ハニーバニートラップ
五話 バニートラップ
「おい、ナオ!起きろって、なーおー!」
懐かしい声が脳を揺らした。鼻に飛び込んできたのは、インスタントコーヒーの匂い。肩のあたりが暖かいのは、ブランケットでも掛けてくれているのだろう。
心地良くて、永坂は適当に唸って、目をつぶったままにした。すると頬をぐっとつねられて、無理矢理起こしにかかられる。
「…痛…なんだよ…。」
不機嫌な顔をすると、相手はニヤリと、意地悪く笑った。
「おはよう。寝惚けんなよ、今日は俺たちも出る日だ。」
自分の顔を覗き込んできたのは、水原 壱騎。なぜか懐かしい顔だと感じた。このところ、まともに家に帰れないため、毎日見ている同僚の顔なのに、無性に懐かしい。
「壱騎…?なんで、お前がここに…?」
思わず口に出すと、逆に水原に怪訝な顔をされる。
「おいおい、ほんとに寝ぼけてるじゃねえか。ここは特務課の事務所。わかるか?お前の職場だよ。」
ゆっくりと永坂が体を起こすと、そこは確かに特務課の事務所で、自分の席。そして、肩から落ちたブランケットは。拾い上げると同時に、人影が自分を見下ろしてくる。顔を上げるとそこには。
「おはようございます。ナオくんが居眠りなんて珍しい。」
綺麗な笑い顔があった。そう、彼女は綺麗な人だった。黒川 唯子は、呆然としている永坂からブランケットを受け取ると、代わりにコーヒーを渡してくれる。
礼を言いながら、永坂はなんとなく泣きたい気分になった。暖かい光景だった。
最近の忙しさで上司はほとんど出払っていて、事務所には水原と黒川しかいない。2人は永坂にとって、気の知れたメンバーである。上司たちに、若手3人組なんて呼ばれたりもしていた。
「そんなんで大丈夫かよ。今日は事件も大詰め、ついにあの杉崎を追い詰めたんだぞ。シャキッとしろ。」
コーヒーを受け取った水原に、背中を強く叩かれ、永坂は軽く咽せた。カップからこぼれた茶色い液体が、デスクに飛び散る。永坂は顔を顰め、ティッシュを取り出しながら、デスクに置いていたカレンダーを確認した。今日の日付はは12月16日。時計を見ると、そろそろ上司たちから連絡が入る頃だった。
「やっと、やっとだ。やっと御厨さんに花を手向けてやれる。」
水原は、空っぽになってしまったデスクに目をやった。そこは上司であった御厨の席。彼は1ヶ月前に杉崎勇気に1人で接触し、亡くなった。成人前の息子2人と妻を残して。
報告に行ったのは、最も世話になっていた水原と永坂だった。泣き崩れる母親と、その背をさすってやる弟。泣かないように拳を握りしめて、2人に頭を下げた兄の姿が切なくて、水原は必ず杉崎を捕まえると意気込んでいたのだ。
「だから、気ィ引き締めろや相棒!」
もう一度背中を叩かれるが、永坂はもう咽せなかった。
プルルルル プルルルル
電話の音が鳴った。永坂の背筋を嫌な汗が伝う。そう、そうだ、これは…。
黒川が電話を取る仕草が、やけにゆっくり見えて、永坂は顔を顰めた。
あぁ、そうか、これは。
「あの日の、夢か。」
呟くともう朝だった。背中が少し痛い。小さく息を吐いて、伸びをする。そのとき、人の気配に気づいて隣を見ると、旭が心配そうに、永坂の顔を覗き込んでいた。
昨夜、熱で満足に動けない旭のために、彼女の様子を見ながら隣にいた。その間に眠ってしまっていたようだ。
「おはよう、ございます。」
目が合って、びっくりしたように旭が挨拶してくる。
「…おはよう。悪い、起こしたか?」
永坂も挨拶を返す。旭は布団から這い出して、永坂の様子を観察していたらしい。謝られて、彼女はいいえと首を振る。
「魘されてましたよ。」
それを聞いて、永坂は苦笑した。彼にとって悪い夢ではなかったはずだったのに。
「…そうか。いや、心配されるようなことではない。」
そう言っても、旭は永坂のことを、じっと見つめている。不思議に思った彼が尋ねると、気まずそうに旭は目を逸らした。
「あ、いや。寝顔を初めて見たと思いまして。」
なんとも言い難い表情を浮かべて、永坂は旭から目を逸らした。
その際、携帯が目に入る。昨夜、榊から着信があったようだ。気づいていなかった。永坂は着信の数を確認して、ため息をつく。
「飯を食ったら、榊のところに行くことになりそうだな。具合はどうだ?」
旭の言葉を待つ前に、永坂は彼女の額に手を伸ばした。熱は引いているようだ。
