雪下の温もり
九話 雪下の温もり
旭が目を覚ましたのは、まだ日が登っていない午前4時。昨夜、屋敷からの帰りの車ぐらいからの記憶がない。彼女は自分の部屋で目覚めたことに驚いて、思わずコンコンコンと、3回のノックを響かせる。返答はない。永坂の気配がなかった。
(…あ。)
左手首を見てハッとする。もう永坂との間に鎖がないのだ。最近すぐそこに感じていた彼の気配がしないのは、そのせいだと思って、旭は直接隣の部屋に向かった。
コンコン
ノックの音だけが響く。一応礼儀的にノックをしたものの、さすがにこの早朝に起きているとは思えない。旭は恐る恐るドアを開けた。
いたらどうしよう、と思ったものの、中には誰もいなかった。それどころか、ベッドには寝た形跡がない。彼はこの部屋に戻ってきていなさそうであった。
「ナオさん?」
呼んでみても返答はない。全ての部屋を確認するが、大柄な永坂が隠れられる場所は存在しない上に、隠れる意味もわからない。
旭は嫌な予感がした。屋敷での永坂は、水原の言葉に揺れているように見えた。もしかすると、彼は。
(そんなの、嫌だ。)
旭は携帯を取り出して、榊の助手である中野に電話をかけた。
『…はい…中野です。』
眠そうな声にも罪悪感のわく暇はない。旭は捲し立てるように言った。
「早朝にすみません、榊さんいますか。」
慌てた様子の旭に、中野は少し待っててください、と告げる。何かを察してくれたようだ。
しばらくして、電話の奥が少しうるさくなる。揉めているらしい。眠い、旭、などの単語が飛び交って、いつもよりも不機嫌そうな榊が電話に出た。
「もしもし、榊さんですか?ナオさんに連絡取れますか?」
彼も旭の声色で、緊急事態を悟ったらしい。不機嫌だった態度が一変する。ちょっと待ってて、と言い残して、彼は自分の携帯で電話をかけ始めた。
『…繋がらないね。昨日、何があった?』
手短に説明すると、榊が舌打ちする。
『まずいな。絶対あのバカ、1人で行っただろ。』
榊の言葉で、嫌な予感が首をもたげる。考えたくはないが、もしも永坂が1人で水原に会いに行っていたら。
『旭ちゃん、暁橋ってわかる?』
尋ねられて、旭は頷いた。7並べの方向をずっと先に行ったところにある、少し長めの橋のことである。
『たぶん、2人が会うならそこだ。いつもの待ち合わせ場所ってやつ。』
「わかりました、ありがとうございます!」
君も十分気をつけるんだよ!という榊の言葉の途中で切って、旭は走り出していた。
遡って、午前0時。永坂は榊の読み通り、暁橋にいた。人気のまったくない橋の上、その真ん中あたりにぽつん、と水原だけが立っている。
「よぉ、ナオ。さっきぶり。」
呑気に手を挙げる水原の頰には、旭につけられた傷があって、軽く腫れていた。
「いやあ、旭ちゃん。強いな。唯子のビンタくらい痛え。」
彼は橋から、流れる川、その奥に見える街の景色を眺めているようだった。永坂もその隣に並んで、同じ景色を見る。
「話の続きを聞きに来たのか?」
水原はまたビンを取り出して、ことんと手すりの上に置いた。その中には、黒い塊が入っている。永坂は、それに見覚えがあった。
「それを、どうやって使うつもりだ。」
ビンの中に入っているのは、唯子と水原の間の『子ども』である。真っ黒なそれは、人というよりも炭に近い。
「…俺はさ、あの事件以来、必死に探してたんだよ。『異能』を消せる方法を。そのときは、こんな強引な手段をとるつもりなんてなかったさ。でもな、お前にも見せた通り、汚ねえんだよ、『異能者』って奴らは。」
水原の目が、暗く光る。
「いつしか俺は、もう嫌になっちまって。こんな世界で唯子を生かしていることも、ナオが苦しんでいることも、ぜーんぶ嫌になった。」
永坂は目を逸らさなかった。横にいる相棒であった男が、何を見てきたのかは知らない。でも、理解してやりたかった。
「この子はな、『杉崎』の『力』の塊なんだ。今の唯子に使ってやれば、あいつを殺してやれる。」
永坂が唇を噛む。水原が何をしようとしているのか、なんとなくわかってしまった。
「…アポトーシスって知ってるか?」
アポトーシス。能動的な細胞死。自身の中で不要な細胞や有害な細胞を取り除くための生体の機構。
「『異能者』はがん細胞だ。取り除いてやらないと、大変なことになる。お前だって、それを理解できるだろう?…杉崎勇気は化け物だった。だが、奴のおかげでこれは実行できる。」
水原が、永坂の方を見た。
「唯子から始めて、彼女の中の杉崎の『力』の濃度に、俺が繋いだ『異能者』たちの濃度を『合わせる』。杉崎の『力』なら、多くを一息に殺せる。」
彼は永坂に向かって、手を差し出す。
「4年ぶりの、相棒からのお願いだ。隣にいてくれ、ナオ。」
