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紫色の髪が視界の中で僅かに揺れる。
少女の横顔は痛みに歪んでいたが、目だけはしっかり開いていて、目の前の男をじっと見つめていた。そこに、どうしようもなく強い意志を感じて戸惑う。
「……お前……は……」
「んっ……」
少女の左手に、ギリ……と更に力がこもったのを見た。
一瞬の出来事だったのか、それとも何十秒にもわたる攻防戦だったのか、俺には分からなかった。ただ、今拙い状況にあることは確かだ。すぐに触れた少女の腕は、夏にもかかわらず凍るように冷たかった。
「錆っ、やめ……」
少女の制止する声。しかし、一度ついた炎はそんな簡単に消えてくれやしない。
次の瞬間、男が悲鳴を上げてナイフを放す。少女は男の腕を取り、護身術的な何かで地面に落とした。まるで僅かに吹いた風が男の足下をすくい上げたようだった。ほんの一瞬の出来事。すぐに周りの人たちが駆け寄ってきて、みんなで押さえ込む。
パトカーと救急車の音が近づいてくるのを感じながら、襲ってくる貧血に身を委ねそうになる。腹を見ると、痛みこそないがひどい出血をしていた。もしかして、危険? 意識が遠くなる。倒れそうになるのを、誰かが柔らかく包み……胸ぐらを掴まれた。頬を軽く叩かれ、意識が戻ってくる。
重い瞼を開けて今の状況を確認した。倒れそうになった俺の胸ぐらを掴んでいたのは、今し方助けてくれた少女だった。しかし、そこに慈愛の感情は一ミリたりとも見つけることができない。
長い前髪から覗く目はつり上がり、眉間に深い皺が寄っていた。口元は怒りで歪み、頬は林檎のように赤くなっている。そんな、鬼のような形相で彼女は低く掠れた声で言った。
「……あんまり調子に乗るなよ。殺すぞ、クソガキ」
その声にぞくりとしたものが背筋を駆け抜ける。視界の隅に血まみれの手が映り、言葉では言い表せないほどの覚悟を思い知らされた。俺は守られたのだ。声がでなかった。
そのまま俺を地面に転がして、少女は踵を返した。
何か言う前に、人が集まってきて少女の背中が見えなくなる。指先から伝う血が地面に残った。そして憂いを帯びた低い怒鳴り声が最後まで耳に残って……。
「君、大丈夫か!!」
救急隊員の人に担ぎ上げられ、救急車の中に運ばれていく。
「あの……女の子が……手を、怪我してて……」
「大丈夫、他が当たるから」
そ……そっか……。
あの怪我だって、決して浅くはないはずだ。
女の子の手に傷が残ったら大変だし……それに……。
(左手……怪我したら……弦に触れねえだろ……)
(パン……ジ……)
再び薄れゆく意識の中で、なぜかぼんやりと、少女が口元を楽譜で隠し笑いを堪える様子が思い出された。
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7月14日
学校の向かい側にあるアパート。その屋上から、錆が教室でテストを受ける様子をこっそり見守っている者達があった。彼らは毎日朝から双眼鏡で錆を追い、錆の鞄の底に忍ばせている盗聴器からもたらされる情報に右往左往していた。
今日も今日とて例外ではない。
「ちょっとパンジー! 錆ったら答案用紙に名前書き忘れてるんだけど!」
双眼鏡を熱心に覗き込んでいたアーマス・ガーネットは、問題を一通り解き終わってもまだ名前を書いていない錆に気づき、声を上げた。
「は……?」
アーマスの言葉に反応したのは、赤髪の派手な彼とは正反対に、地味で気配のない少女だった。名前はパンジー・リヴェレータ。黒いTシャツにカーキ色のズボンという、若いおなごにしては渋すぎる色で全身を包んでいる。彼女は、錆がまたうっかりしていると聞き、彼がテストを受ける教室を睨んだ。
「……相変わらず、神経質なくせにうっかりしてるよね」
「さてと、うちの魔王様はどうするおつもりかな……?」
アーマスのやや面白がる声が、晴天に響いた。
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