痛みと引き換えに
三話 絆の萌芽
どうして悪の組織の集合場所は暗くてじめじめした場所が相場なのだろうか。御厨隼人は指定された廃墟に足を踏み入れながらそう思った。
今日の天気は雨。廃墟なので雨漏りも激しく隼人は正直なところ早く帰りたかった。数枚のドアを開け閉めして奥の方の開けた大きな部屋に入ると、そこはもともと宴会場だったのか小さなステージがあった。
「やぁ、ジャック。待ちくたびれたよ。」
13はステージの上に腰掛けていた。彼は仲間のことをトランプになぞらえた渾名で呼ぶ。隼人に割り振られたカードは、11でジャック。
「いつも早いですよね、アンタ。」
隼人はその姿を捉えて感心したように声をかけた。すると、彼の声に反応したように舞台袖から女が現れて隼人に向かって会釈した。
「クイーンももう来てたんだよ。みんな集まりが良くて、感心だね。」
クイーン。そう呼ばれた女は長い髪をたなびかせながら舞台を降りてきた。隼人が傍に寄ると美しく微笑む。
「あれ、今回俺たちを呼び出したのはエースでしたよね。あいつ、1番下っ端のくせにまだ来てないんすか?」
隼人が尋ねた瞬間、ドアが開く音が響いた。エースが到着したらしい。その顔と腕には包帯が巻かれていた。この前の給水塔から落ちたときの怪我がまだ治っていないのだ。
彼はいつものフード付きのパーカーを着ておらず、珍しく素顔を晒している。釣り上がった大きな瞳に白い肌で、いかにももやしっ子といった感じの華奢な体の青年がエースであった。
「ああ、エース。お疲れ様。」
13の労いに頭を下げたもののエースは不機嫌なようだった。眉間に皺を寄せていてむっつりと膨れている。
「今回はこの4人で全員だ。…さぁエース。始めて。」
ゆったりとした口調で13が告げるとエースが口を開いた。
「今日みんなを集めたのは、僕から提案があるからだ。」
わざわざ全員を呼んだのだ。そんなことはわかっている。隼人が揶揄おうと悪戯っぽく目を輝かせた。彼はタイミングを計るようにエースを見る。
「ボクは、あの女が気に入らない。アイツはダメだ。…消して、替えた方がいいと思う。」
13に向かって唸るように言うエース。あの女とは。詳しく話そうとしたエースを遮って隼人が鼻で笑った。
「今までろくに失敗したことのないプライドの高い坊ちゃんは、2回もボコボコにされて心が折れちゃったみたいだな。可哀想に。」
やれやれと首を振る隼人をエースは睨みつけた。
「なんだよ、あんただってしてやられてたじゃないか。」
素直につっかかってくるエース。その反応が面白いらしく更に揶揄おうとした隼人を13が視線で止めてエースに理由を問う。
「あの女、聡すぎるんだよ、こっちの気配に。……何かあるよ。早めに排除しておいた方がいい。」
13が興味深げに目を細め隼人の方を向く。隼人のほうの所感も聞きたい、ということである。皆の視線に射抜かれた彼は肩をすくめた。
「まぁ、そうですね。エースの言う通りではありますよ。『異能』もそこそこ使いこなしてそうだし、何より蹴りは痛かった。厄介と言えば厄介かもしれませんよ。」
隼人は旭に蹴られた腹をさすった。隼人の評価を聞いた13はこの展開を面白がっているようだった。その目の輝きを見て隼人はさらに続ける。
「彼女の『異能』、なんでしょうね、あれは。上から押さえつけられる感じ。俺たちがされたみたいに、不意打ちで食らうと本当に反則です。今でもあれだけ動けるし連携取られ始めたら面倒だ。ま、俺はエースの坊ちゃんと違って異質なモンは感じられませんでしたけど、別に彼女にこだわる必要はそうないんでしょ?」
隼人が逆に13の様子を窺うように見ると彼は悩んでいるようだった。しん、とした沈黙が広がって、隼人、エース、クイーンは13の発言を待つ。
「……まぁ、そもそも俺が、独断と偏見で急に予定変更して彼女を選んだからね。不確定要素に悩まされて当たり前か。…うーん、面白そうだったんだけどな。」
少し不服そうなぼやきを口に出して13は顔を上げた。
「だけど、可愛いエースの頼みだしね。わかった。お前に一任するよ。よろしくね。」
ニコッとエースに笑いかける13。期待をかけられたと考えたエースも嬉しそうに顔を輝かせた。
「ただし、条件があるんだ。」
13は不敵に微笑んだ。
朝食のメニューはホットサンドもどきで焼いた食パンにポッケを作ってその中に野菜とチーズと目玉焼きを挟んだものであった。チーズが伸びるとテンションが上がる。旭は嬉しそうにそれを黙々と食べた。
山瀬ビルでの一件から数日が経っていた。その間に今まで向かった場所での調査や榊との情報交換、永坂の方は個人的に他のこともしているようだったが、ろくな進展はなかった。
しかしそれとは対称的に彼と出会ってから数週間が経過してしまった旭はこの生活に順応し始めていた。洗濯はさすがに分けられていたが食事の用意や片付け、掃除などは一緒に行わなければならなくて、その都度永坂は丁寧に旭に教えてくれる。旭にとって目の前の仏頂面の彼がそこまで嫌なものではなくなっていた。相変わらず雑談はないが。
「男が目を覚ました。」
パンを齧る旭をしばらく眺めていた永坂がふとそう言った。男、それは『異能』を悪用して抵抗できない女性に対して暴行を繰り返していたという隼人に「クソ野郎」と評されていた彼のことだろう。旭は永坂の方に目をやる。