「大丈夫です。もうだるさもないし、動けますよ。」
シュッシュッと素振りをする旭を、調子に乗るなと諫め、永坂は立ち上がった。
「13、かどうかはわからないけど、特徴が似ている男を見たことがあるっていう情報が入ってね。」
榊は、今度は高級旅館の一室にいた。今回は愛人と会う日ではなかったらしく、ちゃんと服を着ている。
前回と同じ、白衣を着た女性がお茶を出してくれた。彼女は中野 すみれ。榊の助手で、共に『異能』に関する研究を行っている。彼女の他にも、榊の部下である白衣の人たちがいるらしく、今日は忙しなく人が出入りしていた。
「騒がしくて悪いね。わりと時間がなくて。」
榊がお茶を啜りながら、やっと一息つけたように肩を回す。
「中野さん、いつもありがとうございます。…いや、こちらこそ時間を取らせて悪い。で、その情報っていうのは?」
永坂は、中野に礼を言ってから、榊に続きを促した。
「俺の知り合いの話なんだけど、幽霊を見た、って男がいたらしいんだ。なんでもその幽霊ってやつは、泣きぼくろがあって黒髪で、整った顔をしていた。13の特徴と一致しているよね。」
旭と永坂は頷いた。確かに13の特徴と一致する。しかし、その特徴の男性ならば、探せばいくらでもいるだろう。2人はそのまま榊の話の続きを待った。
「この話、それだけじゃなくてね。その男、昔その幽霊と『体を入れ替えた』ことがあると言っていたらしいんだ。」
それを聞いて永坂が、何かに気づいたようにハッとした。榊がニヤリと笑う。
「…なるほど。重要な情報である可能性は高いな。」
旭が理解できずに首を捻ると、例の如く永坂が説明してくれる。
「この前の13が消えたときの状況が、これで説明がつく。その幽霊が13だった場合、奴は『入れ替わり』の異能を持っていることになる。予め外にでも自分の『力』を纏わせた落ち葉を用意しておいて、機会を見計らって場所を入れ替えれば、逃走手段としては申し分ないはずだ。…はず、だが。」
しかし、宵人が言っていた、13の『力』が別の『力』に変化して消えた、ということが永坂の中で引っかかった。それに、13が自分たちに対して『手錠』の異能を使う瞬間を、永坂と旭は2日前に目撃している。13が『入れ替わり』の異能持ちであれば、その説明がつかなくなる。
永坂が榊の方を見ると、彼も頷いて首を横に振った。
「そうなんだよね。『異能』を2つ持ち合わせる人間は、今も過去も記述が残っていない。『力』が、別の『力』に変わるなんて今のところ、あり得ないんだよね。絶対にいない、とは言い切れないけど、そもそも『異能』はその人間の願望やイメージ、性質を元にしたものを持つことが多いから、人格が2つあるとかでもない限りあり得ないかな。」
つまりは、と榊が表情を固くして言った。
「13自体がその体の持ち主ではない可能性がある。2人いれば、『力』は2つ。なんだか説明がつきそうじゃない?」
旭は目を見開いた。それは、自分たちが13だと思っていた人物の奥に、何者かがいるかもしれないということである。まだ、出会ったことのない何者かが。
「…13の『器』になっている人間が『入れ替わりの異能』を持っていて、その『中身』が今俺たちにこれをつけた奴、『手錠の異能』持ち、ということか。」
あり得るな、と永坂は頷いた。彼は特務課の面々と、異局のデータベースを一通り洗ったが、5年前の詳細を知っているかつ、他人に手錠をつけられるような『異能』の持ち主や、13の顔と一致する人物はいなかった。しかし、姿が違うというならば、話が変わってくる。
「その、『幽霊』を見たっていう人はどこに?」
旭が尋ねると、榊が含みのある笑顔を浮かべた。それに気づいた永坂が、眉間に皺を寄せる。榊がこういう笑顔を使うときは、大抵ロクなことにならないことを知っていたからだ。
「俺の行きつけのクラブだよ。その男も常連でさ、俺も顔は知ってるんだけど、そいつが男嫌いで話したことないんだよね。だからさ、この一件は旭ちゃんに活躍してもらわなきゃいけないなぁって。」
ニコニコと、榊が旭を舐めるように見た。頭から爪先まで、じっくりと観察される居心地の悪さに、旭は湯呑みを握りしめて息を呑む。
「え、えっと。私に一体何を…?」
ぎこちない笑顔を作って訊く旭に、榊が言い放った。
「バニーちゃんになってもらおうかな!」
「却下。」
即座に否定したのは永坂。旭は驚いて、隣の彼を見た。彼は渋い顔で腕を組み、榊を睨みつける。
