5
一発、二発、もう一発……。
段々意識が薄れてきて、ぼんやりと殴られた数を数えた。カズが何か叫んでいるが、聞こえない。頬に生ぬるい感触があり、うんざりした気持ちになる。さすがに殺されは……しないだろ。
前回のような奇跡は……起きなかった。俺はあっという間に日中の熱が残るアスファルトに伏した。何発も殴られ、脳しんとうを起こしかけているらしかった。指に力を入れて立ち上がろうにも、脳と体の神経が繋がらない。電流が走ったかのような激痛はやがて火傷した後のような熱さに変わり、額から生ぬるい液体が流れていくのが分かった。
「こいつの顔、どっかで見たことあるぞ」
「有……か?」
「俺の……んが買ってた雑…の……に……で……」
聞こえてくる声が小さくなり、チューニングの合わないラジオのようにノイズが多くなり聞こえづらくなっていく。自分の呼吸の音だけがうるさい。全身からは脂汗が噴き出し、耳元のノイズはやがて高音の耳鳴りへと変わった。
意識は深い闇の中へと飲み込まれた。
ふわり、と体が宙に浮く感覚。それはひどく疲れて帰ってきたとき、又はインフルエンザで高熱を出したとき、ベッドに体の中心から吸い込まれていくような感覚だった。苦しいのに、どこか心地よくて、ふわふわして。そういうとき、俺は決まって、記憶にないはずの温もりを思い出そうとした。母に抱かれたこともなかったから知らないはずなのに、不思議とリアルに、包まれるような温もりを思い浮かべることができた。
どうやら自分は一瞬気を失っていたようだった。
しかしそれは数秒のことで、状況は何一つ変わっていないはずだった。しかし、はっきりと奴らが動揺する声が聞こえた。
「お、おい……やばくねえか……」
「落ち着け、一人だぞ! 武器も持ってねえし、何てことねえよ」
……?
一体何が起こっているのか分からず、薄く目を開けると、倒れている俺の視界に黒いTシャツを着た青年が映り込んだ。
風が吹き、黒い短髪が緩やかに流れる。Tシャツの裾を翻し、彼は凜とした背中で立っていた。その足下には一人、伸びている男がいた。
「へ……へへ……」
仲間が一人やられたことに対して一番動揺していた男が、ポケットの中から取りだしたのはカッターだった。あの、画用紙を切るときとか、鉛筆を削るときに使うような小さいやつ。それでも、それが恐ろしい凶器であることに間違いはなかった。そして、青年に向かって勢いよく襲いかかる。
青年はそれをうまく受け流し、向かってきた男の手首を掴んで軽く捻り落とした。護身術的な何かだろうか。細く、力がなさそうな体型をしているのに、無理をしているような感じはしなかった。しかし、その後ろから残っていた一人が青年を突き飛ばした。よろめいた青年の両手を捕らえ、彼は下卑た笑みを浮かべた。
(まずい……!)
上体を起こし、手を伸ばす。頭が釘で打たれたように痛い。頬が焼かれるように熱い。そして、その痛みが全身を駆け巡ったと同時に、残っていた男が叫んだ。
「ああああああああああっ!!」
「!?」
今度は彼らが地面に伏す番だった。
青年が瞬時にこちらを振り返り、驚いたような目を俺に向けた。彼は口を開き、何か言おうとして、やめた。諦めたような表情だった。暗くてよく見えなかったが、大分年上だと思う。そんな彼が、情けない顔になり、唇を噛みしめ……血が流れるほど強く噛みしめた。
「あ……の……」
声をかけると、彼は少し迷った末、優しく笑ったらしかった。そして消えた。
「今の……誰……」
「え……?」
カズが俺の視線を辿り、青年がいた方を見る。そして首を傾げた。誰かいた? とでも言うように。
腰を抜かしていたカズが我に返り、震える足で寄ってくる。差し出される手を遠慮無くお借りして起き上がろうとしたが、その手さえも震えていて可哀相だった。この数日間、あんなごろつきみたいな連中に集られていたのか。カッターまで持ってたみたいだから、一人で逆らわなくて正解だったのかもしれない。
「あの……錆、ごめん……」
「へ? 何が」
立ち上がると、カズが俯いて拳を握り締めていた。手首が痙攣しているのを見て、やりきれない気持ちになる。俺は正しいことをしたのだろうか。それとも、余計なことをしてしまったのだろうか。
……カズのプライドを、傷つけた?
しかし、そんな予想はすぐに外れていたことが分かる。
「ごめん……動けなかった……」
「……ああ、そんなこと、気にしてたのか。俺が勝手に乱入しただけだし、困ったときはお互い様だろ」
「でも……」
「悪いと思うなら今度、最近出たホラゲー一緒にやってくれ。ほら、6月に新作出ただろ。あれ、俺の好きなI大先生がBGM担当しててさあ、何が何でもやらなきゃなんだよね。でも俺、ゾンビが生理的にマジ無理って感じでさー……」
声が震える。それを誤魔化すように、一生懸命口を動かした。先ほど頭をしこたま打ち付けたくせに、よくもまあすらすらと、どうでもいい言葉が浮かんでくるものだ。誤魔化すような俺の言葉にカズがどのような反応を示すのか心配していると、
「ゲームの中なら錆より強いのにぃぃぃい……」
なんて、なんとも情けなく切実な声でカズが悔しがるから、俺は思わず声を出して笑った。
殴られた頬は腫れ、傷口も痛々しいものらしかったが、痛みは全くと言っていいほど感じなかった。しかし、あまりにもカズが心配するのでコンビニで氷を買うことになった。
「大袈裟だってー」
「痛くないわけないだろ。冷やせば少しは楽になるって」
カズの言う通り、痛くないわけがなかった。普通は痛みでのたうちまわっているはずである。しかし実際は、感覚が麻痺してしまったのではないかと不安に成る程だったのだ。
俺はそろそろ、自らに宿った不思議な力について意識するようになっていた。
――痛み渡し。
そんな言葉が浮かんだ。感じた痛みを意図した相手にそのまま渡すことができる。
カズは俺がどんな戦闘法を使ったのかよく分かっていないようだった。当然俺も、周りに言うつもりはなかった。信用していないわけではない。しかし、頭がおかしいというレッテルを貼られてしまうことだけは避けたかったのだ。
トンネルを抜けると、月明かりが道を照らしていた。蒸し暑い夜だったが、トンネルを吹き抜ける風が汗を乾かしてくれた。カズは始終「強くなりたい」と呟いていた。そう落ち込むことでもないのに、今日、動けなくなってしまったことをずっと気にしていた。
カズの言う「強さ」は、俺にも当てはまるのだろうか。それとも、何の努力もせずに享受した力に甘えているだけなのだろうか。
そんな贅沢な悩みを抱えながら歩く俺とカズを、俺のよく知った顔が、普段の様子からは考えられないような無表情でじっと監視していることなど、その時は知る由もなかった。
彼は暫くの間監視に集中していたが、やがて自分に気づいた別の勢力に追われ、夜の闇の中に消えていった。