小峠澄と名知らず
小峠が下関市を訪れたのは秋の深まる夕刻だった。先日までの暑さは去り、夕暮れの冷たい空気が小峠の鼻奥をツンとツイた。
寒さに震える小峠が帰りたい気持ちを抑えて取材に来たのは下関市に『名知らず』という食べ物があるからだった。
下関市は漁村であった。村の生計は殆ど漁業によって成り立っており、農業林業などの山仕事は殆ど行われていない。それだけ海幸に恵まれた地域といえる場所で取れる食べ物が小峠の目的だった。
小峠は立て付けの悪い食堂の扉を開いた。暖かな空気が小峠を包む。少しの安らぎに心地よい思いをしながら店内へ入った。
ソコは、『コの字形』のカウンターテーブルと『4人で囲える』テーブルが2つ並ぶ小さな食堂だった。テーブル席にいる二人の男は顔を真っ赤にしながら酒を酌み交わし、時折大笑いしていた。店内のあちこちに黒ずみや汚れが目立ち、壁にかかるメニューは黄色く汚れている。
「いらっしゃい。適当に座って」
40半ばを過ぎた小太りの女がこちらへ一瞥をくれることなく言った。小峠は言われるままに席へついた。
「今日のおすすめは切らしたよ」
ぶっきらぼうに言う女の後ろから小峠は声を張った。
「『名知らず』と呼ばれる食べ物を食べに来たんですけどありますか?」
小峠が言い終わらないうちに耳が割れるほどの笑い声が響いた。
「『名知らず』だぁ?ダハハハ」
「ダハハハ」
テーブル席に座る酔っ払い達は大笑いしながら机を叩いた。
小峠は二人を圧を込めて睨んだ。親父たちは小峠の様子に口を隠しながらにヒヒと笑った。
「嬢ちゃん本当に『名知らず』を食べたいのかい?」
女は振り返ることなく小峠に言葉を飛ばした。小峠は酔いどれ親父の言葉に違和感を覚えたが、「お願いします」と口にした。
「そうかい」
女は厨房の端へいき、大きな鍋を掻き回した。湯気立ち上る厨房で器へ何かを注ぎ、慎重な面持ちで小峠のそばへ来た。
「はいよ。『名知らず』だよ」
カウンターへ座る小峠の眼前に湯気が立ち上る器が置かれる。
手のひらほどの小さな椀へよそられていたのは白色のスープだった。小峠はカウンター脇に置かれた割り箸を手に取ると、椀を持ち上げた。
味噌の香りがする。小峠は一口それを飲んだ。味噌の淡い香りと舌で踊る鰹出汁の旨み。喉を通り胃に落ちていくまでの体を温めるような感覚。それはまさしく味噌汁だった。
「『名知らず』?」
小峠は首を捻った。
「その中に入ってるだろ?」
女はニヤリとしながら鼻で笑った。小峠は味噌汁を掻き回すと具材を箸に絡めた。ワカメと豆腐が湯気を伴いながら顔を出した。
「『名知らず』?」
小峠は再度首を捻った。
「ねぇちゃん何も知らないんだな。俺らの地域ではワカメを名知らずって言う時があるんだよ」
隣の親父がニンマリといい笑顔で笑った。
ワカメが名知らず? 小峠は言葉の意味がわからず頭を抱える。女は小峠の隣へ座ると肩をすくめた。
「私たちはタイミングによって『ワカメ』と言ったり『名知らず』と言ったりするのさ」
小峠は音が出るほど早く顔をあげると女へ向き直った。
「な、なんでですか?」
女は少し左上を見ながら顔をぽりぽりと掻いた。
「この辺にある住吉神社って知っているかい?」
「わかります。福岡の住吉神社の荒御魂を祀られている神社ですよね」
「そう。住吉神社の祭りで一番重要な神事って何か知ってる?」
「それは知りません」
「そうかい。まあいい。いいかい。住吉神社では元旦に和布刈神事という神事を行うの。この和布刈神事ではワカメを刈って神様へお供えするわけね」
いきなり始まったウンチクに小峠は気の抜けた返事を返した。
「はぁ」
小峠の顔を見て女は顔を顰めた。
「そんな顔しないの。重要なのは年間でこの時だけしか私たちはワカメを刈らないの。刈るにしても神主だけが私たちの見ていないところで刈るわけ。それだけここではワカメを大事にしているの」
「ここってそんなにワカメが取れないんですか?」
「最近は船の影響で取れないけど、船がなければ普通に取れるわよ。問題なのはこのワカメの所有者が神様だということよ。私たちは神様のワカメを絶対取ってはいけないの」
「そうなんですね。ただ、それとこれになんの関係が?」
「勿論神様のワカメではあるけど、魚が取れない限り、私たちに食べるものが何も無くなってしまうの。そうなった時、私たちが取れるのは『ワカメ』くらい。だけど、ワカメを取ると神様のバチが当たるでしょ。だから私たちはこの食べ物の名前を知らないよ。『名知らず』と言って食べるのよ」
「それで『名知らず』なんですね」
「とはいえ今更『名知らず』なんて呼ぶ人なんていないけどね」
「そうなんですね」
小峠は感慨深く頷いた。けれど心の中で考えていることは違った。今回のネタこそ美味しいものだと思いお金を借りてまでここへ来てしまったことを。
借金返さないと。小峠は変に塩味のする味噌汁を啜った。