「お前は呆れのハードルを飛び越え続ける天才だな。却下だ。」
何か言いたげな榊を威圧感で黙らせると、永坂は旭の方を見た。彼女は困惑しているようで、ついていけていない。バニーちゃん?と顔に書いてある。永坂が、深いため息をつく。
「この件は部下たちに回す。早岐なら、女じゃなくても話を聞き出すことができる。…お前の行きつけのクラブだ。どうせいかがわしいやり取りも横行しているようなところだろう。」
永坂が榊に軽蔑の目を向けるが、彼は全く反省していない様子だった。むしろ、それどころかニコニコと、まだ笑っている。
「良いのかな。悠長にしていたら、空白の3週間が終わっちゃうよ。ただでさえ今、敵に対して受け身な対応しかできていないんだから。」
榊は、つくづく痛いところを突いてくる。永坂は顔を顰めた。空白の3週間の意味がわからず、戸惑う旭に、榊が教えてくれる。
「空白の3週間ってのはね、5年前、山瀬ビルでの事件から、杉崎の足取りが掴めなかった期間のことなんだ。その次に事件が起こったのは11月28日。今から1週間後だね。」
つまり、敵はその日に備えて、今頃また、デモンストレーションの準備をしているはずだ。それまでに何かしら掴んでおかないと、今度こそ、死人を出してしまうかもしれない。
結局、エースも取り逃しているので、彼から聞き出した分だけでも、幹部は誰1人欠けていないことになる。何かしらが起こるタイムリミットは12月16日だろう。そうすると、案外時間がない。
「お前、俺のこと責められない程度には最低だな。」
心底呆れたような表情を浮かべる永坂。榊は楽しそうだった。しばらく睨み合いの膠着状態が続く。
「俺が協力してあげた方が、話が早いのはナオもわかってるよね?」
榊は己の欲望に忠実な人間である。今、彼は旭にバニースーツを着せたいがために、永坂に取引を持ちかけている。それがわかる永坂は、もう一度最低だな、と吐き捨てた。
一方で、2人の睨み合いに、置いてけぼりの旭は、頭の中で自分の羞恥心と、事件の進展を天秤にかける。確かに、永坂の部下に任せても同じ結果であれば、そちらの方がいいのかもしれない。ただ、自分のせいで昨日ほとんど動けていないという罪悪感と、じっと待つのは嫌だ、という彼女の性格が腹を括らせた。
「その、バニー服を着れば良いんですよね?」
旭は案外冷静にそう言った。永坂がおい、と止めようとするが、榊は非常に嬉しそうに頷く。
「そうだよ。大丈夫、お店の女の子たちはみんなバニーちゃんで、仮面で顔も隠せるから。基本的にはお触り禁止だから、合意じゃない限りママとかボーイ達が助けてくれるよ。安心だね。」
潜入もしやすいでしょ、と榊は胸を張った。そんな榊を、永坂は怒りを露わにして睨みつけた。
「黙れ。死ね。店員がみんなそんな服着てる時点で、確実によろしくない店だろう。」
ついに、彼はわかりやすく暴言を吐き始める。テーブルや、周りの目がなければ、榊は平手打ちをくらっていただろう。旭は片手で永坂を押し留めながら、榊に尋ねた。
「ナオさんはどうするんですか?」
悔しいことに慣れ始めてしまって、最近存在感の薄い左手首の刻印を、旭は見せる。これがある限り、半径2メートル以上彼と離れることはできない。
「ナオの『異能』、前に説明したよね。」
榊に確認するように訊かれて、旭は頷く。詳細な説明はまだされていなかったが、確か榊に永坂の『異能』は『姿を消すこと』ができる、と教えられたことがあった。つまり、共に行動することに関しては問題ないらしい。
「前に言ってた時間制限は?」
確か、繋がれていることで、2人の『異能』は使える時間と質が限られていたはずである。
その疑問に対して、榊は頷いて話し始める。
「そこらへんは聞いてなかったんだね。昨日話したんだけど、2人の『力』の融合は順調に進んでる。だからまだ試してはいないけど、そろそろ通常使っていたくらいの出力でも、大丈夫になってるんじゃないかな?」
ヘラヘラと笑う榊から視線を外し、旭は永坂を見る。それに関しては、否定しないらしい。彼は仏頂面で頷いた。
「なら、問題ないですね。でも私、色仕掛けみたいな難しいことできないですよ。セクシーとは程遠い体型ですし。」
旭は両手でボン、キュッ、ボンの形を作って主張する。彼女の体型は少し痩せ気味、筋肉質で無駄な脂肪が少ないので、確かに女性らしい丸みはあまりない。
