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 ぴちゃ……ぴちゃ……


 誰かが水たまりの上を裸足で歩いている。その足音は自分の方へ真っ直ぐ向かってきていた。

 下卑た笑い声と、その後ろで「コロシテヤル……」と言う囁き声の合唱。


 堪らず俺は逃げた。


 辺りは漆黒の闇に包まれていて、ここがどこなのか、誰から逃げているのかもよく分からない。


 ぴちゃぴちゃ……

 ぴちゃぴちゃ……

 コロシテヤル。コロシテヤル。


 どこからやってきたのか、虫の羽音が体に絡みついた。

 全速力で走っているはずなのに、体は鉛のように重くて、うまく動けない。

 まるで下りのエスカレーターを一生懸命登っているような。


 聞こえてくる足音が大きくなっていく。

 慌ててその場に前のめりになって転んだ。水たまりの上に膝と手をつき気づく。

 なんだか水にしてはドロッとしているような。


「……うそ、だろ」


 そこは、血の海だった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


7月22日


 なんだかひどく嫌な夢を見てしまった気がするが、起き上がり、一階に下りる頃には全て忘れてしまっていた。しかし、眠気だけは学校に行っても忘れられず、教室に着いても暫く欠伸をを噛み殺していた。


「わさびくん、笹竹先生が呼んでたよー!」


 職員室に提出物を出しに行っていたらしい女子が、教室に戻ってくるなり大声で俺を呼んだ。「わびさび」ならともかく、こんな快活な声で俺のことを「わさび」と呼ぶ女子は一人しかいない。委員会が同じの棚田美樹である。

 俺は立ち上がりながら教室にかけられている時計を見た。HRまであと10分ちょっとある。今から職員室へ来いということだろうか。


「笹竹先生が何の用だよ」

「知らなーい。わさび君、最近ぼんやりしてるから活入れられるんじゃない? 余計なお世話だよねえ」


 そう言うと棚田は、きゃっきゃと笑いながら女子の輪の中に入っていく。

 彼女は学校のマドンナ的存在だ。美人で性格も明るく人懐っこいから、男子にも女子にも好かれる。黒髪ツインテールに赤いリボンは彼女のチャームポイントだ。校則違反のカーデガンにキーホルダーだらけの鞄は、しょっちゅう先生から注意されているが、強い意思により遂行されている。相変わらず派手だなあ、と苦笑しつつ、そのささやかな反抗心に、羨望を抱かずにはいられなかった。


 職員室のドアを開けると、少し向こうのデスクの前に座っている笹竹先生が手招きしてきた。生活指導の先生だが、そこまで険しい顔つきでないことを知り、やや安心する。


「わびさびぃ、昨日、南のトンネル通っただろう」


 俺は登にも「わびさび」と呼ばれているが、これは入学式当日、全校生徒の前で先生が「侘美錆」を「わびさび」と呼び間違えてしまったことに由来する。呼び間違えた先生も、まさか高校3年間その生徒が「わびさび」と呼ばれ続けるなんて予想していなかっただろう。


「え、なんで分かったんですか」

「警察から落とし物が届いてる。交番の前に置いていったらしくて、誰が拾ってくれたかは分からないんだけど」


 笹竹先生は引き出しにしまっていたスマートフォンをデスクの上に出した。そこで初めて携帯をなくしていたことを思い出す。昨夜の記憶は曖昧だったし、元々家に忘れたり学校に忘れたりすることが多いから、その延長線ですっかり抜け落ちていた。

 とにかく、気づくのは遅くなったが、無事に帰ってきてくれて良かったと思った。画面が左上から真ん中にかけて割れているが、致命傷は免れたらしい。俺の悪運の強さは人一倍だ。


「ありがとうございます」


 受け取り、帰ろうとすると「待て」と呼び止められる。


「お前、ほっぺたどうした」

「転びました」


 怒っているというより、心配している声だった。咄嗟についた嘘はばればれで、つくづく嘘が下手だなあと呆れてしまう。伊達に9年連続で通信簿に「とても素直な子です」と書かれていない。

 笹竹先生は少し黙った末、大きな溜息をついた。


「男だから、殴る蹴るの喧嘩もあると思う。でも、どうにもならなくなったら相談しろよ」

「……すみません」


 先生も忙しそうだったため早めに切り上げ、教室に戻る。

 携帯の電源を入れると、ラインとメールが数件入っていたくらいで、ラインの方はグループやニュースなど返信のいらないものだけだった。メールも同じだろうと思ったが、迷惑メールの中に一件、『この間はありがとうございました』という件名のものが入っていた。


「……?」


 開いてみると、この間不良に絡まれていた少女かららしかった。


『侘美錆様

 先週、公園で助けてもらった者です。お礼がしたいのですが、お会いできるでしょうか。

 ご都合の良い時間を教えて下さい。

 雪島あおい』


 ご丁寧にこんなメールを……メールを?

 俺、この女の子にメアド教えるほどコミュ力あったっけ。あの日の記憶も曖昧だから、もしかすると寝ぼけているときに聞かれて、適当に答えた可能性もあり得るが。


「うーん……」

「あっ! 女の子からメール? ひゅーひゅー!!!!」


 突然後ろから登に茶化され、俺は椅子をひっくり返す勢いで全身をびくりとさせた。見られないよう画面を両手で隠し、全力で抗議する。


「てめえ! 人の画面勝手に見んなよなあ!!」

「あはは、悪かったって。で、会うのか?」


 興味津々に尋ねられるが、残念ながらあんまり乗り気じゃなかった。


「うーん……お礼なら、あの時十分されてるんだよな。しかも俺、あの子を助けようと思って動いたわけじゃないし」

「え?」

「普通に目が合って……正直、反射的に後ずさったよ。でも流れで殴られたから。ついやり返したっていうか、やり返してたっていうか……」


 俺の微妙な答えに、登が「訳が分からん」という顔をしている。俺は続けた。


「だから、お礼を言われるとなんだか申し訳なくなるんだ」

「わびさび、お前は本当に真面目だなあ」


 感心したように登が頷く。どうやら俺の苦悩を理解してくれたようだ。しかし、彼の発想は俺の発想のさらに上を行っていた。


「もしかすると、お前に気があるのかもよ?」

「は……はあ!?」


 拙い。頬の温度が一気に上がるのを感じた。その様子に気づいているのか、登はにやにやとして続ける。


「だって、既にお礼されてるなら、わざわざメールなんてしてこないだろ? 多分お前に一目惚れしたんだって!」

「お前、それ本気で言ってる!?」


 からかってるんじゃねえだろうな、と念を押すと、笑って誤魔化されたが、確かに登の言うことには一理ある。

 俺、もしかして今、念願の彼女ができそうなタイミング??

 まさかあ、と言ってその場を取り繕いながらも、俺は期待せずにはいられなかった。


「彼女ってやっぱりいると楽しい?」


 登に尋ねてみると、彼は自信満々に頷き、


「やっぱり守りたい奴ができると、毎日が一生懸命になれるよな」


 と笑った。ちょっと彼女ができたくらいで大袈裟だ、と妬みも兼ねて思ったが、説得力はある。


「錆も、何だかんだ言いつつ彼女欲しくなったんだろ?」

「まあ、高校3年間、彼女いませんでしたっつうのも悲しい話だしな」

「違いねえ」


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