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Wrist  作者: 洋巳 明
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アクセルとブレーキ

四話 アクセルとブレーキ


 いつもは冷静沈着で、年齢にそぐわない落ち着きのある上司に、やけに慌てた様子で、『◯◯市の廃ホテルに向かえ』と、電話口で捲し立てられてから約1時間。御厨みくりや 宵人よいとはそのホテルの前に、同僚の早岐はいき 一巳かずみと共に到着した。

「うわー、夜なら出そうなトコだな。」

 隣の早岐は、呑気にその建物を眺めている。宵人の方はというと、嫌な感じが充満しているのがわかって、足を踏み入れたくなかった。

「おい、一巳。気をつけろよ。なんつーか、すげぇ嫌な感じがする。『力』が混在してる状況はよくあるが、ここは。」

 宵人はそう言って隣を見た。…いない。早岐は話の続きを待たずに、地面でぐしゃぐしゃになっていた立ち入り禁止の線を踏みつけて、中に入っていく。

 おい、話を聞け、と宵人が止めようとしたとき、中から人が出てきて

「どけ!!!!」

と、早岐に殴りかかった。

 咄嗟のことに固まる宵人に対して、早岐が軽やかにかわして、その後頭部に踵落としをくらわせると、男は地に伏して動かなくなる。気絶したようだ。

「あらら〜、弱。」

 服についた埃を払いながら、早岐は足元の彼に向かって、吐き捨てる。宵人は、そんな早岐の首根っこを捕まえると、後ろをついてきていた「総務課」の人たちに、男の拘束を頼んだ。

 わらわらと、人が集まってくるのを見届けて、宵人は早岐を睨みつけた。

「人の話を聞けよ。ここの奥で複数の『力』がたった一つの『力』に押し潰されている。…とんでもねえのがいるぞ。」

 真剣な顔で告げるが、彼ははいはい、と受け流して宵人の手を振り払った。

 宵人がおい、とまた止めようとするが、早岐はそれも振り払うような仕草を見せて、めんどくさそうに言う。

「奥に何がいようと主任が先に行ってる。あの人が既にいるなら、どうにでもなってるっしょ。」

 早岐の、そういう油断が苦手なのである。宵人は顔を顰めて、もう言ってやらねえ、と黙った。

 廃墟を進んでいく中、宵人たちは幾度となく、奥から逃げてくる者たちとすれ違った。彼らはみんな怯えた顔をしていて、2人を見るなり、攻撃を仕掛けてきた。

 宵人は、鉄パイプで襲ってきた男の攻撃をいなし、鉄パイプをはたき落とした。男が怯んだ隙に、鳩尾に拳を叩き込む。その宵人の後ろから殴りかかろうとしていた男は、早岐が横っ面を突っぱねてやり、その早岐を狙おうとしたものは、宵人の一撃に沈む。見事な連携。倒れた端から、拘束して連れて行く総務の人々が、忙しなく出入りしていた。それにしてもキリがなかった。

 怯えた顔をした連中を落とし続けて5分。2人はやっと、静かな廊下に出た。

「この奥だな。」

 宵人はじっと、目を凝らした。

 『力』は『異能者』の目に、色のついたモヤのように見える。『異能者』が『異能』を使ったときに体から出てきて、しばらくそこに留まり、それを他の『異能者』は視ることができる。色や濃さは人によって違い、視る方の感度にも個人差がある。

 宵人は非常に鋭敏な「視覚」を持っていた。彼の目だと、通常3〜4時間前までしか追えない『力』の残滓を、最大24時間前まで追うことができる。また、状況の把握にも長けていて、『力』がどういう使われ方をしたのか、ということも視ることも可能である。

 宵人の目に、まず飛び込んできたのは上司の『力』の色。先程見えた、他の『力』を押し潰すようなそれは、もう見えなくなっていて、幾分か弱まったそれが上司の近く、というかほぼ重なって見えた。 

 そして、その2つの奥側に、もう一つの『力』が見える。これを、宵人は敵の『力』だと考えた。

(交戦中か?……いや、それにしてはやけに大人しい。)

 じっと見守っていると、奥側の『力』の色が、全く別物に変化して、消えた。

 宵人は目を見開いた。彼の様子を、じっと見守っていた早岐がそれを見て尋ねる。

「中の状況、どうなってんの?」

 すぐには答えず、頭の中で少し噛み砕いてから、宵人は口を開いた。

「3人分、活発に『力』が見えてたんだが、敵らしき方の『力』が別の『力』になって、消えた。」

 何のことだ?という顔を早岐がする。宵人も視えていた光景の意味は、よくわからない。とりあえず、奥からもう不穏な気配がしないことはわかって、隣の彼を促して歩き出す。

 2人が廊下を中腹まで進んだとき、奥の扉が開いた。

「!」

 早岐と宵人は身構える。ギィと、ゆっくり開いた扉から現れたのは大柄な男で、何かを背負っていた。

「早岐、御厨。」

 彼は2人を認めて、近づいてきた。2人もすぐにそれが、自分たちの上司だと気づいて駆け寄る。

「忠直さん。無事でしたか。」

 宵人は安心したように息を吐く。中から現れた大柄な男、それは永坂だった。彼は宵人に向かって頷く。

「俺は無事だが、こっちの方がな。戻らなくてはいけないようだ。悪いが、後始末を頼む。」

 永坂の背には、うとうとしている旭の姿があるが、早岐も宵人も、大したリアクションはせずに、チラリと見ただけで永坂に向き直る。2人に対して、永坂は淡々と指示を出した。自分がこの場に残れないことを、気にしているようではあったが、背中の彼女のことも気がかりなようで、少し申し訳なさの入り混じった声色である。