永坂はその手をじっと見つめ、しばらく黙っていた。目の前の水原は、かつて自分の隣にいた水原で、疑う余地などない。だが、彼の提案は『異能者』の大量虐殺に協力しろ、ということである。顔を伏せた永坂の目が、右手に向いた。
『いかないで。』
そう言った旭の声が頭の中に響く。
「…なぜ、旭を巻き込んだ?」
静かな声だった。その目も静かに揺らめいていた。暗い海を思わせる色。水原は、目を逸らせなかった。
「5年前のことを思い出させたら、お前の足が止まってしまう可能性を考えた。そのときの推進力になってくれる、『巻き込まれた一般人』の存在。…そして、お前にとって大切な人を増やすため、だ。」
そこまで聞いて、永坂はフッと笑った。自分に対しての嘲笑である。本当に、旭は永坂に巻き込まれただけだったのだ。
「お前の『異能』は、大切な人がいればいるほど強くなる。その絆が強くなればなるほど。だが、5年前からお前は、人と距離を置くようになっていた。…本当は、俺の正体を明かして、俺との絆を繋ぎ直すつもりだったんだけどね。ほら、あのドラム缶のときに、最終確認をしたんだよ。助けに来るメリットなんてほぼないのに、マジで最短時間で助けに来ちゃったじゃん、お前。よっぽど必死だったんだな。」
13として、水原はエースに時間を稼がせた。それは、永坂がどれくらい旭に心を許しているかを、知るためであったのだ。
永坂は、水原が予測した最短の時間であそこに辿り着いた。人を呼ぶのを後回しにして、だ。
「可愛いもんね、あの子。何?好みだったの?」
揶揄う口調。永坂は、めんどくさそうに振り払って、水原に呆れの眼差しを向けた。
「あいつは、そういうのではない。ただひたすらに、放っておけなかった。…それだけだ。」
相変わらず、そういうの苦手なのな。永坂の仏頂面を見た水原は笑う。
「あとは、お前に失う恐怖を思い出させたかった。…これは実行するに至らなかったけど。そこまでは、まだ、だろ?」
永坂は目を伏せて黙った。彼の反応に、水原は楽しそうに目を細める。
「あの子は、土壇場で巻き込んだにしては、期待以上の働きをしてくれたよ。お前をここに引っ張り出せただけでも上等だ。予定は狂っちまったけど、俺と繋ぐよりも良い結果だったかもな。」
冷たい風が、2人の間を吹き抜けた。訪れる少しの沈黙に、2人とも同じように遠くを見つめる。遠くに輝く街並みは穏やかで、隣の水原も穏やかに笑っている。だけど、永坂の心は。
「…同じはずだったのに、遠くまで来てしまったな。」
その一言に、水原は少し苛立ったように言う。
「だから、また同じところに来て欲しいんだろ。」
永坂は軽く背を押せば、堕ちてくる状態だった。5年前のことを割り切っているようで、思い出すと立ち止まってしまうくらい。
水原はその背を蹴り飛ばしたのだ。不必要なくらい強く蹴り飛ばした。だが、それに気づかない。
永坂は懐から紺色のリングケースを取り出す。水原が笑顔を引き攣らせた。
「まだ、持ってたのかよ。」
永坂はそこで初めて、水原に対して笑いかける。悪戯っぽく瞳が光った。
「何を。お前は俺の『異能』に関してよくわかっているはずだ。大切な人がいればいるほど、強くなる、と。これは、それの証だったんだ。たとえ死んでいたって、お前は俺の大切な人だった。」
大切な人が、その絆が無ければ永坂は弱い。5年前、たくさんのそれを失った彼は、一度生きることを放棄しかけた。それを繋ぎ止めたのが、水原との『約束』。それを示すリングケース。
「後のことは、早岐や御厨に託してある。旭も俺から解放された。俺が追わずとも、もうお前らは、追い詰められている。…そして、俺がいなくなれば、お前の計画は瓦解するだろう。」
握りしめたリングケースを見つめ、少しだけ悲しそうにすると、永坂はそれを川に投げた。
川の流れは遠すぎて、水柱が立ったかどうかすらわからなかった。
永坂の突飛な行動に、水原は呆気に取られてしばらく動けない。
「ナオ、何を。」
彼がやっとのことで言葉を絞り出したときには、永坂の体が透け始めていた。水原でさえ、何が起こっているのかよくわからなかった。
「お前が、俺に命綱を捨てさせる決心を固めさせちまったんだ。バカだな、壱騎。」
苦々しく言い残して、永坂は消えた。跡形もない。彼のいた場所に手を翳しても、何にも触れない。
残された水原は、永坂のいた跡を見つめて、ただ呆然とするしかなかった。
旭は走った。誰もいない道をひたすらに。嫌な胸騒ぎが消えてくれなくて、喉が寒さに灼かれるような、そんな感覚に襲われても走った。
(いかないで、って言ったのに。)
曖昧ながらも、自分の頭を撫でてくれた温もりが思い出される。
(どこにも行かないって、言ったくせに。)
暁橋周辺には、誰もいなかった。白い息が立ち止まった旭の口から、断続的に溢れ出る。橋を一度渡ってみても、誰もいない。戦った形跡もなかった。旭は集中した。
(……!)
