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〈縣〉。
なにこれ?読み方がわからない漢字だった。こんな名字があるのかしらと半信半疑、でも気にかかった。県と系がくっついてる。目に焼きつけて記憶した。そこで探索と休憩を切り上げ、本来の業務に戻った。
家に帰ったときはすっかり忘れていた。就寝前にふと思い出し、億劫だったが家族共用のパソコンで検索した。そして、驚きのあまりにひっくり返った。〈縣〉はアガタと読むのだ。そのとき、初めて知った。
その翌日。
二十二年前の十月十六日の伝票綴りの中に、〈縣〉という押印のある伝票を見つけた。朝一番で、窓口係の先輩行員A子さんにそのことを話した。
『へえ、そうなの?』
なんとも気のない返答だった。そのわりに強いまなざしで、先輩行員A子さんは私をじっと見つめ、声を落とした。
『倉庫内の書類とか勝手に見ちゃダメって、前に言わなかったっけ?』先輩行員A子さんの口調は、まぎれもなく冷ややかだった。
タブーなのだ。
ようやく身に沁みてわかった。なぜなのかは、わからない。どうやら、知りたがってもいけないらしい。だったら、もうやめよう。私は唐突に決意した。知らないままでいよう、皆がそうしているように。
「わかりました。もうしません。お邪魔して、すみませんでした」
私に言えたのは、それだけだった。先輩行員A子さんがホッとしたように肯いてくれたので、私もいくぶん安堵した。
往来商事のその人が次に来店したとき、私は心底ギョッとした。私だけじゃなく、居合わせた行員たちとお客たちも皆が皆、等しく度肝を抜かれた様子で目を白黒させた。その人の髪が、南国の花を連想させるような、鮮やかな朱色に変わっていたからだ。
ハイビスカスみたいな朱色だと私は思い、呆けたように目を奪われた。なかなか綺麗な色合いであることに、感心した。美しいと言ってもいいくらいの鮮やかさだった。南国調の色彩は髪だけでなく、洋服やアクセサリーにも溢れていた。あんまり注目してはいけないと思いつつ、見ないではいられなかった。それほど異彩を放った。
そんなのはもちろん、ほんのいっときだけのことだ。もはや〈色の薄いオバサン〉ではなく、〈極彩色のオーライさん〉になったその人は、意気揚々と私を手招きした。呪縛が解けた。私は蘇ったゾンビのごとくに立ち上がり、ふらふらと手招きに応じた。腑に落ちないことばかり、多々あった。けれど、私は自分のすべきことをするしかないのだった。つまり、仕事を。
その人はいつもより甲高い声を張り上げて容赦なく、私をアガタさんと呼んで憚らなかった。その手は現金ポーチと別に、四角い紙包みを抱えていた。
『ほら、おやつを持ってきたの。お茶にしましょうね、アガタさん』
支店長代理が飛んできた。一瞬、追い払ってくれるのかと期待したが、もちろんそうではなかった。いやいやいや。これこれは。どーもどーもどーも。例によって、お得意の以心伝心ツールワードを乱発しながら、恭しく往来商事のその人を応接コーナーへと招き入れる。
オペレーターの先輩行員C子さんが、弾け跳ぶように給湯室へ走った。けれども来客にお茶を淹れるのは、もっぱら新米行員である私の役目なのだ。続いて行こうとすると、支店長代理の手が私を押しとどめるジェスチャーをした。
「いやいや。あなたはあちらでおもてなしを。どうかひとつよろしく」
新米行員にすぎない私に指し示したのは、来客用の応接コーナーがある右端の扉ではなかった。それより手前にある、金庫室の大きな扉が開くと隠れてしまって目立たない、貸金庫室の扉だ。往来商事のその人は、すでに貸金庫室の扉の前に立っていた。極彩色の微笑みを浮かべて。私を待っている?すかさず、支店長代理がささやきかけた。
『開錠済ですからね、あなたが扉を開けて差し上げましょう、お客様のお望み通りに。さあさあ、お待ちかねですよ』
こうして私は、初めて足を踏み入れることになった。銀行ビジネスの分類上、貸金庫室という名称を与えられた、曖昧模糊で魑魅魍魎な性格の空間へ。私流に手っ取り早く感想を述べると、そこは秘密基地に早変わりすることも出来そうな、大きめのクローゼットのようだった。案外居心地がいい。狭く細長い形状にワクワク感を誘われ、浮ついた気分でいるとすぐさま、古くとも豪奢な調度の重々しさに戒められるのだ。ここは遊ぶところじゃありませんと。
背もたれの高い椅子が二脚。猫脚つきのテーブル。どちらも磨き抜かれた深煎りビターチョコの色だ。厳めしくも艶やか。いかにも富裕層の顧客が好みそうな色調と質感だった。見れば〈極彩色のオーライさん〉は悠然と、我がもののように上座の一脚に座り、もう一脚を私に勧めている。お掛けなさいな、アガタさん。
あのひとと向かい合って座った。細長いテーブルをはさんで最も遠い位置、召し使いの下座に。先輩行員C子さんがお茶を運んでくれた。いつものファミリー向け粉茶を溶いた湯飲み茶わんではなかった。美しいソーサーつきの紅茶カップから、ふくよかな香りが立ち昇っている。
給湯室のどこに、こんな美しいカップと高級そうな紅茶が隠れていたのだろう。ちっとも知らなかった私に、オーライさんは淡々と語りかける。アールグレイがお好きだったでしょ、アガタさんは。
かいがいしい仕草で、菓子折りらしき包みを開き、アップルパイを二切れ取り出し、紅茶カップとお揃いの優美な皿に載せる。そうしながらも〈極彩色のオーライさん〉はボソボソと語り続ける、誰にともなく。
