邂逅
八話 邂逅
異能対策局の屋上の扉は重たくて、開けるのに苦労する。その先に見える景色が好きなのだと、隣を許した相棒は穏やかに笑っていた。
そんなことを思い出しながら、永坂は屋上に出る。視線の先には同僚の水原壱騎の後ろ姿。彼はここで、煙草をふかすのが習慣だった。
「壱騎。」
呼ぶと、彼は振り返らずにただ手を挙げた。
「呼び出しておいて、返事もしないとは太いやつだな。」
永坂はため息をついて、中庭と反対側に臨める街並みを見下ろす水原の横に並ぶ。水原は黙ったまま、永坂に煙草の箱を差し出した。中には一本しか残っていない。
「…俺は吸わん。」
そう言いつつも、永坂はそれを受け取ると、ただ咥えた。
「ナオ、俺さ、結婚するわ。」
2人、同じ格好をして晴天の下の穏やかな街を眺める。水原の声はその風景に、澄んで響いた。永坂が彼の方を横目で見ると、その目はキラキラと光を反射して揺らめている。見たことのない顔だ。
「やっとプロポーズしたのか?」
永坂はぷらぷらと、火のついていない煙草を指先で弄びながら尋ねた。
水原壱騎と、一つ下の後輩・黒川唯子は学生時代から付き合っていて、もう長い。高校を卒業するときに「いつか結婚しよう」と婚約はしていたらしいが、実際のところいつ結婚するのか、永坂は聞いたことがなかった。
「いや、そろそろしようかなって。」
水原が胸元から取り出したのは、紺色のリングケース。いかにも、といったその容器に永坂は目を細める。
「やっとか。いつまでダラダラするのかと思っていた。」
揶揄ったつもりだったが、水原は笑わない。隣の彼を窺うと、彼は煙を吐いて遠くを見つめている。これは、めんどくさい話が始まりそうだ。永坂は表情を引き締めた。
「なぁ、ナオ。お前は、祝福してくれるよな?」
水原の目から少しだけ迷いが見て取れた。少しの間をおいて、永坂はそれを鼻で笑う。
「当たり前だろ。なんで俺が反対するんだ。」
水原が、体ごとこちらを向いた。ふわり、と馴染みきった匂いが鼻をくすぐる。
「…唯子が、お前のことを好きだったら?」
緩く風が吹いて前髪を遊ばせた。水原の目は、どこか不安に揺れている。2人の間に沈黙が横たわった。
永坂はため息をついて、きちんと水原に向き合うと、彼の頰を摘む。力の入ったそれは、結構痛い。水原は顔を顰めた。
「お前が黒川のことを信じてやらねえでどうするんだ。不安なら俺じゃなくて、彼女と話し合え。…そういうもんだろ。」
永坂の目はぶれなかった。奥でたくさんいろんなことを考えているのに、彼が出す結論はいつも真っ直ぐで。
水原は眩しそうに目を細めると、頷いた。永坂は口角を上げると、水原の頰から手を離す。
2人とも、また手すりにもたれかかって、同じ風景を眺めていた。
「……。」
また、昔の夢を見ていた。永坂はため息をついて、時刻を確認する。午前5時。早すぎる起床だ。
自分でも、最近は余裕がないと感じていた。5年前のことを思い出させられると、割り切れないことが多すぎて、永坂はいっぱいいっぱいになってしまう。旭を付き合わせているという罪悪感、5年前の絶望、事件を解決しなければならないという責任感。
だが、そんな彼の心情に関係なく、事件は進展して、いよいよというところまで来てしまったことに、永坂は勘づいていた。
(13の元に辿り着いてしまったら、俺は。)
そのとき、くん、と小さく右手を引かれた。旭が寝返りでもうったのだろう。永坂は旭の部屋がある方向を見て、少しだけほっとする。彼女がいる以上、自暴自棄にはなれない。
事件の真相に近づくたびに、自分に容赦なく重なっていくとある面影。それに雁字搦めの自分がひたすらに情けなかった。
旭はそんな永坂の様子に気づいているようであった。その真っ直ぐな目に縋りたくなかったと言ったら嘘になる。
(…俺の勝手で、もたれかかるわけにはいかない。)
永坂はぼんやりと右手首の刻印を見つめた。彼女との縁はそれだけ。だから、いずれ彼女は永坂の隣からいなくなるだろう。それぞれの生活に戻って、もう2度と。
(これ以上、共に進むことは。)
そう思う時点で惜しくなっていることに彼は気づかない。自分の感情にも盲目なまま、永坂はまたため息をついた。
その日の天気は雨。雨音の響く室内で、旭と永坂は身支度をしていた。
北の居場所がわかったのは、昨日のことである。部下から連絡が入った永坂は、旭を呼び出した。
「お前が連れ去られた廃墟からそう遠くない位置に、屋敷があるらしい。」
