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 でも。

 大いなる難問が降って湧いて、私の目の前に鎮座していた。現金山盛りのトレーだ。自慢にもなんにもならないが、私はまだ、こんなにたくさんの現金をひとりで数えたことがないのだ。


 現在はどうなっているか知らない。けれど私が勤務していた頃は、現金が動くたびに少なくとも二人の行員が数えた。すべての入出金を、二人の目で確認することが大原則だった。もちろん札勘機も使われたが、手勘定が省略されることは決してなかった。金額が大きくなれば二人と限らず、居合わせた行員たちが総動員で、時間の許す限りとことん数えた。それが最優先の決まり事だ。


 その光景は、ちょっとした見ものだった。私は目を瞠ってガン見した。先輩行員A子さんたちが一斉に、軽口を引っ込めて押し黙り、皆が皆、申し合わせたように似かよった真剣な面持ちで、バッサバッサと高らかに紙幣を鳴らして数えるそのさま。一見異様でありながら威風堂々でもあって、私にはずいぶんと頼もしく思われた。


 それが。

 いま、私はたったひとりだ。この上なく心もとない。支店長代理はカウンター越しの前かがみ体勢で、現金を持参した人物と談笑中だった。

 私の席からは、その人の頭頂部だけがチラリと見えた。白髪交じりだが、ボリューム感のあるボブスタイル。おかっぱ頭ともいうけれど、どちらの呼び方が似つかわしいか、その時点ではまだわからなかった。


 支店長代理のおもねるような口調と揉み手回数から察するに、その人はただの経理担当ではなく、この現金を入れる口座の持ち主本人か、でなければごく近い縁者に違いないことは見当がついた。

 トレーの中にはゴム印の社名のみならず、金種と合計金額も記された入金伝票があった。当座預金番号は11番(支店開設以来11番目に口座が開かれた古株の顧客であることを示した)、社名は華麗な筆記体だがどうにか〈往来商事〉と読めた。代表者名に至っては筆記体がひときわ華麗に過ぎて、私にはどうにも読み取れない筆跡だった。


 じっくりと眺めていられる余裕はなく、とりあえず社名と口座番号を確かめ、それでよしとした。私がどうにか数え終わったタイミングで、窓口係の先輩行員A子さんが戻ってくれたら、さらによし。きっとそうなるはずだと念じた。たぶん、きっと。


 トレーの中の紙幣は、一見無造作に束ねられてあった。しかし実は丹念に、上下左右裏表が一律になるよう整えられてあることが、手に取ってみてわかった。一万円札、五千円札、千円札の順で、きちんと整列させてあり、右側4分の1の辺りにきっちりと、輪ゴムをかけて留めてあった。


 いたずらにきっちりとキツ過ぎる輪ゴムをそっと外し、一万円札から数え始めた。まず、扇形に開く横読みで4枚ずつ数える。12回プラス2枚で50万だと、頭の中でおさらいしながら。しかし、折り皺のついた古札を等間隔でバランスよくきれいに開くのは、大変に難しいのだ。


 次に縦読みで一枚ずつ、はじくように数えてゆく。銀行員でない人々もやっている、ごく一般的な数え方に近いやり方だ。けれど、カサカサに乾いてこわ張った指先で札を一枚だけ捉え、すべらせるのは、言うまでもなく難しすぎることだった。


 紙めくりクリームのメクールをたっぷり擦り込んでも、指先は札の表面で虚しくスベった。力を込めれば、二枚三枚とくっついてスベり来た。私は研修のときからこの縦読みに苦手意識があったけれど、やっぱりこの日も、思うようにできないのだった。


 ことほど左様に四苦八苦して、数えた結果の枚数がまた私を苛んだ。

一万円札が49枚、五千円札は21枚、千円札に至っては94枚なのだ。すべての紙幣は50枚ごとに束ねる。これも大原則だった。新人研修の際に、繰り返し言い聞かされたことだ。


 それなのに実務に就いてから、私は迂闊にも45枚の紙幣に輪ゴムをかけてしまった。窓口係の先輩行員A子さんが目敏く気づいてくれて、事なきを得た。その際ガッツリと叱られ、改めて叩き込まれた。どんなにかさばって収まりが悪かろうと見苦しかろうと、きっかり50枚ではない札束に輪ゴムをかけてはいけない、絶対に。


