Ⅰ.彷徨《ワンデリング》1
壁面の大型ディスプレイには地図が写し出されていた。
それは地形照合図と呼ばれる戦術表示システムで、現地に配置された装備や人員をシンボルマークと略号とで示していた。
防衛省地下の統合指揮所。四方の壁は大小のディスプレイと制御卓で埋め尽くされ、制服姿の男女がキーボードとトラックボールを操っていた。
これが軍事における革命か。と、統合指揮官の熊谷一等陸佐は嘆息した。東京の防衛省に居ながらにして現地の戦術指揮までできるのだ。まるでコンピュータ・ゲームだ、と緑色の制服を着た熊谷は思う。
それは怪物的進化を遂げた最先端の情報技術と、慢性的な人員不足という二つの要素が導き出した現代の国防の姿でもあった。
「熊谷指揮官、生物・化学戦部隊がオンステージしました」
青い制服を着た副官の八俣一等空尉がきびきびと報告する。
「《封じ込め》の第一段階は完了です」
熊谷はうむ、と一声唸ると壁面の大型ディスプレイから目を離し、眼前のデスクに置かれた紙の地図に視線を落とした。それは従来から使用されている作戦地図で、透明なビニールシートが重ねられていた。表面には部隊配置などが手書きでびっしりと書き込まれている。
熊谷は手にしていたグリースペンで生物・化学戦部隊を意味する「BC-U」という記号を該当の場所に書き入れた。
「あの、指揮官どの」
八俣一尉はおずおずと、
「本当に必要なのですか。紙の地図など」
熊谷はちらりと部下の顔を見ると、
「どんなシステムにもバックアップは必要だ。それに」
「それに?」
「紙は故障しない」
「はあ」
副官は心の中で肩をすくめた。熊谷一佐は米陸軍戦略大学への留学経験があると聞いていた。それなのに最新の電子指揮システムを前にして紙の地図を広げている時代錯誤が信じられなかったのだ。
(それとも)
と八俣は思った。
(これが陸式というやつなのだろうか)
「八俣くん」
「はっ」
副官はさっと姿勢を正した。どのような理不尽も軍事組織に身を置いている以上は甘受せねばならない。それは入隊した当日から体に叩き込まれていた。
「状況開始から現在までを確認したい」
「はっ」
八俣は小脇に抱えていたタブレットコンピュータをこれ見よがしに掲げて、
「昨日二〇二四時、レーダ衛星が当該地域での特定波長の電磁気的擾乱を観測、準備警戒が自動発令されました。
同五一、RF4EJファントム偵察機により該当地域を光学観測、複数の《搾り取られた者》らしき対象を捕捉。同時刻をもって《現象》と認定、半径二十五キロの《領域》が設定され、正式な警戒態勢に移行しました。
二一〇〇、統合指揮所の設置と即応部隊の展開を開始。官邸と条約機構への連絡は二一〇二に同報で発信」
熊谷は部下の報告を聞きながら顔を上げ、正面のディスプレイを見た。四方を山に囲まれた小さな村落の地図が写し出されている。村を囲むようにいくつもの光の点が取り囲んでいた。一部の点はゆっくりと動いていたが、村の中に入って行く点は一つもなかった。
「村へ通ずる道路は全て閉鎖。三十キロ圏までは陸自の機甲科と普通科の混成チームが、五十キロ圏は地元警察が検問を設けています。上空は飛行禁止。それと、民間の衛星画像サービス会社の画像データについては、《現象》以前のものに差し替え済み、と、条約機構の調整本部から連絡がありました」
「すべて手はずどおりか」
「はい。本日〇二一五を持って《封じ込め》の第一段階は完了しています。第二段階の情報統制については情報課が引き続き行っています」
「まあそちらは連中にまかせるさ」
熊谷は憮然とした表情で続けた。
「どうせ山火事とか、地すべりとか、そんなストーリーだろう」
「シナリオR7、火山性有毒ガスの噴出を検討しているとのことです」
「ありがちだな・・・まあいい。我々は現場に専念すればいい。なにしろ国内では初だからな」
「はい。ですが指揮官どの」
「なんだ」
「本当に封じ込めるだけで良いのでしょうか」
「条約機構のマニュアルではそうなっている。それとも何か、《領域》の中に斥候でも出せというのかね?」
若い八俣一尉は不満そうに
「そうではありませんが。何もせず嵐が過ぎるのを待つだけ、ですか」
「そうだ。どのみち《現象》の持続時間はせいぜい一日、長くても二日間だ。その間だけ《搾り取られた者》どもを《領域》に封じ込めておければ良い。そして《現象》の終息後に、一帯を《清浄化》・・・いや、《掃除》する。それまでは待機だ」
八俣一尉は食い下がった。
「せめてUAVを飛ばしてはいかがでしょう」
「うん?」
「上空五百メートル以上なら電磁波の影響はないと聞いています」
「無人偵察機か」
「はい。入間に試験運用中の《プレデター》があります」
熊谷は思案顔で、
「入間の《プレデター》は二機しかないはずだが。それに即応体制にはないだろう」
「一時間あれば準備できます。二機を交互にオンステージさせれば継続して監視も可能です。予備機がないので綱渡りの運用になりますが、一日や二日ならなんとかなるはずです。軌道に制限のある情報収集衛星や、有人のファントム偵察機では常時監視はできませんし」
「詳しいな」
「お忘れかもしれませんが空自は自分の古巣でして」
統合指揮所の喧騒の中で、しばし二人の周りにエアポケットのような沈黙の時間が流れた。
ややして熊谷は口を開いた。
「いいだろう。やってみろ」
「はい」
通信卓に向かう八俣を見送って、熊谷はディスプレイに視線を戻した。その表示を見た熊谷は鋭く叫んだ。
「あのRCVはなんだ!」
《RCV-6》と表示された緑の点がゆっくりと地図の上を動いていた。その点は村を取り囲む他の点から離れ、村の中へと向かっていた。