「…御厨隼人の言っていたことは事実だったようだ。これからもっと調べられて被害者の身元や人数も判明するだろう。」
永坂はため息をついて旭をじっと見てから訊いた。
「お前は迷わずあの男の止血を優先したが、後悔しているか?」
隼人の『異能』で首をかき切られた彼はあの場で放置して隼人の方を追っていれば死んでいただろう。彼は許されない罪を犯した犯罪者だった。果たして、助けるべきであったのか。
「してないです。」
即答だった。旭の丸い目が永坂の逡巡を晴らすように彼に向けられる。
「あの場で彼を見殺しにしていたら私たちもきっとこの先、13たちのやることを糾弾できなくなっていたと思います。…もちろん、反吐が出るような犯罪者だとは思ってますけど、それなら尚更そんな人を殺して私たちの手まで汚す必要ないでしょう。」
旭はそれだけ言うとまたパンを齧った。
「そうか。」
永坂は頷いてコーヒーのマグを手に取る。また静かな食事が再開される。こういうふうに必要な事務連絡はよく朝食の場で行われた。
「そういえば、お前の上着なんだが。」
コーヒーを啜って思い出したように永坂が言う。上着、それは旭が咄嗟に例の男の止血に使ったもののことだろう。
「悪いが、捨てたそうだ。」
旭の眉間に皺が寄った。一張羅とまでは言わないが、そこそこお気に入りの上着だったのだ。少し落ち込むと永坂は無表情ながらもさすがに申し訳なさを滲ませる。
「あー、えっと、気にしないでください。自分でしたことだし、さすがに返されてもって感じですしね。」
男を引き渡す際にはもうすでにあの上着には血液がべっとりと付着していた。返されたとて、捨てることにはなっていただろう。
「それなら今日、家まで付き合ってもらっていいですか?他の上着を持ってきておきます。」
永坂は頷いた。
持ってきていた別の上着を着て、永坂と外に出る。11月になってから気温が下がり始めていた。今の上着では少し寒い。旭は身震いすると、散る落ち葉を恨めしげに見る。
家までは大体20分。会話のない散歩は2日目の夜を思い出させた。今は朝だが。
最近旭は少しだけだが鎖の存在を感じにくくなっている気がしていた。別に2メートルが変わったわけではない。ただ、雑に引っ張られることは、ほとんどなくなった。
そのことから旭の頭の中によぎるのは榊が言っていた「力の融合」についてである。
旭が観察する分には別に永坂と自分を繋ぐそれに変化があるようには感じない。最初と同じように自分と永坂の力、そしてこの鎖の『異能』を所有する者の力が視えるだけ。
(でも、なんでだろう。そろそろ何か。)
旭は自分の少し前を歩く永坂の背を見つめた。なかなか口を開かない彼のことをもっと知りたいとは思う。でも、知ってしまったら何か敵の思い通りになりそうな気がして、実は最近は旭も最低限のことしか口にしないようにしていた。
「おい。」
永坂が突然立ち止まってさりげなく彼女を背後に回す。旭が顔を上げるとそこは最初の事件があった公園の付近で一台の黒い車が停まっているのが目についた。
永坂は旭に目配せをした。旭も頷く。2人はエースの気配を感じ取ったのだ。旭は永坂に、思いっきり頰をつねられた。痛い。しかしこれで視界は開けるはず。だが、その前に旭は口を塞がれた。
「!?」
抵抗しようとしたが左手首に激痛が走って眩暈が旭を襲った。押さえつけられながらなんとか目を向けると手首の刻印が消えている。慌てて永坂を探すと視界の端に捉えた彼が男たちに囲まれているのが見えた。
永坂さん。旭が手を伸ばす前に後ろで手首を括られてしまう。チラリと見えたそれには見覚えがあった。ミカを縛った、異能を使えなくする縄である。『力』が出ない。旭は悔しげに自分を押さえつけている男たちを睨みつけるも、目隠しまでされて身体を持ち上げられた。音で車に乗せられようとしているのがわかる。
「旭!!」
永坂が自分を呼ぶ声が聞こえた。シートに乱雑に投げられ軽く頭を打つ。何か仕掛けられたのか瞼が重い。
(初めて、名前を呼ばれた気がする。)
意識が落ちる直前、旭はそんなことしか考えられなかった。
「ゲボッ、ぉえ、ゴホッゴホッ。」
旭は水を吐いた。もう何度目か、数えてもいられなかった。ゼェゼェと必死で呼吸をして、それが整う前にまた頭を水の入ったドラム缶に突っ込まれる。
連れ去られた後、彼女は11月の水の冷たさに目を覚ました。場所と状況の確認も満足もできないままに拷問じみた水攻めを受け続けている。
一度抵抗を試みたが目隠しと縛られたままの手首のせいで満足に動けず、横から一閃、顔に拳が飛んできて頬が赤く腫れる。ついでに2回ほど体を蹴られてまたドラム缶の前に立たされた。
ときどき粗暴な野次が飛び交うだけで旭は質問も何もされない。この行為が何のためにあるのかわからない上に身体的な苦しみから旭の頭はぼうっとし始めていた。
「おい、一旦止めろ。」
1人の男がそう言うと旭の頭を掴んでいた者が彼女を水から引き上げ固い床に転がした。続いて目隠しを1人が取る。旭は大きく咳き込むと、キッと周囲の男たちを睨みつけた。
「まだまだ元気そうだね。良い目だ。」
