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 その人。

 実を言うと私は、450円の損金が発生した初回の入金を持参したのが、どんな風体の人物だったか、はっきりと思い出せなかった。白髪交じりのボリューム感あるおかっぱ頭だけが、印象に残っていた。それ以外はぼんやりとして、〈色の薄いオバサン〉だったような気がするだけだ。


 その人が二度目に来店した日。

 便宜上、半ドア状態に保たれた金庫室の扉の正面には、支店長席が置かれてあった。大きな机と大きな革張りの椅子のセットは存在感も最大級で、私たち行員の作業動線にとっては実に邪魔な困りものだった。そのことを知ってか知らずか定かではないが、支店長は外出中で不在の日がよくあった。


 支店長席のすぐ横、開いた金庫室の扉に隠れる貸金庫室の真ん前が私の席だった。そこでひたすら、毎日の取引勘定の記録というべき伝票綴りの作業に精を出していた。本来は札束づくりを主な業務とする、本出納という係なのだが、その日のその時間帯には、新たに束ねるほどの紙幣がまだ集まっていなかった。


 実は朝から大口の出金が続いて、紙幣の残高が底を尽きつつあった。高額紙幣がゼロという事態に陥る前に、手を打たなければならないレベルだった。それはつまり、日銀へ預金を下ろしに行ってくださいと、渉外係の先輩行員Bさんに依頼すべきか否かの瀬戸際だった。以前にも一度あったことだったので、悩ましかった。


 以前には、迷わず即座に依頼した。日銀方向へ行く幹線道路は年中渋滞しているんだぜとボヤき、渉外係の先輩行員Bさんは渋い顔をしながらも行ってくれた。案の定、ようやく帰り着いたときは午後三時の閉店時刻をとっくに過ぎて、先輩行員Bさんはもっと渋い顔になっていた。

 彼が出発した後で不測の大口入金があったため、現金残高はどっと増えていたのだ。渉外係の先輩行員Bさんが渋滞を忍んで敢行してくれた日銀行きは、完全な無駄足に終わった。


 さらに言えば、勘定を締めた時点で現金残高が300万円以上あるというのは、好ましくない事態だった。本出納係の失点になった。なぜなのか、根拠はさっぱりわからなかったが、支店長も支店長代理も、等しく多すぎる現金残高を嫌った。したがって、現金残高を過不足ないように調節することが、新米行員の私にとっては重すぎる責務だった。


 そんな裏事情があったので、往来商事のそのひとが来店したとき、私はうれしかった。とりわけ、小脇に携えたポーチの膨らみ具合に目を奪われ、ニンマリしてしまった。心底ほっとした弾みで、前回の450円損金処理のショックはきれいさっぱり霧散した。ごく自然に、営業スマイル以上の笑顔がこぼれ出た。


 そのときの私の笑顔は、よほど愛嬌たっぷりで魅力的だったのだろう。前回は無表情でひたすら〈色の薄いオバサン〉だったそのひとが、釣られたように、にっこりと破顔したのだ。俗に言う慈愛に満ちた微笑みとは、このような笑顔のことか。頓珍漢も甚だしいことに、私はそんな感想を持った。


 そのひとは、私に向かって手招きをした。

 窓口係の先輩行員A子さんが在席していたにも関わらず、顔馴染みで頼もしいベテラン行員をスルーして、新米の私に呼びかけた。膨らんだポーチの中身をトレーに移しながら、ごく当然のような口調で宣った。


『ねえあなた、アガタクリコさん。これが今日の入金ですよ、いつものように当座の11番へ、入れてくださいね』


 思わず自分の背後を振り返って見た。だれもいない。目に入ったのは、セピア色にくすんだ壁と、金庫室の堅牢さを台無しにしている半ドアのぶ厚い扉。ほか三枚の扉と、鉄柵付きで決して開かない裏窓だけだ。


〈私の名前は十和田毬子です。アガタクリコじゃありません〉


 そのとき、きっぱりと宣言すべきだった。今更だけど、思い返すたびにつくづく悔やまれた。或いは。私はそうしたかったのに出来なかった、と言うべきだろうか。ともあれ私は、半分開きかけた口を自ら閉じてしまった。居合わせた先輩行員A子さんたちの視線から放たれる、無言の圧力に押されて。


 窓口係と融資係とオペレーターの先輩行員たち。そして支店長代理に、支店長その人も。皆が皆、一斉に私を振り返って注目した。無言の制止。並々ならぬ圧力。そこに共通しているひと言を、聴いた気がした。


『それ、言っちゃだめ』


 言えなくなった。それが正しい表現だ。結果、アガタさんアガタさんと呼ばれながら、私は現金山盛りのトレーをありがたく受け取った。いつにも増して慎重に数えた。そうする間にもそのひとは、カウンター越しに身を乗り出して、アガタさんアガタさんと頻繁に呼びかけてきた。急ぐ様子はまるでなく、悠然とくつろいで楽しそうでさえあった。