一瞬、永坂の『力』が薄く残っているのが視えた気がして、彼女は必死に探す。
「ナオさん、返事をしてください。」
幾度も橋を行ったり来たりした後、旭は橋の中腹に立って、あたりを見回した。何も視えない。でもなぜか、彼はここにいる気がした。
『彼、案外危ういギリギリを生きてる人間だから。』
そう言ったときの、榊の顔が思い出される。彼は本気で永坂を案じていた。彼がいつか消えてしまう。そのことを怖がっていたのだろう。今、痛いほどその気持ちがわかって、旭は白い息を吐いた。
ふと、自分の左手が目に入る。もう、解放されたはずなのに、そこに何故か彼の存在を感じた。
(…そうだ、いつも、私は。)
目を瞑って、彼のことを追った。無口で、無愛想で。それなのに、態度には滲んでしまう優しさが憎たらしい。褒めるときに律儀に頭を撫でてくれるところ、「面倒だ」と言った声色に滲む親しみが。
幾度となく与えてくれた温度が恋しい。繋がれた厄介なあの関係が、無性に恋しい。
頭の中でもう一度彼の輪郭を描く。日に透かされると、茶色みがかる黒鳶色の髪の毛、冷たいようで奥に温もりのある黒い目、いつも受け止めてくれる大きな手。
いつの間にか、雪が降り始めていた。睫毛に雪が積もる。それを振り払って顔を上げると、永坂が立っていた。そう、視えた。
旭は思わず息を呑んだ。生気のない顔、虚ろな目。たまらず、彼女はその胸に抱き着いた。
「ナオさん、寒いです。帰りましょう。」
永坂の体はとても冷えていた。温もりを与えるようにぎゅっと強く抱きしめる。とにかく早く、連れ帰りたかった。
「ナオさん、わかりますか?…永坂忠直さん。あなたの名前です。戻って、きて。」
それでも永坂は、微動だにしない。旭は泣き出していた。
「嫌です、いかないで。」
背伸びして、彼の耳元で震える声。情けなく、涙がボロボロ溢れた。
「いかないでください、ナオさん。お願いです。」
雪がしんしんと降っていた。柔らかく体を冷やしていくそれに、旭は泣きながら凍える。気温が、薄着のまま走ってきた彼女の体温と馴染み始める。
「…いかないで。」
旭が囁くように言うと、その頭をゆっくりと、冷えた手が撫でた。
旭はびくりと震えて、見上げた。永坂が自分を見下ろしている。その目には。
「この、馬鹿ッ!!!」
思わずぶん殴ってしまった。よろけた永坂を押し倒して、旭はその胸に縋る。熱い涙がドッと溢れてきて、彼女は堪え切れず、しゃくり上げた。
「すまなかった、旭。」
起き上がった永坂は、胸を叩き続ける旭の頭に手を添えて謝った。優しく撫でると、彼女は強めに彼の胸を殴る。
「馬鹿なんじゃないですか。何の言伝もなく、どんだけ、人が、ッ……。」
その場凌ぎの嘘なんてつける人じゃない。それでも書き置きすら残さず、ただ去った永坂を旭は許せなかった。
「悪い。…まさか、来てくれるなんて。」
その言葉でさらに旭は燃え上がった。
「来るでしょう!?言ったはずです。どこにいたって、何をしてたって、私は行きます。本当、死んだかと、思って。」
泣きながら喚くので、自分がどんな顔をしているのかとても怖い。それでも旭は、怒りも安堵も悲しみも、全部抑えられなかった。
「…俺が、寝返るとは思わなかったのか。」
落ち着かせるように、永坂の手が旭の背に移る。ほんの少しだけ体温が戻ったような気がして、旭も少し落ち着く。
「思いません。でも、相手を殺して自分も死ぬようなことは、するかなって。」
榊や部下たちを裏切れるような人ではない。だが、いざとなれば自分を投げ出す判断をする人ではある。旭は本気で、死んだと思ったのだ。
「…生きていてくれて、良かったです。本当に。」
胸に縋り付く子どもをあやすように、永坂が頭を撫でてくれる。それにまた涙が溢れてきて、洟をすすった。
「…よく、俺を見つけたな。」
永坂は驚いているようだった。完全に消えたつもりだったのだ。
「あなたの気配がしたんです。…あはは、私、本当に忠犬かもしれないですね。」
一瞬捉えた永坂の『力』から、手繰り寄せた。離さないようにしがみついて、彼の名を呼んだ。彼の目に生気が戻った瞬間、どれだけ安心したことか。
軽く笑った旭を複雑な顔で見て、永坂は眉間に皺を寄せた。
「もう巻き込まれなくてもいいんだぞ、お前は。」
彼女の擦って赤くなった目を、永坂が真正面から捉える。久しぶりに目が合った気がした。
確かに、もう2人の間に縛りはない。旭は永坂を探さず、あのまま帰っても良かったのだ。
しかし彼女は彼の頰に触れると、真っ直ぐに言葉を放った。
「言ったはずです。あなたを守ると。私は巻き込まれてるわけじゃないんですよ。自分でここにいたくています。…いい加減わかってくださいよ、ばか。」
