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Wrist  作者: 洋巳 明
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解けない鎖

第一話 繋がれた関係


 あさひ 兎美うみは忌々しげに、左の手首を睨んだ。時刻は午前7時15分。起きる約束をした時間よりも15分早いが、鎖の振動で彼が起きていることには気づいていた。

 部屋を出る合図は壁を2回ノック。相手を呼び出したいときは3回。拒否するときは1回だけ。ルールを決めなければ、動けないほどに不便なこの状況。旭は深く長いため息をついた。

 コンコン、と無機質な音が響く。こちらが起きたことを察してだろう。旭も2回のノックを返すと、携帯をポケットに突っ込んで、ドアの前に向かった。



 10月ももう終わるだろうというように、吹き始めた木枯らしが落ち葉を弄ぶ。旭は店じまいのために外へ出て、軽い掃除を終えると、看板を畳んでからふと空を見上げた。そこには秋の夜を象徴するようにカシオペヤがあり、旭が瞬きするのに合わせて煌めく。

「兎美、今日はもう上がっていいぞ。中の片付けは俺と小林でやっておくから。」

 ぼんやりと夜空を見上げていた旭に、後ろから兄の瑞樹みずきが声をかける。振り返った旭は頷き、看板を抱えて、店内へと引き上げた。

 「喫茶 7並べ」は旭と兄が共に経営する店である。繁華街から少し外れたところに、ひっそりと佇む小さな店だが、キッチンを担当する瑞樹の腕が良いため、わりと繁盛していた。今日だって平日ではあったが、ラストオーダーの時間まで人の入りがあって、少しだけ長引いてしまったほどだ。

 旭の家はこの店の2階部分にあった。お金の確認をアルバイトの小林と終わらせると、旭は店内でエプロンだけ雑に脱いで、そのまま店を後にした。後の掃除と戸締りは2人がやってくれるだろう。

 店の右手にある階段を上がりながら、彼女はまた空を見上げた。相変わらず星がキラキラとしている。それはとても綺麗なのに、今日の旭は眉を顰めた。なんとなくだが、何かが起こりそうな気がしていた。それが何かはわからないのだが、胸騒ぎがする。

 振り切るように頭を振って、旭はポケットから鍵を取り出して、気づいた。

「あ、牛乳。」

 今日はシチューの予定であった。いい加減萎びてきた人参を食べなければいけない。そう思ってシチューの素は買っていたのだが、牛乳を買うのを忘れていたことをここで思い出す。

 旭は差し込もうとしていた鍵を引っ込めて、また階段へと向かった。ここから最寄りのコンビニまでは10分程度。手早く牛乳だけ買う予定だったのに、旭の耳はそれを見逃してはくれなかった。

 家から5分程度歩いたところに、夜に歩くのが気持ち悪い暗さの公園がある。鉄製の柵が高くて中が見えにくく、日が傾く頃には誰もいなくなるようなところで、旭もそこの前は足早になるのがいつもだったが、この日はそこで子どもの泣き声を聞いた。聞き間違いかと思って道の中腹で立ち止まり、公園の中の様子を窺う。すると、ブランコのところに小さな人影が見えた。旭の目には子供が泣きじゃくっているように写って、お人好しにも放っておけなかった彼女は、公園の中に足を踏み入れた。

 なんとなく何かが起きそうな気はしていたし、公園に足を踏み入れた瞬間に、その何かに巻き込まれたことは自覚していた。それでも子どもの様子だけでも確認せずにはいられず、ブランコに近づく。しかし、途中で気付いた。キィキィと揺れるブランコの上に乗っていたのはテディベアで、共に置かれたスピーカーから泣き声が出ていることに。

(しまった!)

 すぐに身構えて周囲を探る。旭はその気配を探すが、視えない。ここに入ったそのときから、たぶん視覚をいじられている。そう思った旭は自分の頬を自分で殴りつけた。痛みが襲ってくるのと同時に視界が開ける。

 もう一度彼女が目を凝らすと、薄いが『力』の残滓があった。旭はその先に、フードを被った人影を見つけた。

「そこか!」

 駆け出して足を振り上げる。フードの人物は向かってくる旭に気づいたものの、防御するのは間に合わなくて、吹っ飛んだ。細い体から繰り出されたとは思えないほどの強い蹴り。食らった相手は這いつくばって咽せている。奥から覗く目が、旭の方を睨みつけていた。その態度に眉を顰め、何がしたかったのか聞き出そうと旭が相手に近づいたその時。

「おい!退がれ!!」

 背後から怒鳴り声が聞こえ、旭は瞬時に飛び退く。が、少し遅かった。避け切る前にフードの男の付近から轟音が響いて、光る。目眩しをモロに食らった旭はふらついた。

 煙幕でも仕掛けられたかのように、視界が白に包まれる。相手はどこだ、と旭が拳に力を込めると同じタイミングで、左腕を何者かに強く掴まれた。

「君、面白いね。採用。」

 耳元で柔らかい男の声が聞こえた瞬間、旭の左手首に激痛が走った。まだ、目眩しのせいで状況が確認できないが、左から感じる気配から離れた方がいいことだけはわかって、彼女は後ろへ退こうとする。しかし、その細い首に手が伸びてきて掴まれ、そのまま持ち上げられた。

「…ッ、ぐっ……。」

 息ができない。血流が止まるギリギリの力で加減されて絞められていることが伝わっても、地に足がつかなくてバタつく。

 そのくらいで、目が少しずつ慣れてきた。目の前には黒髪で痩身の、泣きぼくろが扇情的に写る美しい顔。その黒い眼は面白がるように、旭の反応を見ていた。無邪気に光るそれからは、とても人の首を絞めている人間の表情とは思えなくて、もがきながら旭が怒ったように睨みつけると、それすらも面白がるように少し力が強まった。

 空気が頭に回らなくなってきて、まずいと感じだ彼女が顔を歪めた瞬間、パァンと銃声が響いた。2人の間を遮るように、銃弾が旭の首に伸びていた手を撃ち抜いた。解放された旭は、端整な男からよろめきながら距離を取る。すると、肩を掴まれて、庇うように後ろに回された。

