花束を捧ぐ
第二話 蚊帳の外
車の速度についていけない外の景色が、するすると流れていく。天気は晴れ。隣で運転している彼との間に、相変わらず会話はない。気まずいドライブである。窓の外をぼーっと眺めながら、旭はなんとなく3日前のことを思い出していた。
3日前、永坂と2人で空き家に向かったあの日。ミカとの戦闘を終えた後、2人は家の前で、永坂を待っていたらしい青年と落ち合った。
彼はゆるくパーマのかかった髪に垂れ目、耳にはピアスが光っていて、スーツを着崩している。旭はどういう知り合いなのだろうと思いながら、ミカの身柄を引き渡す永坂を見ていた。
ミカは終始大人しかった。どうやら少女を縛り上げているその黒い縄は、『力』が外へ漏れ出るのを阻害し、『異能』を一時的に封じることができるらしい。
手持ち無沙汰になってしまった旭は、青年と永坂の会話を静かに聞いていた。が、大半その話の意味はよくわからない。暇な時間を過ごしていた旭は、ふと青年と目が合った。彼は、珍しいものでも見るような顔をしていて、その面差しは案外若く、旭と同年代くらいだろうか。旭が気まずさを紛らわすために会釈をすると、青年は会釈を返してくれた。
「悪いが御厨、後のことは頼んだ。また進展があったら報告する。」
作業を終えたらしい永坂が、青年に告げると、青年は軽く頷いて、ミカを車に乗せて去っていった。
「帰るぞ。」
それを見届けてから、端的に旭にそう伝えると、2人も乗ってきた車に乗り込む。
「3日後。」
シートベルトがかちゃりとはまった。
「行くところができた。」
永坂の言葉に旭はただ頷くのだった。
ろくに会話もないまま、車は明らかに高級そうなホテルの、駐車場に入っていった。ここが目的地である。
2人は今日、『異能』に関する研究者兼医師であり、永坂の旧友の、榊 惣一の元を訪れる予定であった。旭は永坂から、手錠の経過報告だと聞いていた。2人が出会ったあの晩、倒れた旭の容体を診て、鎖に関する考察を永坂に伝えたのが、その榊だったらしい。
「榊さんも『異能者』なんですよね。」
降りる直前、旭が訊くと永坂は頷いた。
「そうだ。」
バタン、と車のドアを閉める音が響く。それ以上の会話はない。少し不満げに俯いた旭の様子を、知ってか知らずか、永坂は付け加えた。
「別に、俺が説明しなくても、あいつは勝手に喋る。」
永坂がフロントに説明すると、話は通っていたようで、丁重にエレベーターまで案内された。2人でエレベーターに乗り、目的の階へ向かう途中、永坂が旭に告げる。
「何を見ても、あまり深く考えるなよ。」
珍しく永坂から話しかけられて、でも何が言いたいのかよくわからなくて、旭はきょとんとした。聞き返す前に、着けばわかる。と言われてしまって、何も聞けないまま、リン、と到着を告げるベルが鳴った。
開けた光景に旭は再び目を白黒させた。埃一つ落ちていない廊下に、煌びやかな内装。座ったら体が沈み込みそうなソファ。傷一つつけるだけでも、自分の給料は何年分飛ぶだろうか。勝手に想像して、旭はゾッとした。永坂のほうは、キョロキョロしている旭を無視して、慣れた様子で突き進んでいくと、1番奥の部屋のドアベルを鳴らした。
しばらくして、白衣を着た眼鏡の女の人が、顔を出した。彼女は永坂の顔を見ると目を細める。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
ぺこりと丁寧に頭を下げてくれる。
「お久しぶりです。中野さん。」
永坂はいつの間にか用意していた手土産を、彼女に渡した。中野はそれを受け取ると、永坂に向かって申し訳なさそうに言った。
「榊は寝室です。」
聞いた瞬間、永坂が思いっきり顔を顰める。彼の反応に目の前の女性は苦笑いを浮かべて、中へ招き入れてくれた。
永坂は寝室のドアに手をかける前に、女性に無言で頭を下げる。その意図を汲み取って、女性の方はいつものことですから、と会釈すると、奥の方へ戻っていった。