「ここに来るまでに、何か変わったことはなかったか?」

 話の終わりに永坂が尋ねた。その質問に、宵人は怯えて逃げてきた集団のことと、先程見えた光景を伝え、中で何が起こったのかを訊く。永坂は旭が拷問を受けたことから、13との接触まで丁寧に説明をして、宵人が見た光景に関する考えを告げた。

「『力』が変わって消えた、か。それはたぶん13が消えたときだろうな。奴に代わって落ち葉が1枚その場に落ちた。…テレポート、瞬間移動、その類の『異能』持ちがいる可能性があるな。」

 永坂は少し考えるように目を伏せると、眉間に皺を刻む。

「…奴らの逃走手段になる『異能』か。これも調べておかないといけないな。」

 早岐がうげ、と顔を顰めた。その頭を叩きながら、宵人も内心うんざりする。事件が起こるたびに調べることが増えていくのだ。今も局では1人残された仲間が、パソコンや資料と睨めっこしている。

「とりあえず2人は、奥の部屋で気絶している連中と、エースと呼ばれていた幹部らしき男の確保を。特に後者に関しては早岐、頼む。」

 永坂に頭を下げられて、早岐はめんどくさそうに返事をした。そしてまた宵人に頭を叩かれる。

「残党を回収しに、何者かが襲撃に来る可能性もある。深追いはするな。」

 最後に力強い忠告をして、2人が頷くのを見ると、永坂は、その場を後にしようと背を向ける。すれ違う瞬間、宵人は旭の方を勢いよく振り返った。廃墟に踏み込む前に感じた、他の『力』を押し潰していたあの『力』の残滓を、彼女に視たからだ。

「忠直さん、その人、何者なんですか。」

 それは、少しきつい口調になってしまった。投げかけられた永坂は言葉に詰まったように立ち止まる。

 宵人は少し不安だった。この人は、よく放って置けないものを抱え込むきらいがある。

 旭の人柄を知る前に、『力』を視た宵人にとって、彼女は、自分の仲間に害を及ぼしかねない人間に見えた。直感的に、逃げていた人々が、何に怯えていたのかを察してしまったから。

「…悪い。俺にもわからないんだ。」

 いつもは、きちんとした答えをくれる上司の、その曖昧さに、宵人はさらに不安になった。

「忠直さん。」

 宵人の呼びかけに、振り返った永坂は困ったように眉尻を下げていて、宵人はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「心配してくれてありがとう、宵人。だがこっちのことは俺に任せてくれ。」

 渋々頷いた宵人に謝って、永坂は2人に向かって言う。

「俺はまた、自由に動けなくなった。早岐、御厨、引き続き迷惑をかける。悪いが頼んだぞ。」

 永坂は右手首の刻印を2人に見せ、頭を下げる。2人は去って行くその背に、返事をするしかなかった。まだ不安そうに、彼の去った後を眺める宵人の肩を叩いて、早岐が奥の扉を開きながら言う。

「主任の心配できるほど余裕ないっしょ。俺らは俺らのやれることやるぞ。」

 その言葉に宵人は頷いて、永坂の指示通りに後処理に取り掛かった。

 

 中の有様はひどいものだった。怯えて動けない者はまだしも、中心の倒れたドラム缶の周辺に転がっている連中は完全に気絶しているし、体のどこかの骨が折れていた。

 1人1人確認して、死人は出ていないことに、ホッと胸を撫で下ろす。しかし、これが誰の仕業かわかる宵人は、微妙な顔をしていた。その肩を早岐が叩いて、エースを指さした。

「主任が言ってたの、あいつでしょ。後は総務に任せるぞ。」

 早岐と宵人は、拘束と連行を総務の人々に頼んで、縛られて動けないエースに向き合った。

「おっす。元気ないね。アンタがエースだろ?」

 早岐は笑顔を作って、エースと視線を合わせる。エースは、いつもの調子を取り戻し始めていて、不機嫌そうに早岐のことを睨みつけた。細まる早岐の目が、青く光った。

「アンタの名前と年齢を教えてくれるかい?」

 早岐が軽い調子で尋ねる。エースは何も言うもんか、と口を引き絞っていたが、早岐が言い終わった途端にその口を開いた。

津田つだ 吉乃よしの、19歳。」

 エースは言ってしまってから、驚いたように自分の口をぎゅっと閉じた。まるで、口が勝手に動いたような感覚。彼が目の前の早岐を睨みつけると、早岐はニッコリと笑っていた。

