとと逃げ出してしまうのが安兵衛の常だ。鳥留橋の歩道上のベンチにいるいま、安兵衛はわたしの腕の中に隠れようとする。やっぱダメか。諦めたマサヒコが、スマホをポケットにしまう。たちまち安兵衛の機嫌が直って笑顔に戻る。いつもこんな調子だ。


 安兵衛はマサヒコの家で飼われているコーギー犬だ。会うたびに大きくてつぶらな瞳をうるうるさせ、キュッと口角の上がった笑顔を振り撒いてくれる。額から胸もとへ、ゴージャスに広がる白い毛並みが美しい。安兵衛の可愛らしさに気高さを加え、引き立てている。


 けれど。こんなに可愛らしい子が、なんで安兵衛なの?素朴に疑問だった。女の子だからさ。マサヒコの答えは、素朴な疑問をさらに積み上げただけ、なにひとつもわからない。いつもこんな具合なのだ。


 名付けたのは祖父ちゃんだと、マサヒコは言った。初めて見たとき幼犬の安兵衛は、月齢より小さくてひ弱で、ひょっとしたら育たないかもと思われた。たった一匹ポツンと売れ残っていたのを、祖父ちゃんが引き取って来たのだ。


 その決断に家族は驚いたものの、みんながそろってうなずいた。異議ナシ。オレも祖父ちゃんを見直したぜとマサヒコは言い、たぶんこいつのこの顔にやられたんだろ、と付け加えた。うるうるの瞳、口角キュッの笑顔、輝く白と薄茶の毛並み、しなやかで機敏に動く長い耳、等々。枚挙にいとまがないマサヒコに、私はもう一押しを試みた。


「だから。どうして安兵衛になったのか、まだ聞いてないんだけど」

「つまりさ、あんまり可愛いからだよ。さらわれないように、女の子だってことがバレないように、祖父ちゃんは安兵衛にしたんだ。“安”の中には“女”という字が隠れてるだろ」


 たしかに。つい肯いたけどよく考えてみたら、やっぱりなんにもわからない。私はウンともスンとも言えない。こんなふうに、マサヒコのお茶目で冗談好きな性格は、祖父譲りなのかしらと思う。祖父が冗談を言ってマサヒコを煙に巻いたのか。それとも。ひょっとしたら、マサヒコの冗談が私を煙に巻いてるのか。どっちなんだろう。


「たぶん、だけどさ」

 マサヒコがなにやらマジ顔で話そうとしている。

「映画かなんかで見た気がするんだけど。若い女の子が自分を守るために、男の格好をして男の名前を使うって場面があった。あれみたいなものかなと、オレは思ったのさ」

「それ、戦争中のハナシみたいね」

「かもな」

「いつごろの、どこの国の戦争かな?」

「あー。どこだってあるあるのハナシじゃないの、こういうのは」


 マサヒコの祖父が思い描いたとすれば、いつどこの戦争だったのか。そんなつもりで私は訊いたのだが、マサヒコは小さな欠伸をしてひょいと立ち上がる。安兵衛がその脚にまとわりつく。いまここにいない祖父という人の戦争実感は、とりあえず脇に置かれて立ち消える。私はマサヒコと一緒に歩き出す。


 鳥留橋を渡るとその先は輪蔵場町南通り、やや長くて急な下りの坂道になった。帰り道が下り坂なのは、まだしもよかった。通るたびに思う。もしもこれが上りだったらとてもムリ、鳥留橋を渡って帰ろうなんて思わなかったはずだから。


 去年の夏休み中だった。バイト帰りの私は鳥留橋の真ん中あたりで、安兵衛を連れたマサヒコとすれ違った。お互いにあれ?と思ったけどそのまま通り過ぎた。二度目に会ったときは、すれ違う前からもう気づいていた。マサヒコのほうからこんなふうに、声をかけて来た。


「6年2組にいたことあったよね?御影石小の」


 いたけどそれはほんの数ヶ月だけのこと、私は卒業式も待たずに引っ越して、遠くの町で中学生になった。御影石小では名簿に名前があるだけの、透明人間だった。6年2組の中に私を覚えている人がいて、こうして街中で見分けてもらえるなんて、夢にも思わなかったことだ。


 マサヒコは私の名前も、ほぼ正確に言い当てた。十和田マリコ。毬子という漢字は、端から覚えようともしていなかった。なんか覚えにくい字だし、マリコのほうが全然いいじゃんか。それで一件落着だった。


 クラスのみんながマサヒコと呼んでいたので、私のほうは中郷(なかごう)雅彦(まさひこ)というフルネームを導き出すまで、少し手間取った。アイウエオ順の出席番号が近かったというヒントをもらったら、一気に思い出せた。出席番号順に整列したとき、すぐ後ろにいたのがマサヒコだった。


 それだけで?