永坂は旭の方をチラリと見てから、ドアをノックした。意味ありげなその仕草に、旭は少し緊張する。ドアの前で待っていると、中から「どうぞ」、とくぐもった男の声が、小さく聞こえた。
永坂がドアを開ける。そして視界に飛び込んできた景色に、先に入った旭は、一気に耳まで真っ赤になった。
「失礼しま、どぅわぁぁ!!!すみませんでした!!!!」
彼女は叫び声を上げると、回れ右して永坂にぶつかった。永坂はため息をつくと、げんなりとしながら、旭の目を塞いでやった。
でかでかと置かれたベッドの上に、横たわる裸の男女。淫らに乱れたシーツ。完全に事後。目を塞がれているにもかかわらず、旭は赤いまま、口をパクパクさせていた。
「やぁ、相変わらず楽しそうな状況だねぇ。
ナオ。」
男の方が呑気な笑みを浮かべて、永坂に挨拶をする。騒いでいる旭の方が、変だと感じさせるくらいの余裕。永坂は慣れた様子で、彼らに服を着るよう促した。
服装を整えると、男の方が女に「楽しかったよ。」とキスをして、バイバイと手を振った。女の方も慣れているのか、妖艶な微笑みを男と、永坂に向けて去っていった。
「ま、ままま、まだ昼の2時とか3時とかじゃなかったですっけ!?」
1人、まだ落ち着かない様子の旭から手を離すと、永坂は諦めたようなため息をついた。
「こいつはこういうやつなんだ。デリカシーのデの字もない。おい、来る時間は伝えていたはずだが。」
彼の眉間には、一段と皺が寄っている。そんな永坂の文句を美しい笑みでかわし、男は旭の方に寄ってきた。
「初めまして。榊 惣一です。実は2回目なんだけど、起きてる君と会うのは初めてだからね。」
滑らかなウィンク。彼は映画の中から抜け出してきたのかというほど、美しい顔立ちだった。ぱっちりした目元に、シルバーブロンドのサラサラの髪。すらりとした体型に、白衣がよく映えていた。そしていい匂いがする。見つめられた旭は、どぎまぎしてしまった。
「あ、旭 兎美です。」
謎の引力に目を逸らせず、旭はやっとのことで名乗る。そんな彼女の手を取り、色っぽい笑顔を向けて榊が言った。
「……ふぅん、やっぱり可愛いな。ナオには勿体無いって。俺といいことしない?」
流れるようなお誘いに、旭があっけに取られていると、背後の永坂が本気で勘弁しろ、と眉間に皺を寄せた。
「今こいつと俺は繋がってるんだぞ。離れた後にしろ。」
右手首を主張する呆れ顔の永坂に、榊は悪戯っぽく目を輝かせた。
「気にするんだ。ナオも混ざれば問題なくない?」
問題しかない。永坂は榊に向かって、これ以上ないくらい冷めた視線を向けると、シンプルに言い放った。
「死ね。」
嫌悪感剥き出しの表情の永坂の方を、チラチラ窺いながら、旭は榊にしっかり握られた手をどうするべきか、考え込んでいた。
「ん。じゃあ口説くのは全部片付いてからにするとして。本題に入ろうか。」
旭の手を離してベッドに腰掛けると、榊は彼女を向かいの椅子に座らせた。
「傷を見せてごらん。」
旭はワイシャツの裾を捲り上げた。背中の傷は既に瘡蓋に包まれていて、問題なさそうである。ただ、脇腹の傷は浅いにもかかわらず、治りが少し悪く、まだ粘液が染み出していた。
「ふむ。こっちは『力』を纏った刃物でつけられたみたいだね。治りが遅いだろう。この程度で済んで良かったね。」
榊の先程までのおどけた様子は鳴りを潜め、彼は真剣な目で脇腹と背中、両方の傷を診る。それからうんうんと頷くと、アルコールで手を消毒してから、旭の脇腹の傷に手を添えた。
突然触れられて旭はビクッと体を震わせた。その反応に榊が薄く笑う。瞬間、『力』が自分の中に流れ込んでくる感覚に、旭は顔を顰めた。ものすごく痛痒い。我慢するように彼女は、歯を食いしばった。
ほんの10数秒の出来事だったのに、疲労感に襲われた旭は、椅子にもたれかかった。傷が広がったんじゃないか、と脇腹に触れてみると、そこはつるんとしていた。驚いて患部を見てみるが、傷がどこにもない。
「俺の『異能』は治癒に応用できてね。このくらいの傷の治療なら朝飯前なんだ。」