旭と接触した、北の体を現在所有している音無によると、そこに、自分の体に入った彼を監禁していたということであった。宵人が偵察に向かったところ、人の気配があり、13の『力』が視えた、と。
「13本人がいる可能性が高い。…勘ではあるが。」
旭にそう伝える永坂は、少し複雑な顔をしていた。旭はそれを見て見ぬフリして、ただ頷いたのだった。
「もう12月なんですね。」
車の中で旭はふと、永坂に話しかけた。彼と出会ったのは10月の最後で、冷え始めたくらいだったのに今はこんなにも寒い。暖房で暖まる前の車内で口を開くと、白い息が出た。
「長かっただろ。」
揶揄うような口ぶり。旭は笑い声を漏らす。
「いえ、すごく短かったです。」
そうか、と永坂はこちらを見ずに相槌を打った。以前は、こんな他愛無い会話もなく、ただ一緒にいなければいけないから、黙ってついて行っていたのに。
「ナオさんは、この生活が終わったら何をしたいですか?」
口から溢れる白い息を眺めながら旭が訊くと、永坂は険しい顔になった。
「…まず、報告書と後処理の山が浮かぶな。」
彼にとっては死活問題なのだろうが、旭は思わず吹き出した。元の生活に戻って一発目にそれはキツそうだ。
「もっと楽しいことないんですか。したいことですよ、したいこと。」
笑いながら、旭はどこかでほっとしていた。この前の軽い言い合い以来、少しだけぎくしゃくしていたから。
隣の彼は楽しいこと、としばらく悩んでいたが、思い出したかのように言った。
「そろそろ待っていた本の新刊が出るんだ。それは、楽しみだな。」
永坂は読書家である。旭が借りている部屋にはずらりと本棚が並んでいる。彼はジャンル問わず読むらしく、歴史、恋愛、ファンタジー、推理と、多種多様な本を持っていた。
旭も貸してもらって読むことがあるのだが、図鑑がずらりと並ぶ棚を見つけたときは流石に目を丸くした。
「結構完結していないシリーズも買ってますもんね。…あそこに入らなくなったらどうするんですか?」
一応、まだほとんど本の並んでいない本棚が1つだけあったが、永坂の家にあれ以外の趣味に割ける部屋はない。
「図書館みたいに真ん中に置くのもいいと思っている。どうせ今は俺しか住んでいないからな。」
彼は以前、あの家で兄とともに暮らしていたと、旭は聞いたことがあった。兄が結婚して家を出てからは、一人暮らしになったらしい。
「お前はどうなんだ?」
聞き返されて、旭は少し悩む。
「…訊くだけ訊いて、何も考えてませんでした。」
正直に白状すると、今度は永坂が口角を上げた。
「前に完成していないパズルがあるとか言ってなかったか?」
些細な雑談で、確かにそう言ったことがある気がする。しかし、旭は驚いた。
「え、そんなこと覚えていたんですか?私の方が忘れてました。あれ完成しますかね?」
めちゃくちゃ難しいんですよ、と神妙な顔で尋ねるその様子がおかしくて、永坂はくっくっと笑い始める。
最近少し居心地の悪かった雰囲気が、じんわりと溶けたような温もりに包まれて、旭は永坂に伝えた。
「ナオさんが笑ってるのいいと思います。もっとそういう顔をしてくれればいいのに。」
詰るような声色。永坂は困ったように目を細めた。
昨日、宵人からの報告とともに、早岐による宮口椿の報告書も送られてきた。
宮口は、至って普通のOLだった。しかし、『未登録』の『異能者』ではなく、きちんと異局によって登録された『異能者』であった。
彼女は『異能抑制剤』を処方されていて、普段は『力』が外に出るのを抑えながら生活していた。
しかし、あまりの感情の昂りに、『抑制剤』は意味を失う。彼女は、恋人の浮気を許せなかった。愛していたからこそ憎しみも強くなって、気づいたら彼の頭は、潰れたイチゴのようになっていた。
彼の遺体の前でしばらく放心した後、彼女は感じたことのない衝動に打ち震えた。今まで押さえ込んでいた『力』を放出した快感。それに支配された彼女は、『事故で異能を使ってしまい、恋人を殺してしまった』という体で、模範囚を演じ、仮釈放となった。
13との出会いは偶然だった。前科のある『異能者』は、『異能』を抑制する特殊な腕輪をつけられる。しかし、宮口の『力』の強さに、腕輪は耐えられなかった。それを壊す場面を、13が目撃したのだ。
彼は彼女の迸る紅い『力』を美しいと褒め、勧誘した。
『貴女の欲求不満を、解消させてあげよう。』