「……大丈夫か。」

 自分の前に立った男は大柄で、低い声はぶっきらぼうであったが、旭を心配する響きがあって、彼女は少し安心してしまう。

「おっと、2対1とは卑怯だね。」

 旭の首を絞めていた端整な男が笑った。その手からは、ダラダラと血が垂れているのに痛がる様子もなく、カンに触る声色はわざとらしい。旭は首を押さえて顔を顰める。あれは彼女を殺そうとしてやったことではなかったことを肌で感じていた。たぶん本当に面白がっていたのだ。

「悪趣味なやつ。」

 ぽつりと毒づいてむせつつ、旭は首元をさすった。彼女の前に立つ大柄な男は、目の前で微笑みを浮かべる相手を静かに見据えて、

「何者だ。」

と訊いた。彼のシンプルな問いかけに、端整な男は嬉しそうに微笑んだ。

「興味を持ってくれるとは光栄だね。俺のことは、そうだなぁ、『13(サーティーン)』とでも呼んだらいいんじゃないかな。」

 明らかな偽名。人を食ったような態度でケラケラ笑う男に、旭は不快感を覚えていた。じゃり、と靴を鳴らして彼女は大柄な男に並んで立つ。隣の彼は旭を横目でチラリと見ただけで、すぐに前に向き直った。

 13と名乗った男が、笑顔を崩さないまま、手をパッと前に出した。旭も大柄な男も身構える。彼は旭ではなく、隣の男を指差した。

 それを見て、いち早く動いたのは旭だった。彼女は13の方に手の平を向け、握った。ぐん、と彼女の手に異様な圧がかかるような感覚がして、ビリビリと空気が震え始める。

 13も、大柄な男も動きを止め、様子を窺うように彼女に注目していた。一際強い圧が、この場を包んだ刹那、13は上から何かに押さえつけられるような『力』を感じてよろめく。立っていられなくて、彼は膝をつきかけた。

 が、それは一瞬でフッと消えてしまう。動けるようになった13は飛び退き、対称的に旭が膝をついた。彼女は呼吸が荒くなっていて、そのことに驚いたかのように見開かれた目は、地面の一点を見つめている。

 一連の流れを静観していた大柄な男が、眉間に皺を寄せた。

「一体何をした?」

 13はその問いには答えず、優雅に笑い、拍手を旭に向ける。

「いいね、いいね。嗚呼、やはり神は俺を退屈させないつもりらしい!」

 13はひとしきり笑い声を響かせた。大柄な男が、不快そうに眉間に皺を刻む。再び旭を庇うように立ち、銃を構えた彼が撃つよりも早く、13が指を鳴らした。大柄な男の右手首に激痛が走る。彼は思わず右手首を押さえてしまい、銃を取り落とした。

 膝をついて冷や汗を垂らす旭と、自分を睨みつけている男。その2人に背を向けると、13はまだ蹲っていたフードの男を小脇に抱えた。

「!待て!」

 13を威嚇するための銃声が1つ鳴った。大柄な男が拾い上げた銃を苦し紛れに撃ったのだ。どこにも当たらなかったが、それに反応して13は立ち止まった。

「焦るなよ。大丈夫、いずれまた会えるよ。」

 振り返って鮮やかな表情を見せると、また正面に向き直って、ゆったりとした歩調で公園の出口へ向かう13。その背を大柄な男が追いかけようとしたが、途中で何かに詰まったかのように止まり、旭の方を驚いた顔で見る。彼は自分の右手首を確認して舌打ちをした。

 一方、動悸がおさまらない旭は、必死に呼吸を探していた。血が逆流したかのような気持ち悪さに、体が震え始める。その背中に温かい手が添えられた。

「おい、ゆっくり呼吸しろ。」

 旭が伏せていた視線を少し上げて、男を見ると、険しい顔でこちらを窺っているのがわかった。縋るように、無意識のうちに旭が伸ばした手を、彼は握ってくれる。人の体温に安心して、旭はふらりと男の方に倒れ込んだ。

「おい!……チッ。」

 しっかりしろ、と言う声が遠のいていく。ここで眠るわけには、という抵抗も虚しく旭は意識を手放した。


 

 柔らかい感触が背中を支えていた。頭のどこかで、それがベッドであることを理解していて、旭は何も考えずに、しばらく布団の中でじっとしていた。ずっとそうしていたかったが、起きろと頭のどこかで叫ぶ自分のために、重たい瞼を開けた。視線が天井にぶつかる。何の変哲もない天井だ。一瞬そのまま目を閉じかけたが、自分の家には、敷くタイプの布団しかないことを思い出して飛び上がる。

 そこは知らない部屋だった。旭が寝ているベッドの左側には、カーテンが閉められた、ベランダにつながるような大きめの窓。正面には本棚。そして、右側には人の気配があった。そちらを確認すると、そこには険しい表情で、自分を観察している男がいた。その男が公園で自分を助けてくれた人だと、旭が気づくまでに少し時間を要した。

「起きたか。」

 その声は、公園で聞いたときよりも幾分か堅くて、旭は緊張した。声を出さずに頷くと、男がベッドサイドに置いていた水のペットボトルを、旭に差し出す。

「飲んだほうがいい。昨夜からお前は丸一日眠っていた。」

 旭は素直にペットボトルを受け取った。確かに喉はカラカラに渇いていた。水を飲みながら、まずは自分の状態を確かめる。苦しくないように、ワイシャツの上のボタンが2つ外してあるくらいで、服装は変わっていない。多少の体のだるさはあるが、痛む場所はほとんどなく、強いて言えば締められた首が少し、という程度。