手を洗って戻ってきた榊は、得意げに言った。
服装を整えた旭は、榊のことを少し見直していた。確かに、永坂から、彼のことを研究者兼医者だと聞いていたが、確かにこれ以上ないくらい医者向きの『異能』である。
「ありがとうございます。2度もお世話になりました。」
感心して自分を見つめてくる旭に、榊は笑顔を向ける。
「律儀だね。お礼はナオから解放された後のデートでいいよ。」
旭はウッと固まった。この男のこのノリ、少し苦手である。茶化しているのか、本気なのか、よくわからない視線を向ける榊を、永坂が呆れたように見つめていた。
「にしてもおバカさんだねぇ。ナオのことを庇うなんて。」
ため息混じりに榊が言う。その言葉で、旭は永坂に言われたことを思い出す。そういえばあの家で彼は、「庇う必要はなかった」と言っていた。それと関係があるのだろうか。旭が訊こうとして口を開く前に、永坂が付け加えた。
「脇腹のは、敵を庇ったときに出来た傷だったな。」
完全に余計な横槍である。それを聞いた榊が浮かべていた笑みを引っ込めて、本気で心配そうな顔をした。なぜかバカにされている気がして、旭は膨れた。
「ナオが自分の『異能』の説明をしてないのも悪いけど、気がついたら誰でも庇っちゃうタイプの人間なの?今回の相手の『力』が大したことなかったから軽い怪我で済んだようなものじゃないか。」
言外に、自分をバカにするニュアンスが含まれていて、腹が立ったが、知らないことを話されている気がして、旭は素直にどういうことですか、と聞き返す。
「基本的に『異能』で人は殺せないって知ってる?」
やはり知らない話である。旭は首を横に振った。
「そこからなんだね。…ナオ、たぶんこの子何も知らないと思う。」
榊が、旭の背後にいる永坂に目をやる。哀れみの目である。永坂は肩をすくめると、ため息をついた。
「『異能』は人のイメージを形に表すことができる。『異能』と聞いて、瞬間移動だとかテレパシーだとか、そういうものを真っ先にイメージする者は、それが使えるようになることが多いように、それくらい『異能』ってもんは、人の頭の中との結びつきが強いらしい。
だから、『異能』はその人間の感情によって、出力が変わる。よっぽど相手を憎んでいたりしない限り、純粋に『力』をぶつけるだけで殺すのは、難しいだろうな。『異能』で基本的に人が殺せないのは、そういうことだ。人を殺したくてたまらないようなやつですら、本能の部分が邪魔するのか、無差別には殺せないらしい。
お前が擦り傷程度で済んだのも、その恩恵だ。ミカは子どもだった。人を強く憎むほどには、擦り切れてなかったし、『力』の量も質も幼い。…つまり、全力の攻撃を喰らったとて、軽傷で済んだだろうな。」
永坂と榊の言いたいことを理解して、旭はなるほど、と頷いて、少し落ち込んだ。確かに自分のあの行動は、無駄骨だったらしい。
「まぁ、逆に言えば掠るだけでも、肉を抉ることができるような『異能者』もいるってことだけどね。今後のために覚えておくといいよ。」
2人の話に、旭の表情が固くなる。彼女は、左手を押さえて目を伏せた。
「それにナオの『異能』は。」
流れで説明してしまおうとした榊だが、永坂の表情を見て、そこまでで一旦言葉を切る。よほど渋い顔をしていたのだろう。大丈夫、要点を伝えるだけだから、そうおどけて笑ってから、彼は続けた。
「すごく簡単に言えば、『姿を消す』ことができる。攻撃を喰らう前に使えば、それがすり抜けていくといった具合にね。だから例え、君が庇わなくとも、相手の攻撃は、ナオには当たらなかったと思うよ。……まぁ、こいつの能力はそれだけじゃないんだけど、詳細は本人が、いつか話してくれるみたいだから。」
旭は永坂を見上げた。頭上にあるのは、見慣れた仏頂面で、いつかなんて来るだろうか、と彼女は苦笑した。
一通りの説明を終えて、榊は、2人に手首を見せるように言った。経過観察である。素直に腕を捲って、2人がそれぞれ左右の手首を見せると、榊が眉を顰めた。
「それでナオ、どうだった?」