 ほとんど透明人間だった私を、マサヒコはどうして覚えていてくれたのか、やっぱり気になった。いつも私の後ろにいて、つむじが少し左に寄った歪な頭頂部を見下ろしていたから?それにしても、すぐいなくなった転校生だったのに。するとマサヒコは、ちょっと困ったように目を逸らした。


「学校が燃えてる夢を見たって、言ったことあったろ」

「え。ホント?私がそんなこと言ったの?」

「ホントにホント。東階段が燃え尽きて降りられないので、窓からポプラの枝に飛び移ったんだと」

「私が?」

「じゃなくて、オレがだよ。そっちが言ったくせに、覚えてないのか」


 覚えていなかった。マサヒコとも他のクラスメイトとも、おはよう以外に口をきいた記憶がまるでないのだ。それなのに、透明人間の私が自分の見た夢の話をするなんて、正しく青天の霹靂。ちょっとばかり眉唾。


 6年生だったマサヒコも、そのときはずいぶん驚いた。なにしろ夢の内容が過激だったから。燃えさかる校舎の三階の窓から身を乗り出し、脇に立つポプラの大樹の枝へ飛び移る。アニメで見たようなアクションパフォーマンスを、マサヒコならやってのけるだろう。6年2組の腰かけクラスメイトで透明人間だった私は、なぜかそう思った。そして、当のマサヒコに訊いたのだ。やれると思う?やれるさ、そんなの楽勝。威勢のいい返事を期待する顔だった。


「ムリだろ。落ちたら死んじまう。怖いし。絶対やんない」


 実際のマサヒコはとっさにそう言った。もっともなことだ。いまの私は当然のごとく同感する。でも、当時の私は違った。


「ものすごくガッカリしたみたいでさ、なんか気になった」


 それだけのことだが、心にかかった。十和田マリコがいつの間にか転校して行ったと知ったとき、ほんの少しだけ、自分がガッカリさせたせいのような気がした。マサヒコはそう言った後で付け加えた。


「でも、まるきり覚えていないんなら、違ったんだよな、全然」

「そう、全然カンケイない。転校したのは親の都合だもの。子どもにはどうしょうもないことでしょ、そういうのって」


 歩き出したらすぐ、私のデニムの右ポケットに安兵衛が鼻を寄せて来た。マサヒコが叱ってリードを引いても、一向に従う気配も見せない。むしろ唸り声をあげて威嚇する。その一瞬後にはふざけたみたいにヘラヘラ笑いながら、右ポケットに鼻先を突っ込んでくる。


 あ。やっと思い出した私はベンチに座り直し、ポケットからポリ袋の包みをそっと取り出した。ポケットの中でペタンコにのされ、歩くたびに砕かれて粉々になったアップルパイだ。私へのお土産用だと言って、本当のアガタクリコであるオーライさんが持たせてくれた。元々が美味しいアップルパイだから、粉々になってもやっぱり美味しいアップルパイの匂いがするのだろう。安兵衛はその匂いを、ポリ袋ごしにしっかり嗅ぎつけたのだ。


 犬にとって散歩途中の間食は好ましくない。悪い習慣になるからぜひ避けたい。マサヒコは言った。原則はもちろんそうだ。けれど、すでに自分のテリトリー内に好物を見つけてしまった犬から、それを取り上げるのは至難の業だし、かえって良くない結果を招く。


 信頼関係が台無しになって、無に帰する。つまり、イジワル以外の何物でもないことになる。躾けだルールだと振りかざしても、犬には伝わらない。ただのイジワルだ。マサヒコはそう考える。こんなときに、怒った犬は思い切りヒトを噛むのだ、たとえ飼い主であろうとも。


 パイ皮の破片をひとつまみ、私の手のひらにのせて安兵衛に与えた。うれしそうに美味しそうに、よく食べる。次々に、またひとつまみ。ひ弱だった安兵衛はこんなふうによく食べて、いまでは16㎏だ。マサヒコは苦笑する。標準体重は15㎏だというから、1㎏オーバーだがなかなか減らせない。