自分を写す、真っ直ぐで丸い目から、ぼたぼたと涙がこぼれ落ちる。永坂は困ったように目を伏せた。
「泣くな、旭。困る。」
ハンカチで、ぐしゃぐしゃな顔を拭われる。旭は永坂を睨みつけた。
「困るくらいで丁度いいでしょう。私、怒ってます。」
イーッと歯を剥き出すと、永坂はやっと気が抜けたように笑った。旭はぷいっとそっぽを向くと、立ち上がり、彼に手を差し出す。
「帰りましょう。寒いです。」
永坂の手は少し温かくなったとはいえ、冷えている。今は旭の手の方が温かかった。永坂は素直に彼女の手を掴む。
「旭、ありがとうな。」
ぐしゃぐしゃと、また頭を撫でられて、じわっと涙が滲んだ。それを見られて、永坂に揶揄われる。
「ひどい顔だな。」
「もう一発いっときましょうか。」
間髪入れず、パキパキと指を鳴らし始める旭に、彼は笑いながら勘弁してくれ、と言った。帰り道、2人は並んで歩いた。
今日は私が作ります、と宣言した旭がキッチンに立ってから、小一時間経過していた。永坂は、落ち着きなく周辺を歩き回ったため、旭に部屋に放り込まれてしまった。
張り切る彼女に不安しかない。自炊はしていたということは知っているが、不安しかない。
そんな彼の携帯に着信があった。榊である。
『この馬鹿!ド阿呆!ふざけんなっ!!』
第一声から罵声が飛んできて、永坂は耳がキーンとなるのを感じた。充電の切れていた携帯が復活して早々これである。確認すると、何十件も不在着信が入っていた。
『…はー、はー…旭ちゃんがいなかったら、どうするつもりだったわけ?そのまま消えるつもりだった?マジでふざけんなよ、永坂忠直。』
榊の声にも怒りが滲んでいる。かなり心配をかけてしまったらしい。仕事がなければ乗り込んできていた勢いだ。
「悪かった。榊。」
謝ると、その2倍3倍の罵倒が飛んでくる。永坂は、しばらく黙って聞いていたが、ふとしたタイミングで笑った。
『何笑ってんの?ムカつく。』
悪い、と低く言って、永坂は目を瞑る。
「いや、俺が死ぬことで、怒ってくれる奴らがいるのは、すごく嬉しいなって。」
さらに怒られるか、と身構えるが、榊は黙り込んでしまった。永坂は彼の次の言葉を待つ。
『…はぁ。マジで勘弁してよね、ほんと。マジで…はぁ。死ぬとか、冗談でも言うなよ。本気だからタチが悪い。』
少しだけ榊の声色が落ち着いた。
『あれ、なくても今平気なの?』
尋ねる声に心配が滲んでいる。あれ、とはリングケースのことだろう。
「……そう、だな。今は大丈夫だ。お前や旭の声を聞いたら、安定したらしい。」
そう言いながらも、永坂は今もまだ、生きている実感が薄かった。
旭を置いて家を出たとき、彼は完全に『消える』覚悟であった。自身の『異能』が、5年前のことがあってからずっと不安定なことには気付いていた。一歩間違って自我を取りこぼせば、2度と戻ってこれないであろう状態。
それをどうにか繋ぎ止めていたのが、あのリングケースが象徴する水原との約束であった。
あれを捨てれば、自分は暴走する『異能』を制御できずに空気と同化し、消える。それを水原の目の前で行えば、彼の計画を折るとともに、その心も挫くことができるのではないかと考えたのだ。
それは成功した。だが、永坂は今もここで息をしている。それは、誰のおかげであったか。
「なあ、榊。」
榊は何も言わなかった。永坂の言葉を待ってくれているのだ。3秒ほど口に出すことを躊躇うが、榊の沈黙に甘えて呟くように言った。
「旭に、頼ってもいいだろうか。」
途端に電話の奥で、深くて長いため息が聞こえる。榊が呆れ果てました、と言わんばかりに顔を顰める姿が、簡単に想像できた。
『お前がいなくなったときの旭ちゃんの様子知ってる?知ってるわけないね。馬鹿だからね。』
何も言い返せずに永坂は黙り込む。
『あの子、ほんと、なりもふりも構ってられないって様子で、必死だったよ。…大事なんだよ。一緒にいた期間とか関係なく、あの子はお前のことを大事に思ってる。』
榊の説教が永坂の柔いところに沁みた。
頬の痛みと、抱き締められたときの体温が、まだ残っている。旭はコートも着ていなかった。永坂が消えたことに気づいて、どれだけ慌てて走ってきたのかは、容易に想像がつく。
『巻き込むとか、巻き込まないとか、言ってる段階は終わったの。くだらないこだわりは捨てろって言わなかったっけ?』
怒っているような、呆れているような。そんな彼の声を聞くのは久しぶりであった。
「…そうか。…確かに、くだらんな。」
怪我をさせたくなくて、もう巻き込みたくなくて遠ざけたのに、彼女は怪我をしてでも首を突っ込んできた。永坂を守りたい。そう言って。
