訪れ
家に帰ってテレビを点けて暇を潰していた。携帯電話は時として電波が一本立つこともあるものの、基本的には圏外という姿を示している。そのためかこの田舎で携帯電話を持つ人物はほぼ誰もいないのだという。春夜は例外な人生を背負っているため持ってはいるものの、繋がるのは職場、もしくは帰りの寄り道の時のみだという。余程参った時には電話を掛けるものの、基本的に繋がることがないようだった。分かっていても電話を掛けてしまうのはもはや職場付近にいるときの癖だと語っていた。
このような場所では未だにテレビや本といったものが娯楽の中心にあるということを知って冬子はついつい訊ねてしまう。
「今どきの生活に憧れないんですか」
春夜が微笑みながら答えることによれば退屈はあっても悪いことばかりではないという。現代の文明の洗礼を受けてしまっている二人には想像も付かない程度の不便だった。
祖母は何を煮込んでいるのだろう。何を切っているのだろう。音の響きだけでも楽しみになってしまうのだから不思議で仕方がない。そんな好奇心を抑えつつテレビと向かい合う春斗をよそ目に冬子はリビングの出口、キッチンに続くそこの天井から下がっている台に神棚が飾られているのを見た。お供え物の酒はカップ酒と少量のごはん、更にその場に飾られている異物に目を向け訊ねる。
「これってここに飾るのですか」
ナスとキュウリ、それぞれに割りばしの脚が伸びているそれは冬子も見覚えがあった。精霊馬と精霊牛。盆の時期であれば普通に飾られていても疑問に思わないものだろう。ただ、飾られている場所に違和感を覚えてしまう。
「この地域だとリビングの神棚に飾るの、あとこれも」
精霊牛の隣を指すひとさし指に従って目を向けてみるとそこにはソラマメの姿があった。それは冬子にとっては異物中の異物。二つとの関連が見えなくてお供え物の一つと思ってしまう様。
「これは私たちの思い出を乗せる荷車」
きっとこの田舎にのみ伝わる風習なのだろう。どこにいても聞いたことのない話は冬子の心を打つ。
「優しいのですね、この辺りのみんな」
「ええ、暖かいわ」
春夜の笑みは明るく美しい。今更になるものの疑問を抱いた。春斗の母は来ないのだろうかと。
「春子なら七月の内に帰って来たわ。今は帰って働いてるみたい」
現代という社会の在り方においてはよくある光景だった。盆も年末年始も働くことは珍しくもない。春斗も特別に休みをもらって帰省しているに過ぎないという現実を持っていた。
夕飯は鯛の刺身にジャガイモとこんにゃくの煮物。あとは稲荷寿司を主食として一升瓶の日本酒をそれぞれの湯飲みに注ぐという形を取っていた。刺身の身は分厚く歯ごたえのある噛み心地。臭みも見られず醤油の香りがしっかりと口の中で広がっていく。これがこの地域での頂き方なのだろう。
「脂が乗ってますね」
日頃見かける刺身との違いに驚きという栄養を摂取する。新しいものはいつでも心の換気を施してくれるものだった。追加で運ばれてきた味噌汁にはキャベツや玉ねぎが浸かっていて、愉快な雰囲気が漂っている。そんな日頃はあまり味わえない夕飯を心いっぱいに頬張り日本酒を少しずつ飲んでいく。暑くて苦しい気候も夜には収まるかと思えばそう行かず、エアコンに頼りっぱなしの今、そこで温まるような心地に溺れる事は罪に問われるものだろうか。恐らく近所の酒蔵で売られているものだろう。日頃からは考えも付かないような贅沢に肩まで浸かっていた。
「じゃあ、春斗からお風呂どうぞ」
そうして一日の終わり、睡眠の訪れは近づいて来た。
それは何処に眠っていた思い出なのだろう。春斗は昼頃に見かけた景色と同じものを見つめていた。同じはずなのに大きさが違いすぎるように感じられる。田畑も広く、もはや異なる景色と言っても差し支えない。
そんな景色に心打たれる春斗の隣に皴まみれの老人の姿が現れる。春斗は頭を上げる。陽光に照らされた笑顔はあまりにも懐かしい。祖父はこれほど大きかっただろうか。
気が付いてしまった。これは、幼少の頃の記憶。分かったところで祖父は思い出になかった言葉を差し出した。
「行こうか」
祖父と二人きりでどこかへと向かった記憶など一つたりとも持ち合わせていない。いつでも母か叔母たちが同伴していた。
「この記憶は、何」
思わず声に出してしまっていた。
「行こう、行くんだ」
どこを目指すのだろう。違和感に飲み込まれ、夢は崩壊した。
暗闇の中、春斗は意識のないまま身体を震わせていた。冬子の目は夜闇に慣れていなかったものの、その気配をつかみ取るために視覚など必要としていなかった。薄汚れた気配、土と禍々しい何かを被った重々しい感覚は背負っているわけでもない冬子にまで襲い掛かってくるように思え、焦りのままに携帯電話を取り出した。電波が一本、奇跡的な話はすぐさま通話の開始へと事を運ぶ。従姉妹へと繋がる番号を押して待つ。春斗の荒い息遣いと自分の心音と呼び出し音の響きに焦りはさらに募る。
やがて通話は開始された。
「もしもし」
「天姉、助けてほしい」
「お困りごとかい」
のんきな様は確かに天音のもののはず、しかしながらその後ろに不気味な音を聞いた。
「どうしたのかい」
「行こうよ」
異音、不気味な音が声となって冬子の耳を通り抜けていく。
「助けて」
「代わって」
「なあ俺たち苦しいよ」
騒がしく禍々しい雑音たちを振り払うべく冬子は勢い任せに通話の終了ボタンを押し、携帯の電波が圏外を示している様を確かめ、春斗を抱きしめて祈る。それだけしか出来ることがなく、冬子は己の無力に苛まれながらやがて意識を落とし、時は溶けて行った。