そんな彼女の傍に1人の男がしゃがみ込んだ。見覚えのあるその男は13だった。旭は眉間に皺を寄せる。
「…永坂さんは……?」
息も絶え絶えに旭が訊くと13はにこりと笑う。
「他人の心配をする余裕があるんだね。すごいや。君と彼に仕掛けた『異能』は解除したよ。彼は今、君と離れることができてせいせいしているんじゃないかな?」
わざとらしく彼は左手をひらひらさせた。そのゆったりした声色は旭の神経を逆撫でした。彼女は不愉快そうに眉間に皺を寄せる。
とりあえず永坂はこんな状況には置かれていなさそうだ。旭は少しだけ安堵してすぐにまた13を睨みつけた。
「なんで、こんなことを?」
13は周りを見渡してやれやれと首を振った。
「俺の意思じゃないんだけどね。君は計画において、不都合な存在だったらしい。残念ながら排除したほうがいいんだって。俺は結構、君のことを気に入ってたんだけど。」
ボロボロの旭を見ても、同情はおろか何の感情も見せない目の前の男に旭は戦慄した。大きい黒い眼に光はない。どこに本音があるのかわからない。
それでも弱みを晒すわけにはいかない、と旭は力を込めて睨みつける。
「……気に入ってるのに、簡単に消すという選択肢をとれるんですか。面白いと言いながら首を絞めたときといい矛盾してますよ。…あなたが何がしたいのか、本当にわかりません。」
理解したくもない、そう吐き捨てて旭は彼から目を逸らすが顎を掴まれて無理やり13の方を向かされた。
「あれは、永坂忠直を焚き付けるためさ。優しい彼は目の前でいたいけな一般人が襲われていたら放って置けないだろうからなぁ。」
暗い深淵がこちらを覗き込んでくる。得体の知れない恐怖に旭は震えているのがバレないように取り繕った。
「つまり、私なんて、永坂さんに辿り着くための一つの手駒ってことですか。…邪魔になったら排除すればいいだけの。」
自虐気味に言うと13はにっこりして頷いた。
「そうだね。仲間じゃない分、情も湧かないから非常に便利だと思っていたよ。」
怯えながらも脳天を突き抜けていきそうな怒りが胸を焦がすのを旭は感じていた。
「じゃあさっさと殺してくださいよ。苦しいのは嫌です。」
旭の顔からスッと感情が消えた。13はそれを見て少し顔色を変えると旭に顔を近づけた。そして耳元で囁く。
「…勘違いしないでほしいな。俺はまだ、君に期待している。」
興味を失ったわけじゃないんだよ。ゾッとする口説き文句である。13は旭にしか気づかれないように彼女の手首の縄に切れ込みを入れた。意図がわからなくて旭は驚いた顔で13を見る。彼はそれに応えるように口角だけ上げた。
「エース、そろそろいいよ。」
背後にいたエースにそう言うと13は旭に小さく手を振って男たちの中に紛れていった。
代わりに今度はエースが旭の前にしゃがんで彼女の髪を掴んで顔を上げさせた。
「先日はどうも。ジャックともども世話になったね。」
エースの顔には絆創膏がいくつも貼ってある。彼の顔に覚えはなかったが、その気配とエースという呼称でフードの人物だと察しはついていた。
「あなた、そんな顔をしていたんですね。…まだ子どもじゃないですか。」
旭が呟くとその頬に平手が飛んでくる。バチン、と痛そうな音が響いた。
「誰が喋っていいって言ったの?13からの許可は出た。お前の命は、もうボクの指先一つで決まる。…楽に死にたいなら、もうちょっと殊勝な態度を取るべきじゃない?またドラム缶に突っ込まれたいんだ。」
エースが手で指示を出すと男たちが旭を持ち上げ、またドラム缶の前に立たされる。
「別にこれ、ボクの趣味じゃないからね。13が条件として、自分がいいと言うまで時間を稼げって言うから。」
エースは肩をすくめたがその顔は幾分か楽しそうだった。この苦痛がただの時間稼ぎだと言われた旭は膝から崩折れそうになってドラム缶にぶつかる。その様子を見た彼はいい気味だ、と笑った。
「ほら、許しを請いなよ。そしたら考えてあげてもいいよ、楽に死なせる方法を。」
エースはプライドが高い。彼の視界操作の『異能』は一般人にも通用するほど強力で、腕力では勝てない相手も従えてきた彼にとって2度も自分の思い通りにならなかったのは旭だけであった。相当彼女に対する鬱憤が溜まっていたのか、趣味ではないと言いつつ楽しそうである。
エースの言葉に旭は目を伏せた。視界の先にはゆらめく水面。この時期の水はとても冷たくて旭が震えているのは恐怖のせいだけではなかった。
(意地を張っている場合じゃないか。)
彼女は息を吐くとエースの方を見た。彼は勝ち誇った笑みで旭の様子を窺っている。旭は力を込めて思いっきりドラム缶を蹴っ飛ばした。
ガーン、と大きな音が部屋に響き渡り水がバチャバチャと勢いよく流れ出す。旭の背後にいた男たちもエースもそれに驚いて隙ができた。旭は力を込めて縄を引きちぎった。その際、手首の皮が擦り切れて持っていかれたが構うものか。
旭が手を前に出すと、フロアにいた全員が立っていられないほどの『力』に押さえつけられて膝をついた。
「……ふざけないでくださいよ。」
『異能』を行使したのは、一瞬の牽制であったが、旭から滲み出る圧力に萎縮して動けない者が大半であった。踏み出すことのできた者も蹴りに沈む。
「なんですか、女1人にビビってんですか?」