「俺は、馬鹿だったな。」
そう言うと、榊に鼻で笑われてしまった。
『これ以上は旭ちゃんと話せよ。もう手錠がなくたって、君ら2人は大丈夫でしょ。』
永坂は頷く。
「そうする。…お前ら2人はカッコいいな。」
2人とも真っ直ぐに永坂のことが大事だと伝えてくれる。過去のことに引っ張られて、自棄になっていた自分が本当に馬鹿みたいであった。
『そうでしょ?ふふん。もっと褒めてくれてもいいんだよ!』
調子に乗る榊を今日は諌めない。永坂は微笑んで、彼に見えなくても頭を下げた。
「榊、ありがとう。また、連絡する。」
はいはい、と軽い返事。しかし、彼が途中で泣いていたことに、永坂は気づいていた。切れた電話に向かって、もう一度ありがとうと言った瞬間にノックが聞こえ、永坂はリビングへ向かった。
「…いやー、久々に料理なんてするもんじゃないですよね。」
目を合わせないようにしている旭。テーブルには、たまごスープとポテトサラダ、ご飯が置かれていた。普通に美味しそうに見える。
永坂が旭の方を見ると、彼女はそっと目を逸らす。
「いただきます。」
手を合わせると、永坂はまず、スープに手をつけた。形の揃わない人参は、少し芯が残っていて硬い。旭は気まずそうに目を逸らした。
「…美味しいよ。」
ホッとしたように吐き出された言葉に、旭は信じられないものを見るような目で、永坂を見る。
「いやいや、味薄くないですか?それに、人参硬いし、卵の殻ちょっと入っちゃったし…。」
言ったそばから、ガリッと硬いものを噛んだ音がして、旭はしゅん、と落ち込んだ。しかし、永坂は気にしていないように、淡々と食事を続ける。
「ちゃんと味がするだけ上等だ。うまくいかなかったと思うなら、今度は一緒に作ろう。」
優しい言葉に、旭はますます萎縮した。永坂は笑って、手を止めると話し始めた。
「…あのときは本当に味がしなくてな。作る気力も食べる気力も起こらなかった。お前がいてくれるおかげで、ちゃんとこうして飯が食える。」
あのとき。きっとそれは5年前の話であろう。事情を深く聞いたことはなかった。
「ちゃんと話してくれるんですか?」
旭が永坂の顔を、不安そうに覗き込む。彼は、旭に殴られた頰を指差した。そこには、小さな傷ができている。彼女は本気で殴ったのだ。
「そろそろ話しておかないと、もう片方も危ういからな。」
そう言って顔を顰める永坂は、旭の知っている彼だった。
「5年前、杉崎勇気によって、特務課が壊滅寸前まで追い込まれたあの日。俺は壱騎、彼を救った。」
12月16日。上司たちを助けるために、ショッピングモールの屋上へ、黒川、水原と3人で向かった永坂は、杉崎のどす黒い『力』に飲まれた。
杉崎の『異能』については、未だによく分からないことが多い。彼は、『力』そのものを『放出』して、周囲の人間を中毒死させることができた。異常な『力』の濃度の濃さに、『異能』を持たない人間ですら、体調不良を訴えた。そのために、全国で報道されるような事件になってしまったのだ。
「杉崎の『力』に飲まれたとき、俺は無意識のうちに、それに適応した。『合わせる』ことができたんだ。だから、俺は何ともなかった。」
永坂は自身の『異能』の性質によって、助けられた。彼には、杉崎の『力』は通用しなかったのだ。
「そのとき俺は壱騎の手を、掴んだ。黒川ではなく、壱騎の手を。」
旭は彼が体温を分け与えてくれたときのことを思い出す。たぶん、彼の『異能』は触れることで相手にも自分の『異能』を作用させることができるのだろう。
そうして、水原と永坂は生き残ったのだ。
「視界が晴れると、杉崎がこちらを見つめながら佇んでいた。半分、夢を見ているような。…あれは、本当に人間だったのか。そう思わせるほどに感情が読み取れなかった。」
死体を見る目も、生き残った2人を見る目も同じで、杉崎にはなんの感慨もないようだった。
「…復讐心がなかったわけではない。だが、俺はあのとき、あれは生かしておいてはいけないものだ、と感じた。」
永坂の目が濁る。彼は自分の手を見つめて、ため息をついた。
「俺は、ぼうっと佇む彼に銃口を向けて、そして、引き金を引いた。数発の銃声がして…呆気なく、終わった。」
自分の手を見つめる永坂に、旭はかける言葉が見つからなかった。5年前の事件は容疑者死亡で幕を閉じた。その終止符を打ったのが、目の前の男だっただなんて。
「俺たちに対する『力』の『放出』は2度目だったらしく、到着したときはかろうじて息のあった人たちもそれによって死んだ。その場では、俺と水原、黒川だけが生き残った。」
最悪の気分だった、と永坂が遠い目をする。
