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「はは……はははははは!」
彼の後ろで、血を流して倒れている人がいる。通り魔だ……。瞬間、自分がとんでもない現場に居合わせてしまったことに気づく。
周りの人間は皆後ずさり、出来るだけ遠くへ逃げようとした。俺も、決して近い場所にいるわけではなかった。だから逃げようと思えば、逃げられた。多分、普段の俺なら逃げていたと思う。でも今は、時折訪れる自暴自棄モードに入ってしまっているわけで。
……どうせ生きていたって……なんて、考えてしまった。
俺の母親は、俺が生まれてきた時に死んだ。俺が生まれる前に胎盤がはがれる事態になり、病院に運び込まれたときは既に母子ともに危険な状態だったという。
母は有名なヴァイオリニストだったらしく、残された父は、俺が母の跡を継ぐのをひどく期待していた。幼い頃から音楽の道を強要され、幼稚園、小学校と、友達と外で遊んだ記憶が皆無に近いくらいだった。突然最愛の妻を失った父は、俺をプロのヴァイオリニストにすることだけを生きる意味にしていたのだと思う。そして、当時の俺は父親の期待を上回るほどの上達っぷりだった。
しかし、俺が小学校高学年に上がった頃、父の再婚が決まり、生活が一変した。義母は俺のことを「暗い」と言って目の敵にし、父の知らないところで苛め抜いた。ヴァイオリンを練習していると「うるさい」とキィキィ怒鳴り、ピアノの横に飾っていた母の写真を俺の目の前で床に叩きつけた。
もちろん、父はそんなことつゆ知らず、俺がヴァイオリンを毎日しっかり練習しているものだと思い込んでいるものだから、段々下がっていく腕に苛々を募らせた。「義母にうるさいと言われた」と訴えると「できないのを他人のせいにするな」と殴られた。
中学校に上がった頃からヴァイオリンを外で練習するようになった。放課後、足音を立てぬよう部屋に戻り、楽器を回収してこっそり出て行く。そして日が落ちるまで外で練習し、ちょうど義母と父の夕飯が終わった頃合いに家に帰る。段々夕飯を残してくれることがなくなり、最終的には冷蔵庫の中を適当に漁っていた。
自分が特別不幸だと思ったことはなかった。衣食住に困ったことはないし、好きなヴァイオリンだって何とか続けられている。当時は「死にたい」なんて口に出したら罰が当たりそうだと思っていた。しかし。
義母と父が初めて揉めたのは、俺の高校進学についてだった。義母は「音楽科に行くなんてとんでもない」という意見だったが、父は強く音楽科を推していた。俺は、父が味方になってくれているのだと思っていた。
しかし、俺が夜中に目覚め、リビングの横を通りかかると、父の話す声が聞こえてきた。
「俺は未だに、あの人の命を奪った錆を許せないんだよ……。あいつがヴァイオリンを弾いている間は、あの人の血を受け継いでいるんだと実感できる。でも、あいつがヴァイオリンをやめたら、ただ、あの人を殺した男だとしか捉えられなくなる……」
――早く、いなくなってくれないかな。
愛憎なんかじゃない。父のそれは、ただの憎悪だった。そう、俺が全てを奪った。俺さえ生まれてこなければ……両親は幸せだった?