 これは、早岐の『異能』。彼は、『人が言いたくないことほど言わせることができる異能』を持つ。永坂が早岐に、エースのことを託したのは、そのためである。

「津田くんね。君は何でここにいたんだい?」

 早岐はメモを取りながら訊く。手慣れた様子だ。

「…俺は、あの女を殺すためにここにいた。…くそっ、13が条件なんて指定していなければ、今頃こんなことには…。」

 不愉快そうに顔を歪めながらも、口は動く。エースは、よく喋る方のようだ。早岐は、今回は簡単な仕事だな、と少し気を抜く。

「13?条件?何のことだか教えてくれる?」

 エースは、どこか諦めたように口を開いた。


「ただし、条件があるんだ。」

 旭を拉致する前の話し合いで、13はエースにそう言った。

 そもそもエースは13のことも、計画のことも、よく知らない。彼は『異能』を買われて、13に「面白いこと」をしよう、と誘われた人間であった。

 エースの人生は順風満帆だった。テストは大して勉強しなくても点数が取れたし、成績にしか興味のない両親は、良い点数を取ってくれば、何も言わない。文句も褒め言葉も。

 中学生のとき、彼はいじめの対象にされた。彼が『異能』を使えるようになったのは、それくらいの時期からだった。

 『異能』が使えるようになってから、世界が変わる。視界操作の『異能』は、異能を持たない人間にも作用したので、それを使ってまず彼は、付近をシめていたヤンキーたちを味方につけた。これがあれば、万引きなどは、容易に行うことができる。金や物の誘惑で釣れば、ヤンキーたちは簡単に従った。

 彼らの力を使って、いじめっ子たちに仕返しするときにはすでに、エースは辺り一帯をシめる人物になっていた。怖いものなどなかった。

 ただ、つまらなかった。エースのやり方が間違っている、と言って、突っかかってくる者も少なくなかったが、数の暴力で沈む。これ以上ない万能感に、エースは飽き始めていた。

 そんなときだった。1人の人物がアジトの奥、エースのところまで、たどり着いたのは。彼はにこりと笑うと、「君は面白い」と褒めてくれた。13と名乗った男は、それ以来エースの『異能』を抜けて、エースに会いに来るようになる。その度に「自分とともにすごいことをしよう、君はこんなところで終わるようなやつじゃない。」とエースを認めてくれた。あまり人に見てもらったことのなかったエースには、これが効いた。

 だから、13のことは好きだったし、信用した覚えはないのに、どこかで真に自分を認めてくれるのは、彼しかいないと感じていた。

 13はエースの方を見て、条件について説明し始める。現実に引き戻されたエースはハッとして、彼の話に耳を傾けた。

「ああ、別に身構えなくていいよ。ただ時間を稼いで欲しいってだけだから。30分程度かなぁ、俺がいいって言ったら、殺してくれる?」

 なんだ、そんなことか。エースはどんな無理難題が飛んでくるか、と身構えていたので、拍子抜けした。

「殺す方法も、時間を稼ぐ方法も君に任せるけど、どうしたい?」

 13の瞳がキラリと、悪戯っぽく光る。殺人の計画を話しているとは、思えない表情。しかし、その目の奥は笑っておらず、エースは彼が楽しいを演じながら、何もかもつまらないのだろうと思っていた。

「じゃあ、まぁ普通にドラム缶用意します。」

 エースがさも当たり前のようにそう言うと、隼人が顔を顰めた。

「うわー。真っ先に浮かぶ選択肢がそれかよ。引くわー。趣味悪すぎ。相手は女だぞ。」

 うげーと舌を出す隼人を睨みつけると、エースは彼を嘲笑う。

「ジャックは甘いんだよ。男でも女でも、ああいうタイプは最初に心を折っておくのが肝心だって知らないの?」

 あの丸い、人を真っ直ぐに見据える目。エースは何度か対峙したことがあった。ムカつくのだ。それに含まれる、エースを軽蔑するような色も、哀れむような色も。

 ドラム缶は、エースがつるんでいた、ヤンキーたちの常套手段だった。彼らは人の真っ直ぐな目が、だんだん懇願するような、死に怯える顔になっていくのが面白かったらしい。当時のエースには理解できなかったが、今の彼なら少しだけ、その気持ちがわかる気がする。

「みんなが危険だと判断したなら、私も徹底的にやるべきだと思います。それに、13がエースに任せたのだから。」

 珍しく口を開いたクイーンは、不敵に微笑む。彼女のことも、エースはよく知らなかった。

「ドラム缶。いいね、それ。古典的で風情すら感じるよ。」

 みんなの意見を聞いた13は、ニコニコと笑って、計画の細かいところを話し始めたのだった。


「へぇ。そいつは大層な話だ。」

 早岐は肩をすくめた。永坂から概要は聞いていたが、無関係の人間を巻き込んで、邪魔になったら殺す。相手の頭のネジは、かなり飛んでいるらしい。話を聞いていた宵人が、殺気立っていることに気づいて、早岐は彼の背をぽんぽんと叩いた。

(宵人は内心穏やかじゃないだろうね。『兄貴』が絡んでるんだから。)