 午後三時に正面入り口のシャッターが下りて、その日の勘定がつつがなくピタリと合うときまで、私は待った。

『合いました』

 勘定係の掛け声が高らかに響き渡り、支店内に満ちていた緊張が一斉にゆるんだ。リラックスした雰囲気が漂い始めた頃合いで、私は窓口係の先輩行員A子さんに向けてつぶやいた。いかにも、ひとり言でボヤいたふうを装って。


『往来商事さんが言ってたアガタさんて、だれのことなんでしょうね?どうして私が呼ばれちゃったんでしょうか。十和田って、ネームプレートにちゃんと書いてあるのに』


 笑ってもらえることを期待して、思いっきりボケてみたのだった。配属されて以来、新米行員の私がわからないことを、手取り足取り教えてくれた先輩行員A子さんだった。少々張り切り過ぎたのか、訊いてもいないことまで教えてくれた場合も多々あった。そんな先輩行員A子さんだったのに、この件に関してだけは別人のように、まったくらしからぬ反応を見せた。


『さあね。なんでかしらね…』


 先輩行員A子さんの返答は取りつく島もなかった。曰く、自分はこの支店に勤務してようやく三年目なので、そんな昔の人のことはなんにも知らないのだ。

 それだけだった。渉外係や融資係やオペレーター、支店長代理までがほぼ同じことを言った。自分たちはこの支店での勤続年数がそれぞれ五年未満であるから、そんな昔の出来事についてはまったく知りようがないのだ、云々。


 最年長者である支店長にいたっては、在勤たったの一年三ヶ月、私の次に短いと知った。しかも、今年度いっぱいでめでたく定年退職となる予定だ。当然のこと、そんな昔の話は聞いたことがなく、たまさかにも聞きたい気はしないのだと、遠回しに告げられてしまった。


 先輩行員A子さんたちはそれぞれに、素っ気ない返答で〈アガタクリコ〉に対する無関心を表明した。けれど私には、こびりついて剥がれない焦げ跡のような違和感が残った。なんだろうと考え、共通するワードに気づいた。〈そんな昔〉だ。


〈そんな昔の人。そんな昔の出来事。そんな昔の話〉


 年齢も在勤年数もバラバラな先輩行員たちが、そろって口にした〈そんな昔〉。ならば、昔と呼べる過去のどこかにアガタクリコがいたのだろうか。そんなふうに聞き取れるニュアンスだった。


 果たして、この仮定に当て嵌まる〈昔〉とは、一体何年前のことだろう。私は札束づくりの合間のつれづれに、金庫室の壁一面にびっしり積まれた伝票綴りの束を見上げて考えた。ここに保管されている伝票綴りはたしか、数年以内のものと聞いた気がする。ならば。それよりもっと古い伝票綴りはどこにあるのだったか。


 なんのことはない。

 答えは私たち女子行員用ロッカー室の壁面にあった。ロッカー室であり休憩室であって倉庫でもある。小さな空間にたくさんの用途が詰め込まれていたので、かえって気づかなかった。

昼食のたまごサンドを食べてボトルティーを口に含んだとき、アコーディオンカーテンの隙間から、伝票綴りの手書きの背表紙がチラと見えたのだ。


 十年?二十年?或いはその中間あたり?いや、もっと古いのかも。いざ見つけてみると、伝票綴りはあんまりたくさんあり過ぎて、どこから手をつけるべきか決まらず、迷いに迷った。

 そこで、エイと伸ばした手が無理なく届いた範囲内で、ちょうどよくつかめた伝票綴りをひと束引っ張り出した。一番シンプルでテキトーなやり方を試したわけだ。表記から指折り数えてみると、いまから二十二年前、十月十六日の伝票綴りだった。


 パラパラとめくり、右端にある縦並びの四つの押印欄を見ていった。昔の伝票の仕様はデザインが少し違ったけれど、一番下の欄に押印された名前が、その伝票を起こした行員のものであるところは不変だった。


 なにしろ、二十二年前なのだ。当然のごとく、知らない名前ばかりだった。パラパラめくっているうちに、自然と押印の名前が頭に入った。

 二十二年前当時、この支店には伊藤さんと大沢さんと谷岡さんがいて、この三人が八面六臂の活躍をしていたようだ。起こした伝票の枚数が断然多かった。そして印影の直径の大きさから察するに、たぶん支店長が竹田さん、支店長代理は山元さんだろうと見当がついた。


 だからどうだっていうのよ?私は自問した。そんなことがわかったってなんの役にも立たないわ。たしかにその通りだった。ふっと脱力したところで、パラパラの手が止まった。伝票綴りの末尾の一枚に、初見の印影があった。〈縣〉。






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