2・丘を見る司(2 母の家)
都のほとんどの家と同じように、司の家も石造りだった。二階家で、一階は父親の仕事場だったのだが、今は別の石工に貸している。昔、父の元へ見習いに来ていた男だ。家に着いたときは、その男はもう自宅へ帰っていた。
暗くて狭い階段を上って住居の扉を叩くと、扉はためらうように、わずかに開いた。
「どなたですか」
その声が若い娘のものだったので、司は一瞬驚いた。
薬の司の弟子……? そうだ、もちろん。女の弟子だっているはずだ。
「私だ」
司は、ふと言葉につまった。この母の家で「則の司」と名乗るのは、なにかが違うような気がした。
「息子が来た、と母に伝えてくれ。倒れたと聞いたので……」
扉が、勢いよくぱっと開いた。
「則の司様!」
決まりどおりの茶色の衣を着た娘が立っていだ。小柄で、髪を編んで頭のまわりに巻きつけているせいか、顔が丸く見える。司のかかげた角灯のあかりを受けて、きらきらと目が輝いた。
「まあ、失礼いたしました。お見えになるなら明日だろうと思っていました。おひとりですか?」
司は家の中に入る。かつて自分が住んでいたところなのに、よその家の匂いがした。
「ひとりだ。明日の予定はもう決まっているのだ。母は?」
娘は、そっと扉を閉めて、廊下の先をうかがった。
「さきほどはお寝みになっていました。見てまいりましょうか」
司は、少し考えて首をふった。
「いや、今はいい。それより、どういうことだったのか話してほしい。倒れたというのは、具体的にどういう具合で、どんなことだったのか」
娘は、ちょっと眉をよせて、うなずいた。
「下で仕事をしていた石工さんが気づいたのだそうです。いつも静かに暮らしておられる二階で、音がしたのを不審に思って、様子を見に上がって倒れているお母様を見つけた」
下にいたのが、家の様子も母のことも知っている男でよかった、と司は思った。
「それで、すぐに薬の司様が呼ばれたんです。わたしはそのときからいたのではなくて、あとから呼ばれてここに来たので聞いた話しか申し上げられませんが、胸が痛いとおっしゃっておられたということです。ですが、薬湯をさしあげてしばらくしたら、落ち着かれたそうで」
娘の視線が少し下がった。
「ひとり暮らしの女の方だからしばらく付き添うようにと、わたしに迎えが来ました」
娘の話し方に、司は好感を持った。
「ありがとう。付き添いを雇う手配はするが、それまではいてもらえるだろうか」
「はい。そのように言われていますから」
「おまえは、このような役目のために薬の館にいるのかな?」
司は訪ねた。もしそうなら、引き続きこの娘にいてもらうこともできるかもしれない、と思ったのだ。
娘は、きっぱりとかぶりを振った。
「違います。私は薬の館の弟子です。薬草を整理し、課業を修めています。こういう付き添いの仕事をしている人はちゃんといるようですが、でも、急なことでそういう人に手はずがつけられないときは仕方ありません。館には、女の弟子はわたしひとりなんです。そんなときは当然のように、わたしが駆り出されることになって……」
娘は、はっとしたように口をつぐんだ。
「いいえ、あの、お母様のお世話をするのがいやだというんじゃないんです。ただ、男の弟子たちは学問だけに専念できるのに……」
娘は顔を赤くしてうつむいた。
司は微笑んだ。
「本当にありがたい。そして、すまないな。おまえが早く課業に戻れるよう、できるだけ早く誰か雇うよ。私は、母の様子を見てこよう」
司はうなずいてみせ、そのまま廊下の端まで歩いた。一番奥の部屋の扉をそっと開く。
粗末な木の寝台に、母は横になっている。昔から同じ寝台だ。幅の狭い、固い寝台。
静かに部屋に入ると、母親が目を開けた。
「檀」
しばらくぶりで名前を呼ばれた。自分が則の司ではなく、「檀」という名前を持った個人だという感覚を、しばらく忘れていた。
「起きていたんですか」
母親は、唇をちょっと曲げて笑顔になった。
「おまえが来たから目が覚めたんだよ。わたしは、まだ死にゃしない。あわてて来ることもなかったのに」
それから、かすれた声で笑った。
「でも、こんなことでもなきゃ、おまえは家に帰って来やしないね」
「私は……」
司の言葉を抑えるように、母親は首を振った。
「とがめてるんじゃないよ。おまえは思うようにしていいんだ。おまえの思うことが、きっと正しいことなんだから。なにも恐れず、思うようにしたらいい」
恐れる?
司は母の顔を見つめた。
「私は、なにも恐れてなどいません」
その言葉とともに、あの丘にまつわる胸騒ぎのことを思った。
母には、なにか隠していることがある。そして、それを明かすつもりはない。
そう感じたのは、司の勘だったかもしれない。
「私のことなら大丈夫です。胸が痛かったということですが、今はどうなんです?」
母を見舞う息子として、いかにも言いそうなことをいくつか言い、司が部屋を出ると、薬の館の娘は、薬草の香りの湯気を立てている茶碗を盆に載せていた。
「ありがとう。だが、私はもう帰るから……」
司が言うと、娘は小さな声で笑い、それから首を振った。
「すみません。これはお母様のための薬湯なんです。血の流れる管をきれいにするお茶です。お目覚めのようでしたから、お持ちするところでした。健康な方が飲んでもいいものなので、試してごらんになるなら……」
司は苦笑した。
「いや、今言ったように、帰らねばならないのだ」
扉まで送って来た娘を、司は振り返る。
「名前はなんという?」
そんなことは、聞かなくてもいいことではあった。娘は一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「由宇といいます」
司はうなずいた。
「それでは、由宇。母を頼む。かわりの者はすぐ手配する」
館に向かって歩きながら、司は由宇のことを考えていた。
もしあの娘が司になったら、手を差しのべる男の隣に寄り添うこともなく、子どもを産み育てることもなく、病人やけが人のために時間を使って一生を終えるのか。あの、すぐ笑い、きらきらした目でものを見る娘が。
こんなことを考えるのはどうかしている、と司は思った。学びたいと思う者が学び、なりたいと思う者になるのは少しも間違っていない。
それでも、これまで取るに足りないもののように思っていた父親の気持が、ほんの少しわかったような気がした。