 ここまで聞いてみて、エースから得られる情報は、何かに辿り着けるほどのものでは、なさそうな気がする。ないよりはマシだが。早岐はため息をついた。

 続きは局に戻ってから、と腰を上げ、宵人の方を窺うと、彼はどこか一点を厳しい顔で見つめていた。どうした、と訊く前に宵人が早口で捲し立てる。

「一巳。そいつ抱えて、総務の連中連れて離脱しろ。」

 いつになく堅い声色。その意図は読めなかったが、早岐の頭を、永坂の言葉がよぎった。何者かが襲撃に来る可能性がある、と。早岐は頷いて、総務の人たちに声をかけようと振り向いた。


「アンタの『異能』厄介そうだな。」

 

 男の声が聞こえたが、気配はなかった。しかし、早岐は、今にも黒い蛇のようなものに、襲い掛かられそうになっていた。

(まずい。)

 蛇は、早岐の喉笛目掛けて、一点に飛び込んでくる。避けるのも、防ぐのも間に合わない。動けない彼を、宵人が突き飛ばした。

 間一髪、蛇は早岐の足を掠めただけで、地面に衝突する。宵人は帽子を被り直す男を、キッと睨みつけた。

「クソ兄貴!」

 そう呼ばれた隼人はニヤリと笑って、宵人に向かって小さく手を振る。

「久しぶりだな、宵人。元気してた?」

 宵人の顔がさらに険しくなる。早岐はエースを降ろして、宵人の隣に立った。

「一巳、お前はそいつ連れて逃げろ。」

 宵人が促すが、早岐は首を振った。

「あの蛇が追ってくるだろ。背中向けるとろくなことになる気がしないね。」

 気配に気づかず、背後からの接近を許してしまったのに、これでまた隼人に背を向ければ、次に避けられる気はしなかった。『力』に敏感なはずの宵人すら、ギリギリでしか気づけなかったのだ。

「手負いの俺と津田くん背負って離脱は無理でしょ。なら、ピンピンしてる俺とお前の兄ちゃん撃退する方が良くね?」

 構えた早岐はパキパキ、と指を鳴らす。宵人はその言葉に少しだけ、無理があることに気づいていたが、早岐の言う通り、立ち向かった方が幾分かマシなことは、わかっていた。後ろには非戦闘要員である、総務課の職員がいる。もしも2人が逃げて、それを隼人が追えば彼らに被害が及ぶかもしれない。それを考えれば、ここで食い止めるのが最善のように思えた。

「その威勢、どこまで保つかね。」

 ハハッと隼人は笑って、自分の影から蛇を2体飛び出させた。どちらも早岐を狙って動き、1体は避けた彼も、2体目の突進を食らって、壁に叩きつけられる。

「一巳!」

「おっと、よそ見してる暇あんのかな。」

 早岐の方を窺う間もなく、兄の蹴りを辛くも防ぐ宵人。防がれたのが意外だったのか、少し目を見開くと、隼人は反撃を喰らわない程度に、距離をとった。

「兄弟水入らずといこうぜ、宵人。」

 一気に距離を詰めた宵人の突きを、軽く躱すと、隼人は、その首目掛けて手を振り下ろす。食らって宵人は、ぐらぐらと脳が揺れるような気持ち悪さに襲われた。しかしすぐに立ち直ると、隼人の追撃をいなして、懐に潜り込んだ。隼人はそれも躱して、また距離を取ろうとする。

「さっきはどーも、お兄さんッ!」

 だが、避けた先に待ち構えていた早岐が、隼人の背中に蹴りを入れた。すかさず宵人が、その顔に拳を叩き込むと、隼人は吹っ飛んで地面に叩きつけられた。

「なんだ。生きてたのか。」

 宵人は少し残念そうに、隣に立った早岐に目をやる。その腕の、蛇に噛みつかれたときにできたと見える傷から、ぼたぼたと血が垂れていた。

「うわ、なにそれ。冗談にしてもわりとキッツイよっ!?」

 早岐が言い終わるが早いか、また蛇が飛んでくる。今度は4体。そのうちの2体が、早岐の方に飛んでいき、宵人が助けに入ろうとするが、その間に隼人はエースの方に接近していた。それに気づいて、まずいと思った宵人が、手を伸ばすが届かず、その腕に蛇が食いつく。宵人は痛みで顔を歪め、蛇を振り払おうとするが、そうしている間に、もう2体襲ってきて、宵人は蛇に拘束された。

「『力』が物理的に振り払えると思うのかよ。」

 ぐっと頭に圧力を感じて、宵人が見上げると、エースを抱えた隼人が、自分の頭を踏みつけているのがわかった。彼は宵人を嘲笑うように、口角を上げる。

「……俺の『蛇』はな、『力』ぶつけりゃ消えるんだよ。お前の同僚はそうやって2体から逃れた。宵人、お前は相変わらず、それができないんだな。向いてねえだろ、こんな仕事。兄ちゃん心配だなー。」

 ぐりぐりと踏みつけられて、宵人は歯を食いしばった。隼人の言う通り、宵人は「視覚」には長けているが、肝心の『異能』を使うことができない。気にしている部分に触れられて、宵人は激昂する。

