凪いだ海でもいつかは荒れる
「陛下、お顔の色がすぐれません。遠出がご負担になられたのでは?」
「いや、今はもうだいぶいいんだよ。ははは」
はははじゃないわよ。あんたがトチ狂ってくれないと、計画全てが台無しになるじゃないの。叫びたいのをこらえて、リリアーヌは曖昧に笑った。
「アレクサンダー様がだいぶ骨折ってくださってね」
「たまたまこの症状に詳しい錬金術師がおりまして。早期に治療を開始できたのは幸いでした」
リリアーヌが苛立っている間に、男たちは席につき、勝手に談笑し始めた。
「……しかし、そのような症状が出たということは、ご負担が過ぎるということでしょう」
このままいけば、退位の話は最初からなかったことにされてしまう。そうはさせるか、とリリアーヌは食い下がった。
「誰かしかるべき方に、お仕事の一部だけでも肩代わりしていただくわけには参りませんか。妻として、陛下のお体が心配でたまりません」
リリアーヌはいつでも自在に涙がたまる体質である。上目遣いと合わせて使うと、面白いくらいトルテュには効く。今度はアレクサンダーに向かって、媚びを送ってみた。しかし、彼は涼しい顔のままである。
「王妃様のご心配はもっともですが、王権は唯一にして絶対のもの。割ってしまえば、国内に余計な争いの種をまくことになりましょう」
「そんな。あくまで一時的なものですわ。ひどい」
アレクサンダーは自分に楯突く姿勢を崩さない。ならば、とリリアーヌはわざと子供っぽくすねてみせた。周りの男たちから見てみれば、これでリリアーヌの方が『かわいそうな被害者』になる作戦だった。
アレクサンダーがこちらをにらむ。それから、「あなたはどう思います?」と言いたげに叔父たちの方を見た。
「アレクサンダー様のおっしゃることが正しい」
「私も賛成です」
叔父たちは、ここぞとばかりにアレクの主張に飛びついた。リリアーヌの作戦も、今回は通用しないようだ。
(……前回の腹いせね)
自分ではなにもしないくせに、後ろ盾を得た途端いきりたつ叔父たち。リリアーヌは彼らを、苦々しい思いで見つめた。今の状況では、この二人が自分につくことはありえない。見くびりすぎたツケがきた。引き時だ。
「しかし兄上……」
「いいの、ファビアン様。個人的な判断で、勝手なことを申しました。馬鹿な女のすることと、笑ってやってくださいませ」
腸が煮えくりかえる思いで、リリアーヌは場を鎮めにかかった。今はどう考えても分が悪い。ここは退いて、新たな対決のために力をとっておくべきだ。リリアーヌはファビアンに目配せをした。
「いやいや、そこまでのことではありませんよ。このように仲の良いご夫婦ならば、貴国は安泰ですね」
「そうですとも。我らもお支えいたします」
「至らぬ身ですがね。はっはっは」
笑えと言ったのはリリアーヌだが、それを真に受けられると腹が立つ。しかし今の自分には、彼らに対抗する手段がない。
(いつかきっと、お前らに思い知らせてやるわ)
せっせと男たちの相手をしながら、リリアーヌは固く誓った。
☆☆☆
アレクが帰ってくると、部下が出迎えにやってきた。アレクは格好をつけたくなって、胸を張る。
「結果を聞きたいか?」
「そうしたいのは山々でござるが」
「母上様から……」
「アレク様が帰ってきたら、すぐ会いに来いとお達しが出てるの」
アレクの盛り上がった気持ちは、一瞬にしてしぼんだ。
「まあまあ、アレク様。そんなまな板の上の魚みたいな目をしなくても」
死んだような目になっていたか。
それでも渋っていると、レオンがアレクをつまみ上げた。そのままなすすべ無く、広間の前まで運ばれる。流石にここまでくると、アレクも腹をくくった。広間の大扉をくぐると、すでに母は使い魔の上でグラスを傾けていた。
「飛龍種でござる」
ニコラウスがつぶやいた。アレクが答える。
「ああ、母上の使い魔だ。名前はヴィント。……滅多に見ないだろう」
大きな翼と無限ともいえる体力を持ち、『空の王』と呼ばれる龍。使い魔になるどころか目撃すら希な生き物だが、何故か母はこの龍をこき使っている。過去に因縁があるのは確実なのだが、未だに正面切って聞いたことはない。
「母上、なぜヴィントを?」
「ことが起これば必要でしょう。報告をなさい」
ぴしりと言われて、アレクの口から出かけた言葉は速やかに引っ込んだ。それからしばらく、アレクは事実を淡々と述べるだけの自動人形と化す。
「……というわけです」
長い報告がやっと終わると、母がグラスをくゆらせた。
「事実関係はとてもよく分かりました。それでは、あなたは今後王妃はどう出てくると思いますか?」
きた。ここからが怖いのだ。自分を落ち着かせるために、アレクは大きく息を吸う。
「計画を完全に諦めて、王と添う……これが最も危険の少ない方法ですが、彼女はまず選ばないでしょう」
あの王妃、華がない王に我慢できる性根ではない。万が一そう思ったとしても、自分が王になる気でいるファビアンが絶対に納得しないだろう。
「そうなると、今度はもっと確実な方法で王の命を取りに来ると考えられます」
剣か、弓か、それとも魔法か。具体的な方法は分からないが、今度は遠回しな手は使うまい。
「事故を装うくらいのことはするでしょうが」
「大体私と同じ意見ですね。安心しました」
母が笑みを浮かべる。息子は、全ての荷を下ろした気持ちになった。
「危険は増していますが、これをうまくしのげれば吉報となります」
母の言葉に、アレクはうなずいた。荒っぽい手段で狙われれば、流石にあの王でも妻の企みに気付くだろう。そこでファビアンとの関係をバラせば、向こうが勝手に内部分裂してくれる可能性がある。
「ことが起こり、かつ王が死なないのが理想ですね」
「そこの錬金術師」
急に母がニコラウスを指名した。彼がきゅっと体を細め、縦に長くなる。
「なんでござるかっ」
「毒はまだ、王の体を蝕んでいますか?」
「完全に抜けてはおりません。そのため、正気と狂気の間を行ったり来たりしているでござる。しかし、薬さえ飲んでいればすぐに死ぬようなことはないのでっ」
「よくわかりました。しかし、そんな悲痛な声で報告しなくてもよろしい」
「はいッ」
母がいなければ、普通に喋るのだが。後でニコラウスに、何かおごってやろう。そう重いながら、アレクは口を開いた。
「それなら近いうちに動くでしょう。ヴィントに見張りをさせます」
「間者では不足ですか?」
「王宮の外の監視です。龍族なら、下の様子もよく見えますから。動きがあればすぐに報告します。有事の場合は、アレクだけで無くあなたたちにも働いてもらいますよ」
「はいいっ」
「かしこまりましたっ」
急に話を振られたクラーラとレオンが、錐のようにぴんと背筋を伸ばして返事をする。それを見た母が、ため息をついた。
「……アレクサンダー。貴方の部下はどうしてこう、揃いも揃って変な声なのですか」
「恐れながら母上のせいです」
アレクは反射的に答えていた。