 痛みでふと思い出して、旭は自分の左手首を見た。そういえばあのとき、耳元で「採用」という言葉とともに、そこに痛みが走ったはずだ。

「……これは。」

 タトゥーのような赤黒い模様が腕輪のように旭の手首を一周していた。目には見えないがそれに鎖がついているような感覚がある。

「状況は確認できたか。」

 旭が鎖の先を目で追うのを見て、男が右手首を上げる。そこには旭の左手首と同じ模様があり、男が手首を軽く引くと旭の手首が男の方へ引き寄せられる。男が手を下げると、鎖が揺れる感触が伝わって、引っ張られる感覚はなくなった。つまり、今、この2人は見えない鎖で繋がれているのだ。

 言葉が出てこなくて、旭は助けを求めるように男を見た。男の目はひたすらに冷たかった。しばらく、どちらも喋らない膠着状態に陥る。混乱する旭と対称的に、男の方は冷静そうであった。

「半径2メートルだ。」

 旭にそう告げると、男は立ち上がって旭から距離を取り、ドアまでもう少しというところで立ち止まる。鎖がピンと張った感覚。

「ここまでしか俺1人では動けない。…この鎖のせいだ。」

 男の動きに応じて、音もなく鎖が揺れた。大きくため息をついて男がまた椅子に戻ってくる。

「昨夜、なぜあそこにいた。」

 キシッ、と男の座る椅子が音を立てた。旭はすぐには口を開かず、一旦男の様子を伺う。その目は静かに旭のことを見定めようとしているようで、多少の居心地の悪さを感じながらも、旭は正直に答えた。

「…牛乳を買いに行こうとしていたんです。そしたら、子どもの泣き声が聞こえたので放っておけなくて、公園に。」

 嘘は言っていないはずなのに、旭の手は汗ばんだ。この緊張感と不快感。すでに彼女は、自分があの男たちの一味ではないか、と疑われていることを察していた。

「あの男たちと面識は。」

 問われて、旭は首を横に振る。

「ありません。知らない人たちでした。」

 視覚をいじっていたであろうフードの人物と、旭の首を絞めあげた端整な顔立ちの男、13。2人に見覚えはなかった。人の首を楽しそうに絞める知り合いなど、残念ながらいない。旭は、首が疼くように感じてさすった。

「永坂忠直。この名前に聞き覚えは?」

 旭は再び首を横に振る。知り合いにそんな名前の人物はいない。

 他にもいくつか質問を受けたが、すべて心当たりがなかった。一通り訊き終えたのか、男は一旦沈黙をつくった。質問攻めにあった旭も同様に黙り込む。旭にとっては、この男が作り出す、この沈黙の居心地の悪さが、堪らなく嫌だった。

「お前があの男たちについては何も知らない、という可能性が高いことはわかった。」

 淡々と告げる男を、旭は静かに見つめた。男の目は彼女を捉えて放さない。

「隠している、という可能性も否めないが。」

 たぶん、彼にとってここまでは予想通りだったのだ。だから、ここからが、彼の訊きたいことなのだろう。

「だがお前、『異能』を持っているな?」

 旭の瞳孔がキュッと縮まった。

 『異能』。それは現代社会に似つかわしくないほどに、非科学的な事象を表す言葉ではあるが、旭たちの世界において存在していた。

 『異能』を使える人間を『異能者』と呼ぶ。彼らは数万人に1人の確率で生まれ、一般人に紛れて生活している。『異能者』であっても、自覚がない者も多く、気づいても、『異能』として形にして使いこなせる者は一握り。なので、そもそもその存在を認知している人間自体が少なかった。

「……何の話ですか?」

 旭は首を捻った。場の空気が、先ほどよりもずっと冷えるのを感じながら、2人は睨み合った。

「しらばっくれるな。『異能』に干渉できるのは『異能者』だけだ。」

 男が旭から視線を外した先にあったのは、彼の手首。彼が無言のまま伝えようとしたことがわかって、旭もまた自分の手首を見つめた。

 『異能』を使うには『力』と呼ばれるエネルギーを、持っていなくてはならない。『力』は『異能』を持つ人間、『異能者』の体内を血のように循環している不定形のオーラのようなもので、人によってその用途や色が違う。そして、『異能者』であれば『力』の干渉を必ず受ける。それは自分の『力』を使って『異能』として行使できたり、自分以外の『異能者』の『力』を視ることができたり、他の『異能者』の能力によって、危害を加えられることもある、ということである。

 『異能』を持たない人間は、それを扱うことや視ることができない代わりに、『力』そのものをぶつけるような『異能』、たとえばこの旭と男を繋いでいる手錠などがそれに該当するのだが、そういうものの干渉を受けないのだ。だから、この手錠がついていることは、旭が『異能者』であることの証明になる。

 永坂の言葉を聞いた旭の表情は、能面のように動かなくなっていた。

「それにお前、あのとき使おうとしただろう?自分の『異能』を。そのせいで倒れた。」

 この鎖は厄介だ、と男は呟いた。それに関しては何のことか分からず、旭は少しだけ首を傾げたが、すぐに居直る。

「お前の『異能』はなんだ?」

 男に訊かれて旭は静かに首を振った。

「話したくないです。」

 無機質に告げると、男は眉間に皺を寄せた。なぜだ、と聞きたそうな顔である。旭はそれには応えない。しかし、男から目は逸らさなかった。

「ただ。これは私の『異能』ではありません。」

 それだけはわかってほしくて、念押しするように力強く言った。その瞳は揺らがない。それをしばらく見つめ返した男は深くため息をついて、彼女から逸らした視線を上に向けた。

「わかった。深くは聞かない。ただ。」

 男が旭の目を真正面から受け止めて言葉を続けた。

「俺はお前を疑っている。お前がこんな状況にした犯人かもしれない、と。」

 旭は己の左手首に注目した。

 この目に見えない鎖は誰かしらの『異能』によるものである。旭は自分の異能に対する説明を拒否した。つまりは、この異能が彼女によるものである可能性は消えない、ということである。彼女が嘘をついていて、倒れたのもブラフで、この男に何かしらの危害を加えようとしているかもしれない、という結論に彼は至ったらしい。

 男はまたため息をついた。

「俺から訊きたいことは訊いた。お前からは。」

 一瞬だけ、男の目に同情のような感情が乗ったのが見えた。旭は少しだけ考えて、そして思い切ったように言った。

「トイレ貸してもらっていいですか?」


 この鎖が、壁を貫通するものであってよかった。旭は手を拭きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