「アガタさんが本当にお好きなのはハスカップのパイだってこと、ちゃんと覚えていますよ。でもね。四つ越デパートの中のケーキ屋さんを全部見てまわったけど、きょうはどこのケースにもなかったの、残念だったわ。けどね。アップルパイもお好きよね?ハスカップのパイじゃなくても、ゆるしてくださるわよね、アガタさん?」
はい、好きです。ありがとうございます。
しおらしく殊勝にお答えしながら、私の心は千々に乱れる。
ハスカップのパイですって?どこかのケーキ屋ではふつうに売られているのかも知れない。でも私はまだ見たことがない。この前四つ越デパートのケーキ売り場を見たのはいつだったか、思い出せない。
たしかにハスカップのジャムは美味しい。でも高価なので常備は出来ない。〈極彩色のオーライさん〉は誰にともなく語りかけている。そのお喋りの的は、十和田毬子である私からどんどん遠ざかる。ズレてゆく。
美味しいはずのアップルパイと紅茶を、心ここにあらずでいただいた。美味しかったのかどうか定かでなく、うわの空のまま、私は本来の為すべき仕事に戻った。すなわち、トレーに山盛りの現金を勘定するのだ。
けれども再勘定をしてくれる人員はいない。札勘機も硬貨計数機も使えない。貸金庫室という、秘密基地的な閉鎖空間に隔離された私は〈極彩色のオーライさん〉と二人きりだ。よって、ひと際念入りに、たっぷり時間をかけて、二回三回と数えるよりほかに途はない。
それなのに。何度数えても合計金額が合わなかった。伝票の金額欄に記入された数字より、現金が少ないのだ。デジャブ。イヤな予感の渦が危険水位を超えて溢れ来る。頭がじわりと熱くなる。苦悶する私に、オーライさんは長テーブルの向こう端から、涼しい顔で宣った。
「どうしたの?アガタさん。なにかお困りのようね」
「ええと。あの。硬貨が足りないんです、270円」
「あらまあ、アガタさんたら。270円といえば、300円と30円の差額でしょ。ほらそこ、金種欄の内訳の数字と合計金額、もう一度そろばんいれてみたら?100円が三個少なくて10円が三個多いでしょ。だから270円の不足、でしょ?あらまあ。わたくしとしたことが、うっかりしちゃったわ、ごめんなさい。はい、これで合わせといて」
言うなりオーライさんは、エルメスのバッグのポケットから三個の100円硬貨を取り出し、トレーの中の10円硬貨三個と入れ替えた。私はそろばんが苦手だ。人目にさらされていると、なおさら下手くそになる。といって、電卓操作も得意ではない。なので、両方用いて確認する。
誰だって初めはそんなものよ。先輩行員A子さんはそう言って慰めてくれた。だいたい三ヶ月もやれば慣れると思うわ。そう言ってもらった三ヶ月はとっくに過ぎて、いまはもう九月に入った。最近の先輩行員A子さんは、言いまわしを変えた。いつかは慣れるんじゃないの?
こうして270円の現金不足は、あっという間に解消された。
それにしても、じつに素早く的確な動作だった。まるで、あらかじめ準備してあったように。そして、その鮮やかな手つき。それは長い年月をかけて繰り返した結果として、手に馴染んだ熟練の賜物のような。
硬貨を扱うオーライさんの鮮やかな手捌きを目の当たりにした私に、諸々の連想と閃きと確信が襲来した。あれもこれも、いっぺんにわらわらと、順不同で押し寄せた。
閃きのひとつ。
往来商事には経理担当者なんていないのだ。このひとが全部自分でやっている。札勘もさぞかし早くてうまいのだろう、私なんかよりずっと。
例の損金450円也、散々悩まされたあの件についても確信した。支店内の電源コードを全部、一斉にめくってみたところで、あの450円は見つからないのだ。見つかるわけがない。もともと不足していたのだから。
金種欄に書かれた数字より500円硬貨が一個少なく、50円硬貨は一個多かったのだ。差額はマイナス450円。あの日エルメスのバッグのポケットには、500円硬貨が一個、忍ばせてあったに違いない。ここぞというとき、すぐさま取り出せるように。でも、その出番はないままに終わった。私が盛大にコケたから。ありったけの硬貨を撒き散らすという、想定外のドジをやらかしてしまったからだ。
それと。
〈縣〉の印影にも連想は及んだ。アガタと読む〈縣〉。直感と確信の種火がほぼ同時に、私の中でポッと点った。改めて、入金伝票に押された社名のゴム印文字をじっくりと見た。華麗なる筆記体で記された〈往来商事 代表取締役 縣九里子〉。知った上でよくよく見れば、ちゃんと読めた。私じゃないアガタクリコはここにいたのだ。
私は訊きたい。
二十二年前の伝票にある〈縣〉の押印って、あなたのものですよね?
長テーブルの向こう端で優雅に小指を立て、優美な紅茶カップをつまんでいる〈極彩色のオーライさん〉に、私はもっと言いたくて堪らない。この際、思い切ってタメグチで言ってやる、声には出さず。
なんで私があなたに、あなたの名前で呼ばれなくちゃなんないのよ?
〈極彩色のオーライさん〉は私の表情をつぶさに眺め、心の動きを逐一読み取っていたようだった。肝心なことはなにひとつも、まだ言えていないのに。あのひとのほうが先回りをして、言ってのけた。
「なんで、ですって?それはもう、あなたが本物のアガタクリコだからですよ。決まってるじゃない。だってね。うぶで可愛いアガタクリコがまた戻って来たのよ、こんなうれしいことないわ。そうして昔と同じように可愛らしく、金庫室前のお席に座って、一生懸命お仕事している姿を見られるなんて素敵。わたくし、いま最高にハッピーだわ」