「…ッるせぇ!!俺と母ちゃん捨てて出て行った兄貴に、んなこと言う権利ねえだろ!」

 宵人が隼人を睨みつけると、隼人は少しだけ傷ついたような顔を見せる。

「…心配なのは本当なんだぜ。」

 その声は小さすぎて、弟には届かなかった。

 ブンッと風を切る音がして、隼人の鼻先を鉄パイプが掠めて、壁に突き刺さった。驚いて隼人が、その飛んできた方向に視線をやると、早岐と目が合う。

「アンタはなぜ13の元にいる?」

 彼の目から青い光が漏れていた。隼人が動きを止めた隙に、早岐はちょっとでも、何かを探ろうとしたのだ。隼人はしまった、という顔をしながら口を開く。

「俺はあの人を助けたい。…5年前、死にそうな顔をしていたあの男を、放っておけなかったんだ。」

 そこまで言ってから、隼人は空いている方の手で、自分の口を塞いだ。いつになく真剣な顔を見せた、彼を見上げながら宵人は、グッと唇を引き絞った。

 早岐は目に『力』を集中させた。目を逸らそうとしていた隼人は、その光に惹きつけられて固まる。早岐が更に情報を聞き出すために、新たな質問を重ねようとした瞬間、隼人とエースがパッと消え、宵人の上に落ち葉が2枚、降りかかった。

「消えた!?」

 早岐は宵人の方に駆け寄るが、隼人とエースは、影も形もなかった。宵人に絡みついていた、3体の蛇を振り払って、早岐は彼の身体を起こしてやる。宵人は悔しそうに顔を歪めていた。

「はー……。逃しちまったな。」

 早岐は舌打ちをしてから自分の腕に目を向けた。スーツの袖は、噛み跡でボロボロで、奥の腕から血がぼたぼたと垂れている。

「いてて…。お前の兄ちゃん、かなり使いこなしてんな、『力』を。」

 簡単に止血しながら、早岐は何気なく言った。しかし、宵人は少し傷ついたような顔をして、目を伏せる。

「悪ぃ。」

 小さく謝ると、彼も、自分の腕の傷を確認した。早岐の傷より幾分か浅く、唾でもつけときゃ治るか、と宵人は投げやりに吐き捨てる。その様子を見ていた早岐はやれやれ、と首を振ると、携帯を取り出した。

「主任に報告するぞ。津田は取り逃がしたが、わりと得たもんはあるしね。」




 コンコン、コンコン、コンコンコン。

 ノックが鳴っているのはわかっていた。だが、どうにも体がだるい。

 コンコン、コンコンコン、コンコンコン。

 わかっている。自分が動かなければ、彼は部屋を出ることすら、ままならない。わかっているのだ。

 旭はいつもの3倍は重い瞼を開けて、体を起こそうと、力を入れた。……あまりのだるさに、力が入らない。体が熱かった。

 コンコンコン、コンコンコン。

 仕方がないので、旭は這いずって、永坂が動けるところまで、なんとか移動する。そこで壁を3回ノックすると、彼はすぐに部屋に入ってきた。勢いよく開いたドアに、旭は頭を殴られる。

「ぎゃ。」

 それがとどめになったように、旭は完全に床に身体を預けた。

「悪い。」

 謝りながら永坂は、少し驚いているようだった。彼は、おはようも言えない旭の傍にしゃがむと、その手を旭の額に伸ばし、顔を顰める。

「……当たり前か。」

 旭が13の計略によって、拷問じみたものを受けたのは、昨日のことである。今は11月。ドラム缶でのそれは、冷たさが身にしみたらしい。

 永坂は、旭の背中と膝裏に手を入れて、彼女を抱えると、リビングの方へ向かった。

 旭はとにかく体がだるかった。永坂に体温計を渡されたときも、水分を取らされたときも、トイレに座ったときも、とにかく体がだるかった。旭はキッチン付近に置かれた椅子に、もたれかかるように座って、忙しなく動く永坂を見つめていた。

 しばらくして、すりりんごを手渡されたが、手が震えて、うまくスプーンを握れない。見かねた永坂が食べさせてくれる。たっぷり20分はかけて、それを完食すると、氷枕を持たされ、また永坂が部屋まで運んでくれた。