宮口に13は教えてくれた。自分はこの世から『異能』を消すつもりなのだと。そしてそれは、『異能者』がこの世からいなくなることなのだと。
だから、彼女は11月28日を任された。思う存分爆破しても、異局には『異能者』しかいない。計画の助けになるし、永坂を追い込むことにもなる、と。結局、計画は阻止されてしまって、彼女の願いは叶わなかった。
宮口は、13が2人いることに気づいていた。13は必ず音無の体で現れたので、二重人格者だと思っていたらしいが、彼らには特徴があった。
まず、『手錠』の異能の方。彼はこの計画を面白がっている節があり、いかに永坂を巻き込むか、それをよく考えていた。
次に、『入れ替わり』の異能の方。彼が現れることはほとんどなかったが、体調が悪そうで、儚げな印象であった。かつ、この計画には格別の思い入れがあるらしく、宮口に対して、入念に確認をしてきた。
宮口椿から得られた情報はこんなところである。
「…北は、どんな人物なんでしょうね。」
永坂と旭が接触していたのは、たぶん『手錠』の方だけ。『入れ替わり』の方、北とは会ったことがない。
「会ってみないことにはわからないが、北の方は俺にこだわっていないことが気になる。」
北は音無に騙され、その体を奪われた。が、何かしらの方法で余命を克服し、13と名乗った男に体を貸した。つまり彼は、計画のすべてだけでなく、13の正体も知っているだろう。彼を捕まえて、話を聞くことができれば、事件は一気に収束する。
早岐が慎重に扱え、と言っていたのはそういうことである。
「…旭、すごく、嫌な予感がするんだ。」
先程の雰囲気から一転、永坂の声は、雨音に紛れてしまいそうなほど低かった。旭は彼の目を見る。その黒に少し翳りがあった。
「北ではなく、その奥にいる13。そいつは。」
旭に向けてではなく、独り言のように永坂はそう呟く。彼がどこを見ているのか、旭にはわからない。ただひたひたと、この前から胸の中を満たす冷たさが気持ち悪かった。
「ナオさん。」
呼ぶと、彼はこちらを見ずに頷く。
「…不安にさせて、悪い。」
そういうことではないのに。でも旭はそれ以上何も言えなくて、後はただ揺られていた。
離れたところに車を停め、屋敷まで傘をさして2人は無言で歩く。その途中で永坂が、旭の方を振り返った。
「何か視えるか?」
旭は首を横に振った。13やエース、隼人はおろか、誰の『力』も視えない。本当に人がいるのか、といった様子である。
「御厨ほどでないと視えないか、もしくは、北は俺たちを待っているのかもしれない。」
待っている。その響きに違和感を得て、旭は立ち止まった。少し先を歩いていた永坂は、それに気づいて振り返る。
「ナオさん、歩幅が合いません。」
旭の声は暗い。傘に当たる雨の音だけが、同じリズムで2人の耳を打つ。
最初の頃、永坂は旭の少し前を歩いていた。そこから1ヶ月、最近は隣を歩いてくれるようになった。でも今は、少し前にいる。
それが、旭にはとても嫌だった。
「…何が言いたい?」
無機質なトーンも久しぶりだ。雨が、降り続いていた。そんな中、傘を投げ出して旭は、永坂の両手を傘の持ち手ごと捕まえる。
「あなたが、誰を見ているのかわかりません。何に悩んでいるのかわかりません。話してくれないと、わからない。」
永坂が怪我をしたくらいから、この事件の奥に、誰かを見始めていることに、旭は気づいていた。この前の言い合いや、北隆之介や宮口椿についての報告書を読んだ後、彼は明らかに何かに気づいた様子で、でも旭には何も教えてくれなかった。
冷たい雨が、掴んだ手と掴まれた手を冷やしていく。永坂は、旭から目を逸らした。
「単刀直入に聞きます。あなたはこの一連の事件を、誰が仕組んだと思っているんですか?」
逃さないために捕まえたはずの手を、振り解かれた。旭はそれでも詰め寄る。
「さっきは言いかけましたよね。ナオさんが話してくれるまで、動きませんよ。」
旭の真っ直ぐな目。永坂は見つめ続けられずに、彼女の放った傘を拾い上げてさしてやった。
「…また、風邪を引かれると困る。」
旭はその目を見て目を見開く。感情の滲まない顔だ。この瞬間、彼女は悟った。今の永坂は旭を突き放している。
「…ナオさん。」
呼んでも、こちらを見てくれない。
「……。」
旭は無言で俯いた。出会った頃ですら見たことのない、完全な拒絶。踏み込んではいけないところに踏み入ってしまったような居心地の悪さに、彼女は何も言えなくなった。
