落とし穴の深さは十分か?
「ああ、貴君をバカにしたわけではないでござる。確かにやり方はまずかったが、それは次回に生かせばよし。それより、我が主があまりにも予想した通りのことをなされたな、と思っただけ」
ニコラウスは柱にもたれながら言った。エステルは聞く。
「予想?」
「口では冷たいことを言いつつも、現場に出てしまうと、不要なまでに情をかけなさる」
さっきの出来事を思い出して、エステルはうなずいた。
「母君も、本当は世継ぎがないことよりも、そちらを気にして口うるさく言うのではないかと我が輩は読んでいるのでござる。大事な息子が、いつか寝首をかかれるのではないか、とご心配なのだ」
エステルの胸がちくりと痛んだ。自分の両親は、すでに亡い。うらやましさがわいてくるのを何とかこらえ、エステルは話に集中した。
「それなら部下として、止めようとは思わないの?」
「なぜそんなことをしなければならんのでござるか。母上様も、この点に関しては無駄に気を使っておられる」
バカにしたように、ニコラウスは肩をすくめてみせた。
「だって、主が損をするかもしれないじゃない」
「確かに、短期的に見れば。しかし、部下たちの中には、あのご性分でなければ引っ張りこめなかった者も多い」
エステルはうなずいた。小さな損をしたとしても、優秀な部下を抱えていられるのであれば、利益の方が大きくなるかもしれない。
「でも」
そこまで考えて、エステルは口ごもった。今回の件は、決して小さいとはいえない。一体どうやって、この失点を取り返すのか。すると、エステルの内心を見透かしたかのように、ニコラウスが言った。
「そういう時のために、我が輩がいるのでござる」
彼は表情を崩さないまま、服から小瓶を取り出した。いぶかるエステルの目の前でそれを振ってみせる。
(まさか、毒!?)
エステルが問いただそうとしたその時。急に背後から、強い力ではがい締めにされる。
「エステル〜、やっと見つけたぞー」
「いっしょに飲みましょーよー」
「ソイル、ミラージュっ。まだ飲んでたの!?」
完全に暴君と化した仲間二人が、エステルの体をがっちり捕まえている。振り払おうとしても、理性が吹っ飛んだ酔っぱらいたちには通じない。その様子をおもしろそうに眺めた後、ニコラウスは曲がり角の先へ姿を消した。
「ちょっと待って、何するつもり!? それに、ボクからもまだ大事な話が……」
エステルは必死に曲がり角に向かって叫んだ。しかし、ニコラウスが姿を現すことは二度となかった。
☆☆☆
「あの野郎、人をバカにしやがって」
なんとか会場を抜け出してきたが、それでもファビアンの怒りはおさまらなかった。
(このところ、気を抜いて遊びすぎたのが悪かったか……いや、元はといえば、全てあの女のせいだ)
ファビアンは心の中で、思うままにリリアーヌをののしった。はじめは本当に愛らしく思えたものの、彼女は肉付きがうすく、折れそうなほど細くて抱きがいがない。本当のファビアンの好みは、もっと豊満で艶があるタイプなのだ。
(くそ、どこかで女を捜してみるか。他の館で宴をやっていないか、調べさせて……)
ファビアンが車の中で腕組みをしていると、急に車が動き出した。御者が必死になって、魔犬をなだめている声が耳に届く。しかし、車の速度は上がる一方だった。
「なにをやっている。止められなければ、明日から貴様に居場所はないぞ」
苛ついたファビアンは、御者に向かって叫ぶ。すると、唐突に車が止まった。上半身を斜めにしていたファビアンは、車の壁にしたたかに頭をぶつけ、うめく。
(許せん)
御者に目にもの見せてやろうと、車から降りた。そこで、ファビアンは目の前に車が止まっていることに気づく。
車を引いている魔犬同士が鼻面をくっつけあって、しきりににおいをかいでいた。これは、彼らの求愛行動である。高価な動物のため、御者たちも制止していいか迷っていた。
(なんだ、くだらん。犬同士の惚れ合いが原因か)
眉をひそめながら、アレクは目の前の車をもう一度眺めてみた。濃い茶色に金細工が満遍なくちりばめられ、花の形の紋章が入っている。金のある貴族のものに間違いなさそうだ。
車の扉がわずかに開き、主が顔を出す。その瞬間、ファビアンの心臓は激しく高鳴った。見えたのは、抜けるような白い肌と、品良く結い上げた黒髪が印象的な美女。しかも、彼女は胸元が大きくあいたドレスを着ている。はっきり浮かび上がった鎖骨と、胸元の谷間にファビアンの目が吸い寄せられた。
「うちの犬が大変失礼しました」
ファビアンが言うと、彼女はこちらをうかがう。ゆっくり相手の口元がつり上がった。
「立ち話もなんですし、少しこちらでお話なさいませんこと?」
ファビアンに否やがあろうはずもない。花に吸い寄せられる蜂のごとく、まっすぐ美女に飛び込んでいった。
☆☆☆
細かい円形模様が刻まれた板張りの壁と、ブロンズの床。粗末とは言えないが、今までいた王宮の華やかさとは比べものにならない。革張りの椅子に腰掛けながら、リリアーヌは一人苛々しつつ爪をかんでいた。
苛立ちの原因は、部屋だけではない。ファビアンが、ちっとも帰ってこないのである。
(女遊びを知らないとでも思っているのかしら。人が困っているというのに、足元を見て)
初めは夫より好ましい相手だと判断したが、よく見ればそう大した男でもない。気前がいいのは、自分が好調な時だけ。その上飽きっぽく、必要なことでもリリアーヌが言わないとやらない。子供のようなさまも最初は可愛く思えていたが、今では足手まといにしか感じられなかった。
(さっさと始末してやりたいところなのだけど……あの男がうんと言わなければ、金も人も動かないのよねえ)
あくまで旗印になっているのは、リリアーヌでなくファビアン。さすがに彼の首を切るには、代わりの人材を見つけてからでないとダメだ。
(最有力候補は、王の叔父のどちらかだけど)
しかし、あれだけ派手にやりあった相手に、今更会ってくれとも言いにくい。
(何かきっかけがありさえすれば、入りこんでみせるのに)
リリアーヌが身分に似合わぬ仕草で膝を揺すっていると、扉が叩かれた。給仕の男が、茶菓子と茶器を乗せた台車を押して、入室してくる。湯気のたつ茶がカップに注がれるのを見ながら、リリアーヌは吐き捨てた。
「どう? あっちに動きはあったの」
面のような顔をした給仕は、うなずいた。彼は普通の使用人と違って、間者の仕事も担当している。
「女遊びは相変わらずです。間違って男にまで声をかけたと評判ですよ」
「ふん、盛りのついた犬が」
リリアーヌは舌打ちをした。
「……しかし、その遊び相手の中に、面白い女が混じっていました」
こちらを見もせず、クロスを広げながら給仕が言う。リリアーヌは彼の背中を見つめた。――この男は、何でも無いという感じで報告する時ほど、大きな情報をつかんでいる。
「その女について話しなさい。知っていること、全てよ」
給仕はうなずき、言葉を重ねた。彼の言葉が飲み込めてくるにつれ、リリアーヌの両手が紅潮してくる。
(これは、二度と無い好機だわ。あの男が、自分から墓穴に飛び込んでくれた)
リリアーヌははやる心を抑え、出来るだけ普段と変わらない声を出した。
「手紙を書くわ。そこの封筒を二つ、ちょうだい」