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前編

 その日、公爵令嬢のアリシアは失恋した。


「あんまりだわ、ひどいわ」


 自室のドアが閉められた瞬間から、まるで堰を切ったようにアリシアの目から涙があふれた。彼女の青い瞳はその輪郭をにじませ、白いなめらかな肌にはらはらと透明な涙の筋が描かれる。

 こうなることは予想していたのだろう。傍らに立つ執事のヒューゴが、静かにハンカチを差し出した。それを目に押し当てながら、アリシアは声を絞り出した。


「まさか、あの女を選ぶなんて……!!」


 信じられないと呟く声は、彼女自身ぞっとするほどに低かった。

 なぜならアリシアが恋い焦がれていた公爵家嫡男は、彼女が一番嫌いな女を心に決めたというのだ。地位でも美貌でも、アリシアは負けてはいないのに。


(あんな、見栄がドレスを着て歩いているような低俗な女を……! 私の方が彼にはふさわしいのに。二人きりで茶会を抜け出して、めくるめく時間を過ごしたことだってあったのに──!)


 アリシアが思うに、彼が自分を見つめる瞳には、好意以上の色めきがあったはずだ。親密な空気の中でささやかれた言葉は、どんな砂糖菓子よりも甘かったのだから。

 けれど十六歳にして初めて開いた恋の花は、早々に朽ちることとなってしまった。


「どうして……どうしてなの……」


 当然のように自分が選ばれると思っていた。

 その自信が砕かれて、彼女の身に突き刺さる。その傷はアリシアの心を深くえぐり、悲しみが押し寄せて彼女自身を飲み込もうとしていた。


「──お嬢様、ひとまずソファにお座りになってはいかがですか? 今お茶をお持ちしますから」


 部屋に入った状態のまま泣き続けるアリシアに、優しく寄り添うようなヒューゴの柔らかい声がかかる。あふれる涙はそのままだったけれど、アリシアは小さくうなずいて、ヒューゴの促されるままソファに腰をおろした。柔らかく体が沈み、できることならばこのまま吸い込まれてしまいたいと彼女は思う。

 

 力なく横たわって泣き続けるアリシアに「──お可哀想なお嬢様。すぐに心が落ち着くハーブティーをご用意いたします」と告げて、ヒューゴが立ち去る足音がした。


(お茶なんかで、心が落ち着くわけないわ。──この引き裂かれるような悲しみは、時間でだって解決するかはわからない……)


 彼のことをそこまで好きだったと自覚はなかった。けれどそれは好かれているという奢りからくるものだったのだ。

 失われて初めて、その存在の大きさと深さに驚愕する。

 まるで物語の主人公のように、わかりやすい形でアリシアは絶望していた。



 失恋の日から数えて十日たっても、アリシアの涙は枯れることはなかった。

 彼を思えば条件反射のように涙があふれ、ひとたびその悲しみに身が包まれれば、彼女の世界は色を失った。


 結果、アリシアは日々の務めもほとんどこなせないまま、自室でふさぎこんでいた。


「……お嬢様、ライオ様がお見えです」


 その日、アリシアの五つ上の兄ライオが訪ねてきた。彼は普段、国直属の騎士として王宮へと出向している。実はアリシアの失恋の事実を知らせてきたのも、彼からの手紙によるものだった。自分の伝えたことが妹を苦しませていることを知り、急ぎ早馬で会いにきたのだ。


「アリシア……こんなにやせてしまって……!」


 アリシアと同じ金色の髪が、ライオの伏せた目を覆う。さらりと揺れる様は窓からの光によってきらめいた。

 この十日の間に、定位置となったソファに力なく腰掛けたアリシアは、ライオの凛々しい顔が悲しみに歪むさまを見て、自分も唇を震わせた。


「お兄様……心配かけてごめんなさい」

「私の力がおよばず、申し訳ありません」


 十日間、ひたすらにアリシアの涙に付き合い続けたヒューゴの声音も弱々しい。

 疲労からか同情からかはわからなかったが、彼もアリシアの恋を応援してくれていただけに、沈痛な面持ちだ。

 ライオはアリシアとヒューゴの顔を見比べてから「──二人とも、顔がやつれている。食事はとれているのか?」と眉をひそめた。


 その質問に、ヒューゴは力なく首を横に振り、アリシアはうっすらと微笑みを浮かべた。


「……失恋ってとてつもなく悲しいのね。こんなにつらいのならば、私、感情など持たない人形になりたいわ」


 何を食べても、味がしない。何を見ても、色がない。必要ない、とさえ思ってしまう。

 だったら、人形になって全てを失ってしまいたい。アリシアにとって、彼との思い出だけが彩りを与えるのも、悲しさがつのるだけだった。

 

「──お嬢様」

「ばかなことを言うんじゃないよ」


 とがめるようなヒューゴの声にかぶせるように、ライオが厳しい声で彼女をいさめた。怒っているというより焦りをにじませたような雰囲気をいなすように、逆にアリシアは時間をかけて口角を上げた。