 男と少しの間でも離れたことで、考える余裕が出てきて、とりあえずここが誰かしら、たぶんあの男の家であることを知る。そしてこの状況、非常に不便であることも。トイレに行くにもその後の手洗いも、近くまで男に来てもらわなければできないのだ。

(家に帰れるのかな…。)

 嫌な予感が背筋をつたう。よくよく考えれば、何でこんなことになっているのだろう。牛乳は諦めれば良かった。旭は自分の中に、負の感情が満ちていくのを感じて、首をブンブンと横に振った。

「終わったか。」

 洗面所の外から声をかけられて旭は飛び上がった。廊下に出ると男が待っていて、旭の姿を認めると、彼は何も言わずに左の扉の方へ向かう。旭もそれに従ってついていくと、扉の先には殺風景なリビングルームがあった。右の方にテレビが置いてあり、近くにソファがある。左の方にはキッチン。隣接して簡素なテーブルと椅子が2脚。そこは見る限り日常的に使われている様子であった。

 カーテンの閉められていない窓の外は夜で、本当に丸一日眠っていたのかと少しだけ呆けてしまう。

「もう少しこっちに来い。」

 男に呼ばれて、慌ててキッチン側へ動く。やはりこの状況、非常に不便である。何をするのかと戸惑う旭のことなど気に留めず、男は冷蔵庫の中をゴソゴソと物色すると、白菜と人参を取り出して、慣れた手つきでざく切りにしていく。

「で、訊きたいことは固まったか。」

 まな板から目を逸らさないまま男が切り出す。旭は頷くと口を開いた。

「まず、名前を聞いてなかったと思いまして。」

 旭がそう言った途端、男は手を止めて、彼女の方を見た。その顔はなんというか、複雑な顔をしている。

「…もっと先に聞くことはないのか?」

 心底呆れたような声色に、旭はムッとして言い返す。

「名前も呼べない相手と繋がれてるのはかなり気持ち悪い状況なので。…別に偽名でも何でもいいですよ。とりあえず教えてください。」

 男が変なやつ、と言ったのは無視して旭は彼の返答を待った。

永坂忠直ながさか ただなお。」

 永坂さん。一度呼んでみて旭は、先程の質問の中にあった名前だと気づいた。あれは自分を知っているかどうか確かめていたのか。変なやつ、と思ってる相手に律儀にフルネームを教える時点で、永坂も相当変なやつなのでは。そう思いもしたが、旭は少し笑っただけで自分も名乗った。

「一応私も。旭兎美あさひ うみです。」

 よろしく、とは言わなかった。長い付き合いには、したくなかったからかもしれない。

「それでここはどこなんですか。」

 電磁式のコンロをピッピッと操作しながら、永坂は旭の方を見ずに答える。

「俺の家だ。」

 どうやら予想通りだったようだ。そのまま旭は、質問を重ねた。

「この鎖についてどれくらいわかってますか。」

 左手首に重みはないが、確かな違和感がある。旭は無意識にそこを押さえていた。この状況で1番訊きたいのはこれについてであった。

 永坂はちらりと旭の表情を伺った後、口を開いた。

「…これには、常にお前と俺、両方の『力』が流れ込んでいて、それによって形を保っている。手首を切りでもしない限り外れない。ただ、それをすると鎖が残った方は常に『力』を放出し続けることになる。安全に外すにはこれをつけた異能者を殺すか、捕まえて解かせるかしかない。」

 永坂は取り出した鍋に先程切った白菜と人参、冷凍庫から取り出した水餃子を入れて、水を注ぐと、火にかけた。

「あとはお前が倒れた原因もこれのせいだ。あのとき、お前は『異能』を使おうとしただろう。そのとき、俺の『力』が鎖を介してお前に流れ込み、処理し切れなくなったお前の体は拒絶反応を起こして倒れた。…どうやらこの鎖は行動だけでなく、『異能』の制限にも一役買うようだ。」

 『異能者』によって、持っている『力』は血液型のように違う。それぞれに循環する『力』を、血液と考えるならば、他の人間のそれが流れ込めば拒絶反応を起こす。しかも血液と違って『力』の型が合うことはほとんどない。

 『異能』を使おうとしたあのとき、永坂の『力』が流れ込んだ旭の体は、そうやって自らを守るために意識を落とした。

「わかっていることはこれぐらいだ。13と名乗ったあの男、あいつを見つけないとこれ以上のことはわからんだろうな。」

 旭は肩を落とした。つまり、当面は外せないということである。

 そこではたと気づいた。旭が解放されるには、兎にも角にも、この手錠を仕掛けた異能者を、見つけなければいけなくて、異能者を見つけるまでは左手首の重荷はぶら下がったまま。旭は勇気を出して、ずっと考えていたことをやっと口に出した。

「……あの、私家に帰れますか?」

 それに対する返答は早かった。たぶん、訊かれると予想していたのだろう。永坂は首を横に振った。

「悪いが当面の間はここで生活してもらうことになる。荷物を取りに行くのは付き合う。」

 旭は目の前が真っ暗になるような思いであった。行動は制限されている上に、よく知らない自分を信用してもいない男と、期限のわからない2人暮らし。そんなの、監視されながらの生活も同然である。

「……そんな。…いや、そうですよね。」

 わかってはいたのに。旭はシンクに手をついて項垂れた。そんな彼女を横目で見ながら、永坂は眉間に皺を寄せる。そしてため息をついた。

 2人の沈黙とは対称的に鍋はコトコトと、小気味いい音を立て始めていた。頃合いを見て、永坂は火を止めてテキパキと味付けを済ませると、2人分の食器を取り出して、出来上がった汁物を注いだ。