いつもなら、悪い、と謝ってくれるタイミングなのに、彼は何も言わずに歩き出す。旭は不安そうにその背を見つめて、彼を追った。
屋敷の扉は容易に開いた。中には誰もおらず、映画に出てくるような古びていても上品な内装が目に入るだけ。しかし、ところどころ、掃除された跡がある。
誰かが待っている。永坂の言った通りのような気がして、旭は気を引き締めた。今のところ、何も視えはしていない。だけど。
「ナオさん、たぶん、『視界操作』は受けています。」
それは、何度かそれを受けた上での直感であった。この静けさ、何も起きないはずがない。
「ああ。わかっている。だが、殺意がない。…予想は当たったらしい。」
永坂はぽつりと呟くと、誘い込まれるように、入って一番最初にある大きな扉を押し開けた。
雨と光が降り込んでいた。それは中庭に続く扉だったようだ。取り囲む石の柵や柱はひび割れたりしているのに、中心の庭は丁寧に手入れされていて、そこに1人の男が立っている。13だ。
だが、旭も永坂も身構えなかった。彼がいつもと違う、ということに気づいていたから。近づいていくと、人形のように整った顔が、にこりと微笑む。
「やぁ。こんにちは。僕とは初めまして、の方が正しいかな。」
13は微笑んで、2人に頭を下げた。いつもの突き刺さるような闇を感じさせない柔らかさ。
「…お前が、北隆之介に違いないか?」
永坂の質問に、隠す気もないらしく彼は頷いた。
「そうだね。顔こそ違えど、僕が北隆之介だよ。よく辿り着いたね。」
北はゆっくりと近づいてくる。不健康な顔色に、細い手足。昼間の明るい屋外で見たのが初めてのせいか、今まで会ってきた13よりも幾分か弱々しい。
「どうして俺たちがここに来ることがわかったんだ?」
北は2人がここに現れたことに驚かなかった。それはつまり、来ることがわかっていたのだ。永坂の質問に、北は笑顔を崩さずに答える。
「君が『彼』の思考を読めるように、『彼』もまた、君の思考を読める。だから、僕はここで待っていたんだよ。昔話をするために。」
『彼』とは、もう1人の13のことだろう。昔話の意味はわからず、永坂は眉を顰めた。
「おや?それを聞きに来たんじゃなかったのかい?…この事件の始まり、『彼』がこちらに堕ちてくれたお話。興味、あるでしょう?」
北は不敵に微笑む。その表情はどこか、『13』を感じさせた。
北 隆之介は平凡な青年であった。兄妹のために、自らの人生を犠牲にするような、そんな。
そんな青年に、特大の不幸が降りかかった。音無 達也との出会いである。彼に騙された北は、監視を受けながら、音無の体で生活することになった。とはいっても、既に1日の大半をベッドで過ごすような生活になっていたので、逃げ出そうにもすぐに捕まるか、屋敷から出ることもできずに倒れるか、の2択であったが。
『異能』を使う気力もなかった。誰かと体を入れ替えれば、逃げることはできただろう。しかし体力がなければ、同時に『異能』を使うほどの『力』も足りなかった。生きる希望もなく、次第に北は抵抗もしなくなっていった。
(今、どのくらい経ったのだろう。)
月日を数えることもやめていた。それがいかに無為な行為であるかを、わかっていたから。
そんな折、1人の男が偶然屋敷を訪れた。雨宿りをさせて欲しい、と言ってきたのだ。その日は、バケツをひっくり返したような雨が降っていて、監視役の使用人たちも拒めなかった。
それが、『彼』である。彼はこの屋敷の不気味さに気づいて、北の元に辿り着いた。もう喋る気力もなかった北と、彼は自身を『繋いだ』。それはきっと奇跡だったのだろう。彼は『力』を分け与えてくれた。北は生気を取り戻して、彼に事情を説明した。
『異能』なんかがあるから。話を聞いた彼は苦々しげにそう言った。彼もまた、何かを抱えていたらしい。
『俺と一緒に、この世から『異能』を消そう。』
彼が既に歪んでいたことに、北は気づいていた。それでも彼は頷いて、その手を取った。指切りをした。彼から流れ込んでくる『力』の温かさは、冷え切っていた北には、余りにも魅力的だったのだ。
手始めに、屋敷にいた監視の人間を消した。北はその中の1人と寿命を入れ替えて、彼はその中の1人と人生を入れ替えた。
13はここで生まれた。
「めでたし、めでたし、ってね。…あ、終わっちゃいけないな。」
話し終えて、満足そうな北は微笑む。永坂は一段と眉間に皺を寄せていた。
「これが、君たちを陥れたこの事件の始まり。13は2人いた。僕と『彼』、2人で始めたんだ。」