「もちろん冗談よ。でもこの悲しみの深さに、息ができなくなりそうなのは確かなの」

 

 今までならば、彼を思い出せば胸に大輪の花が開いた。けれどもうその花はしおれ、アリシアの足元で腐敗している。日がたつにつれそれは増え続け、アリシア自身もこのまま悲しみの花とともに、ゆるやかに朽ちていくのかもしれない。


(それならばそれで良いわ……)


 ひっそりとそんなことを考えていると「……お嬢様のそのようなお姿、私も心が痛みます。よろしければ、おまじないをかけてさしあげましょうか?」とヒューゴがおずおずと言った。

 アリシアはきょとんとヒューゴの鳶色の瞳を見つめた。ライオはアリシアよりは幾分か警戒をその瞳にのせて、ヒューゴの次の言葉を待つ。


(おまじない? ヒューゴはそんなロマンチックな性格じゃないと思っていたけれど……)


 ヒューゴという執事は、いつも冷静で現実を見るタイプだと思っていた。アリシアが傷つけばいつも優しく慰めてくれるが、おまじないなんて気休めを言われたことは一度もない。


 ヒューゴはそれ以上の説明はせずに「まずは用意してまいります」と一度部屋から退出した。


「どういう風の吹きまわしかしら……」


 アリシアとライオが珍しいこともあるものだと話している間に、ヒューゴは戻ってきた。ワゴンに茶器一式をのせている。白磁と青磁のティーポットと、それと対になるカップが一つ。そしてカップケーキなどの焼き菓子が山のように用意されている。


 ヒューゴは微笑み、青磁のティーポットを手にした。


「これは少し不思議なお茶なんです。このお茶を飲むときに、喜怒哀楽の中でいらない感情を思い浮かべてみてください。少しそれが抑えられます」


 そう説明しながら注がれたお茶は、琥珀色をしていて、香りも甘い花のよう。普段飲む紅茶と何も変わりがないように見えた。

 けれどアリシアはヒューゴの言う通り、そのティーカップに口をつける時に「──できることならば、この悲しみを消したいわ」と呟いた。

 

 お茶は上品な甘さが感じられる味だった。有り体に言えば、とても美味しかった。

 優しく喉元をすぎて、胸の内があたたかくなる。そうして自分の内側に巣食う胸の痛みがみるみる間に浄化されていく。それがはっきりと実感できて、アリシアは目を見開いた。


「これは……何か魔法がかかっているの?」


 内側から何かが塗り替えられていくような、不思議な奔流が自分の内側で起こっている。もしかしておまじないというのは、魔法のことなのかもしれない。ヒューゴの知り合いに魔導師がいるという話は聞いたことがないけれど、ただお茶を飲んだだけの感覚ではなかった。


「何だって」

 

 ライオが剣呑な雰囲気をまとい、ヒューゴを問い詰めようとする。それをアリシアは「待って」と止めて、ほうとため息をついた。


「……なんだか気が楽になったみたい。今までは彼を思い出すと涙がこぼれていたのに、今は平気よ」

「ふふふ……魔法ほど強い力はありませんが、よくきくおまじないなんです」


 ヒューゴは、どこか不安そうな表情をしているライオに「さあ、ライオ様にはこちらの普通のお茶をいれますね」と微笑みかけた。



 ◆


 それから数日後。

 再び王都へと戻るライオを見送ったアリシアは、自室へと戻る道すがらヒューゴに「またあのお茶を飲みたいわ」とそっと告げた。


 アリシアの半歩後ろを歩いていたヒューゴは、彼女が足を止めたのと同時に同じことをした。そのまま姿勢を正すと、少しの間をはさんだのちに「……あのおまじないのお茶でございましょうか」とたずねる。それにアリシアは少々頬を染めて、うなずいた。


「あのね……彼のことを考えて悲しくて泣くことはもうないのだけれど、代わりにどんどん怒りがわいてくるの。あんなに仲良くしていたのにどうしてって。ずっと私を騙していたのね、許せないって。……それがとても、苦しいの」


 彼の顔を思い浮かべても、もう悲しみの涙は出ない。けれど怒りにとらわれて、結局のところアリシアは苦しかった。

 せっかく涙が枯れはてたというのに、それを燃やしてあまりある炎がアリシアの中では揺れている。火の粉が舞い上がり、自分そのものも炎になってしまったようだった。

 胸を抑えてみせると、ヒューゴはいたわるような眼差しで小さくうなずく。


「承知いたしました」


 そうして再びアリシアの目の前には、琥珀色のお茶が用意された。

 あの時と同じ、甘く、ほっとする香り。

 十分な時間をかけて、それを味わったあと、アリシアはヒューゴに微笑んだ。


「あぁ……心がとっても軽いわ。ありがとう、ヒューゴ」


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