怯えた連中を馬鹿にしたように睨め付ける旭。挑発に乗ったのはずっと旭を押さえつけていた大男で彼女を捕まえようと手を伸ばした。それを見てハッと気が付いたように大勢が襲いかかるが、旭に触れようとした大男の手が異様に重くなって地面に叩きつけられた。ぽき、めきょ、と奇妙な音がしてその腕が変な方向に曲がる。
大男が痛みに喚き始めた。転がる彼を旭が冷たい目で見下ろして蹴り上げた。巻き添えを喰らって同時に何人かも吹き飛ぶ。
その後も同様に、彼女に触れる直前で敵が沈んでいく。正確無比な『異能』の操作としなやかに繰り出される蹴り。そのうちぱらぱらと何人かが逃げ始め、何人かは恐怖で逃げられずにその場に座り込んだ。
エースもこの怒涛の展開に動けずに固まっていた。ハッと気がついたのは旭がこちらを見据えて能面のような表情で近づいてきているときで、悪あがきの『異能』などでは止まってくれない。
「あ……。」
エースの目の前で旭はぴたりと足を止めた。びしょ濡れの乱れた髪をかき上げて溢れ出る怒りを隠そうともしない。
「ふざけないでくださいよ。私が何をしたっていうんですか。人のことを何だと思ってるんですか。…一体何がしたいのか、納得できる説明をしてくれませんかね。」
旭はエースの胸ぐらを掴んだ。もはや彼に戦意はなく、嫌だ、と首を振るばかりである。
「不都合だとか、面白いとか、私の何を知った気になっているんでしょうね。人を馬鹿にするのもいい加減にしてくださいよ。」
怒りが一周回って彼女を冷静にさせていた。旭は視線をエースから外して、ある一点に向けた。そこには13が立っていた。彼は離れたところで、この様子を眺めている。
旭はスッと目を細めた。彼の何の感情も読み取れない目。仲間をどれくらい傷つけられればあれは揺らぐだろうか。旭は胸ぐらを掴んだ手に力を込めた。
「旭。」
エースを殴ろうとしたそのとき、静かに呼ばれた。息切れしたような音が聞こえる。邪魔をしないで欲しかった。肩に置かれた手を振り払う。しかし、その手は離れない。苛立った彼女は思わず振り向いて合わせられた視線にハッとした。手から伝わる熱で、『力』で、旭の頭が冷めていく。
その目はいつも冷めていた。でもその奥に優しさが混ざっていることに旭は気づいていたから。
「…遅くなって悪かった。」
聞いたことのないトーンの彼の声。憔悴しきったような、安堵したような、そんな響きだった。
「永坂さん。」
旭はエースの胸ぐらから手を離した。ドサッという音を立ててすでに腰が抜けていた彼は崩れ落ちる。
「悪い。」
旭の姿を見て永坂は隠しきれずに顔を歪めた。彼女は殴られた顔に痣と切り傷があり、鼻血が出ている。ところどころ破れて汚れているワイシャツはびしょ濡れ。触れた肩もひんやりとしていた。
悪い、と顔を伏せる永坂を見て旭は彼の方に手を伸ばそうとした。
そのとき突然、パチパチパチと拍手の音が響いた。2人に向かって手を叩く13が近づいてくる。旭も永坂も彼の方を見て険しい顔つきになった。
「素晴らしいね。やはり俺の期待通りだった。ありがとう、旭兎美さん。嗚呼、本当に…素晴らしいよ、涙が出そうだ。あの場で君を選んで本当に良かった!」
その顔は本当に嬉しそうで逆に不気味だった。永坂は旭を庇うように立つと13を睨みつける。
「必ず助けに来ると思っていた。エースに時間を稼がせて、正解だった。」
永坂に向かって満面の笑みを浮かべる13。旭は嫌悪感を表情に出す。13は永坂が来ることを期待して旭を攫い、この状況を作り出したらしい。
「何が期待通りだ。俺に何をさせたい?」
永坂の声から押し殺した怒りが伝わる。ぐっと強く握りしめているせいで手のひらには爪の跡ができていた。その様子を見た13は高揚したまま答えた。
「異能のない世界を作りたいんだ。そのために、お前の『異能』が要る。永坂忠直。」
永坂は眉を顰める。答えるとは思っていなかったのだ。『異能』のない世界。その単語に少しだけ永坂が揺らいだような気がして旭は彼の背をきゅっと引いた。永坂はそれに対して安心させるように目配せする。
「残念ながら俺に『異能』を消すような能力はない。それに、こんな手段を取るような輩に貸す手はない。」
言い終えると永坂は旭の方をちらりと見た。旭は頷き、13に向かって『力』を集中させる。
「大丈夫、まだ理解してもらえるなんて思っていないから。」
13が指を鳴らすと2人の手首に激痛が走る。それでも旭の狙いは逸れなかった。
はずだったのに。『力』を受けたのは13の隣にあった石ころでそれは地面にめり込んだ。13は怖い怖い、と両手を上げる。
「おっと、そろそろか。もうちょっと遊んであげたいんだけどね。」
彼は自分の手の甲を見てそう言った。何をする気かと身構えていると13は2人に向かって大きく手を振る。
「時間切れ。じゃあまた会おう。」
13の姿がフッと消え、代わりに落ち葉が1枚ひらりと落ちた。永坂は眉間に皺を寄せて落ち葉に近づいて拾い上げた。なんの変哲もないそれにため息をつくと彼はまだ蹲って震えているエースの方へ向かう。
旭は自分の左手首を見て、そこに居座る刻印を認めてため息をついた。死なずに済んで良かったもののまた元の生活に逆戻りらしい。