目線で榊が促すと、永坂は頷いて口を開いた。
「使えて10分だな。引き伸ばせて30分くらいいけなくもないが、相当ギリギリだ。」
たぶん、『異能』のことを話しているのだろう。旭は黙って聞こうと、2人の間でじっとしていた。
「それ、伸びるよ。たぶん、1ヶ月経たないうちに2人とも、繋がれる前と同じくらいの出力の『異能』を使えるようになる。もっと長い期間続ければ、互いの『力』を借りることができるようになるかもしれない。」
榊はやけに真剣な顔をしていた。
「何が起こってる?」
彼の表情に重たいものを感じたのか、永坂が問う。
「2人の『力』の融合。」
榊の表情は難しかった。しかし、その中には、幾分か高揚も見てとれた。永坂がやれやれと首を横に振る。状況がいまいち読み取れない旭は、助けを求めるように永坂の方を見た。
「ナオは君が倒れたとき、真っ先に俺に助けを求めた。で、俺はデータの提供と引き換えに君の面倒を引き受けた。」
その様子を見た榊が、一から丁寧に説明を始めた。
「まずナオにはこの状況で、『異能』をどれくらいの出力で使えるかを確認してほしい、と頼んだんだ。で、通常なら安定して2〜3時間持続することができる彼の能力が、10分程度しか持たなくなっていたらしい。」
これが先程の会話の内容らしい。旭は、理解したことを示すために頷いた。
「ただ、今俺が君らを繋ぐこの鎖を視たところ、面白いことに、反発し合ってたはずの『力』が少し混ざり合ってるんだ。このまま犯人探しが長く続けば、君らの『力』は完全に混ざり合って、もしかしたら人類で初めて『力』を共有できるようになるかもしれない。あくまでも仮説ではあるけど。……うーん、面白いな。なるべく長く続けばいいのに。」
永坂が、微妙な顔をしていた理由がわかった。旭も微妙な顔になる。確かに、制限を気にすることなく『異能』を使えるようになれば、楽なことも多いだろうが、期間が長くなる、それは永坂との繋がりもより深くなる、ということで。
「こちらとしては、ご勘弁願いたいですね。」
思わず口に出すと、背後で永坂が同意するように、強く頷いたのがわかった。そんな2人を見て、変なところで気が合うんだねと、榊はけらけら笑う。
「まぁ、まだ仮説に過ぎないし、そこまで絆が深まる前に、終わっちゃう可能性の方が高いかな。それに、『力』が混ざり合うなんて、前例がないから悪い方に転がるかもしれない。それはちょっと嫌だなぁ。
今のところ、その『異能』が劣化したような様子は見受けられない。このままいけば、俺の仮説通り、君たちの『力』が尽きない限り、半永久的にその状況が続くだろうね。」
旭が肩を落とす。一体いつになったら、元の生活に戻れるのだろうか。彼女の後ろで、永坂もため息をついた。
それから話題は、テディベアの中に挟まれていたメモのことに移った。
「山瀬ビル、ねぇ。相手はナオに何をしたいんだろうね。」
メモに書かれていた「11月3日 山瀬ビル」という、今日の日付と場所。永坂と榊の2人には、その場所に覚えがあるらしい。
「わからん。だがこれで、狙いが俺だということがわかった。…いや、そんなことは、最初からわかっていたに等しいか。」
2人が何やら、難しい顔で意見を交わし始める。話についていけない旭が黙っていると、榊がこちらを見ていることに気づいた。なんとなく、緩んでもたれていた背筋を伸ばして見返すと、彼の視線は左手に移る。
「旭ちゃんはさ、13に接触したとき何か言われたりした?」
榊の言葉で、旭は13に言われた言葉を思い返しながら、答えた。
「確か、『君、面白いね。採用。』って。そのときに『異能』を使われたんだと思います。」
彼女の言葉に、2人の眉間に皺が寄った。
「ふぅん、ってことは『異能者』であれば、ナオと繋ぐのは、誰でもよかった可能性が高いってことかな?」
榊が俯いて、ぶつぶつと言い始める。永坂の方も、黙り込んで何かを考えているようで、また旭は手持ち無沙汰になってしまった。