「食え。…嫌なら構わん。」

 旭が返事をする前に永坂はくるくると動き、ご飯までよそってくれる。旭は箸と茶碗を持って、黙って永坂に従った。

 向き合ってテーブルに座るが、会話はない。ただ、水しか摂っていなかった旭の体に、優しい味が染み渡った。白菜と人参と水餃子のスープ。具材はちょうどいい大きさに切られていて、生姜が入っているのか食べると、じんわりと体が温まる。思わずホッと息をつくと、こちらをじっと見つめている永坂と目が合う。何となく気まずい思いがして、旭は露骨に目を逸らして、食事のことだけ考えようと努力した。

 静かな夕食を終えると、永坂は食器を重ねてキッチンの方へ向かう。その背を追いながら、旭は先ほどよりも少しだけ落ちた声で言った。

「ごちそうさまでした。…片付けは手伝います。」

 美味しかった、はさすがに言えなくて、旭は無言でスポンジを取る。永坂も何も言わずにただ頷くと、横で彼女が洗った食器を流して、乾かす場所に並べていく。

 旭は隣にいる男のことを、はかりかねていた。自分のことを信用しないと言いつつ、縛りもしないし、起きたときに水は用意してあるし、説明もちゃんとしてくれる。更には、食事の用意までしてもらってしまった。

 永坂が旭を信用できないように、旭も永坂のことをどう扱えばいいのかわからなかった。だが、昨夜出会った男たちの一味ではないのだろう、とは思っていた。旭も黙っている間に、起こった出来事を整理していたのだ。

 13の発言から考えて、あの瞬間までは旭があの場所を訪れることは、彼らにとっては想定外の出来事であったはず。あれは旭を狙った罠ではなかったのだ。するとあれが、永坂を狙ったのだろうということが推測できる。

 ただ、永坂の視点から考えると、向かった先で旭と鎖で繋がれたのである。今いくら弁明しようと、13とのやり取りを知らない永坂の中で、旭が永坂の監視のために寄越されたという可能性は、確証がない限り消えない。

 だから、まず自分は巻き込まれただけであることを、永坂に証明しなければならない。そして、手錠をかけた犯人であろうあの男たちに、辿り着かなければ。

 旭は不意に目に入った手首を見つめた後、腹を括った。巻き込まれた以上、やるしかないだろう。

 旭が手についた泡を洗い流すと、永坂がタオルを差し出してくれた。彼女が手を拭き終わると彼は口を開いた。

「台所用のタオルはここで、布巾はここだ。」

 上の棚を指差しながら永坂は、丁寧に彼女に生活必需品の置き場を説明し始めた。キッチンが終わると、場所を移して、トイレ、風呂場、最後には最初にいた部屋の隣の部屋の前で立ち止まる。

「ここがお前の寝室になる。」

 その部屋は三方向の壁に本棚が鎮座していて、部屋を圧迫していた。真ん中にはカーペットとロッキングチェアがあって、その近くの小さなテーブルにはいくつかの本が積まれている。

「……本が好きなんですね。」

 置いてある本棚にびっちり詰まった本の量に、少し圧倒されて旭はぽかんとしてしまった。そんな彼女の様子など気にせず、永坂は部屋の端に置いてあった布団の入ったバッグを掴むと、旭に差し出した。

「客用の布団だ。本棚のない、俺の部屋と隣接したところに置け。」

 旭はこくこくと頷いて、それを受け取ると、言われた通りの場所にそれを敷いた。

「起きるときは2回ノックをしろ。相手を呼ぶときは3回。拒否したいときは1回。」

 これは手錠のせいだろう。壁のことは考えなくていいが、動く範囲はやはり制限されている。自分1人で部屋を出ることもままならないのだ。旭は大きく頷いた。

「それで、荷物は?」

 永坂に訊かれて旭はあっ、と声を上げた。兄に連絡を取ることを、すっかり忘れていた。慌ててポケットを探ると、鍵はちゃんとそこにあり、反対のポケットには携帯も入っている。彼女が携帯を取り出すと、兄からぽつぽつと1時間ごとくらいに着信があった。今の時刻は午後7時14分。まだ彼は7並べにいるだろう。

「今から行きたいです。…いや、その前に、ここどこですか。」


 永坂とともにマンションを出る。一応、ここが家からどのくらいなのか把握しておきたくて、永坂に訊くと、彼が旭に告げた住所は、7並べまで徒歩20分程度の場所で、旭は思わず近いと叫んでしまった。

 道中、相変わらず会話はない。永坂の方は、喋らないことを意識しているようなフシもあるが、そもそも無口な人のような雰囲気もあって、旭の中で少しずつ、彼への苦手意識が芽生え始めていた。

(…いやいや、これから共同生活を強いられるのに、それはきつい。)

 少しでも何かが掴めないかと、彼女は、永坂のことを観察してみた。

 目つきが悪く表情は乏しいが、たぶん一定数の人が、カッコいいと言うのではないだろうか。というより、こんな感じの雰囲気が好きな女性は、多い気がする。旭は彼の顔を見ながら、ぼんやりとそんなことを思った。身長は、旭が背の高い方ではないこともあるが、たぶん180前後ありそうで見上げる。そこも威圧感を生み出す一端であった。

(悪い人ではないとは思うんだけど。)

 じーっと見つめていると、永坂が大きなため息をついた。

「なんだ。」

 彼は見上げる旭に、冷たい視線を投げる。それでも旭は彼を見つめながら正直に言った。

「いや、黙り続けているの、すごい気まずいなぁと思いまして。」

 それを聞いた永坂は、眉間に皺を寄せ、またため息をついた。この仕草、何だかよく見る気がする。旭はそう思った。

「…悪いが俺はお前と打ち解ける気はない。」

 彼はキッパリと言い切った。つまり、余計なお喋りをする気は、一切ないということだ。その鋭い切り口に旭は目を丸くして、思わず訊いてしまう。

「それは、私を疑っているからですか。」

 なんとなく糾弾するような言い方をしてしまったので、まずかったか?と様子を窺う旭に対して、何とも思っていないように永坂は首を横に振った。

「それがないと言ったら嘘になるが、それだけじゃない。」

 含みのある言い方。でも、それ以上語る気はないらしく、永坂は旭の方から注意を逸らしてしまった。その深く踏み込むなと、物語るオーラに気圧されて、旭も歩くことに集中する。