「……風邪ですかね…。」

 すりりんごの味もわからなかった。絞り出した声はガラガラで、目がとろんとしている。

「多分そうだろうな。寝ておけ。一応榊を呼んでおく。」

 意識的なのか無意識なのか、永坂は旭の頭を撫でる。それに安心したように、旭が寝息を立て始めると、彼は携帯を取り出した。


「風邪だね。安静にさせておきなよ。」

 榊はうんうんと頷くと、旭に布団を掛け直した。永坂は、少し安堵したように息を吐くと、彼女の氷枕を取り替える。

 時刻は昼過ぎ。眠った旭はまだ目覚めていない。その間に榊が到着して、永坂から容体を聞き、旭の様子を診ているところであった。

「にしても、なかなかひどい目に遭ったようだね。このくらいの傷で済んだのは、幸運だったかもしれない。」

 永坂から昨日何があったのか聞いていた榊は、旭の傷を見て顔を顰める。それを横目で見ながら、永坂はため息をついた。

「そもそも怪我が多い。前回や今回以外にも、体に傷が残っている。無鉄砲さもあるが、彼女は躊躇いがなさすぎる。恐怖が追いついてくるのが遅いんだ。」

 その発言に、榊が眉間に皺を寄せた。何かおかしなことを言ったか。尋ねる代わりに視線をよこすと、榊は険しい表情のまま口を開く。

「え、何?ヤッたの?」

 唐突に訊かれて、永坂が嫌悪感丸出しで顔を顰める。

「は?」

 永坂は、本気で呆れたような声を出した。榊はふざけているというよりも、渋い顔をしていた。

「なんで傷が多いなんて知ってるのさ。」

 永坂は非常に長いため息をつくと、榊の頭を、両側から拳を作って押さえつけ、そのままぐりぐりと力を加えた。痛い痛い、と榊の悲鳴じみた声が響く。

「誰が、彼女の手当てをしたと思ってんだ。そのときに傷が目についただけだ。デリカシーがないのもいい加減にしろ。お前じゃあるまいし、こんな非常時に緊張感のないことするか。」

 それは、怒っているというより、呆れた上での説教であった。榊が両手を上げて、降参の意を示すとやっと止まる。

「お前のそれ、大概にしておかないといつか刺されるからな。」

 再びため息をつく永坂。そんな彼を、榊は不満げな顔で睨んだ。

「なんだよ、心配してあげただけじゃないか。ナオは仕事と恋愛両立できるほど器用じゃないでしょ。」

 永坂はやれやれ、と首を振った。心配の仕方が下手すぎるのだ。こめかみを押さえる榊に、永坂は本題に移ろうと促した。

「手錠の様子はどうだ?」

 榊に向かって右手首を示す永坂。そこには、再度つけられた刻印がある。それ自体は何の変哲もない。榊はじっとそれを検め、旭の方にも目をやった。

「……『力』の融合は進んでいるね。もしかしたら、そろそろ通常通りに『異能』が使えるかもしれない。一回外されたんだよね?」

 永坂は頷いた。旭が攫われたあのとき、右手首に痛みが走って刻印は消えた。そして、旭と合流したときに13によって、またつけられた。それをもう一度榊に伝えると、彼は目を伏せた。

「ふぅん。外されても融合の進行度はリセットされないのか。…つまり、これは「手錠」の『異能』の効果というより、2人の関係性の進行度に帰属しているのかな。」

 ぶつぶつと考えを話し始める榊を、永坂はじっと見守った。どうやら榊の最初の推測通りに、事は進んでいるようだ。

「これは俺の勘だけど、13の狙いはここにもありそうな気がするんだよね。2人を使って自分の『異能』の実験をしてるみたいな。」

 榊がやっと永坂の顔を見る。永坂は納得したように頷いて、旭の方を見た。彼女と出会ってまだ1ヶ月も経っていない。それでも自分が、彼女のことを受け入れ始めていることに、永坂は気づいていた。すやすやと眠る彼女について、わからないことは多い。それでも、この件に無関係な以上。

「榊。それを聞いて尚更、俺は彼女をもう巻き込みたくない。」

 榊に向き直った永坂はそう言って、彼の方に手首を差し出す。

「お前なら、外せるよな。」

 榊は渋い表情を浮かべた。榊の『異能』は治癒。彼がいれば、手首を切り落として、13の『異能』を物理的に解除することができるのだ。

 実は旭と繋がれた初日に2人で話したときにこの案も出てきたのだが、どんなリスクがあるかわからないという点と、旭が敵であった場合、何か動きがあるかもしれないと、泳がすために却下された方法であった。

「センパイ、俺は危ない橋を渡らせる気はないよ。アンタにも、この子にもね。」

 榊は言いながら首を横に振る。リスクがわからない、ということもあるが榊にとっては、他のことが心配だった。

「外せたと仮定して、13はまたナオのことを襲いに来るでしょ。とんだいたちごっこの始まりになるだけ。意味がない。だからアンタはこの子から離れたら、それを避けるために、1人で13を追うつもりだよね。違う?…それはいただけない。」

 榊は永坂に、1人で動いて欲しくなかった。他人の生き死にには敏感なくせに、たぶん永坂はいざというときに自分の命に対しては、シビアになる。それに、彼の『異能』にも不安なことがあった。

「ナオは1人にするとろくなことがないでしょ。しかも、5年前絡みの事件。俺は最終手段以外でそれをする気はない。」

 榊はきつく永坂を睨みつける。梃子でも動かないつもりのようだ。

 榊が賛同しないことは、なんとなく察しがついていた。永坂は懐から一通の封筒を取り出して、榊に渡す。封筒を開いた榊は、驚いて永坂に目を向けた。

「それが嫌なら、俺の要求を呑んでくれるよな。」

 永坂は淡々と言う。榊はまだ唖然としていたが、信じられない、というように、やっと言葉を絞り出した。

「正気……?『契約破棄届』。俺との関係をこれで断ち切るつもり?」

 榊惣一は異能対策局の人間ではない。彼がこうやって、永坂から情報を受け取り、事件に介入できるのは、異局と契約を結んでいるからである。

 それに、榊の『異能』は非常に珍しい上に、喉から手が出るほど、それを求めている人間もいる。彼の身は異局との繋がりによって保障されていると言っても、過言ではない。それを永坂は断ち切ってもいいのか、と一枚の書類で示したのだ。