息がうまくできなくて、酸欠状態になる。足下をふらつかせながら部屋に戻り、これからのことを考えた。もうこの家にはいられない。誰が悪いとかじゃなくて、きっと俺が不幸を呼び寄せたんだ。
「死にたい」じゃなくて「消えたい」と思った。生まれる前に返りたい。生まれてこなければ良かった。
縋るように写真立てに手を伸ばす。写真と財布、そして楽譜をリュックの中に入れて、楽器を背負って家を飛び出した。俺は母の実家の住所を知っていた。父の古い手帳に書いてあるのを見つけ、こっそりしまっていたのだ。夜遅くだったから、駅で始発を待ち、朝一番の電車に乗り込んだ。そして何度か乗り換えをしながら4時間ほど電車に揺られた。
最初は数分だった電車の待ち時間が、段々30分、そして1時間待ちとなり、景色も田舎らしくなっていく。もしも、間違えていたらどうしよう。そんな子知らないって言われたらどうしよう。……そんな不安は、今でもリアルに思い出せた。
目的の駅に下り、住所を辿っていく。端から見ても、家出をして親戚を頼ってきた子どもだと分かったのだろう。地元の人たちは親切に道を教えてくれた。そして、母親の旧姓が書かれている家を見つけた。
震える指先でインターホンを押す。
中から出てきたのは、小さなおばあさんだった。
「おや、まあ……」
俺の物心がつくより前に、この祖母と父は揉めていて、祖母にはほとんど会ったことがなかった。だから初対面に近い。しかし事情を聞くと祖母は俺を引き取ってくれた。今回はあっさり話が決まったという。
家には従姉妹も住んでいて、俺は、従姉妹がいたことをここで初めて知った。「早苗」という名前だった。年下で、騒がしい少女だ。しかし人懐っこく、ここに来たばかりの俺を兄のように慕ってくれた。両親は海外出張で2年ほど戻ってこないらしい。彼女は、日本の高校へ進みたくて、暫く預かってもらっているのだと言った。
俺は「音楽科へ行きたい」なんて言える状況じゃなく、普通科に進んだ。それでも無理を言って月2で師のところへ通い、コンクールにも出ることになった。ヴァイオリンが好きだったのか、ヴァイオリンを弾くことで自分の生きる理由を必死に作っていただけなのか、今となっては分からないが、それまで以上に練習した。
どこかで、父親を信じたい、信じてもらいたいという気持ちがあったんだと思う。生きていれば、いつか分かってくれる。いつか、ありのままの自分を受け入れてくれる。そんな期待を捨てきれなかった。俺は手紙を書き、コンクールに出る旨を父に知らせた。
そして迎えた当日。大したトラブルもなく、練習通り……いや、練習のとき以上の力を出せたと思う。しかし結果は4位だった。賞を取れない悔しさは誰よりも俺が感じていたはずだった。しかし、控え室にきた父は俺に暴言を浴びせていった。なぜ人の命を奪ってまで生まれてきたお前が、一位を取れないのか。17年間、たくさんのものをお前のヴァイオリンに懸けてきたのに、全て無駄になってしまった。もうやめてくれ。これ以上苦しめないでくれ。
……お前のヴァイオリンは、俺たちを不幸にする……。
それは俺の存在意義を、一から否定する言葉だった。そしてどうしようもない悲しみが襲ってきて、ああ、自分はヴァイオリンが好きだったんだな、と最後に分かった。
運も才能もなかったんだって、弾かない方が幸せだって、捨て切れたらどんなに楽だっただろう。いつだって、俺の叶わなかった夢を知らない誰かが叶えていると考えるだけで息が苦しくなった。他の事に関してもどうしようもなく不器用で、その上関心だって沸いてこなくて、今から自分を探していくのは大変なことだった。
こんな自分は甘えているのだろうか。
……少々、厳しすぎやしないか。
俺が悪いっていうなら、こんな世界、こっちから願い下げだ。
腹に熱い痛みが走った。
あの果物ナイフを刺されたのだと思う。どうか、死ぬ前に、最後に一度だけ力を使わせてほしい。これが、俺が犯してきた罪を滅ぼす理由となり、貸し借り無しでこの世界からおさらばできる。なあ、まさか地獄行きってことはないと思うんだけど……俺、間違えてたのかなあ……。
「っ……」
想像していた痛みがいつになってもこない。ただ、腹に切っ先は刺さったままで、何が起こっているのかすぐに理解することができなかった。
痛みに脂汗を流し、息を荒くしながら目を開くと、俺の腹に刺さった刃物を、それ以上深く刺さらぬよう素手で止める者があった。手を赤く染めながら、通り魔の男が押す力に抗っている。
それは、俺よりもずっと小さくて頼りない少女だった。