 10分ぐらい歩き続けただろうか。顔を上げると、見覚えのある道、それも件の公園の付近に来ていることに気づいて、旭は永坂の様子を窺った。彼は何も言わない。そしてそのまま公園の前の道に差し掛かって、無言のまま通り過ぎる。それはまるで、もうその公園には、何もないことがわかっているかのようであった。

(……そもそも、訊きそびれちゃったけど、この人も『異能者』なんだよね。)

 手錠に意識を向けると、確かに自分のものではない気配と、鎖の中腹でほんの少し混ざり合っているのを感じることができる。彼にも『力』がある証拠だ。

 冷静になると、訊きたいことがたくさん出てきて、旭は辟易した。彼が何をしている人なのかとか、今回の件に関して、どれほどわかっていることがあるのかとか。

(でも、大体そういうことには答えてくれなさそうなんだよな。)

 先程は突き放されてしまったが、質問に対して無視をされたことはなく、答えられないことはそう明言してくれる。律儀な人だ、旭はそう思った。

「おい。」

 声をかけられて立ち止まる。旭が永坂の方を見ると、彼は視線で、7並べの前に着いたことを示した。店はまだ電気がついていて、中でたぶん瑞樹が旭のことを待っているのだろう。

「俺は外で待つ。」

 ドアの付近の壁にもたれかかると、永坂はそれきり口を開かなかった。


 瑞樹への説明を終えて、荷物をまとめて永坂の家に戻ってきた頃には、9時を過ぎていた。

 先に入るように促されて、旭は湯船の中にいた。ギリギリ湯船には入れる長さで、本当に良かった。旭は息を吐く。

 浴室内も、マメに掃除されているのか清潔で、永坂の人となりが、これだけの時間で見えてくるようだった。

(ほんと、いつまで続くんだろうか。)

 彼は悪い人ではない。ただ、共に過ごすには少々息が詰まる。それに、鎖に関しても13の目的、敵の組織の大きさ、自分が選ばれた理由など、手錠を外す前に問題が山積みだ。旭の口からため息が漏れる。それは永坂のため息が、うつってしまったような気もして、旭は顔を顰めて、勢いよく立ち上がった。

 くよくよはしていられないのだ。瑞樹との話し合いの中で、『異能者』ではない兄に、全ては話せなかったのに彼は何も言わずに、無期限の休みをくれた。いつもそうだ。そうやって何も聞かずに、優しくしてくれる兄に、心配と迷惑しかかけていない。早くどうにかしなくちゃ、と頬を叩くと旭は風呂場を後にした。

「明日は7時半に起きろ。朝から動くぞ。」

 風呂を終え、寝る支度を整えた後に、永坂にそう投げかけられる。旭は携帯のアラームをセットして床についた。

 ろくに眠れる気分はしなかった。慣れない場所だし、慣れない状況だ。灯りを落として天井をぼんやりと眺め、左手を目の前に掲げる。暗くてそこに刻まれた模様は見えないが、隣の部屋の彼との繋がりはそこに感じることができた。そして、それ以外にもう一つ、これを仕掛けたであろう『異能者』の『力』もぼんやりと視えた。

 実は、2人に手錠をつけた相手を探す方法自体は難しいものではない。『異能者』はこうやって他の『異能者』の『力』を視ることができるため、その残滓を追っていけば最終的には、その『力』を持つ『異能者』に辿り着ける。

 直感的に、これが13の『異能』なのではないか、と旭は考えていた。現れたタイミングやあの言い草を考えるとそう考えるのが妥当なところだろう。

 ただし、相手の顔や『力』の形がわかっていたとしても、闇雲に探せるわけではない。『力』の残滓はいつまでも残るわけではなく、一定時間で消えてしまうし、『力』を使うことを控えられればそもそも視えなくなってしまう。それに、もう一日経ってしまったので、ちまちまと追っているのでは、追いつけないほど遠くに移動してしまった可能性もある。

 永坂はどういう考えを持っているのだろうか。旭は答えてくれなさそうな壁の方を見つめた。どう足掻いても、手錠がある以上は彼と協力するしかない。

 旭は腕を目の上に下ろす。視界が真っ暗になって、少し落ち着いた。


 

 こうして今に至る。ドアを開けると、既に服装を整えた永坂と目が合う。

「おはようございます。」

 軽く会釈をする。永坂も会釈を返してくれた。

「おはよう。」

 彼は小さく欠伸をすると、リビングの方へ向かった。永坂に続いてリビングに入ると、朝の少し冷えた空気がそこを満たしていて、ほんの少しだけ気が晴れるような思いがする。ぼんやりと窓の方を見つめる彼女を動かすために、永坂が手首をぐいっと引くと、彼女は弾かれたように、キッチンの方へ近づいた。

 昨晩と同じような流れで、永坂が冷蔵庫から食材を取り出して無言で2人分の食事を用意し始める。

「今日はどこへ行くんですか?」

 永坂は旭に電気ケトルのスイッチを入れるように促してから、食パンを電子レンジに突っ込んだ。

「ここから少し離れたところにある民家だ。」

端的にそれだけ言われる。続くのだろうと思って旭は待ってみるが、追加して何か言われることもなく、そのまま朝食の準備が終わってしまった。


 着いたそこは、繁華街からも、住宅街からも、少し離れた場所にあった。窓ガラスが割られた跡があったり、壁には落書きもされていて、明らかに人が住んでいる様子はない。

 しかし、旭たちの目にはそれが視えていた。

「何かしらは、いますね。」

 旭は家から漏れ出る気配を察して、警戒するように具に観察する。家は濃い『力』に包まれていた。中にいるかどうかはわからないが、少なくとも『異能者』は絡んでいるだろう。

 旭はその中に、視たことのある『力』が薄く混ざっていることにも気づいて、永坂の方を見た。彼は家を見つめたまま微動だにしない。その横顔からは、いまいち感情が読み取れなくて、旭は諦めたようにまた家に注目する。