転がる上司たちの遺体の真ん中で、穏やかに死んだ杉崎を、水原とともに呆然と見つめた。あっけない幕引きの代償は大きすぎた。
2人はすぐに全員の脈を確認したが、生きていたのは黒川だけであった。しかし、そのことですら追い討ちをかけるように、2人に影を落とす。
「黒川が生き残った理由が、妊娠していたからだった。…壱騎との子どもだ。」
榊の元に運ばれた黒川は、妊娠していたことが発覚した。水原も知らなかった。彼女は、杉崎の『力』による中毒を起こしてはいたが、最後の関門を、腹の中の子が引き受けた。そのおかげで黒川は生き延びることができたのだ。
榊によって取り出された子どもは、炭化したように真っ黒で、カラカラだった。杉崎の『力』の塊と化していたのだ。その子を弔ってやりたいと、引き取ったのは水原。
「それを、まさか今回の事件で使おうとするなんてな。」
瓶詰めの遺体を思い出して、永坂はひどく悲しそうな顔をした。
「生きてはいるものの、黒川は昏睡状態に陥った。壱騎は一度会ったきり、もう会いに行けないと泣いていた。…母を守るように死んだ子どもに対して、自分は相棒に守られて、何もできずに全てが終わった。そのことが壱騎には耐えられなかったらしい。黒川に合わせる顔がない、と。」
代わりに永坂が彼女の元へは通っている。未だに目覚める兆しすらないが。
「2人は婚約していてな、壱騎が正式にプロポーズをしようとしていた矢先に、こんな事件が起こった。…あいつは4年前、自殺したときに、遺書とリングケースを残していった。」
当時の永坂はそれをすぐに読まず、リングケースにも、触れられなかった。
「まぁ、実際は生きていたわけだが、壱騎の存在でギリギリ持ち堪えていた当時の俺は、それで参ってしまった。」
そう言うと、永坂はスープを啜った。温かいそれに、ホッとしたような顔をして、旭に笑いかける。
「…あのときの飯は本当に味がしなくてな。心身ともにガタガタになって、岸さんには随分迷惑をかけた。最終的に、『異能』の制御が効かなくなった俺は消えかけた。」
今日のことを経験した旭は、それが比喩ではないことを知っている。怯えた顔をして頷くと、背筋を伸ばした。
「そのときは、榊が飯を作ってくれた。」
旭は目を見開いた。榊が台所に立つ光景が、思い浮かばない。包丁を持った瞬間に指を切る気しかしない。首を捻る彼女と同意見だ、とばかりに永坂は頷いた。
「焦げたオムライスが出てきた。あれは本当に、なんというかひどい味がした。でもな、味がしたんだ。それだけで、十分だった。」
榊は食べなくていいと言ったが、永坂は完食した。あれが、自分を今まで生かしてくれている。彼は優しく微笑んだ。
「その後、俺は壱騎の遺書を読んだ。つらつらと、お手本のような文面の最後に、俺に対して、黒川が目覚めたとき、指輪を渡してくれと書いてあった。不甲斐ない相棒ですまない、と。」
永坂はそれを読んで、憤った。すべて投げて逃げた水原に腹が立ったのだ。
それでもその『約束』をよすがに、永坂は生きることを選んだ。自分が逃げれば、壱騎と黒川は本当にもう2度と、話の中ですら再会できないことになる。誰かが伝えなければならないと、永坂は思ったのだ。それに、黒川が目覚めたときに、誰もそばにいないのは酷だろうから。
こうして、1人になってしまった特務課で、事後処理に2年を費やし、御厨、早岐の参入を経て、昨年池田も入ってきた。特務課はやっと、再開の目処が立ったところだった。
「その矢先にこれだ。結構がっくりきたんだぞ、俺は。裏で糸を引いてたのが壱騎ときて、何のために生きていたと思ってるんだ、なんて考えたこともあった。正直最近は、お前がいるから保ってたところがある。」
永坂は右手首を指した。
「俺が消えれば、お前が困る。壱騎の狙い通りだった。あれが俺の命綱だったんだよ、旭。」
永坂の様子が変だった理由がわかって、旭は少し落ち込んだ。『手錠』から解放されたから、彼は消えるという、強引な手段を選んだらしい。生きる理由であった『約束』を捨て、自殺じみた行為に走ったのだ。
「だが、誰かが死ねば丸く収まるなんて、そんなことはあってはならないと、俺が一番わかっていたのにな。」
最近の態度を後悔するように、彼の眉間に皺が寄る。
「壱騎は俺の『異能』を利用して、『異能者』を虐殺するつもりらしい。だから、お前が不要になって、俺たちは解放された。」
まさか、こんな形で当初の目的を達成してしまうとは。旭と永坂は同時にそれぞれの手首を見る。1ヶ月強、そこに居座っていた刻印はもうない。
「旭、しつこいようだが、お前はこれ以上付き合う必要はないんだぞ。」