榊は首を横に振ると、得意げに語り始める。
「ふふふ、セクシーだけが女の子の魅力じゃないでしょ!旭ちゃんはスレンダーな体型だから、バニーちゃんはすごく似合うと思うよ。大きいのも大いに結構!!しかし、ちっちゃいのもちっちゃいで、あでででで」
聞いていられなくなったのか、いつの間にか榊の背後に回っていた永坂が、榊の両頬をつねって引っ張った。
「いい加減にしろ。」
とんでもないセクハラ発言だ、と顔を顰める永坂の両手は容赦がない。
「ほんと、こんな奴ですまない。」
なぜか永坂の方が旭に頭を下げる。しかし、旭は気にしていないふうに首を振って、真剣な顔で永坂に尋ねた。
「ナオさんは、可愛いと思いますか?」
質問の意味がわからない、とでも言うように、永坂は榊の頰を摘んだまま、ぴたりと固まる。気にせず、旭は質問を重ねた。
「私がバニー服を着ることで、役に立てると思いますか?」
長い沈黙。べしべしと、永坂の腕を叩く榊だけが、騒がしかった。旭は永坂を待つようにじっと彼を見つめている。
「………はぁ。」
永坂は大きくため息をついて、喧しい榊を解放してやる。畳に頰を押さえて、大袈裟に倒れ込んだ榊は、恨みがましげに、永坂をげしげし蹴った。
「そういう店に行くということは、そういう目的があるってことだ。基本的には、女性ならなんでもいいという、こいつみたいな碌でもない連中ばかりだろう。…お前なら尚更、問題ないだろ。」
投げやりに言うと永坂は旭の隣に戻ってきて、不機嫌そうに崩した姿勢で座る。旭は覚悟を決めたように頷くと、まだ蹲っていじけている榊に言った。
「じゃあ榊さん、よろしくお願いします。」
それをしっかり聞いた榊が、素早く立ち上がって旭の隣まで来ると、彼女の手を取った。
「本当かい!?旭ちゃん!!!」
その素早さに呆気に取られながらも、旭は頷いた。それを見た榊は、飛び上がらんばかりに喜んで、手を握る力を強める。
「なら急いで採寸しよう!そこの朴念仁には任せられないから、当日はちゃんと、化粧もして、髪も整えて、最高の姿で送り出すからねッあっづぅぅぅっ!!!」
興奮したように捲し立てる榊の頭の上に、急須がそっと押し当てられ、熱さで彼は畳を転がった。中野がお茶のお代わりを用意してくれたのだ。彼女は申し訳なさそうに頭を下げて、旭に1枚の紙を手渡す。
「榊が本当にいつもすみません。…旭さん、これ私の連絡先です。もしあれのことで困ったらいつでも。」
榊に軽蔑の目を向けながら、中野はお茶を注いでくれた。
「いや〜、俺の目に狂いはなかった。本当に可愛いなぁ、旭ちゃん!」
隣でデレデレしている榊に、永坂は呆れ果てて、疲れた顔を向ける。化粧を施され、バニースーツを着せられた旭は恥ずかしそうであった。
榊に話を持ちかけられた2日後、永坂と旭は榊の行きつけだというクラブを訪れ、その控室で準備をしていた。榊とこの店のオーナーは顔馴染みらしく、他の客に迷惑をかけないという約束のもと、快くこれを承諾してくれたのだ。
実は今回の目標である男は、客からも女の子たちからもあまり評判が良くないらしく、ついでにお灸を据えてくれるなら、店的にもありがたいらしい。
「これ意外と、露出多いですね。ていうか、化粧する意味ありますか?」
顔を隠す用の仮面を渡されながら、旭は素朴な疑問を投げかける。
彼女の体にある、細かな傷を隠すための化粧もされたが、明らかに仮面で隠れてしまう部分も、きっちりと飾られている。慣れない感覚に、旭は戸惑っていた。
「あるある。雰囲気大事でしょ?ほら、鏡を見てごらん。世界一可愛い君が写ってる。」
耳元で吐息混じりにそう言われて、旭はちょっとだけドキッとした。その手慣れているのに、嫌味のない仕草と表情。絆される女性もたくさんいるのだろうなぁと、彼女は複雑な表情になる。
「標的が来たら出番だからね。もしも来なかったら、俺がお相手願いたいところなんだけど。」
手の甲にキスされて、心臓が跳ねるような心地に、旭はどぎまぎした。助けを求めるように、永坂を見ると、彼はため息をついて榊の首根っこを掴んで、引き剥がしてくれた。ついでに、自分の上着を旭に差し出す。
「着ておけ。見てるこっちが寒い。」
空調がしっかりしているとはいえ、今は11月。旭は素直にそれを羽織った。ブーブー文句を言う榊は、永坂が睨みつけると黙る。彼がいることもあり、いつもよりもこの場に緊張感がなくて、旭は逆にドキドキしていた。