 見覚えのあるそれは、たぶんあのフードの人物の『力』の残滓。もちろん、13じゃなくても彼に加担していた人物の情報は、喉から手が出るほどに欲しい。だが、このタイミングで永坂がこの場所に関する情報を入手したということは、2人はここにおびき寄せられた可能性が高い。

 そう考えた旭は1人でに頷いて、永坂に伝えようと彼の方を見た。……誰もいない。

「!?」

 旭は驚いて声も出なかった。先程まで隣にいたのに、影も形もない。鎖があるので、遠くまでは行っていないはずだが。

「…入るぞ。」

 キョロキョロしていた旭は、不意に背後から声をかけられて、飛び上がった。永坂はいつの間にか旭の後ろにいて、混乱する彼女を尻目に、家の扉に手をかけた。扉は呆気なく開いた。扉の先に荒れた室内が見える。

「あの。流石にこれは罠だと思います。」

 旭のことに構わず、中に入っていこうとする永坂の肩を掴んで、旭は強い口調で告げた。

「そんなことはわかっている。」

 旭の真剣な目を受け流して、永坂は飄々と返した。あまりに呆気ない返答に旭はぽかん、と口を開けてしまった。罠だとわかっていて踏み込む意味がわからなくて、少しだけ悩んだが、説明をしてくれないのなら見届けるしかない、と永坂の後を追った。

 家の中は『力』に満ちていて、いつどこから攻撃が飛んできてもおかしくなかった。警戒を解かないように慎重に気を配る旭と、目標がわかっているかのようにするすると進んでいく永坂。狭い廊下を抜け、両脇の部屋には目もくれず、2人は2階に上がった。ギシッ、ギシッと階段が軋む。道中で旭は、薄いがフードの男の残滓を、たびたび見かけていた。

(確かに罠だとわかっていても飛び込む価値はあるか。)

 あそこで帰っていても、収穫なしで1日が終わっていただけ。リスクを冒してでも、敵地に飛び込む価値はあるかもしれない。それでも永坂の迷いのなさに、旭は少し違和感を抱いていた。その態度はまるで、自分が殺されることはない、とわかっているようだったから。

 階段を上がって、突き当たりの部屋の前で、永坂は足を止めた。もやもやと考え込んでいた旭と目が合う。その目は入っていいか、確認を取るようであった。その部屋に何かあるのは、2階に上がったときに旭も気づいた。彼女が頷くと、永坂はゆっくりとドアを開けた。

 そこは、日当たりの良い一室で、他の部屋よりも比較的清潔であった。真ん中にちょこんと、小学生くらいの女の子が、こちらに背を向けて座っていて、彼女はこちらに気づいて笑顔を見せる。旭は目を丸くした。その笑顔は、あまりにも無垢で幼い。

 旭は女の子に近寄っていって、少女と目線を合わせて尋ねた。

「ねぇ、こんなところで何してるの?」

 旭の優しい声に反応して、少女は嬉しそうに答える。

「ミカのこと?ミカはね、ここで遊んでたの!」

 小さなその手には、おままごとセットとテディベアが握られていた。そのテディベアからは、フードの男の『力』が視えて、旭は少し緊張した。

「そうなんだ。危ないよ、こんなところで。他には誰かいないの?お父さんとお母さんはどうしたの?」

 その質問に対しては少女・ミカは、表情を曇らせて目を伏せる。

「お父さんとお母さんはいないの。でも大丈夫!!これからお兄ちゃんとお姉ちゃんがたくさん遊んでくれるから!」

 顔を上げたミカは、無邪気に笑っていた。

 背筋にぞくりと嫌な感じが走って、旭はミカを抱えて飛び退いた。すると、先程までいたところの床が鋭く尖って隆起していた。

 思わずミカを庇ってしまったが、旭はしまった、と思って腕の中を確認する。その目には純粋な狂気が宿っていた。また背筋に嫌な予感が走って、急いで離れようとするが少し遅く、ミカの手にギラリと光る何かを認めて、顔を顰めた。

 が、すんでのところで首根っこを掴まれて、ミカから引き剥がされる。永坂は旭を抱えたまま、少女から距離をとった。

 刹那、バタンッと大きな音を立てて、2人の背後のドアが閉まる。退路を断たれて永坂は舌打ちをした。

「傷は。」

 彼の視線はミカから逸れない。旭が答える前に、2回目の攻撃が繰り出される。永坂は煩わしそうに蹴りで隆起を破壊して、旭をそっと下ろした。

「かすり傷です。」

 脇腹を押さえながら旭は答えた。痛みとともに、熱いものが流れ出るのを感じる。永坂はそれを見ながら銃を取り出した。

「油断するな。」

 永坂が旭に向かってそう告げた途端、彼の立っていた床が、彼を飲み込もうと口を広げる。どっちが、と舌打ちをして助けに入ろうとした旭は、グイッと予想外の方向に引っ張られる。なんと、旭の足元にも裂け目ができていたのだ。永坂が機転をきかせて、彼女を引っ張っていなければ危なかった。

 言ったそばから、となじるように永坂に見られて、旭は唇をギュッと引き締める。

「お兄ちゃんもお姉ちゃんもすごいね!」

 ミカはきゃっきゃっとはしゃぎながら、無邪気に2人に猛攻を仕掛ける。狭い室内の床だけでなく、壁からも隆起が飛んできて、旭は避けるので精一杯であった。たぶんミカの『異能』は、一室を好きに操ることなのだろう。ドアで退路を断ち、室内でおびき寄せた獲物を好きなだけ弄ぶ。しかも、隆起は壊しても壊しても床や壁に穴が開くことがなく、無限に湧いてくる。軽いとはいえ怪我をしている旭は、ミカに近づくよりも体力に限界が来そうだ、と顔を顰めた。

「おい。」

 そんなときに近くまで来ていた永坂が、旭に声をかける。旭が返す前に、永坂は振り返った彼女を抱えて、ミカの方向に投げた。室内なので、そこまで高さと距離はないが、状況が飲み込めないまま、空中に投げ出された旭は呆然とした。