そう語る彼はとても嬉しそうである。追い詰められたはずなのに、どうしてこんなに余裕があるのだろうか。やけを起こしたようにも、とても見えない。
「なぜ、そこまで明かした。俺たちをここで待ち受けてまで。」
永坂の質問にも、北は微笑みを崩さない。旭は胸騒ぎがした。敵の狙いは永坂。事情を打ち明け、正体も明かそうとしている。それはなぜか。無意識のうちに、彼女は彼の服の裾を握りしめていた。
「君は知っておかなきゃいけない。それが、『彼』を救った君の責任だろう?永坂忠直。」
永坂の目が澱むのを、旭は見逃さなかった。
「『彼』ってのは、誰だ?」
永坂の口調は尋ねるというより、確認するようであった。旭は嫌な予感がして、彼の横顔を見上げる。
「知りたいのなら、教えてあげるよ。」
一定の距離を保っていた北が永坂に接近してきていた。
「ナオさん、揺れないで。敵の狙いに乗らないでください。」
グッと服の裾を引く。しかし、永坂はこちらを見てくれない。旭は唇を噛み締めた。
「俺に聞かずとも、君はここに来た以上、わかっているはずだ。機は熟した。…ちょっと、予定外だったんだけどね。」
北が、永坂の肩に手を置いた。
バキンッ
今までの中でも一際痛かった。2人は手首に走った痛みに、顔を顰める。それによって、旭は永坂から手を離してしまった。
「ナオさん!」
気づいて叫ぶがもう遅い。手放してしまったそれは、もう掴めなかった。
永坂はいつの間にか、バルコニーにいた。冷静に右手首を見つめて、そこにもう刻印がないことと、旭が近くにいないことを確認する。そこは中庭より幾分か寒く、白い息が漏れた。
永坂の見つめる先に、バルコニーの柵にもたれかかり、遠くを見つめる男が1人いた。永坂は懐かしい背中に向かって歩き出す。
「…久しぶりだな。本当に。」
男の横に立つと、彼は静かにそう言った。男はにこりと微笑む。彼の吸う煙草の匂いがあの頃とまったく同じで、懐かしい。
「さすがは、ナオ。もう俺に辿り着いちゃったんだね。おかげさまで、10日と16日の予定は滅茶苦茶だ。まあ、予想はしてたけどね、相棒。」
男は伸ばした髪を後ろで一つに括っていて、カーキのモッズコートをラフに着こなしていた。口には、煙草を咥えている。
年齢よりも下に見られやすいので、煙草が似合わないのが悩みだった。その顔は、あのときとほとんど変わらない。だが、お互いに歳をとった。
「長い髪、似合わねえな。壱騎。」
4年前に自殺したはずの永坂の同僚、水原壱騎は穏やかに笑った。
雨は、いつの間にか止んでいた。
左手首を確認して、旭は舌打ちをした。刻印がない。あの状態の永坂と引き離されてしまった。彼女は北の方を向いて吠える。
「ナオさんを、どこにやったんですか。」
北は微笑むと、手を口元に当てて、彼女に伝えた。
「俺にかまけていると、危ないよ?」
肩に痛みが走り、視界が晴れた。見ると、見覚えのある黒い蛇が、旭の肩に食いついていた。
先ほどまで永坂が立っていた位置に、隼人がいた。それ以外にも、エースや他の『異能者』の気配も感じる。分が悪い。そう思いながらも、旭は引けなかった。
肩の傷を確認する前に、2匹目、3匹目の蛇が飛んでくる。躱したかと思えば、エースに目を支配されていて、脇腹に食いつかれた。
「ッ。」
ついでに、相手はそれだけではない。用意されていたらしい大量の敵に囲まれて、旭は手間取る。戦力は問題ないが、量が多い。
なんとかエースだけでも、潰しておかなくては。その思考は隼人に読まれていて、エースに目を向けた途端に、蛇が必ず妨害してくる。かといって、隼人にかまけていると、距離感を誤魔化されて、攻撃を受けてしまう。その2人に意識をやると、他の『異能者』に接近を許してしまい、無駄な体力を使うことになった。
(ジリ貧だ。)
幸い、深手は負っていないが、体力を削られていた。『異能』も頻発はできない。広範囲を押さえつけるには、かなり『力』を消費する。
雑兵は蹴散らせても、エースと隼人の連携が、旭を消耗させていった。
襲いかかってきた男の鳩尾に、膝を叩き込んだところで、蛇が足に絡みつく。それが旭の足を握りつぶすように力を込めた。
「あぐッ…!」
言葉にならない呻き声が、彼女の口から漏れる。隼人は少し嫌な顔をした。
「ったく、本当に恐ろしい女だな…。ほとんどやられちまったじゃねえか。」
自分の周囲で、うめき声を上げながら転がっている人々を見て、彼は顔を顰める。残った人数は、最初にいた3分の1に満たない。