「……大丈夫ですかね。」
不安げに呟くと、永坂に鼻で笑われてしまう。
「珍しいな。いつもの威勢はどうした?」
これまでは、すでに敵が待ち受けている状況だったため、交戦する覚悟を決めていたし、旭は荒事には慣れていた。しかし、今回はどちらかというと派手な立ち回りよりも、慎重さが重要になる。何かボロを出せば、相手に警戒されてしまうかもしれない。
それに、永坂の言った通り、このクラブは雰囲気が普通よりもいかがわしい。広いのに、スペースごとに仕切りがあって見通しが悪く、照明も暗めである。
「なんというか、慣れなくて。化粧も生まれてこの方あまりしたことないですし、こう、女性としてのラインを強調するような服も着たことがなくてですね。その上この雰囲気ですから。」
たぶん、萎縮しているのだ。旭は強ばる手を握っては緩め、握っては緩め、を繰り返した。
「…そうか。だから、やめておけと言ったのに。」
永坂のその発言に、旭は少しムッとする。邪な下心が見え隠れしているとはいえ、榊があれだけ褒めてくれた分、あまり目を合わせてこようとしない隣の男は、冷たく思えた。
旭が手をグーパーしながら見上げると、永坂が彼女の視線に気づく。
「やめろ、俺に榊みたいなノリを期待するな。あれは最早病気の域だ。」
呆れたように言われて、旭は少し落ち込む。別に、榊ほどの褒め言葉を期待していたわけではない。ただ、少し緊張をほぐして欲しかっただけなのだ。
「…安心しろ。ちゃんと2メートル以内にはいるし、不躾な手は払ってやる。似合っているから心配なだけだ。」
あまりにも淡々と言われて、旭は聞き流すところだった。今、似合っていると。
「ナオ、旭ちゃん、来たよ。あの濃いグレーのスーツにワインレッドのネクタイの若い男だ。」
先ほどとは打って変わって、引き締まった口調で榊が2人を呼んだ。旭は上着を脱いで、用意していた仮面と、うさぎの耳のヘッドドレスをつけた。
それが終わると永坂に呼ばれた。彼女が近くに寄ると、手を掴まれる。きょとんと永坂を見つめる旭に、彼は薄く笑いかけ、スゥッと姿を消した。感触はもうないのに、手の温もりだけが残っているように感じる。
「が、頑張ります!」
虚空に向かってそう宣言すると、鎖が小刻みに揺れた。
榊に連れられてフロアに出る。旭と同じような格好をして、接客をする女性が幾人も見えた。
「俺はここまで。何かあったらさっきの部屋に戻るか、ナオか俺を呼ぶこと。頼んだよ、旭ちゃん。」
小声で囁かれて、旭も控えめに頷く。榊はするすると人の間を抜けて、暗がりに消えていった。その方向に軽く頭を下げると、旭はカウンターに立つママの方へ近づいていった。
「あなたが旭ちゃん?北さんの対応をお任せすればいいのよね。これ、持っていって。」
北、というのが標的の男の名前だろう。旭は返事をして、渡されたトレーを片手で持った。
金曜日の仕事終わりの時間だからか、人が多い。確かに、たくさんの不躾な視線を浴びることになった。
たまに、客の呼び掛けに応じて暗がりに消えていくバニーがいるので、少しびくついてしまう。
(恐ろしい世界だ…。)
見なかったフリをして、北の待つテーブルへ向かう途中、すでに赤い顔をした、中年の恰幅のいい男性に絡まれてしまった。
「お姉ちゃん、トイレはどこかな?」
こういうときのために、あらかじめ店内の配置は把握している。旭は丁寧にトイレの位置を教えると、その場を後にしようと、男性に背を向けた。しかし、強い力で彼に手を掴まれる。
「んー、よくわからないなぁ。お姉ちゃん、一緒についてきてよ。」
うわ、とつい顔を顰めてしまった。さすがにその意味がわからないほど、馬鹿ではない。しかし、一応客であるため、無碍に振り払うわけにもいかず、困っていたところ、ふわりと香水のいい匂いがして、旭は肩を抱かれた。
「すみませんね、旦那。この子、今日は俺の席に着くことになってるんです。」
チラリと見えたのは、ワインレッドのネクタイ。旭は緊張で鼓動が早まるのを感じた。
まさか、標的の男が助け舟に来るなんて思っていなかった。驚いて旭が固まっている間に、中年の男の方は舌打ちをして去って行った。
「やぁ、災難だったね。…それ、俺が頼んだ酒だよね。こっちにおいで。」
旭はこくこくと頷いて、肩を抱かれたまま、席に向かった。
「すみません、お待たせいたしました。」
