王妃の盤面
「終わりましたか」
庭の端から、屍鳥がひょいと顔を出した。
「ああ、帰らせたよ」
「分かりました。私は何も見なかったことにすればいいんでしょう」
「その通り」
「朝から玄関先で、何をやっているのですか」
ハイタッチをかわすアレクたちの上から、無慈悲な声が降り注ぐ。アレクがおそるおそる頭を上げると、顔をしかめた母がいた。
まさに間一髪。しかし、まだ油断は出来ない。
「母上、お早いお目覚めですね……」
日は昇りきっていない。こんな時に母が起き出すことなど滅多にない。ということは何か、急な一報が入った可能性がある。
「隣のリリアーヌ妃が、とんでもないことをやらかしました」
「今度は叔父でも閨に入れましたかな」
アレクが軽口をたたく。すると、母が怒鳴った。
「王の自決権を主張し、摂政を廃止。さらに、王が体調不良の場合、一切の決定権は妃へと移行する、と決めたそうです」
魔法を使った疲れも忘れて、アレクは立ち上がった。
「母上、それでは……」
「あの忌々しい女は、王が伏せれば王宮の全てを掌握することができます。誰に断ることもなくね」
母は隠しもせず、盛大な舌打ちをした。
「しかし、どうしてそんな事態になったのですか。摂政の叔父たちから、文句が出ないはずがない。打てる手を全て使って阻止しようとしてくるはずでしょう」
アレクは反論する。すると母は、妃がとった手段をあからさまに話し始めた。
「昨日遅く、摂政たちの領地内に、な・ぜ・か、同時に、賊が攻めてきました。数百はいたようです」
領主にとって、自らの領地は生命線である。叔父たちも放置するわけにはいかず、参内を待ってもらっていた。王妃はその隙を見逃さず、王宮に他の親族や高級官僚を集めた。そこで、摂政は不要であるという共同決議を通してしまったという。
アレクは内心、舌をまいた。自分よりはるか年上の王族相手に、やりたい放題である。
「おそらく、ファビアン……王弟が相当後押ししたのでしょうね。二人の仲は一目見れば明らかだった」
アレクは鼻を鳴らした。
「しかし、王の座を狙うとなれば危険もあるでしょう。黙っていれば王族としての地位が約束されているのに、よく踏み切ったものだ」
「大方、『お兄様よりあなたの方がよっぽど王にふさわしいわ』とでも吹き込まれたんでしょう」
母が憎々しげに宙をにらむ。
「……これでますます、隣国が政情不安定になりますね」
アレクはため息をつくしかなかった。手前に隣国があるおかげで、母国は大国からの侵略をいの一番に受けることがなかった。いわば、緩衝地帯だったのだ。そこが『落ちそうだ』となれば、早速動きそうな国がいくつも思い浮かぶ。どいつもこいつも、欲が深い。
「何を呑気なことを。もう一度、隣国へ行って様子を見てきなさい」
「しかし、この前行ったところですよ」
「理屈なんてひねり出すものです。王の政治復帰を祝って、とかなんとでも言えるでしょう。とにかく、あの女の思惑ははっきりしました。後は、王がどんな状態か探ってらっしゃい。いいですね」
肯定以外の返事など許さぬ、という意思をみなぎらせて、母が言い放つ。哀れな息子は、全面降伏するしかなかった。
(やっぱり実家は嫌いだ……)
心の中で悪態をつきながら、アレクはその辺に生えている芝を踏みにじった。
☆☆☆
今度はどうしてもというので、クラーラをつれていくことになった。通された待合室で、彼女は妙にはしゃいでいる。この前アレクに話を聞いてから、噂の王妃を見たくて仕方なかったようだ。
(今回は王妃目当てじゃないし、無駄に疲労させることもないと思ったんだが)
これから起こることの予想がついているアレクは、ただため息を漏らす。
「面会の準備が整いましたので、どうぞ」
召使いに促されて、ふたりは王宮の本殿へ足を踏み入れる。妃の私室に案内され、またそこで待つように言われた。
「ずいぶんもったいぶりますねえ」
クラーラがぼやきながら、天井のシャンデリアを見つめる。特にすることもないので、アレクも彼女にならって部屋の様子を観察した。壁、床、椅子、卓に至るまで、ほとんどが緋色で統一されている。その上に、竪琴の紋章がびっしり金で刻印してあった。
(……さて、王はどんな様子だろうか)
よっぽどの聖人でない限り、自分の嫁と弟がいちゃついていていい気はしまい。後は、それをうまく引き出して、こちらに有利なように話を持っていければいいのだが……。
「こんにちは」
忘れようもない甘い声が、また聞こえてきた。警戒心で、自然とアレクの背が伸びる。
リリアーヌ妃が、後ろに男たちを従えて立っていた。その中には、しっかりファビアンもいる。
アレクの視線を確認してから、妃はかわいらしく膝を曲げて礼をする。本日の彼女は、花細工がたくさんついた、白のドレス姿だった。
「こちらこそ、急な申し出を受けて下さり感謝しております」
「お隣なんですもの。それにね、私はちっとも大変じゃないわ。みんなが助けてくれる」
妃が少し首をかしげる度に、後ろに控えている男たちがうっとりした顔になる。彼らの身なりは整えられている。召使いではなく、貴族の子弟だろう。学はあるだろうに、こうもあっさり転がされるとは。
クラーラの方をちらっと見てみると、今にも噛みつきそうな顔をしている。一瞬で敵と認識したようだ。
「それに、今来て下さってよかったのよ」
クラーラの敵意などものともせずに、リリアーヌは華やかな笑みを浮かべた。
「どういう意味でしょうか?」
王が自ら政治を行うようになった、節目の時期だからか。アレクが問うと、リリアーヌは首を横に振った。
「それももちろん良いのだけど……おめでたいことは、それだけではなくなったのよ」
リリアーヌは上目遣いでアレクを見た。かわいらしい姿態を見ているはずなのに、アレクに寒気が走る。
「実はね、私のかわいい義弟の結婚が決まったの。式も近日行われます」
「え」
「あら、何か思うところがおあり?」
「い、いえ。おめでたいことばかりで、うらやましい限りです」
冗談じゃないぞ。そつのない答えを返しつつ、アレクは心の中でそうつぶやいていた。
王弟ファビアンとの不倫を核にして王妃を追求しようとしていたのに、その片割れがさっさと結婚してしまっては、逃げ道ができてしまう。
「へえ……おめでとうございます。お二人はどこで出会われたんですか」
ようやくここに来た目的を思い出したクラーラが、リリアーヌに向かって話しかける。すると、ファビアンが答えた。
「王妃さまの遠縁にあたられるご令嬢です。美しい上に気立てがよく、こんな年までうろうろしていた男にはもったいないような人ですよ」
「いいなあ……うちの親なんか口ばっかりで、誰も連れてこない」
自分の世界に浸かってしまったのは問題だが、クラーラはとてもいい質問をしてくれた。
ファビアンの妻は、リリアーヌと関係がある。ということは、意図があって割り当てられた嫁ではないのか?
(そろそろ宮廷内でも、妃と王弟の関係を咎める声があがってきている。大きな炎になる前に消したか)
部屋の中で、笑い声をあげる王妃。その手腕は、どこまでも抜かりがなかった。
(貴族連中にも彼女が手を出しているとなると、正面切って止められるのは王しかいないが……)
アレクがそう思った時、部屋の扉が開く音がした。