ぼんやりと2人を眺めていると、今度は永坂と目が合う。だが、彼は何も言わずに、すぐに目を逸らした。それを見ていた榊が、呆れたように永坂に言う。
「ナオ。くだらないこだわりで、女の子困らせたらダメでしょ。」
くだらないこだわり。旭と距離をとっていることを、そう一蹴された永坂は、ちらりと榊の方を見て大きくため息をついた。
「信用しないのは妥当な判断だろ。」
榊が苦笑いを浮かべる。それにしたってやり方があるでしょ、そう言いたげにやれやれと首を振ると、悪戯っぽく光らせた目を、旭の方に向けた。
「旭ちゃんの協力なしじゃ、やっていけないことはわかってるくせに。大事なところくらいちゃんと押さえておかないと、彼女はまた無茶すると思うよ。」
榊が自分の背中と脇腹を指差して、旭が人を庇って出来た傷のことを示唆した。永坂は、嫌なところを突かれて複雑な顔になり、押し黙った。
「ナオが狙いだろうと推測できる以上、君と関わりのある人物が13、もしくはその奥にいる者である可能性が高い。それも、5年前の事件に関係のある人物だ。仲良くしろってわけじゃないけど、旭ちゃんくらい、味方につけておきなよ。」
真剣な榊の忠告に、永坂は本人の前で言うか、と顔を顰めながらも頷く。それを見て榊は顔を綻ばせると、旭の手をとった。
「旭ちゃん、君が本当に何も知らなくて、純粋に巻き込まれただけの女の子だったら、尚更、ナオのことをよろしくね。彼、案外危ういギリギリを生きてる人間だから。」
口元は笑っているが、その目は笑っていない。旭は、思わず力強く頷いていた。その反応に嬉しそうな様子を見せ、榊はさらに真剣に畳み掛ける。
「そして、あわよくば俺と」
言い終わる前に、榊の頭を永坂が力強くはたいた。
ホテルを出ると、日が傾き始めていた。旭は、永坂とともに車に乗り込んで、ハッとしたように彼の方を見る。
「そういえば、言い忘れてました。」
永坂は表情を変えずに、旭の言葉を待つ。なんとなく、真正面から見つめられたのが久しぶりな気がして、旭は少し緊張した。
「あの、助けてくれてありがとうございました。」
旭は深く頭を下げる。上げたとき、永坂は怪訝な顔をしていた。
「どの話だ。」
言われてみて確かに、公園でも、空き家でも、助けられた場面がたくさんあった。
旭はどう言おうか悩んだ後、全部です、と伝えた。反応に困ったらしく、永坂はシートベルトを締め、エンジンをかけてからやっと口を開いた。
「なんというか、お前は。…お前に対してはたまに調子が狂う。」
こちらを見ない永坂。眉間に皺が寄っていて、複雑な表情。ため息までがセット。旭はもう、その反応が怒っているわけではないことに、薄々気づいていた。
「…行くぞ。」
返事をして、旭もシートベルトを締めた。そう、今日はこれから、メモに示された場所へ、行かなければならないのだ。
(今度は何かわかるだろうか。)
少し疼いた左手首を、旭はギュッと握った。
山瀬ビルは、小さな古びたビルだった。4階建てで、今はもう使われていないらしく、人の気配はない。また、空き家のときのような『力』の気配もなかった。
形だけかかっている立ち入り禁止のチェーンを越え、2人はビルの前に立った。
「…あのときのまま、か。」
永坂がしんみりと呟く。5年前。榊が言ったときは特に触れなかったが、たぶん、そこに、永坂は何かしらの因縁があるのだろう。旭は何も言わずに、入り口のドアに手をかけた。
相変わらずドアは簡単に開くし、永坂は目的地がわかっているように歩いていく。割れた窓から暗い夕日の色が差し込んでいるのが、なんとなく不吉で、旭は長居はしたくないと感じていた。
カツ、カツ、カツと、2人が階段を登る音だけが響いていた。今のところ異常はなく、もう慣れてしまったこの沈黙だけが、2人の間に横たわっている。
「永坂さんは、どうして自分が狙われていると思ってますか?」
ふと、気になっていたことを旭が尋ねた。永坂はすぐには答えなかった。どうやら、少し考え込んでいるようだ。旭も急かさず、黙って待つ。
「普通に考えると、俺に対する怨恨。俺を殺したいから。」