「…あはは!!!それはなんていう遊び?」

 ミカは手を叩いて喜び、旭が落ちるであろう地点に『力』を集中させた。

「悪いが遊んでる暇はない。」

 え、とミカが振り向いたときにはもう遅く、彼女の頭は地面に押し付けられた。ミカは信じられないという顔で、自分を押さえつける男の方へ、視線を動かした。

「あなた、いつの間にこんな近くまで…?」

 永坂は答えなかった。

 ドサッと大きな音。旭は無事に落下した。地面に叩きつけられて、一瞬放心してしまうが、ミカを捕らえている永坂に文句を言おうと、起き上がったそのときだった。

「急に何す……ッ永坂さん!!!」

 ミカが最後の抵抗として、永坂に向かって全方向から攻撃を仕掛けたのだ。永坂は動かない。旭は不恰好に駆け出して、永坂に体当たりをして、彼をその中心から逃がす。背中を削られるような嫌な感触がして、そのまま旭は倒れ込んだ。

「ッ、いったぁ……。」

 たぶん掠った程度で済んだはずだが、それでも痛かった。旭が痛みを堪えて体を起こすと、驚いた顔で固まっている永坂と目が合った。

「何してるんですか。早く、あの女の子、捕まえなきゃ。」

 切れ切れに言うと、永坂はハッとしたように立ち上がってミカを取り押さえにかかった。彼は懐から黒い紐のようなものを取り出すと、それで少女の両手を縛る。縄をかける前はジタバタしていた少女だが、縛られるとしゅん、と大人しくなってしまった。

「誰に言われてここにいた?」

 責めるような口調ではなく、尋ねるような口調ではあったが、永坂のその語気には、怒りのようなものが滲んでいた。しばらくは、不貞腐れてたように黙っていたミカだが、永坂の圧に負けて口を開いた。

「……わかんない。お父さんとお母さんと遊んでたら、お兄ちゃんが来て、もっと楽しい場所につれていってくれるって。」

 お兄ちゃん、とは13のことだろうか。あのテディベアを持っていた以上、その人物が彼らに関係あることは確定であろう。やはり、2人はおびき出されたのだ。

「そのお兄ちゃんはどんなやつだった。黒い髪でこの辺にほくろがあって、青っぽい上着を着ていたか?それとも顔は見えなかったか?」

 あのとき、13は、灰のスラックスに、紺のジャケットを羽織っていた。そして顔には泣きぼくろがあった。同じ格好をしていたならば、ミカにも見覚えがあるだろう。

「…たぶん、そうだったかも。かみのけが黒かったのは合ってると思う。」 

 曖昧な答えであるが、13の姿自体が、あまり特徴のないものであったので、確信を持てる情報がないのだ。

「あのクマはそのお兄ちゃんがくれたのか?」

 永坂の問いにミカが頷いた。彼は、少女の傍に転がっていたテディベアを拾い上げると、細かく調べ始める。すると、その背中に何か裂け目があって、メモが挟まっていることに気づいた。書かれていたのは「11月3日 山瀬ビル」というシンプルなメモであった。それを見て、永坂は少しだけ目を伏せた。

「3日後。」

 永坂は呟いて、ミカをちらりと見やった。少女に先程のような元気はなく、拗ねたように頰を膨らませている。負けたのが悔しかったのだろう。黙って縛られたまま、もぞもぞとしていた。

 永坂はこれ以上聞くこともない、と旭の近くに戻ってきた。旭は、上体を起こして、傷の具合を確認していた。脇腹の血は既に止まっていて、背中も広範囲にわたっているが、そこまで深くはなさそうである。その様子を眺めながら、永坂はどこからか消毒液とガーゼを取り出すと、容赦なく傷の手当てをし始めた。傷に沁みる痛みに、旭が顔を顰める。

「お前、なんで俺を庇った。」

 旭は目を丸くした。基本的に淡々と話す彼の声に、怒りのようなものが、わかりやすく混ざっていたから。

「庇う必要はなかった。」

 脇腹に絆創膏を貼り終えて、彼は乱暴に旭のワイシャツを捲り上げた。白い背中から赤い血が染み出していて、見た目は非常に痛そうである。永坂は新しいガーゼに消毒液を染み込ませると、丁寧に拭いた。新たな痛みと消毒液の冷たさに旭が息を飲む。

「……相当考えなしの馬鹿のようだな。」

 散々な言われようである。旭はイラッとして、背後の永坂の方を睨んだ。

 文句の一つでも言ってやろうと思ったのに、ずっと仏頂面だったくせに、このときの永坂は顔を歪めていて、その表情に旭は言おうとしていた言葉を引っ込めて、目を伏せた。

「別に、結局そんなにひどい怪我をしたわけじゃないですし、確かに無意識のうちに庇ったので考えなしの行動でしたけど。」

 永坂は広いガーゼを傷の上に敷いて、包帯を巻きつけると彼女の服をただして、ビリビリの背中が見えないように、自分の上着をかけてやった。

「そもそも、敵側かもしれない人間が怪我をしたんだから、そこまで気に病むことないじゃないですか。」

 やっと彼の顔を真っ直ぐ見つめることができた。永坂はもう仏頂面に戻っていたが、旭の言葉に眉間に皺を刻む。

「気に病んではいない。ただ、誰であろうと自分を庇って怪我をされるのは不愉快なだけだ。」

 子供のような言い訳をして、永坂はそっぽを向いた。彼と出会って初めて、その感情の一欠片を覗けた気がして、旭は少しだけ胸の奥が温まるのを感じた。

 もう一度永坂が、旭の顔を見たとき、彼女は緩んだ顔をしていて、永坂は呆れたように何笑ってんだ、とため息をついた。

「…お前を疑っているのが馬鹿らしくなってきた。」

 そう言い捨てて立ち上がると、永坂はミカを抱えてドアの方へ向かった。旭も慌てて立ち上がると、彼の背を追っていく。

 昼の光がキラキラと部屋を暖かく照らし、そこは元の静寂に包まれた。



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