エースを縛り上げた永坂は旭を座らせて傷を確認し始めた。縄を引きちぎったときの手首の傷、殴られてできた痣と擦り傷たち。一つ一つを永坂が、丁寧に手当してくれるのを眺めながら、旭が口を開いた。
「なんで、助けに来てくれたんですか。」
正直なところ、旭は誰かの助けを期待していなかった。永坂からすれば旭を救う利点がない。あのとき手首の刻印は消えていたし、旭が消えていた方がまたこれに悩まされることも無くなっていただろう。
「お前の身が潔白だということがわかったからだ。」
永坂の声が幾分か普段通りに戻っていて旭は安心した。彼は淡々と説明を始める。
「お前には発信機と盗聴機をつけていた。何かあったときのためにな。だから、お前と13の会話を聞いて、お前が、あちら側と繋がっていないことがわかったんだ。…お前がどんな目に遭っていたのかも、大体想像がついた。」
悪い、とまた謝られる。永坂を見ているとなんとなく緊張の糸が解けてきて旭は体中が痛いことに気づいた。
「謝らないでください。あなたは悪くないでしょう。」
旭がそう言っても永坂は首を横に振る。少し態度が軟化しているようでも消毒の容赦のなさは変わらない。沁みる痛みに顔を顰めながら旭は大人しくしていた。というよりもドッと疲れが襲ってきて体がだるかった。
「巻き込んだのは俺だ。」
永坂は悔しげに眉間に皺を寄せる。彼は自分に対して怒っているようだった。
黙々と手当てを終えると、永坂は旭に指示をする。
「濡れた服は脱げ。」
永坂は自分の上着を渡して、旭に背中を向けた。旭は頷くとびしょびしょのワイシャツを脱いで、彼の温かみが残った上着を羽織った。少しだけ肌に熱が戻ってきた気がした。ズボンと下着も濡れていたが、流石に気が咎める。
「終わりました。」
旭が告げると永坂は旭の脱いだワイシャツを回収した。それの濡れた感触と血痕に彼の眉間にグッと皺が寄る。
「旭。」
「謝らないでくださいね。」
永坂の言葉を遮って旭は先手を打った。永坂は怪訝な顔で彼女を見る。彼女は痛む体を動かして永坂の方に前のめりになると口を開いた。
「……代わりに褒めてください。私、頑張りました。」
暴力にも耐えたし永坂が来る頃には大体の敵も片付けていた。これは褒められて然るべきだろう。それに旭が謝られたい相手は永坂ではない。
旭が永坂の反応をじっと待っていると彼は少し戸惑いを見せていたが、すぐにいつもの無表情になって旭の頭に手を伸ばした。ぐしゃぐしゃとぶっきらぼうに撫でられる。永坂の手は大きくて暖かかった。
(最初に、助けてくれたのもこの手だった。)
ほんの少し泣きそうになって旭は口をぎゅっと引き絞る。
「…満足か。」
はい、と答えると永坂の手が離れていった。
「帰るぞ。」
差し出された手は濡れた旭の頭を撫でたことで、少しぬるくなっている。しっかりと握ると永坂が引き上げてくれたが旭はよろめいた。
それを見て永坂が自分の背を差し出す。乗れ、ということらしい。何か言う気力もなくて、旭は彼の肩に手を回した。人の温もりにホッとしてしまうほどには旭の体は冷えていた。
「永坂さん。」
軽々と持ち上がる旭の体。首のあたりで結ばれている手の冷たさに永坂はゾッとした。この小さな体に耐えさせてしまったことへの罪悪感に襲われる。
「帰ったらちゃんと私に話してくれますか。」
旭の言葉に永坂は何を、とは訊かなかった。ただ頷いた。
家に帰るまでの車の中で旭はすっかり眠っていた。永坂は眠った彼女を抱っこの形で自分の部屋まで連れ帰った。
ベッドに寝かせ、途中で取ってきたタオルでまだ少し濡れている彼女の髪を拭いていたとき、旭が目を覚ました。
「ッ…。」
体を起こす際に痛んだのか、旭は顔を顰めた。しかし永坂の視線を気にしてすぐに平気な体を装う。
「起きたなら風呂に入れ。」
永坂に促されて旭は素直に頷いた。とても寒かった。彼の手を借りて自分の部屋の方に戻り、着替えを取って風呂場に向かった。
永坂は風呂を沸かしていてくれた。動かすたびに、体が痛い。知らないうちにいろんなところに痣ができていたようだ。大雑把に頭と体を洗うと、湯船に浸かろうと水面を覗き込んだ。
「…ッ!!!」
ガタガタと音を立てて洗面器やら椅子やらを倒してしまった。揺らめく水面から冷たい水につけられた恐怖を思い出してしまったのだ。今更体が震え始める。自分が死にかけたことを実感して旭は固まってしまう。
そのとき、コンコンコンと壁を叩かれた。旭が驚いて背後の壁を見つめる。もう一度、コンコンコン。
3回のノックは相手を呼び出す合図だったが今のこれは「大丈夫か?」と訊かれているようだった。旭は震える手で3回のノックを返す。
「入って大丈夫なのか。」
今度はドアの方から声をかけられる。永坂の言う大丈夫か否かで言えば、全然大丈夫ではない。旭は答えられずに蹲った。
「旭。」
責めるような声色ではなく心配するようなそれに耐えられなくなった旭は左手首をグッと引いた。無言の催促に永坂はドアを開けた。
入ってきた永坂は旭を見て早々に顔を逸らした。しかし何も言わずに彼は乾いたバスタオルでそっと、彼女を包む。ふわふわしたタオルの感触とその上から濡れた体を拭いてくれる手。旭はどうしたらいいのかわからず、困惑しきった目で永坂を見た。
「お前は面倒だ。」