 安兵衛は大勢のきょうだいと共に生まれ落ちた。何匹のうちの何番目の仔だったかは、もはや定かでない。十個ある母親の乳首に大勢の仔が群がり、争奪戦を展開した。揉まれに揉まれた。母乳の出がよい乳首は、大柄で力の強い仔がいくつも独り占めした。容赦はなかった。安兵衛は小さかったので、おおむね敗れた。腹ペコ状態が続いたので、結末はいっそう不利だった。


 安兵衛にとって自分から母乳を奪い取る敵は、自分より大きくて力の強い、自分とよく似たきょうだいだった。悲しくも忌まわしき思い出は、幼い安兵衛の心に深く刻まれた。


 ときたま、自分とよく似て大柄なコーギー犬に出会うと、安兵衛は血相変えて逃げ出そうとする。逃げきれず進退窮まれば、精一杯吠えて威嚇する。同胞であるはずのコーギー犬は大キライ、そこから始まって犬全般が苦手になった。


 でも、腹ペコだった幼少期の自分に、やさしくミルクを与えてくれたヒトのオネエサンは大好きだ。また会いたくて、いつでも探している。オネエサン的な匂いとたたずまい、高く涼やかな話し声を素早く察知する。それらしきヒトを見つけたら、一目散に駆け寄ってゆく。撫でてもらおうと、全力を挙げて迫る。


 去年の夏に初めて会った私にも、安兵衛は精一杯の歓待をしてくれた。もうマリコの犬になったみたいだな。マサヒコにそう言わせたほどだった。

 形は粉々でも充分に美味しいアップルパイの破片を舐め尽くしたいま、安兵衛はすっかり私の忠犬だった。オレにもちょっとくれよ。そう言って甘く煮つけた林檎を一切れ横取りしたマサヒコは、安兵衛の忠誠度ランキングからスルッと滑り落ちた。もはや飼い主の威厳は地に堕ちて形無し、シッポのない丸いお尻に踏みつけられている。


 鳥留橋の歩道の真ん中あたりのベンチに座った私の足もとに、安兵衛がちょこんと端座して微笑んでいる。最高の笑顔だ。これを格好の被写体と見てマサヒコは立ち上がり、素早くスマホを向けた。

 カシャッとシャッター音が鳴った途端、安兵衛は私の膝に飛び乗る。倒れまいと踏ん張ったとき、背後からの強い視線を感じて振り向いた。


 背後の車道にあるのは、信号待ちの長い車列だった。二車線分の列がゆるゆると動き始めたところだ。外国製と思われる黒い大きなSUVの動きが妙にのろかった。粘りつくような視線は、左ハンドルの運転席から放たれている。私はそこに、ハイビスカス色のおかっぱ頭を見た。あっと声を上げたときには車列の流れが加速して、黒い大きなSUVは走り去った。


 それでも私は、しばらくの間立ち上がれなかった。あの黒い大きなSUVが戻って来る、ハイビスカス色のおかっぱ頭を乗せて。そんな気がしてならなかった。いまにもあのひとが、ここに現れるのではないかと恐れた。


 大笑いしていたマサヒコが、ふっと真顔になった。

「どうした?マリコ、なんかヘンだな」

「べつに。なんでもないよ」


 思わずそう言ってしまった。なんでもなくなんかない、大ありだったのに。いまになってみると、悔やまれてならない。あのとき私の不安な気持ちを伝え、マサヒコに警告していれば。もしかしたら。こんな結果にはならなかったかもしれない。それを思うと、やりきれない。


 ふっと思い出した。あの夢。燃える校舎の三階、6年2組の教室の窓から、ポプラの枝に飛び移ろうとするマサヒコの背中。水色のメリヤス編みのセーター。そんな危ないことやめて。きっと落ちる。でも落ちないで。千々に乱れて願う私は教室の中にいたのだ。廊下は火の海だった。どこにも逃げ場はない。三階の高さの窓のほかには。


 ついてこいと、マサヒコの手振りが言っている。でも、私はまだ決められない。動けない。こんなとき、ドジな私はだれより先に落ちるのだ。そうと決まっている。ポプラの枝に飛び移るなんて、そんなことが出来るとは思えない。教室内に火の海が迫る。前がよく見えない。息も出来ない。

 あ。窓の外側へマサヒコが落ちた、ように見えた。どうしよう。


 そこで目が醒めたのだ。やっと思い出せた。だから6年生の私は、確かめたくてマサヒコに訊いたのだった。やれると思う?でも。夢の中にいなかったマサヒコには、わけがわからない。夢の中にいた私にだって、なんにもわからない。


 窓からポプラに飛び移ろうとしているマサヒコ。燃える教室内で立ち尽くすばかりの私。そのあと、いったいどうなったのか。






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