「笑えない冗談だよ。ナオはこんな方法で俺を脅すんだ。」

 要求を飲まなければ、これを提出するつもりらしい。それは榊にとって重要な意味を持っていて、彼は苦虫を噛み潰したような顔になる。

「最低だろ、これを使うのは。」

 榊は書類を握りつぶして、永坂を睨みつけた。

「やってくれるんだな。」

 ゴミ箱に投げ捨てられるそれを眺める永坂は、無表情だった。声にも感情を滲ませない。榊は苦々しげに、眉間に皺を寄せてため息をつくと、返事をしようと口を開いた。


「いやです。」

 

 しかし、答えたのは嗄れた声。榊と永坂は弾かれたように、旭に注目した。

 彼女はフラフラと立ち上がると、驚いている永坂の胸ぐらを掴む。高熱にうなされている病人とは、思えない力。その手は熱く、澄んだ目が永坂を睨みつけていた。

「私、嫌です。13には借りができましたし、一発くらいぶん殴らないと気が済みません。」

 むしろ今、永坂をぶん殴りそうなほど、彼女は憤っている。榊は、少し戸惑ったように、両手を彷徨わせたが、永坂は、静かに旭を見つめた。

「何より、榊さんに、あなたのことを頼まれました。私は、頼まれると断れないんです。」

 旭の目が、榊の方に向いて細まった。

 榊と初めて会ったとき、彼は『ナオのことをよろしく』と言ってきた。旭の中でそれは、重要な事項に設定されていて、もう除外する気もない。

「これを今外すのは却下します。私にも13を追わせてください。あなたと一緒に。」

 永坂の静かな目に向き直り、旭は彼の言葉を待った。しばらくの沈黙ののち、彼はため息をつくと旭に問う。

「…俺の目の前で、死なないと約束できるか?」

 見定めるような視線を向けられたのは、久しぶりだった。共同生活が始まって数日間は、この視線に悩まされたものだ。でも、今はもう違う。旭はきちんと見つめ返して、頷いた。

「はい。約束します。」

 永坂は何も言わなかった。代わりに彼は、手を伸ばして旭の頰に触れ、つねった。唐突な行動に、旭は目を丸くして、「いひゃいです」と抗議してみる。

「呆れ果てた。約束すると言ったその体でたぶんお前は、恐怖よりも先に足を出すし、無茶をするんだろう。」

 信用がないらしい。旭は苦笑いを浮かべた。だって、自分ではどうすることもできないくらい、無意識に飛び出してしまうのだから。

「…俺は守ることには向いていないんだ。」

 呟くように言うと、永坂が旭の頰を解放する。同時に旭も、彼の胸ぐらから手を離した。永坂の目には、迷いがあった。彼も悩んでくれている。旭はそんな永坂に微笑んだ。

「なら、私が守ります。あなたは、私を止めてくれればいいんじゃないですか?昨日みたいに。そしたら私、死なずに済みます。」

 その言葉に永坂は思わず、口をぽかんと開け、旭はどうでしょう、と首を傾げる。それまで真剣な顔をして、黙って2人のやりとりを見ていた榊が笑い始めた。

「あはは!それは名案だ。すごくいい、すごくいいね、君。ほら、ナオ、こんな啖呵切られてまだ引き下がるつもりかい?」

 響き渡る笑い声に、旭は何がおかしいのかわからなくて、きょとんとする。目の前の永坂は難しい顔をしていて、助けを求める目で見ても、まだ何も答えない。

 不意に、永坂の手が旭の頭に伸びてくる。またつねられる、と目をつぶった旭の頭に、手が置かれた。ぐしゃぐしゃと、そのまま乱暴に頭を撫でられる。

「さすが、ボディガードさんだな。」

 榊に釣られたのか、永坂も諦めたように笑っていた。

「そうです。そもそも私は、守るのが仕事なので。ナオさんも守ってみせます。」

 旭は拳を握って、意気込む。それを見て、さらにツボに入った榊の笑い声が、高くなる。

「なんだその呼び方は。」

 くっくっと喉の奥で押し殺したように、永坂が笑った。榊の『ナオ』という呼び方に釣られたらしい。開き直り、嫌なのか、と訴えるように見上げる旭に対して、首を横に振って、永坂は言った。

「わかった。俺が悪かった。…これからよろしく頼む、旭。」

 差し出されたのは右手。旭も手を出して、しっかり握った。

 榊はどこかで安心したように、2人を見つめていた。旭に永坂を頼んだのは、正解だったようで嬉しくなる。永坂が、気の抜けたように笑うのを見るのが、久しぶりだったから。

(大丈夫。この子とならきっと。)