永坂が目を細めた。彼は濡れるのも厭わず風呂場のタイルに膝をつく。
「……そもそもこんな状況になって、普通の人間なら、もっと文句を言ってもおかしくない。泣き喚いたって違和感はない。……お前は項垂れただけだったな。冷たくしてもついてきたし、礼まで言ってきた。俺のせいで酷い目にあったのに「謝るな」の一言で済ませる。なのに今、泣きそうになって震えている。……面倒だ。どう扱えばいいのかわからん。」
旭は固まっていた。「面倒」と言いつつ、触れる手がいちいち優しい。痛むところになるべく触れないように、旭の体が冷えないようにさすってくれているのがわかる。
「…泣きそうな顔をするな。泣きたいなら泣けばいいし、怖かったならそう言え。」
その言葉で耐えられなくなって旭は永坂の胸に縋りついた。急にのしかかってきた体重に永坂は乾いたバスマットの方に尻をついて一瞬固まる。だがすぐにため息をついて、泣きじゃくり始めた旭の頭をポンポンと軽く叩くと背中をさすった。
「めちゃくちゃ、怖かったですよ!ほんと、もう、いたいし、あいつら勝手なことばっか言うし。」
堰を切ったように止まらない言葉。子どものように泣く旭のそれを永坂はただ何も言わずに聞いていた。
しばらく喋り続けていたが、いつしか泣き声だけになって数分続いたそれは旭のしゃっくりが止まらなくなったくらいで終わった。
「…落ち着いたか?」
気づけば永坂の服は、水と旭の涙やらなんやらでぐしょぐしょである。申し訳なくなって伏せた顔を、新しいタオルで拭われてしまって、自分が子どもみたいで旭は少し恥ずかしくなった。しゃっくりのせいで言葉を発したくなくてただ頷くだけにする。それも余計に子どもっぽさを助長した。
永坂は何も言わずにもう一度だけまた頭を撫でてくれる。
「ちゃんと服を着て出てこい。」
そう言い残すと風呂場を出ていった。旭は1人、バスタオルで自分の体を抱きしめる。ひっく、としゃっくりが静かになった浴室に幾度となく響いた。
出てきた旭を確認して永坂はキッチンに向かった。適当に冷蔵庫の中から食材を取り出すと、旭にはキッチンの近くに置いてあった椅子に座るように促す。泣き疲れた彼女は素直に従い、ぼーっといつも通りに手際のいい永坂の背を眺めた。
「どこから話そうか。」
ざくざくざく、と小気味いい音が空間を満たす。旭はあまり働かなくなってきた頭で最初からお願いします、と永坂に言った。
「最初。まず俺がなぜ公園に行ったのか、から話すか。大きな出来事はお前が現れて起きたから話す必要はないと思うが、俺は呼び出されてあそこに向かった。」
あの日、永坂は一本の電話を受けて公園に向かった。公園に入る前から嫌な予感がしていたので警戒した彼は姿を消して公園に入っていった。
エースの『異能』で彼の目にも子どもが泣きじゃくっているように見えていた。どうするべきか様子を窺っていると、子供の泣き声が一定間隔で同じ音声が流れていることに気づいた永坂は帰ろうとした。そこで旭が現れた。
「13の言った通りだ。俺はあいつの挑発に乗って、お前を助けた。そしてこれをつけられる。」
右手首には旭と同じ刻印。2人とも忌々しげにそれを見つめる。
「だから、お前を助けさせたこと自体が罠だと思った。榊を呼び出して、鎖について調べさせて、一応お前の素性も調べたぞ。そのときに、この発信機と盗聴機をつけた。」
いつの間に外したのだろうか。小さな機械が1つ永坂の手の上に乗っていた。
「お前に関しては、大したことはわからなかった。…気になったことといえば、『異能者』向けにボディガードをやっていたことくらいだな。」
旭はビクッと肩を震わせた。実は彼女は喫茶店勤務の傍ら、『異能』によって悩む人間の警護を個人的に行っていた。永坂は強いわけだよな、と肩をすくめた。
「お兄さんがすんなり仕事休ませてくれたのも、そのへんの事情が関係しているのか?」
旭は頷いた。兄の瑞樹は副業に関して詳しくは知らなかったが、旭が抜けるときにその穴は埋められるように常に工夫していてくれた。なので今回も副業関係のこととして旭は兄に説明したのだ。
「調べる限り、それは怪しいことに通じていなかったし、1人でやっているようだったから、あまり関係はなさそうで追求しなかった。それに、話を聞いてお前がこの件と無関係な可能性は高いとは思ったんだが、それだとあまりにも、この手錠の意味が分からなくてな。……ずっとすまなかったな。」
永坂は旭の方を向いて頭を下げた。
「永坂さんも悪くないでしょう。確かに敵の狙いはあなたでしたし、私は巻き込まれただけのようですけど、なんというか。」
そこで旭はつい、苦笑してしまった。その笑顔の意味がわからない永坂は首を傾げる。
「あなたに対して怒りを抱いたのは最初だけでしたよ。」
永坂と暮らしていて、旭は1人で動けないのは不便だと思ったが沈黙以外を苦痛に感じたことがなかった。疑っていると言いつつ、永坂は無理矢理聞き出すようなことはしなかったし沈黙すら最近は慣れてきてしまった。
「もっとお喋りはしたいですけど。」
永坂は驚いた顔をする。無愛想な態度をとって彼女と打ち解けないようにしていたつもりだった彼は、彼女に嫌われているくらいの調子でいたのだ。
「……変なやつ。」