じっとこちらに向いた彼の目は、突き放しているのではなく、最後の確認をするようであった。その意図を汲んで、旭は深くため息をつく。
「…やっぱりもう一発いっていいですか?」
パキパキと指を鳴らし始める旭。永坂は苦笑いを浮かべた。
「なんでそうなるんだ。」
こういうところは察しが悪い。旭はムッとして、そっぽを向きながら言った。
「『手錠』がないからって、私、あなたと全く関係がなくなるなんて思わないです。ここなんて徒歩20分ですぐ来れますし。…薄情だって言ってるんですよ。」
永坂の頭の中に、先程の榊の言葉が浮かぶ。旭は自分のことを大事にしてくれている、と。彼は拗ねてしまった彼女を見ながら、じっと考えた。出た結論は。
「旭は寂しかったのか?」
真っ直ぐな質問。はっきりそう言われると、なぜか気恥ずかしくなる。旭はやけになって、全部吐いた。
「ええ、そうですよ。寂しかったんですよ。あなたが何かに気づいてから、ずっとぼんやりしてて、私だけが必死で、馬鹿みたいで。…一言でも良かったんです。『お前には関係ないから話さない』って。そう言えばいいのに、中途半端にはぐらかすから。」
感情が昂って、また泣きそうになる。
「ナオさんに余裕がなかったのは、わかってました。でも、もう1人で背負うことないじゃないですか。あなたが消えて、それで何かが解決したって、誰も笑えないんですよ。」
ついに涙が溢れた。それを見た永坂が、目に見えて狼狽える。
「勝手なことを言っているのはわかっています。古傷抉られて、そこに塩塗り込まれるようなことされ続けて。その苦しみは私にはわからない。…でも、1人で行かないで。」
駄々をこねているようだ、と笑われるだろうか。お前に何がわかる、と怒られるだろうか。それとも。
「…不安にさせて、悪かった。」
旭が涙を拭うと、永坂はいつも通りの無表情であった。ひたひたと、静謐に満ちた瞳。
「お前のことはうまくあしらえないんだ。言われた通り、『関係ないからもうついてくるな』って、そうすれば良かったことは俺もわかっていた。」
永坂は旭を困ったように見た。
「だけど、できない。それをするとお前はひどく悲しそうな顔をする。」
それは見たくない。そう呟くと彼は旭に向かって首を傾げた。
「お前は、変なやつだよ。なぜ、会ってたった1ヶ月程度の男に、そこまで入れ込む?」
彼は、心底不思議だ、というような調子であった。旭は驚いたように目を見開く。涙も思わず引っ込んだ。
「無自覚、ですか?」
永坂は首を捻る。旭が何を言いたいのか、わからないようだ。
「そういうところですよ。」
彼女は頭を抱えると、ため息をついた。
「会ってから1ヶ月間、こんなに優しくしてもらったら、誰だって絆されますよ。あなたの力になりたいって、少なくとも私はそう思います。」
目の前の男は、眉間に皺を寄せる。たぶん彼にとっては、特別なことをしたつもりなどなかったのだ。旭は少し笑えてきた。
「駄目な人ですね、ナオさん。」
それを聞いて、心外だ、というように永坂は、深いため息をつく。
旭はころころと笑うと、目の端についていた涙を拭った。それを見ていた永坂も、つられたように小さく笑う。
「…本当にすまなかったな。俺を連れ戻してくれてありがとう、旭。」
そう言うと、永坂は食事に戻ってお椀を持った。
「…これも、俺の命を繋いでくれたな。ほんと、お前らには感謝してもし足りない。」
また、ガリッと殻を噛む音が響く。それでも永坂は嬉しそうに、旭の作ったご飯を食べた。
「実は、ここ最近、また味がわからなくなっていたんだ。」
何気なく言われたその言葉に、旭はなんとなく胸がいっぱいになって、しばらく何も言えなくなる。自分で作ったものの味がよくわからないのは、どんな気分だったのだろうか。
とにかく、永坂がここにいて、帰ってきてくれて良かったと、そう思った。
「ナオさん。」
食事の後、旭は永坂の両手を握りしめた。あのときは解かれてしまったが、今日は握り返してくれる。
「私、あなたの隣にいます。あなたを守ります。だから、ちゃんと連れて行ってください。」
繋いだ手を目線まで持ち上げる。その真剣な目に、永坂は頷くと口を開いた。
「ああ。約束する。…いや、俺から頼む。」
永坂はしゃがんで、旭と視線を合わせる。揺るがない強い目。永坂の目が細まった。
「もう少し、俺に付き合ってほしい。1人で壱騎と対峙するのは、荷が重いんだ。」
握り返された手は、もう温かい。
「旭、俺はな、一度『相棒』と呼んだあの男を、殺したくない。生きていてほしいんだ。…ちゃんと罪を償わせて、その上で黒川に会ってほしい。だから、一緒に見届けてくれ。」
旭はしっかりと頷いて、ニヤリと笑う。