確かに。旭は頷いた。見知らぬ誰かと繋ぎ、行動を制限し、『異能者』に襲わせる。すべて永坂に対して嫌がらせになるだろう。
「ただ、それにしては、甘いという気がしている。殺意がない。……特に、お前が何も知らないと仮定すると、俺を殺すだけが目的ではない、むしろ俺を殺すことが目的ではないという方がしっくりくる。」
ミカの『異能』では、永坂は死ななかっただろう。それに殺したいならば、たまたま通りがかった旭ではなく、自分たちの身内と永坂を繋いでいるはずである。いつでも寝首を掻くことができるように。なのに、何も知らない旭と繋いだ。
「いっそ、お前が敵である可能性が高い方が、考えやすかったってことだ。」
それは。旭は永坂をじっと見上げた。永坂の目には、複雑な感情が入り乱れている。
私が味方である可能性が高い、と思ってくれてるんですか。訊く前に逸らされてしまった。
「……行くぞ。」
少しだけだがその後の沈黙は、旭の心を軽くさせた。
階段を上がり終えて、2人は屋上に出た。殺風景な屋上。取り囲むフェンスは錆び付いていて、風が吹くと、不快な音を立てて揺れた。そんな屋上から、人影が一つ、下を眺めていた。体型からして男だろう。帽子を被っている。
彼は、旭たちが屋上に足を踏み入れたことに、気づいて、こちらを向いた。
「よぉ。」
帽子の男は、片手を上げて挨拶をしてきた。ゆったりと振り向くその様子から、殺気は感じられないが、永坂も、旭も、警戒を解かずに男を観察した。見たことのない相手だった。13でもなければ、身長が違うので、フードの方でもなさそうである。
「なんだよその顔。大将じゃなくてがっかりしました、って顔だな。ムカつく。」
言葉とは対称的に、笑顔を浮かべる男。彼は2人から視線を逸らして、フェンスの方を向き、後ろに回していた手を前に出した。そこには花束が握られていた。それを見た永坂が険しい顔つきになる。
「今日は大事な日なんだよ、俺にとって。」
囁くように言って、そっとその場に花束を置くと、彼は2人の方に近づいてきた。一定の距離で止まった彼は、手をポケットに突っ込んで、顔を上げて2人を見据える。その顔は深く被った帽子のせいでよく見えない。
「俺たちは、デモンストレーションをしてんだ。デケェ事を起こすぞってな。」
藪から棒に話し出した男は、口元を歪ませて笑う。デモンストレーション。彼の言うそれは、嫌な響きがした。旭は隣の永坂がピリつくのを感じていた。
「そこでさ、アンタにも見届けてもらおうと思ったんだよ。永坂忠直サン。大将…13はアンタにご執心だからな。」
帽子の男の意識は、終始永坂に向いていた。また、永坂も何かに気付いているのか、険しい顔のまま彼の話に耳を傾けている。旭は1人、冷静に状況が動くのを待った。
「お前たちは俺に何をさせたい。何が目的だ?」
永坂が問うと、帽子の男は、笑顔を崩さないまま答えた。
「言っただろう?見届けて欲しいのさ。」
男にはふざけている様子は、一切なかった。しかし、全部をここで話すつもりはないらしく、「何を」という、確信を突くようなことは言わない。永坂は舌打ちをした。
「だから、アンタに少しでも俺たちを理解して欲しくて、今日という日がある。」
そう言うと、彼は右手を挙げた。旭の目が、とある『力』を捉えた。これは、あのフードの。そう思った瞬間、帽子の男の足元に、縛られて目隠しをされた男性が現れた。
既に2人は、敵の術中にいたのだ。ハッとして旭は、『力』の残滓を目で追う。それは2人の背後、給水塔の上に続いていた。
「ミカに会っただろう。」
不意に出てきた知っている名前に、永坂も旭も反応する。ミカ、それは空き家で襲ってきたあの少女のことだろう。
「あの子は、両親に虐待されていた。2人とも『異能者』でな。父親は、自分の力を誇示するために彼女と母親を嬲り、母親は、自分がなるべく傷つかないように娘を盾にしていた。……最低だよなぁ。一般人には通用しないから、自分の妻子に対して『異能』を行使していた父親も、幼い自分の娘を犠牲にした母親も。」