席に着いた旭がぺこりと頭を下げると、北は彼女から手を離して、微笑んだ。
彼は若い男だった。永坂と同じくらいか、もう少し上か。榊ほど目立つ端麗さではないが、そこそこ整っていて、何より清潔感があった。そこに、ほんのちょっとくたびれた感じがするのも、女遊びには向いていそうで。
旭は酒を注ぎながら、悪いことをしているわけではないのに、緊張で手が震えた。その手に北の手が重なってきて、ぎょっとする。お触り禁止ではなかったのか。そう思いつつも榊の軽薄さを思えばこのくらいは普通なのか、と我慢した。
「初めて見る子だよね。…ふふふ、緊張してるの?震えちゃって、可愛いね。顔が見たいなぁ。」
仮面に触れられそうになって、思わずのけぞるが、北は気にしていないような素振りで謝る。
「おっと、手が早すぎたかな。ごめんね。」
彼は爽やかに持ち直して、グラスに手を伸ばした。
琥珀色をした液体が、彼に流し込まれていくのを見ながら、旭はどう話しかけようか悩む。相手のペースに呑まれれば、このまま口説かれ続けるだけの時間になってしまいそうで、どうにか捻り出したのが。
「今日はいい天気でしたね。」
であった。左手首に繋がる鎖が微振動する。永坂が笑っているのだ。彼がいるであろう方向に殺意を向けながら、旭は北に笑いかけた。
「そんな他愛のない会話振られたの、久しぶりだ。面白い子だね。」
北は笑ってくれた。そこまで悪い反応ではない。しかし旭は下心満載の視線に戸惑って、全然落ち着かなかった。
「え、えっと、お洗濯物がよく乾くのが嬉しくてですね。お、お客様もそう思いません?」
自分が何を喋っているのか、わからなくなりながらも、旭はなんとか会話を広げようとする。北はそうだね、と相槌を打って、旭の手に手を重ねた。
「お客様、だなんて。寂しいなぁ。俺は北 隆之介。隆之介の方が嬉しい。」
そうなんですかー、素敵なお名前ですねー。自分の声が、遠くで聞こえるような感覚。こんなに男性にぐいぐい来られたのは初めてで、旭は非常にテンパっていた。
というか、触れられる手に、明らかな下心が見え見えで、耐性がなさすぎる。さりげなく手を引き抜こうとしたのに、指が絡んできたせいで逃げられず、旭はどうにか雰囲気を変えようと、新しい話題を提供した。
「り、隆之介さんは最近、良いことあったりしました?例えば、洗濯物がよく乾いたとか!」
またもやなんとも言えない話題。しかも、洗濯物の話を引きずってしまった。
だが、北は案外真剣な顔で悩んでから話し始めた。
「最近、最近か…。いや、ちょっと嫌なことがあってね。聞いてくれるかい?」
彼はグラスをくるくると手の中で弄ぶ。旭は頷いて話し始めるのを待った。
「…信じてくれる?俺、幽霊を見てしまったんだ。それも、かなり昔の知り合いの。」
旭は手汗が滲むのを感じた。ごくりと唾を飲む。まさか、向こうから目的の話題を始めてくれるなんて。
「ゆ、幽霊ですか?」
聞き返すと北は頷いた。
「そう、幽霊。…もう死んでいるはずなんだ。だって、彼は余命3ヶ月と言われていたのだから。」
北は素直にうんうんと相槌を打ってくれる旭に気を良くしたらしく、ペラペラと喋り始めた。
幽霊の彼の名前は、音無 達也。北と彼は4年前に出会ったらしい。その頃にはすでに、音無は余命宣告を受けていて、それ以上生きられたとしても、そう永くはないと言われていた。北の方はその頃貧乏で、日雇いのバイトをこなしては、やっとやっと生きているような暮らしをしていたらしく、音無と友人になれたことは、人生最大の幸福だったと振り返る。
「彼はね、俺に金の使い方と、使う場所を教えてくれたりと、連絡を取らなくなるまで、貴重な時間を俺にかけてくれたのさ。」
音無の投資のおかげで、北はとある会社の正社員になることができた。しかし皮肉にも、そのことで時間が取れなくなり、音無と遊ぶ時間は削られていった。そうしてそのうち、彼との関係は自然消滅したのだという。
そこで話は止まった。北はグラスを手に取って、酒を一気に煽った。ここまでの話だけでは『異能』についてもわからなければ、『入れ替わり』のこともわからない。
旭は続きを促すために口を開く。
「…えっと。今の話で、音無さんが幽霊として出てくることの、どこに問題があるんですか?」
北はこの話を嫌なこと、として始めた。しかし、北にとって音無は恩人のようだ。むしろ音無の姿を見かけたならば、喜ぶべきではないだろうか。