「仕方ありませんね、付き合ってあげましょう。」
戯けた言い草に、永坂ははにかむと、旭の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「頼りにしているよ、旭兎美。」
しんしんと、雪が降っていた。暁橋の中腹。そこに水原が立っていて、川を見つめている。立ち登る紫煙が、ゆらゆらと揺蕩う。
「…クソ寒いのに、よくこんなとこで立ってられますね。」
そこに、隼人が現れた。水原はぼんやりと彼を見つめて、ため息をつく。
「ナオが、消えたよ。どこに行ったか、わからない。」
うわごとのようにそう言う水原を見て、隼人は肩をすくめた。
「…隼人、なぜあの女をさっさと捕まえるか殺すかしなかった?あそこでナオを揺さぶることができていたら、こんなことには。」
責任転嫁である。隼人は忌々しそうに水原を睨みつけて、嘲るように言った。
「口を開けば、忠直サンのことばっか。アンタ、もっと見るべきものがあるんじゃないんですか?」
刹那、目にも止まらぬ速さで、隼人は手すりに叩きつけられる。彼の胸ぐらを掴んだ水原は、冷めた目で睨みつけた。煙草の匂いがふわりと、隼人の鼻腔を舐めた。
「へぇ、俺に説教する気?隼人も大きくなったね。」
隼人は苦々しげに彼を見る。この人がこんなに歪んでしまったのは、いつからだったか。最早、掬い上げるタイミングは、失われてしまった。
「説教もしたくなるでしょうよ。そもそも俺は、ずっと無茶だって言い続けてました。あの生き急ぎ野郎の口車に乗せられて、こんなに追い詰められて。結局アンタ、何がしたいんだ。」
水原の触れられたくない場所を的確に撃ち抜く言葉を、わざと放つ。水原は苛立たしげに髪をかきあげて、隼人から手を離した。
「…じゃあさっさと俺のことなんて見捨てていけばよかっただろ。」
拗ねたような口ぶりに、隼人はため息をつく。面倒くさい大人である。
「俺が見捨てたら、アンタは本当にどうしようもなくなるじゃないですか。それは見たくない。」
隼人は今更、この目の前の可哀想な人を、見捨てて逃げる気などなかった。それでも最近は輪をかけて見ていられなかった。水原の芯はブレ始めていたのだ。
「…正直俺は、『異能』があるとかないとか、そういうことに興味ないです。誰が生きようと死のうと、そんなことには心を動かされない。でも、アンタのことは放っておけなかった。それだけでここまで来ました。…だから、見てられねえんだよ…。」
白い息とともに、歯の奥から絞り出された言葉。隼人はグッと拳を握りしめた。
「旭兎美のことは、殺せなかったというより、殺しませんでした。俺は、忠直サンからこれ以上奪いたくない。」
いつも投げやりだった感情を露わにして、隼人は吠える。
「どっかで引き戻ってくれると、期待した俺が馬鹿でしたよね。」
ずるり、と彼の影から4体、蛇が現れる。それを見た水原は、咥えていた煙草を踏み潰して、不快そうに最後の煙を吐いた。
「どういうつもり?…ああ、よくある裏切りからの友情深まるイベント?」
ふざけたことを言っているのに、その言葉に温度はない。2人の関係だって、もうとっくに冷え切っていたのに。
「俺は後悔してるんだよ。さっさとアンタを殺してやるべきだった、ってな。」
蛇が水原に向かっていく。それに続いて隼人が踏み込もうとした、その瞬間。
パチンッ。指が鳴る音がした。隼人は、自分自身の蛇に食いつかれて、目を見開く。彼の視線の先に、北が立っていた。彼が水原と隼人の立ち位置を入れ替えたのだ。
「…俺たちは、2人揃って13で、キング。」
喉に噛みつかれて、地に伏した隼人がひゅー、ひゅー、と怪しい呼吸をする。北は冷たい目でそれを見下ろし、隼人の腹を蹴り上げた。少し積もっていた白い雪に、転々と血が模様を描く。
「お疲れ様、ジャック。自分の立場を弁えない、意志を持ち始めた兵隊なんて、いらない。」
北はナイフを振りかぶった。それが隼人の背に刺さる直前。
パッパー、と車のクラクションが、閑静な一帯に響き渡る。3人は、車のライトに照らされていた。
「……チッ。」
北は舌打ちをすると、水原とともに消えた。一応、『異能者』以外は殺さないと決めているので、無差別に攻撃するわけにはいかないのである。
隼人は遠くなる意識の中で、車から降りてくる人物が誰なのかに気づいていた。
「…あぁ、クソッ。……お前に、助け、られるなんざ……。」
冷える中、憎いほどに近しい体温。自分を必死に抱える人物が、何を叫んでいるのか、隼人にはもう届かなかった。ただ、泣いているのがわかって、どうにか慰めたかった。
「…ごめんな、こんな、なさけ、ない、にいちゃんで…。」