帽子の男のその言葉には、ミカに同情するような響きがあった。
基本的に『異能』そのもので、『異能』を持たない普通の人間を傷つけることはできない。だから、『異能』に目覚めても、その発散場所がなく、『異能者』同士で傷つけ合い、殺傷沙汰になることも少なくなかった。
「ある日、母親が反撃してな。虐げられ続けていた母親の『力』は、澱み切っていた。それも父親を殺せるぐらいにな。父親の死を受け入れられなかった母親は、ミカを残して自殺した。……俺たちがあの子を見つけたとき、ミカは2人の骸と一緒に、おままごとしてた。なんで2人が動かなくなっちまったのか、わかってねえみたいだった。」
男からは笑顔が消えていた。永坂と旭も黙って、彼の話を聞いていた。
「ミカは嬉しそうに、『異能』を使ってたよ。父親が自分に暴力を振るってきたそれを、父親が遊んでくれてると思ってたみたいだった。だから、アンタらとも楽しく遊んでくれただろ?」
旭は、ミカのことを思い出していた。彼女は笑顔で無邪気に、永坂と旭の2人を襲ってきた。『異能』で人を傷つけること。ミカは、それが悪いことだと、思っていなかったのである。
「こいつもそうだ。」
男は、縛られている男の脇腹に蹴りを入れた。痛そうな音がして、動けない男はそのまま横倒しになる。
「このクソ野郎も『異能者』でな。『異能』が通じる女を狙って、強姦を繰り返してた。『異能』を使われた、なんて普通の人間は信じちゃあくれないからな。何人の女が泣き寝入りしたんだか。」
永坂が険しかった顔の眉間に、さらに皺を寄せて、目を伏せた。
そんな彼の反応を確認して、帽子の男は肩をすくめて、鬱憤を晴らすように、足元の男を2、3度蹴り上げる。鳩尾に当たった一発に、体をくの字に曲げて、縛られている男は悶えた。それを見下ろしながら、帽子の男は吐き捨てた。
「『異能者』なんてろくなもんじゃねえ。持て余した力の使い道、考えたことあるか?…反吐が出るようなもんばっかなんだぜ。なぁ、アンタもそう思ったことがあるだろう、永坂忠直サン?」
彼の言葉に、永坂は何も言い返さなかった。一度伏せた目を、また彼に向けたくらいで。その反応が不服だったらしく、帽子の男は再度足元の男を蹴りつける。
「言いたいこと飲み込んでちゃ、何にもなりませんよ、お二人さん。」
動かない旭と永坂に嘲笑を向け、帽子の男は縛られている男の頭を踏みつけ、グッと地面に押し付けた。彼から、強い『力』が溢れ出す。その矛先は、足の下の縛られている男に向いていた。秘められていた殺気が放たれて、周りの者を総毛立たせる。
まずいと感じた永坂が、一歩踏み出そうとしたその瞬間、ずん、と空気が重くなった。旭たちの背後から、ドサッと鈍い音がして、永坂は自分の視界が開けるのを感じた。
踏み出せば届く距離にいたはずの帽子の男は、もっと遠くにいた。男の頭を踏みつけていたはずの彼は今、地面に膝をついている。
フードの男の『異能』を仕掛けられて、距離感を誤魔化されていたようだ。永坂は、帽子の男の話に気を逸らされていたせいで、気づかなかった。たぶん、あのままだったら、永坂の足は虚空を蹴り、縛られている男はみすみす殺されていただろう。
あまりに突然のことに誰も動けない中、旭が飛び出して、永坂は右手を引かれた。彼女は素早く、転がっていた縛られて動けない男を回収して、永坂の隣に戻ってきた。
「ッ、なかなかやるな。」
よろめきながら、帽子の男が立ち上がった。口元には笑みが浮かんでいるが、だいぶ余裕はなさそうである。その目は旭を睨みつけていた。
「ベラベラと喋っているからでしょう。」
抱えていた男を粗雑に下ろすと、旭は背後からの『力』の気配が消えていることを確認する。先程のドサッという音は、フードの男が、給水塔から落ちた音であった。帽子の男との会話中、彼の方に動きがあったことに旭は気づいていた。
デモンストレーション。その内容がどういうことなのか、明確にわかっていたわけではないが、永坂に何らかの負荷をかけるようなことであろう。