旭が食いついたことに、北は口角を上げた。再度注がれた酒を一口含んで、口内を湿らせると、彼は口を開いた。
「そうだね。このままだったらよくある話で、むしろ美談の括りに入るだろうね。」
そこで彼は話を区切る。旭は少し距離が近づいていることに気づいてはいたが、気にしないようにして続きを促した。
「でもさ、この話の前提に、余命を知った音無が、北の健康な体を手に入れるために近づいた、っていう裏事情があったとしたらすごく怖い話だと思わない?」
旭はごくりと唾を飲み込む。この話が聞きたかったのだ。高揚を悟られないように、北から視線を外して、永坂の方向に視線をやった。先程から、彼が旭の真後ろで構えているのは知っている。
「そ、そんなことできるわけないじゃないですか。脳でも移植するんですか?」
笑おうとしたが、旭は自分の顔が引き攣っているのがわかった。話の核心を突こうとしている。
「気になるかい?教えてあげようか。」
旭は恐る恐る頷いた。すると、北が旭と自分の顔の間に、スッと人差し指を立てた。ギュルッと『力』が渦巻く。旭は嵌められたことに気づいて、ハッとした。
(まずい。)
目を逸らそうとするが遅く、視界がぐるりと回る。しかし、ガクリとソファに突っ伏したのは北の方であった。
ギリギリで術を逃れた旭は、意識を持ち直して、慌てて立ち上がる。よろめいた彼女を支えたのは永坂で、いつの間にか彼は姿を現していた。
「ナオさん、これは。」
北は『異能者』だったのか。『異能』を使われそうになるまで気づかなかった。
「やはり、碌でもないやつだったな。」
永坂は汚いものでも見るような目で、眠っている北を見下ろした。
「もう十分だ。現行犯で捕まえる。こいつ自身は、13の一団には関係なさそうだが、面白い話は聞けそうだ。」
永坂の声には苛立ちが滲んでいた。旭は、彼が何に対して、そんなに怒っているのかわからず、少し混乱する。今日不機嫌だったのは知っていたが、ここまで苛立ちを露わにしている彼を見るのは、初めてだった。
それでも、肩を支えてくれている手は温かくて、旭はほんの少しの間、もたれかかるように体重を預ける。やっと現実に戻ってきたような気分だった。
「旭。」
彼女を呼ぶ声はいつも通りで、旭が見上げると上着を被せられた。もう彼の手が離れてもよろめかない。
「出るぞ。外で榊を待たせている。」
旭は頷いて、ちゃんと上着を羽織ると、北を抱えて出口へ向かう永坂の後を追った。
「お疲れ様。…ってなんで、ナオそんな怒ってるの。」
永坂は返事の代わりに、榊を睨みつけて、乗ってきた車に、いつの間にか拘束していた北を乱暴に押し込んだ。そして、榊から荷物を受け取った旭に、車内で着替えるように言う。
旭が車に乗ると、目隠し代わりに彼は、自分の体で窓を隠して、榊に向き直った。
「お前、北に何を仕込んでいた?」
怒りのこもった声色だった。永坂の咎めるような視線に、榊はバツの悪そうな顔になる。
「事前に『可愛くて初々しいバニー』の話をしておいただけだよ。慣れてないから手を出しやすいかもね、って。あのおっさんに絡みに行かせたのは、北の仕業。自分が助けて、警戒心解こうっていう小賢しい算段だね。」
榊は肩をすくめた。永坂は腕を組んで、そんな彼をただ睨みつける。これは、永坂の説教のときの姿勢で、相手が反省するまで崩れない。それを知っている榊は渋々頭を下げた。
「…さすがにこれは悪かったよ。あそこまで手癖の悪い奴だとは知らなかったし、『異能』まで使ってくるなんて。」
永坂はため息をつくと、榊に顔を上げさせてデコピンをした。先日の榊のデコピンよりも、痛そうな音がして、榊は蹲って悶える。
そのあたりで旭が車から出てきた。状況が理解できず、目を白黒させる彼女に、永坂が謝る。
「やはり碌なことにならなかったな。もっと強く止めるべきだった。悪い。」
旭はきょとんとしていた。今回は収穫があったはずである。なぜ謝られるのかわからなかった。
そんな彼女に永坂が、榊の小細工があったことを説明すると、彼女は笑いながら蹲る榊の頭を撫でる。
「あはは、可哀想な榊さん。確かに嫌でしたけど、これ以上の被害者を減らすのにも繋がったし、有益な情報も得られそうなので、私はそんなに気にしてませんよ。」
いつもの服装に着替えることができて、旭にはいくらか余裕が生まれているらしい。微笑む旭が、榊の目には天使のように写った。