蛇に絡みつかれて動けない旭を見下ろして、隼人は言った。
「おい、そのまま大人しくしてれば殺しはしないから、足を捻り潰されたくなけりゃ…。」
ガキンッ
金属の割れるような嫌な音に、彼は話の途中で絶句した。旭が自分の足に向かって『異能』で負荷をかけたのだ。蛇は霧散する。
一歩間違えば、自分で自分の足を、潰しかねない勢い。エースも隼人も、彼女の目を見て、震えた。
燃え上がるような怒り。特にエースはこの目に見覚えがある。彼は力が抜けたように、膝から崩れ落ちた。
「死ぬのなんて、今更怖くないんで。足の1本や2本、甘いんですよ。」
彼女が手を前に出す。避けられなかった隼人は、のしかかってきた重みに息ができなくなった。
「か、はっ…!」
隼人やエースの体が、徐々に重くなっていく。旭は感情のない目で、自分の周囲で苦しみ始める敵を、ぼんやりと眺めた。殺される、そう、その場の全員が思った瞬間。
「旭さん!!」
強い風が巻き起こった。旭の『異能』の範囲外にいた人々が、壁に叩きつけられる。いつの間にか、扉の前に池田が立っていた。
旭は、その声にハッとしたように、『異能』を解除する。術にかかっていた者たちが、一斉に咽せ始めた。
「あーあー、派手にやりましたね、これは。」
中庭に足を踏み入れた早岐が、顔を顰めた。
廃ホテルのときと似たような状況だった。旭を中心に、沢山の人が倒れている。少し離れたところにいる隼人や、2階の中庭を見下ろせるベランダにいたエースも膝をついていた。遠くに避難していた北ですら、逃げることを忘れて、この様子に見入っている。
「…やっぱりこの人、異常だ。」
早岐の後ろから宵人が入ってきて、旭を見ながら言った。彼の目には、宮口の迸る紅よりもずっと強大な『力』が視えている。現場を目撃したので、間違いない。これは、旭の『力』だ。
正直なところ、宵人はこれを使いこなしている旭が怖かった。でも、彼は彼女が誰のために暴れているのかを知っている。
「でも、今は、それより忠直さんか。」
彼女と重なり合うように視えていたはずの永坂の『力』は別の方向にある。その隣に、13の『力』も視えた。
「あとは、俺たちに任せてください。旭さんは、主任の方をお願いします。」
宵人が旭に声をかけると、彼女はやっと頭が冷めたようで、あたりを見渡してこの惨状に顔を顰めた。
「大体貴女が片付けてくれたんで、心配ないですよ。事情は後で聞かせてください。主任は、ここを出て2階の、入り口と逆の方向にある、バルコニーにいるみたいです。横に13がいるみたいなんで、気をつけて。」
宵人は、彼女に丁寧に説明して、扉の方へ促す。旭は大きく頷くと、3人に深々とお辞儀をした。
「すみません、よろしくお願いします。」
彼女は怪我の痛みも厭わずに、永坂の元へ駆け出した。
「いつ気づいた?」
水原は、久しぶりの会話を楽しんでいるようだった。まるで、あの頃に戻ったような、そんな気分に駆られて、永坂は目を伏せる。
「本当は、もう公園の時点でお前のことは浮かんでいた。…だが、有り得ない。お前は死んだはずだ。それに、前と『異能』が違う。」
彼の部屋で、ゆらゆら揺れるそれを見つけたのは永坂だった。遺書とリングケースを残して、隣の男は確かに死んでいたはず。
「それが覆されたのは、榊から『北』の話を聞いたとき。『入れ替わり』の可能性が出てきたときだ。…部下の報告でそれが、確信に変わった。」
旭が永坂の態度の違和感に気づいた頃の話である。
ずっと、頭の中に引っかかっていたことが、水原の顔を見た瞬間にすべて解消された。本当は、永坂はずっとわかっていたのだ。
「さすがだな、相棒。」
自分をまだ、『相棒』と呼ぶ隣の男を見つめて、永坂は眉間に皺を寄せる。
「ずっと死んだと思っていた。」
その言葉に水原は眉尻を下げた。
「そう、思わせたからな。隆之介に死体と俺の顔を一時的に入れ替えてもらった。…そうでもしないと、退職するぐらいじゃお前を切り離せない。」
永坂以外にも、既に水原には様々な繋がりがあった。それらを持ったままでは動きにくいと考え、彼は自分を死んだことにしたらしい。
「ならばなぜ、今更俺を巻き込んだ。いや、なぜ俺にこだわる?」
水原は、不満そうに口を尖らせた。
「真面目な話ばっかだな。もうちょっとお喋りしようぜ。なにせ、だいたい4年ぶりに会ったんだぞ。」
