お香
目の前で紙を広げる女の姿を見て、三滝は驚きで溢れ返ってしまいそうな心情を振り回しながら近付いていく。ガラス戸の向こうからのメッセージ、そこに記された言葉を見つめては己の調査は記事の質を高める方向へと進んでいるのだと思い知った。
この家は今、霊に囲まれてる。退魔師が来るまで待って!
感嘆符まで付けられたメッセージに対して頷くと共に自分が立っているところに、きっとその場に霊が立っているのだと思うだけで寒気が走る。
「そんなはずは」
きっと何かの間違いだろう。もしかするとこの村では風習や噂話と言った人の脳に積もった情報と新鮮な感情を利用して幻覚を見せてくる細菌でも漂っているのかもしれない。そこまで考えた上で首を左右に振る。どちらも同じ程度に非現実的だった。確かにこの辺りでは日頃と比較して盆の行方不明者が多すぎる。しかし、彼らの発言を真に受けて語るのはあまりにも現実を知らなすぎる。
三滝は考えた。もしかすると原因は水脈や磁力と言った目に見えない部分での力の作用かも知れない。一定の周波数の音が霊を呼び寄せるという話もあれば見えないエネルギーが頭痛や下端の重みを呼ぶこともある。意見としては十分だろう。
しかしながら迷信を妄信した人物に対して如何なる言葉を用いれば現実を向いてくれるものだろう。やはり彼女が連絡したという退魔師を待つのが楽だろうか。あまりの暑さに噴き出る汗がカッターシャツを濡らして張り付いて、気分は最悪を極める。日差しが容赦なく熱で肌を刺す。天空から降り注ぐ通り魔とでも呼べばいいのだろうか。嫌な時代に生まれたものだと思い知らされている事数十分。果たして彼女が呼んだという退魔師がここに来るまであと何時間を要するのだろう。夜まで待てと言われれば、などと考えていると気が気ではなかった。熱中症は今か今かとその手を伸ばして待ち構えている。三滝の命を攫えそうな体力まで熱で削ろうとしている。もしも死してしまえばそれこそ山の中にでも埋められて神隠しという扱いを受けてしまうかも知れない。
もしも日が沈むまで退魔師が来なければ諦めてしまおう、などと覚悟を決めていたその時だった。
自然とは釣り合わない音が転がり軽自動車の頭が見え始める。この急な坂を上ってきたのだろう。果たして退魔師なのだろうか。不安を覚えつつもそうあって欲しいと願っては車の頭から顔、金属の身体から回り続ける黒いゴムのタイヤが姿を現す様を見つめ、敷地内へと入って来たことを確認してようやく安心を得た。
車は動きを止める。助手席から降りてきたのは薄茶色の髪を揺らした粗末な白い着物を纏う痩せこけた女。この時点で三滝の安心感は更に強まる。運転席から降りてきた女は身体のメリハリが効いていて色っぽさ全開の体型の持ち主だった。後ろ髪を結った紫色のリボンは彼女の顔から想像できる年齢よりも年季が入っているようで本来の年齢はと想像を掻き立てる。
着物の女はお香を焚き、左手に乗せて右手で煙を掻き混ぜながら近付いて、三滝の方へと歩み寄る。
「そこ、この世のならざる世に落ちた者がいるねえ」
天音は晴香に目を向け飛び切りの笑顔を見せつけ声を鳴らし言葉を奏でる。
「今すぐ開けな」
従うままに晴香はドアを開いて入っていく。続いて天音も入ろうとして、しかし動きを止めた。
「アンタも入りたきゃ入りな」
三滝は動揺に上ずった声で返事を上げながら晴香と同様あの家に上がり込む。
そんな様子をしっかりと見届けて天音が最後に上がり、ドアは再び閉じられた。
「冬子、アンタも旦那も救いに参ったよ」
天音は言葉と共に春斗を仏間へと運び込み、四隅の柱にお札を張ってお香の煙を充満させ、お経のような響きを持った言の葉を散らす。天音が唱えるものは如何なる祝詞なのだろう。三滝には分からない。天音の声の響きに負けない乾いた音が等間隔で響いている。晴香が木魚を叩いている姿を見てますます不明が増えていく。
やがて天音は足を踏み出し黒い棒状のものを取り出した。更に一歩踏み出して体をねじり春斗に肩を向けつつ棒状のものを開いて扇の姿へと変える。夜から朝へと塗り替えられていく青空の姿を思わせる扇子の柄は心に澄み入るような心地を抱かせる。
やがて舞を始める。先程まで響いていた木魚の音はいつの間にかリンの落ち着く金属音へと変わり果てていた。
やがてそんな舞も終わり再び静寂が訪れる。鳥やセミの鳴き声が交わり熱気を練り上げ作り上げた雰囲気は眺めているだけでは想像も付かない程に冷や冷やしていた。
「部屋から出なきゃ問題はありゃしないかな」
首を傾げつつそう告げる天音の表情には無理やり張り付けたような薄っぺらな余裕が宿っていた。強がりなのかもしれないし本音かもしれない。彼女の本心を見抜くことは容易ではないと感じられた。
「原因を探らなきゃいけないのかねえ」
外を眺めて鬱陶しさ全開の表情で声を靡かせる様は暑さに呆れる一般人のそれだった。




