1・空を見る少年(4 志多)
司の弟子になって修行をするということは、修めなくてはならない課業があるということだ。司によって学ぶ内容は変わったが、これまでに蓄えられた知識を覚えることからはじめるというのは、どこでも大方同じらしい。
司自身や補佐役が取り仕切る講義のほかに、梧桐は、星の動きについて書かれた書物を丸ごと書き写さなくてはならなかった。この前には、雲の形や天候について書かれた書物を写していた。ほかに、石や岩、土の種類などについて書かれたものなどがあり、やがてはこれらも全て書き写すことになるだろう。
丸ごとというのは、本当に「丸ごと」で、図版もそのまま描かなくてはならない。夜は、これまで写した内容についての口頭試問があった。ときには、一週間も前に写し終えたところについて聞かれることもあり、なかなか気が抜けなかった。
ほかの司の館のうちには、きちんと日課があって、課業の時間もきびしく定められているところがある。けれど、天気によって観察するものが変わり、夜通し星を観測したために昼間眠る者もいる風の館では、時間の決まりは最小限しかなかった。それだけに自由な時間も持てる反面、課業が滞らないよう自分を律する必要も出てくる。
館の七人の弟子のうち、ふたりは司の補佐を勤めている。今の司が役目を退いたら、どちらかが後を継ぐだろうと言われていた。補佐役になると、茶色の衣の袖に白い縫取りが一本入る。
館には、ほかに則の司のところから東の地区の事務処理に来ている書記官と、下働きをする者が何人かいた。
梧桐は、学ぶことに熱心だったが、課業のやり方にはばらつきがあった。
興味を覚えたことにはとことんのめりこんでしまうたちだから、雲の書物を写していたときは、空いた時間のほとんどを空を見て過ごしていた。しょっちゅうあの塔に登るようになったのも、その頃からだ。どうやら自分は、岩や土よりは天の方に関心があるらしい、とあらためて気付いた頃でもあった。
あの時期は、目に映った雲の形状をかたっぱしから紙に書き、帰ってからそれを書物と照らし合わせた。館の書物は外に持ち出してはならないことになっているからだ。もっとも、大きくて重い書物がほとんどだったから、許可がおりたとしてもあの塔の上まで持って登りたい代物ではない。
塔で雲を見るのに夢中になって、食事に遅れたり、かんじんの課業が進まなかったこともあった。補佐役の弟子には、そのことで何度か注意を受けた。
風の司は、その役職の名のとおり、風のように飄々とした老人で、梧桐のやることをおもしろがっているようなところがあった。梧桐は、風の司が好きだった。
翔斗の卵のことは気にかかっていたが、それでも天の星のことを書き写していると、次第に夢中になってくる。
要の星。天頂にあって動かず、常に同じ位置に留まっている。天は要の星を中心にめぐっている……。
梧桐は天井を見上げた。梁やしっくいではなく、そのはるか上に広がる空を心の中で見た。その空の中心で、決して動かない不動の星を見た。
「梧桐」
そんなふうに心が天に向いていたから、声をかけられて梧桐はびくっとした。
振り向くと、補佐役のふたりのうち若いほうの志多が立っていた。梧桐が返事をするより先に、志多はたたみかけるように言葉をついだ。
「おまえ、『先読』の砦に足しげく通っているというじゃないか。いったいなんの用があって、あそこへ行くんだ。そこらに住んでいる者たちと違って、大切な知識を頭の中に抱えている私たちは、司様の許可を得ずに砦に行ってはならない決まりだぞ。わかっているだろう」
梧桐は心底驚いた。
「でも、俺……わたしは、砦に行ったことはないです。行くのは、あの近くの昔の観測塔です」
「砦には行ったことがないというのか?」
「はい」
志多は、信じないぞ、というように目を細めた。
「おまえは、ここへ学問を修めて役立てるために来たのだろう。遊びたい盛りの年ごろなのはわかるが、外へ行ってばかりでは何をしに来たのかわからん。そして、自分の行いを信じてほしければ、疑われるようなことをしないに限るな」
「遊びに行きたいのではないんです」
梧桐は、思わず言葉を返してしまった。
「では、なんだというのだ」
なにも言わないほうがよかっただろうか、と梧桐は思い、でも出てしまった言葉はどうしようもない、と思い直した。
「雲や星を学ぶのなら、天を仰がずに書物だけを見ているなんて……それだけではもったいないと思うんです。せっかく空が……見上げればそこに空があるのに」
「司様から知識を学ぶより、外で空を見上げているほうがましだと言いたいのか」
梧桐はあわてて首を振った。
「そうじゃないです。でも、学んだことも、実際の空で確かめてみたいと……」
「館には観測台があり、先輩たちが日夜きちんと観測しては記録をとっているのをおまえも知っているな?」
「……はい」
それは、その通りだったし、新入りの梧桐でも、望めば観測の手伝いをさせてもらうこともできた。しかし、先輩たちの観測は、季節も天も、その自然のことわりに従って決まり通りの変化をすることが前提になっていて、観測というより習慣のようだ、と思うこともあったのだ。
「あの塔は、もともと昔の風の司が建てたと聞いています。わたしはまだ、先輩たちと同じように天を観測する知識はないけれど、自分の目で、見える限りの天を見たいと思うのです」
そして、誰にも邪魔されずに、ただ驚きたいのだ。天の変化、星々のきらめきのひとつひとつに。
「結局、遊びだということだ」
志多は、冷たい口調で言った。
「おまえは、自分の分をわきまえるということを覚えなけりゃならんな。ここでは一番の新参者だということを忘れずにいるがいい。それから、疑いを招くようなことは慎むのだな」
捨て台詞のようにそう言って、志多が書庫を出て行くと、梧桐は思わず深いため息をついた。
先輩たちの中で、あの人が一番苦手だ。どうしてだろう。どうしようもないのかもしれないけれど。
志多は、則の司の縁者だと聞いたことがある。本当は則の館に入りたいと思っていたのかもしれない。
司の弟子になるためには、まず学問に秀でていなくてはならないが、それだけではない。子どもたちは、近くの司の館に通って、読み書きや計算、都の歴史や自然界の様々なことなどを学ぶ。そこで一番優秀なら司の弟子になれるかというと、そうとは限らない。
例えば、則の司の弟子になるには、素行に問題があってはならない。則の司は、罪人に科す量刑を決めることもあり、住民同士のいさかいを収めることもある。信頼に欠けるようなふるまいは許されないのだ。
このほか、司によって手先の器用さが求められる場合もあり、冷静な思考力や決断力になる場合もあった。梧桐は、自分が風の司の弟子になれたのは、遠くがよく見えるいい目をしているからだろう、と思ったことがある。
志多は、学業は優秀だったのだそうだ。風の館でも、たちまち兄弟子たちに追いついて、短期間で歴代最年少の補佐になったのだ。素行にしても、自分も他人もきびしく律する人物だ。
それを考えれば、梧桐に言ったことにしても、杓子定規なまでにけじめをつける志多の性格の表れであって、不満に思ってはいけないのかもしれない。
梧桐は、机に頬杖をついた。
それでも、やっぱりあの人は苦手だ。しかたない。相性が合わないってことかもしれない。アカハシとシロオナガだって、どっちもおとなしい鳥なのに、同じ籠に入れたらケンカばっかりするもんな。
もう一度書物にもどろうとしたとき、食事を知らせる鐘が鳴った。