本当に何もかも変わらない。人を小馬鹿にしたような舐めた態度も、人懐っこい瞳も、声も、鼻に届く煙草の匂いも、全部。いっそ、予想と外れていた方が良かった、と永坂は目を伏せる。
「『異能』を消すなんて、不可能だ。俺だけでなく、誰にもできない。」
永坂の言葉に、水原はため息をついた。
「そうだよ。んなことわかってる。一回は本気で探したから、俺が一番わかってるさ。」
じゃあなぜ。永坂が訊く前に視線で悟った水原は、濡れているバルコニーの柵に頬杖をついて語り始める。
「デモンストレーションとして俺は示しただろ?『異能者』なんて、『異能』なんてろくなもんじゃない。それを悪用して、弱者を虐げるクソ野郎。虐げられた者。それがある故に、苦しんだ者。それがある故に、死んでいった者。俺は見せてやったはずだ、お前に。足りなかった、なんて言わないよなぁ?ナオ。」
『異能』がある故の苦悩。永坂は職業柄もあって、嫌というほど見たことがある。5年前の事件以来、碌なものではない、そう思ったことだってある。
「だからさ、異能の存在しない、そんな美しい世界を一瞬でもいいから、見てみたいと思わないか?」
水原の目は真剣だった。13であったときの他人を飲み込むほどの闇でもなく、渇くような退屈でもない。永坂の知っている水原壱騎の目。だから、永坂は動揺した。すぐには否定できなかった。
「俺の『異能』、変わったんだ。5年前の一件以来、一度使えなくなったことは知っていたよな?あれから隆之介と出会って、新たな願いのために、俺はまた『異能』を得た。俺の『繋ぐ』異能、お前の『合わせる』異能、そして、『これ』があれば、俺たちの望む世界は、見ることができる。」
水原が取り出したビンを見て、永坂は言葉を失う。
「壱騎、それは。」
引き攣った彼の顔を見て、水原は笑った。
「今更、お前がそんな顔するのか!?あははは、ははっ、あはは、お前のせいで、こうなったっていうのに!?」
永坂は明らかに狼狽える。水原はその反応に満足そうにして柵から離れ、永坂の前に回ると手を差し出した。
「俺の手を取ってくれよ、ナオ。『異能』のない美しい世界をともに見よう。そして、今度は一緒にくたばろうぜ。…救った責任を取ってくれよ。」
永坂の目が確かに、揺らいだ。
「言いがかりはやめてください。」
水原の頰を一閃、旭の足が振り払った。彼は吹っ飛んで、柵に頭をぶつける。
「旭。」
永坂を守るように立った旭は、既に満身創痍であった。それでも、彼が前に出ることを許さない。
「クソみたいな道理で、ナオさんを巻き込まないでください。古傷抉って、振り回して、楽しいですか?やっと、一発、ぶっ飛ばせましたね。」
落ち着け、と肩に置かれた永坂の手を、旭は振り払った。水原は起き上がって、信じられないものを見るように旭を見る。
「お前は、なぜ?あの人数相手にして、なぜ立っていられる?」
旭はふん、と鼻を鳴らした。
「特務課の皆さんが助けに来てくれました。」
何かあったときのために、永坂が時間差で到着するように指示を出していたのだ。部下たちが間に合った、と永坂は安堵したように息を吐くが、それでも旭の様子を見て、彼は辛そうな顔になった。
「…はぁ。場を弁えない奴らが多いことだ。君はもう、本格的に用済みなんだよ。」
水原は忌々しい、というようにため息をついた。
「俺は、ナオと話しているんだよ。邪魔をしないでくれないか?」
水原の目に底知れぬ闇が覗く。あのときは震えたが、もう旭は恐怖を感じなかった。
「昔のことは知りませんが、今のあなたは良くない。…ナオさんの気持ち、考えたことあります?」
旭の瞳孔がキュッと縮まる。敵意剥き出しの視線を受けて、水原は不愉快そうに彼女を睨みつけた。
「何を知ったふうに。良くないかどうかは、ナオが決める。」
彼は永坂の方に目を向ける。永坂はずっと黙ったまま動かない。自分を守るように立つ彼女の背中を難しい顔で見ていた。
「あなたの手を取らずとも、ナオさんには助けてくれる人も、心配してくれる人もいるので。余計なお世話です!」
べーっと舌を出して、旭は水原を睨みつける。彼は、しばらく冷たい目で逸らさないでいたが、急に笑い始めた。
「…面白い子だ。君の、『澱み』が使えるかなぁと思って生かしていたんだけど、やっぱり殺しておくべきだったかな?」
水原は立ち上がって、服についた埃を払う。
「ナオ。邪魔のないときに、いつものところで会おうぜ。」
逃げる気か、と旭が追おうとするが、永坂に止められる。その隙に、水原は姿を消した。