そう評されて旭はムッとした。
「お喋り、か。善処する。」
だが、目を細めそう伝える永坂に旭の表情がパッと明るくなる。ゲンキンなやつだな、と永坂は複雑な顔をした。
「手錠に関しては、なんとなく意図が読めた気はしているんだがな。」
話を戻すようにそう言うと、永坂はため息をついた。久しぶりに彼のため息を聞いた気がする。旭は次を促すために首を傾げた。
「人質だ。」
端的な言葉ではピンとこなくて旭の頭上にはてなマークが浮かぶ。
「いざというときにお前を人質にとって、俺を従わせるため。今日13と接触してそう思った。」
しかし、その説明では旭は納得できなかった。
「そのためにこの手錠を?回りくどすぎませんか。わざわざこんなことしなくても、家族とか友達とか、そういう人いるでしょう。人質にとれる人間はいっぱいいるはずです。」
旭は自分の左手首を示してそう言った。榊や、過去に空き家で会った男などがいたことから、永坂は1人ではないことを旭は知っている。その指摘に永坂も頷く。
「俺もそう思う。だから、それについてはまだ推測に過ぎない。要はただの勘だ。」
今のところは、の話である。旭も深く考えることをやめて頷いた。
「空き家の件は俺の職場に公園のとき同様、呼び出しの電話があった。端的に場所だけ伝える電話がな。ビルはお前も知っている通りクマの中に残されていたメモに従った。」
そういう経緯で動いていたのか。そう納得しつつも疑問に思っていたことがあって旭は永坂に尋ねた。
「あの、なんで素直に敵の罠であろう呼び出しに応じるんですか?」
空き家のときといい、ビルのときといい、永坂の足に迷いはなかった。まるでどこに用事があるのかわかっているように。
旭の質問に永坂は難しい顔になった。
「それは、公園、空き家、ビル、この3つの場所は5年前の事件に関わりがあった場所だからだ。公園のときは確信はなかったが、あの空き家を指定された時点で、あの事件に関わるものの仕業だということはわかった。そうであれば俺は無視ができないんだ。」
5年前。そこで何かがあったことは榊との会話で察していた。旭は尋ねようとしたが永坂が止める。
「その話は長くなる。…飯を食ってからでもいいだろう。」
永坂が食器を準備し始めた。食事の用意ができたらしい。旭も立ち上がって手伝いテーブルまで運んだ。
ミネストローネに、水につけておいたパスタの麺を入れた簡易的なスープスパゲティ。粉チーズも添えられていたが旭はそのまま食べた。体に温かいスープが染みる。殴られたときにいつの間にかできていたらしい口内の傷にも沁みる。旭は顔を顰めた。
その様子をぼんやりと眺めていた永坂が少し驚いたような顔をして旭に尋ねる。
「不味かったか?」
ちゅるん、と麺が旭の口に吸い込まれた。旭は首を横に振った。
「いえ、美味しいんですが、口の中が痛くて。」
再び旭が顔を顰めると永坂はそうか、と頷いて食事に意識を戻す。旭はこれは追及したほうがいいだろうか、と悩んだが気になっていたことではあったので訊いてみた。
「永坂さんって、食事中に一回は、私のこと見てますよね。食べ方変ですか?」
以前から思っていたことである。食事中に顔を上げるとこちらを眺めている永坂と目が合うことが1回や2回では済まないほどあった。気になってはいたのだが、訊く雰囲気になったこともなかったので今までは訊いてこなかったのだ。
「…お前は美味そうに食べる。」
永坂は旭から顔を逸らして、投げやりに言った。旭は咽せた。永坂が心配そうに立ち上がろうとするが、それを手で制して水を飲んで落ち着くと恐る恐る質問を重ねてみる。
「えっと、それは、私のその、その反応が見たくて…?」
改めて訊かれるとなんとも言えない気分になった永坂は顔を顰めた。少し悩んだのち、彼は素直に頷く。
「お前は好き嫌いがないんだな。なんでも美味そうに食べてるのが伝わる。」
確かに永坂の作るものは大体美味しい。特別凝っているわけではないと思うのだが。
「そ、そうですね。大半美味しく食べれます。」
掘り下げると自分が恥ずかしくなる話題だった気がしたが、純粋に彼が考えていることを話してくれるのが嬉しくて旭の頬が緩む。
「それはいいことだな。」
永坂が少しだけ口角を上げたのを旭は見逃さなかった。彼女が固まると何も気付いていない永坂は普通に食事を続ける。
「…今、笑いました?」
彼はきょとんとしていた。無意識だったらしい。旭の反応を見て永坂は目を伏せた。
「5年前から俺はあまり笑わなくなっていたらしいからな。榊に言われたことがある。」
そう、淡々と言う永坂。少しだけ空気が変わった気がして旭は永坂の言葉を待つ。彼は彼女に向き直って口を開いた。
「杉崎 勇気の事件を知っているか?」
旭は頷いた。5年前、ニュースでひっきりなしに報道されていた事件のことである。容疑者は杉崎勇気という男で、1人で20人以上の死傷者を出した大事件。最後には容疑者死亡で幕を閉じた。
「杉崎は『異能者』だった。『異能』を使って大勢の犠牲者を出した。一般人も巻き込んだ事件だったから、全てを揉み消すことはできなくてな。……後処理に2年かかったよ。」
昔を思い出すように、永坂は目を細めた。
「あのときもこの時期だった。というより、多分相手は時期を合わせてきている。」