 頷いた榊に、そちらに目を向けた永坂が、少しバツの悪い顔で謝った。

「強引な手段を取ろうとして悪かった。」

 顔を上げさせて、榊は永坂にデコピンを喰らわせた。バチン、と痛そうな音。永坂は少し顔を顰める。

「これで許してあげるよ。センパイは、相変わらず世話が焼けるよね。」

 悪戯っ子のように笑う榊。彼はゴミ箱の方を見て、2度とあの書類は見たくないものだ、と一人思った。

 そのあたりでぐぅぅと、緊張感のない音が鳴った。旭の腹である。彼女は恥ずかしそうに、目を伏せた。

「…ちょっと遅いが昼飯にするか。腹が減るのはいいことだ。」

 永坂は旭の額に手を伸ばして、そう言った。朝よりも、幾分かマシになっている。

「歩けるか?」

 旭は頷いた。まだ体は熱かったが、朝よりも立ちくらみと悪寒はない。

「やった。ナオのご飯久しぶりだ。」

 嬉しそうな声を出す榊。3人は部屋を後にして、キッチンの方へ向かっていった。


「ナオさん。」

 その夜、布団に横になった旭は、隣で壁にもたれかかる永坂を見た。

「すみません、ここで過ごさせてしまって。」

 嗄れた声で彼女は謝る。それに対して、永坂はゆっくり首を振った。気にするなということらしい。

「俺の呼び方、それに決まったのか。」

 訝しげな顔で見られた旭が、榊に釣られたのだと説明すると、永坂は納得したように頷く。

「嫌ですか?」

 旭が訊くと、永坂は違うと否定する。

「俺をナオと呼ぶやつはもう榊くらいだから。」

 その口調は、どこかしんみりしていた。それにはきっと、5年前のことが関係しているのだろう。旭は少し悩んだ後、訊いてみた。

「じゃあ昔はよく呼ばれてたんですか?」

 永坂がそうだな、と遠くを見る。昔を思い出すような仕草に、旭は黙って彼を見つめた。

「学生の頃に呼ばれてそのまま。中高一貫のところだったから、定着してしまってな。榊は一つ下の後輩だったが、異局と関わるようになってから、俺の周囲の奴らの真似をして、『ナオ』と呼ぶようになった。」

 懐かしいと笑う彼は、少し寂しそうに見えた。

「5年前の事件については、昨日少し話したな。あのとき、俺のいる特務課が最前線で指揮を取っていた。同僚が2人いたんだが、そのうちの1人が『お前の名前はアが多い。』とか言って、学生のときにナオを定着させた張本人で。上司のオッさんたちもつられて、俺をそう呼んでいたな。」

 旭は疑問に思って、眉間に皺を寄せる。今、永坂をナオと呼んでいるのは、榊「だけ」だと彼は言った。つまり。

 旭が何かを察して永坂を見ると、彼はまた遠くを見ていて、表情が窺えなかった。

「……無事に生き残ったのは俺だけだ。上司6名と同僚の1名死亡。後輩が1人今も昏睡状態で、もう1人の同僚は事件から1年経たないうちに自殺した。…俺をナオと呼ぶ人間は、榊だけになった。」

 永坂は5年前から、笑わなくなったらしい。その意味がわかって、旭はどうしようもない気持ちに駆られて、彼の服の裾を掴んだ。この手を離さなくて良かったと、心底思う。

 掴まれた服の裾に目をやって、永坂は少し顔を歪めると、旭の方を見ないようにした。

「上司の中には、御厨の父親もいてな。隼人も、その弟で俺の部下の宵人も、幼い頃から知っていた。御厨さんは最初の被害者で、あの山瀬ビルで亡くなった。……11月3日は彼の命日だ。」

 旭は、隼人が供えていた花束を思い出す。『俺にとって大事な日』と、彼は言った。彼もまた、5年前に関係する人物であったのだ。

「あれ以来俺は、もう誰にも死んでほしくないんだ。あの人たちが傍にいてくれた日々は、もう戻らないように、今俺の傍にいる人たちが与えてくれる日々だって、かけがえのないものだから。」

 暗い部屋で、彼の淡々とした声だけが響く。重たい話ではあるが、彼がその過去を引きずり続けているわけではないことを、旭はどこかで理解していた。強くて脆い人だ。旭の目からは、勝手に涙が流れ出していた。

「なんでお前が泣くんだ。」

 呆れたような口調なのに、表情が見たことがないほど優しくて、旭は涙と風邪のせいで、ガサガサの声で呻いた。

「…あなたが泣かないから。」

 自分でもひどい声だと思ったのに、永坂は優しく目を細める。

「寝物語にしては重たかったな。…だが、共に行くと決めた以上、旭には知っていてほしかった。……もう寝ろ。お前は風邪を引いてても、平気だと言って走り出しそうだ。なら早く元気になれ。」

 掴んでいた手を剥がされて、布団の中に押し込まれる。ついでに傍にあったタオルで目と鼻を拭われた。

 しん、と沈黙が体に染み渡った。旭は、永坂の方を向くような体勢で目をつぶる。

 どうか、この優しい人が、もう苦しまないで済むように、彼女はそう願った。






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