彼のことを、まだ深くは知らない。それでも彼が、自分の目の前で人が死ぬことに怯えていることに、旭は前回の事件で気づいていた。
例え、どんなに反吐が出るような罪を犯してきた人間でも、永坂の目の前で殺させるわけにはいかない。旭は本能でそう感じていた。
「おい、エース!!……クソッ、返答がねえな。アンタ、何をした?」
エース、それはフードの男の通称だろう。帽子の男は彼の返答がないことに、旭を睨みつける。旭は軽く息を切らしていて、左手首を押さえていた。何も答えない旭に向かって、帽子の男が舌打ちをする。
そのやり取りの間に接近していた永坂が、帽子の男に蹴りをいれた。すんでのところで避けた彼の影から、ズルッと蛇のようなものが2本飛び出して、永坂を捕らえようと蠢く。しかし、確かに触れたはずのそれは、彼をすり抜けて、フェンスにぶつかった。大きな音を立てて、フェンスが凹んだ。
永坂に気を取られていた帽子の男の腹を、旭の足が蹴り上げた。男は血混じりの唾を吐いて、後ろに吹っ飛ぶ。フェンスに叩きつけられる直前で、体勢を立て直して、彼は無理矢理笑顔を浮かべた。
「ぐっ……ふ…ちくしょう、良い蹴りだな!」
影からもう1体蛇が飛び出して、旭を追うが、彼女の蹴りで千切られて飛散した。
2体の蛇をくぐり抜けてきた永坂が、何とか立ち上がった帽子の男の、顎を狙う。しかしすれすれで避けられて、その足は彼の帽子を蹴り上げた。トスッ、と小さな音を立てて、それは地面に落ち、彼の顔が月の元に晒される。
「お前は…!」
その顔を見て、永坂が驚いて固まった。それはまるで、彼のことを知っているような反応で、それを見た帽子の男がニヤリと笑う。永坂は明らかに動揺していた。
「永坂さん!!」
旭が叫んだ。それと同時に、男の影から1本の蛇が飛び出し、永坂にぶつかるが、またすり抜けた。男がニッと笑った。
「ほんと、アンタってつくづく、守るのには向いてねえなぁ!」
永坂に当たらなかった蛇が、彼の背後に転がっていた、縛られている男の首元に噛み付く。血がびゅっと飛び出した。旭は蛇を追い払うと、自分の上着を手早く脱いで、それで止血した。
「そいつ、放っておいたらすぐ死ぬぜ。」
帽子の男はそう言って、止血中の旭に固定されて動けない永坂に向かって舌を出すと、給水塔の近くでノびていたらしいフードの男・エースを回収して、2人の方に振り返った。
「…俺は御厨 隼人。どうやら、俺の顔が1番アンタの動揺を誘えたらしい。弟によろしくな、永坂忠直サン。」
隼人はいつの間にか、回収していた帽子を被り直して消えた。緩くパーマのかかった髪に、垂れ目。旭はその姿にどこか見覚えがあるように感じて、眉間に皺を寄せる。一方、永坂の方は、険しい顔つきでずっと、男が逃げた方向を見つめていた。
「悪かった。」
端的に言うと、永坂は旭に向かって、ぺこりと頭を下げる。その顔には、悔しさと情けなさが入り混じっていて、男たちを取り逃がしたのは、自分のせいだと責めているようであった。
隼人らが逃げた後、永坂が電話すると車が来て、事情を飲み込めている様子の人々が、縛られていた男を連れて行った。あの男がどうなるのかは、まだわからない。
「……いえ。お互い様なので。それよりも、あの、大丈夫ですか?」
旭は首を横に振って、気にするなと示した後、永坂の顔を見つめた。どうにも彼の顔色が、あまり良くない。彼女は無意識のうちに手を伸ばしていたが、自分の手が、血で真っ赤なのを見咎めて引っ込めた。
「ひどい顔色ですよ。」
旭がそれだけ告げると、永坂はいつもの仏頂面になって、ポケットから取り出したハンカチで、旭の顔を拭った。
「今のお前にだけは言われたくないな。」
返り血がついていたらしい。旭はギョッとして、ハンカチが赤く汚れていくのを見ていた。
粗方拭き終わった永坂は、旭から手を離すと、隼人が置いて行った花束に目を向けた。今の旭の視点ではその表情も、感情も、推し量れない。ただ、何かに苦しんでいる様子の彼を、動けずに見守っていた。