永坂は自分の話を真剣に聞いている旭を見据える。
「俺たちは今、あの事件をなぞらされている。さっき言ったが、公園も、空き家も、あのビルも全て5年前の事件に関係がある場所だった。そして日付も同じ。……役者は違うが。」
その目が寂しそうに光る。その様子に旭は数日前の永坂の姿を思い出して心の中で納得した。
(……この人が誰かが目の前で傷つくと悲しそうなのは。)
言えずに旭は目を伏せる。まだ触れるには早すぎる傷に手を伸ばしてしまったような居心地の悪さ。永坂は何かを察したのか、気にするなと首を横に振って話を続けた。
「杉崎の事件は大々的に取り上げられたものの、巧妙に情報操作されていてな。『異能』が絡んだデリケートな事件だったこともあって、その詳細はあの事件に関わった者しか知らないんだ。」
今回の事件ではこれまで場所も日付も5年前と同じだった。しかし、実は当時メディアで大きく取り上げられたのは杉崎を追い詰めた最後の日だけだったため、公園やビルのことを知っている人間は一握りなのである。
「だから13の正体は5年前の関係者だと思われる。今、俺の方で事件の関係者を洗っているが、今のところあの顔と一致する人物はいない。顔を変えている可能性が高い。」
そこで一旦言葉を切り、永坂は最後に告げる。
「5年前の事件をなぞるなら、12月16日。そこで何かを起こす気だろうな。……杉崎が死んだ日だ。それまでに13を捕まえなければならない。」
これで旭にも大体の状況がわかった。自分たちは13の仕組んだ何らかの意図に乗ってここまで進んできているらしい。それは5年前の事件を想起させるようなもので、13の目的は本人の言ったことを鵜呑みにすれば『異能』を世界から消すこと。その計画を12月16日に実行する可能性が高いこと。
「…状況はわかりました。ただ、相手がどうしてこんなことをさせてくるのかはよくわからないんですね。」
永坂は頷いて悪いなと謝った。たぶん、それがわかるときがこの事件が終わるときなのだろう。旭は巻き込まれて以来ずっと感じていた疎外感と居心地の悪さから解放された気がした。
ただ、一つ。ここまでの話で素朴な疑問が浮上する。旭は水を飲んでから永坂をじっと見つめた。
「永坂さんって何者なんですか?」
永坂はそういえば、と目を見開いた。失念していたらしい。彼は名刺をどこからか出して旭に渡した。
「俺は異能対策局特務課主任、永坂忠直だ。」
聞いたことのない施設の名前に旭が首を傾げると、永坂が簡単に説明してくれる。
「異局と略して呼ばれることが多い。いわば『異能者』専門の警察だ。『異能』自体が表立ったものではないから、これもあまり公に晒されてる場所じゃない。聞き覚えはなくて当然だと思う。例えば前に御厨、隼人の方ではなく、空き家のときにいた男の方と会っただろう。覚えているか?彼は俺の部下だ。今回だって、後処理は部下たちに任せてきた。」
そういえば永坂におぶられていたのでよくは見えなかったが、あの場を去る際たくさんの人たちとすれ違った気がする。旭はなるほど、と頷いた。
「なんというか、いろいろ手慣れてたのはそういうことなんですね。腑に落ちました。」
合点がいって呑気に目を輝かせる旭に永坂はため息をつく。
「慣れてるっていっても、わりと今回は大きめの話だけどな。5年前と比べたらマシだが、俺がろくに動けないのが厄介だ。」
永坂はもう一度ため息をつく。旭は受け取った名刺をくるくると弄んだ。
彼が信用できる人間で良かったと心のどこかで安心している自分がいた。何より旭にとって永坂の雰囲気から緊張感が少し抜けているのが嬉しい。
「聞きたいことはもうないか?」
永坂に訊かれた旭は頷き、今のところはこれくらいで大丈夫だと示す。それに彼女はちゃんと話してくれたことに気が抜けたのか疲れに襲われ始めていた。
そうか、と言うと永坂は立ち上がって片付けをしようと立ち上がる。旭も手伝おうとするが、立ちくらみがして椅子に戻った。引っ張られた永坂が振り返ると旭は具合が悪そうに机に突っ伏していた。
「おい、大丈夫か?」
かけられた声に対して旭は首を横に振った。意識はあるらしい。
「あはは、流石にちょっと限界みたいです。」
にへら、と力なく笑う彼女。少し我慢しろ、と彼女を抱えてキッチンの近くの椅子に座らせると、手早く片付けと支度を済ませて永坂は旭を部屋まで連れて行った。
「自分で布団に入れるか?」
旭は頷く。それを見て立ち上がると永坂は電気を消してそこで悩むように立ち止まる。旭はまだ何かあるだろうか、と様子を窺った。
「言い忘れていたが、お前が生きていてくれて良かった。…何かあったら呼べ。おやすみ。」
言い残して出て行った彼が部屋に戻った気配を感じた旭は這うようにして自分の布団に入った。体が痛い。13のことは許せない気持ちでいっぱいだが、旭にとって永坂の信用を得たことは正直に嬉しいことだった。
左手を目の位置まで持ってくる。今は包帯が巻かれていて見えないが、ここにはあの刻印が居座っている。でも以前よりは忌々しいものには見えなくなっていた。
おやすみを言われたのも初めてだった気がする。旭は少しだけ幸せな気持ちになって、体の痛みも忘れるくらいの深い眠りに落ちて行った。