旭の『異能』を食らって、トラウマを蒸し返され、動けなくなったエースの身柄を確保。他にも、旭に返り討ちにされた手勢を確保。隼人、北、水原の幹部3人は取り逃してしまった。
その処理をする特務課の面々を眺めながら、旭は総務の人に手当てをしてもらった。
「よく1人で立ち向かいましたね。」
すごく感心されてしまう。自分では必死だったのでよくわからなかったが、隼人やエース以外の『異能者』は、ほぼ旭が片付けていたらしい。おかげで重傷ではないが、あちこち怪我していた。榊に見られたら怒られそうである。
「でもかなり無茶しましたね。足とか、これヒビ入ってなきゃいいけど。」
それ、自分でやりました。とは言えず、旭は苦笑いを浮かべてその場をやり過ごした。
「お疲れ様です。旭さん。」
手当てを終えて、片付けを手伝っていた旭に話しかけてきたのは、宵人だった。
「こんにちは、えっと、御厨さんで大丈夫ですか?」
訊くと、宵人は頷く。
「休んでいただきたいのは山々なんですが、主任に何があったか、訊いてもいいですか?」
宵人は、申し訳なさそうにそう言った。初めてまともに話したが、彼が永坂を慕っていることには前回で気づいていたので、旭は自分のわかる範囲で説明をする。
「壱騎…壱騎さん、か…。」
宵人は、複雑そうであった。彼の父親は、永坂や水原の上司。水原のことも、宵人は知っているのだ。
「壱騎さんも、元特務課の方です。忠直さんの同僚で、確か4年くらい前に自殺したって。…死んでなかったわけですが。なるほど、主任の態度がおかしいわけだ。」
宵人の顔が曇る。永坂も、水原も、父の訃報を伝えに来た、父が可愛がっていた部下たちであったことを、知っていたから。
「…壱騎さん、生きていたなら、どうして。黒川さんのことは…。」
宵人が顔を歪めるのを見て、旭は首を傾げた。永坂は5年前の事件については教えてくれたが、関わった人の名前や、関係性は、ほとんど話してくれていない。その様子を見て、宵人が説明してくれた。
「壱騎さんと、忠直さんの後輩で、黒川唯子さんっていう女性の方がいらっしゃったんです。その人は壱騎さんの婚約者で。黒川さんは5年前の事件以来、ずっと昏睡状態なんです。」
そんな人を置いて、何をしているんだ。宵人は、眉間に皺を寄せた。
旭は、彼に説明してもらったことを飲み込んで、目を伏せる。永坂について、まだまだ知らないことが沢山ある。話してもらえなかったことはきっと、このあたりの話なのだろう。
「…俺、旭さんのこと怖い人だと思ってたんですよ。」
突然、そんなことを言われて、旭は怪訝な顔をしてしまった。しかし、宵人は彼女の反応を気にせず続ける。
「『異能』や『力』に関しては、訊きたいことが山ほどあるんですけど、あなたが忠直さんのことをすごく大切にしてくれていて、俺は嬉しいです。」
宵人は目が良い。旭のことが怖いというのは撤回しなかった。それでも頭を下げると彼は言った。
「忠直さんのことを、よろしくお願いします。あの人もわりと、どうしようもない人なので。きっと、1人だったら踏み外してしまう。」
その言葉にはやけに重みがある。榊も似たようなことを言っていたはず。旭は力強く頷いた。宵人はそれに対して嬉しそうに微笑むと、再びきっちりと頭を下げる。
「お疲れのところ、すみませんでした。ご協力感謝します。」
丁寧に告げて、彼はまた作業に戻っていった。
揺れで目が覚めた。温かい。
旭は永坂の背中にいた。彼を待つ間、すっかり寝てしまったらしい。抱えられるのに慣れ切ってしまった彼女は、安心したように微睡む。落ち着く匂いがするのだ。
「また、怪我をさせてしまった。」
囁くような独り言。永坂は旭の部屋に入ると、彼女を布団の上に寝かせる。永坂は、起きるか起きないかの境目にいる彼女を、じっと見つめると、髪に触れた。
すると、寝ぼけているのか、旭が永坂の手に擦り寄る。永坂は動揺して手を退けた。その動作で、旭が目を開ける。
「…ナオさん…?」
寝起きの掠れた声。どうやら夢現の状態のようだ。
「…どこ、いくんですか?」
縋るようにシャツを掴まれて、永坂は振り解けなかった。もう2人の間を繋ぐ鎖はない。自由なのだ。なのに、また彼女をここに連れてきてしまった。
「いかないで。」
懇願とともに、掴む力は強くなる。永坂は再び、彼女の頭を撫でた。
「ああ。どこにも行かないよ。」
彼は、旭が安心したように眠りにつくまで、ずっと撫で続けていた。