「うわーん、旭ちゃん、好き!」
抱きつこうとすると、流石に避けられて、榊はアスファルトに激突する。呆れ顔の永坂がティッシュで、ぼたぼたと垂れ始めた鼻血を押さえた。
「何やってんだ、まったく。…反省しろよ。」
本当にこいつは、いつか刺される。ぶつぶつ言う永坂の後ろで、旭がけらけらと笑っていた。
榊と別れて、2人は車に乗り込んだ。後部座席で北は微動だにせず眠っている。彼は予備動作もなく、こっくりと落ちた。永坂の仕業だろうとは思っていたが、いつ、何をしたのかは気づかなかった。
「…ちなみに、何したんですか?」
気になって聞いてみると、永坂はどこからか、青っぽい粉を取り出した。
「即効性の睡眠薬。」
知らないうちに酒に混ぜていたのだろう。恐ろしい人だ、と旭は苦笑いを浮かべた。
「…ベタベタ触られて不愉快だっただろう。もっと早く助けられなくて悪かった。」
永坂は申し訳なさそうに言うが、旭は首を横に振る。
今回の目的を考えれば、どのタイミングでも割り込むには、不自然であっただろう。余計な介入があれば、話を聞けなかった可能性もある。
「北からのは、もう仕方なかったと思います。ナオさんが、関係ないセクハラは振り払ってくれていたのは、知っているので。」
旭がにっこりと笑いかけると、永坂は少し驚いたようだった。
実は、目標以外からも無防備な尻や胸、白い肌に伸ばされる、不躾な手があったことに旭は気づいていた。しかし、それが旭まで届くことはなかった。それらは、永坂が約束通り、振り払ってくれていたらしい。
「はい。」
旭は両手を出した。何かを要求するような手だ。永坂は一瞬わからなくて考えたが、旭が袖を引くと、何かを察して自分の手を乗せた。旭はその手を思うままに握ったり、もぞもぞとまさぐった。
「…楽しいのか?」
永坂は難しい顔をしていた。旭は頬を緩めると、消毒です、と言った。言われたことの意味は、よくわからなかったようだが、彼はそれ以上特に何も言わない。
しばらく彼は好きなようにさせていたが、不意に空いていた左手を、旭の頭に乗せた。
「…今日はありがとう。よくやった。」
撫でられる。急にされると照れてしまって、旭は顔を上げた。永坂はいつも通りの無表情だ。
「こ、これは?」
旭が訊くと、彼はきょとんとする。
「いや、そういえばこの前、謝るよりも褒めろと言われたと思って。」
今回もよく頑張った、と整えられた髪を崩さない程度の力で加減されて、旭は喜んでいいのかどうかわからなかった。とりあえず、嫌ではなかった。
「以前な、後輩がこういうふうに色仕掛けじみた任務を請け負わされたことがあったんだ。」
頭の上から熱が引いて、手も解けた後に、永坂が思い出したように話し始める。
「任務は大成功したらしい。俺は別で動いていたから詳細は知らないんだが。」
大事な記憶を辿るような表情。旭はそれが綺麗だな、と思って少し見惚れる。
「その次の日、泣いている彼女を見かけて驚いた。あまり人に弱みを見せるのが、得意なやつじゃなかったからな。見られた彼女は耐えられなくなったのか、声をあげて泣き始めてな。胸や足を強調した服装に不躾な視線が飛んできて、いつ手が伸びてくるか怖かったんだと。」
永坂は旭を見た。彼女はけろりとしている。丸い大きな目で、惚けたようにこちらを見上げている。その奥で何を思っているのかはわからないが、旭と「彼女」は違う。それでも。
「…それ以来、こういう手段は取らないようにしていたんだが。」
情けないな、と永坂は、困ったような顔になる。旭の方はというと、彼がなぜあんなに引き下がったのかわかって、納得していた。
「他の女の子には、そういう気遣いを、一生大事にしてあげてください。でも、私には、もっと任せてください。」
きっぱりとそう言って、旭は左手首に目を向けた。そこには、不定形の絆がある。付き合いの長さとか、そういうものを吹き飛ばす絆が。
「だって、私の傍にはあなたがいてくれますから。」
旭は左手首の刻印を晒した。忌々しいはずであったのに、彼を理解していくたびに、これに感謝することも増えていくのは、少し癪だが。
永坂も自分の右手首に目をやると、そうだな、と笑って頷いた。
「だが、色仕掛けはもうやめておこう。なんというか、俺が落ち着かない。」
目を丸くした旭の方は見ずに、永坂は車のエンジンをかけて、発進した。