 せめてもの慰めは私の数えた結果と、往来商事のだれかが伝票の金種欄に記入した数字とが一致したことだった。心底ホッとしたところへ、念じた通りに窓口係の先輩行員A子さんが戻ってくれて、紙幣の再勘定を託すことができた。安堵のあまりにめまいがしたほど、うれしかった。


 紙幣が取り去られたトレーの中には、まだ少なくない硬貨が残っていた。使用済みのコピー用紙に包まれた筒が四本と、各種入り混じったバラの硬貨たち。持ち上げてみると、少なくないどころかずしりと重い。


 けれども硬貨の場合は、数が多くなるほど手勘定の大原則を免れた。各種入り混じったままでも、計数機に放り込めばいいのだ。機械が直径の大きい順に硬貨を選り分け、50枚ずつきちんと筒状にして、金額が明記された所定の用紙で包装してくれる。楽勝、のはずだった。


 せっかくコピー用紙に包んであった、200枚もの100円硬貨と10円硬貨を同じトレーの中でバラし、端数の硬貨とも混ぜてしまったのは、迂闊すぎる私の凡ミスだった。気づいた途端に頭がカッと熱くなり、赤面したのがよくわかった。大いに焦った。自分はこんなにもバカだったのか。穴があったらダッシュで飛びこみ、隠れてしまいたかった。


 お客様をお待たせしてはいけない。その一心で焦ったのが、さらに裏目に出た。計数機まではたった五歩で行けるのに、三歩目で私はつまずいた。築五十年超という支店の建物は、圧倒的にコンセントが足りなかった。ところが電子機器は増える一方だ。縦横無尽に床を這いずる電源コードの束は長く、分厚く盛り上がっていた。いつか、つまずいてコケそうだと不安を感じるくらいに。恐れた通りにつまずいてしまったそのときが、選りによって最悪のタイミングだった。


 ずしりと重いトレーの中の山盛り硬貨は、禍々しくも派手な音を上げて四方八方へ飛び散った。凸凹の床面に広がり、スチールデスクや各種機材やオフィスチェアの下に転がって潜り込み、消えた。最悪だった。


 私はどうしたらいいのかわからず、思考も動作も停止してしまった。窓口係の先輩行員A子さんは再勘定を続けている。他のお客も順番待ちをしているので、手いっぱいだ。アテにはできない。万事休す。そう思ったとき、席に戻っていた支店長代理が動いた。


 それから退勤時刻まで、私は硬貨を拾い続けた。凸凹した床面に這いつくばり、埃にまみれた100円と10円の硬貨を探し集めた。支店長代理のすばやい決断によって、当座預金11番への入金は、往来商事が持参した伝票の金額のまま受け入れた。行員による硬貨の枚数確認は省かれ、必ず二人以上で確認すべきという大原則は破られ、そっと脇に置かれた。


 硬貨の合計金額18,865円のうち、18,415円をその日の業務終了までに見つけることができた。差額の450円を自分の財布から出そうとした私を、支店長代理が押しとどめた。


『いやいやいや。まあまあまあ。それはナシですよ、十和田さん…』


 思い返してみると、支店長代理と意味のある単語を使って会話した記憶はあまりなかった。いやいや、まあまあ、どーもどーも。思い出せるのは、そのようなつなぎコトバの繰り返しばかりだ。


 支店長代理は、もっぱらボディランゲージとほのめかしの人だった。なにひとつ明言しなくても、微妙なニュアンスは不思議と伝わるものだと学んだ。その場の空気を読み取り、相手にも読ませることにかけては、一種の達人だったのではないかと思う。


 こうして450円也の損金伝票が起こされ、処理された。支店長代理の署名捺印の下段に、私も十和田毬子と署名して捺印した。ふだんの事務仕事に使っている三文判でいいのだろうか、でも、登録印などまだ持っていないし。そのときの私は、たった一枚の伝票から立ち昇る厳粛さに平伏し、すっかり殊勝な気分になっていた。


 その後も往来商事の現金入金は、たびたび繰り返された。やがて私は、そこに一定のパターンがあると気づいた。例えば、月末でも月初めでもなく、年金支給日でも公務員の給料日でもない、わりと暇な営業日の昼食休憩時を、その人は選んだようにやってくるのだ。











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